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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。
(内容:高校生向けの漢文の文法書「ためぐち漢文」を公開する告知。)拙著『概説 漢文の語法』は、第1部~第3部まで、かなり大部にものになります。
それに、まあ小難しく書いてあるので、読んでいておもしろいものでは決してありません。
なんとか若い人たちにも読み続けられるような語法の解説書を書きたい物だとずっと考えてきました。
そこで、いっそのことうんとくだけて、ためぐちで解説すればどうだろうか?と考え、「ためぐち漢文」というのを書いてみることにしました。
まさか実際にこんなためぐちで解説しているわけではないのですけれども…
ところが漢文に返り点と送り仮名を施す以上、縦書きでなければならず、Web上で公開するのは、なかなか難しいものがあり、せっかく書き上げたのに、公開できない状況が長く続きました。
そこで、PDFファイルで閲覧できるようにしてみました。
高校生のみなさん対象のものではありますが、ほかの方々もぜひ講義に参加してくださいませ。
こちらの
ページからどうぞ。
(内容:『史記・刺客列伝』で、荊軻が始皇帝に対して行った「引匕首」(匕首を引く)が具体的にどのような動作なのか考察する。)
『中山狼伝』のほぼ最終場面に注をつけていて、「引匕」という表現が気になりました。
丈人附耳謂先生曰、「有匕首否。」先生曰、「有。」於是出匕。丈人目先生、使引匕刺狼。
(老人が先生に耳打ちをして「短刀をもっているかどうか」と言うと、先生は「もっています」と言った。そこで短刀を出した。老人は先生に目配せして「匕を引いて」狼を刺させようとした。)
恩知らずの狼を成敗するために、丈人(老人)が一計を案じて狼に袋の中に入らせ、東郭先生に短刀で袋の上から狼を刺し殺させようとする場面です。
この「引匕」はもちろん「引匕首」の意ですが、具体的にはどんな動作なのでしょうか。
すぐに思い出したのが『史記・刺客列伝』の有名な一節です。
荊軻廃、乃引其匕首以擿秦王、不中、中桐柱。
(荊軻は重傷を負い動けず、そこで「其の匕首を引き」秦王に投げつけたが、命中せず、桐の柱に当たった。)
「引」という漢字は、どうしても「引く」をイメージしてしまいます。
でも、「匕首を引く」とはどういう動作なのでしょう。
荊軻の話はよく教科書に載っていますから、手元の指導書を何冊か見てみました。
すると、
・A社
(口語訳)そこでやむなく短刀をぐっと引き寄せて(ねらいをさだめ)秦王に投げつけた。
(解説)手元に引く。投げる前の(ねらいを定める)動作。
・B社
(口語訳)そこで(荊軻は)あいくちを引き寄せて、秦王めがけて投げつけたが、…
(解説)手元に引く。投げる前の動作。
・C社
(口語訳)そこでその短刀を引きよせて手に取って秦王に投げつけたが、…
(解説)なし。教科書脚注をそのまま引用。〔注— 訳 引きよせて手に取って。〕
この3社の訳と解説を見比べてみると、A社は明らかに持っていた匕首を手元に引いて投げる動きと解しています。
B社は、訳だけ見る限りは「あいくちを引き寄せる」という動作が、持っていなかった匕首を手元に引き寄せるようにも解せるのですが、解説に「投げる前の動作」とあるので、伸ばしていた手を折り曲げて投げる態勢に入ることを指しているのだとわかります。
C社は前の2社とは異なり、「引き寄せて手に取って」とあるからには、匕首が手元から離れていたということになります。
事の真偽はともかくとして、B社の訳は誤解を招く表現ですし、C社の解説は脚注の引用に過ぎず、何の説明もなくどうかなと思います。(あるいは、注に述べたことで十分という判断なのかもしれませんが。)
それにしても、「引匕首」という動作は刺客列伝の場合、どういう動作なのでしょうか。
まず、状況から判断すると、直前に荊軻は秦王により左股を断たれています。
この重傷により、秦王を追い回すことは不可能になったわけですから、最後の手段として匕首を投げつけるという行為に及ぶことになるわけです。
C社の訳と解説によれば、猛毒をしこんだ徐夫人の匕首は、いったん手元から離れたことになります。
左股を断たれた衝撃で、匕首を取り落としでもしたのでしょうか?まさか?
もしそうであれば、司馬遷は荊軻が匕首を落としたという何らかの記述を残したはずです。
動けない荊軻が「引き寄せて手に取」るためには、すぐ足元にでも落ちていなければならないはずですが。
C社の説明は、状況的にどうにも不自然です。
では、一見矛盾のないようなA社の解説ですが、(ねらいをさだめ)(ねらいを定める)の括弧がどうにも気に入りません。
行為自体は「引き寄せ」る、「手元に引く」動作だが、それはねらいを定めるためなのだと括弧で説明しておきながら、なおかつ「引」自体には「ねらいを定める」という意味は含まないのだと言わんばかりの表記が、なんだかずるいような気がするからです。
短刀を投げつける動作には、もちろん飛ぶ短刀に速度をつけるためにいったん後ろへ戻して前に出す行為が必要ですが、そもそもそういう動きを「手元に引く」などというでしょうか。
「手元」という日本語を『広辞苑』で引いてみました。
色々意味があるわけですが、次の第1項が該当するでしょう。
①手のとどくあたり。手近いところ。「―に置く」
A社やB社の訳や解説に違和感を感じたのは、『広辞苑』に述べられているように、「手元」ということばが、本来手の届く範囲を指すことばだと思うからです。
荊軻の場合、すでに匕首を自分の手で握っているわけですから(C社の解釈はともかく)、「手元に引く」という表現は何だか妙な気がするのですね。
拡大解釈して、すでに手にしているものをさらに体に引きつけるという意味でも「手元に引く」と表現するのだとすれば通るのかもしれませんが。
私には、「引」を「引く」と読む訓読に影響されすぎた訳や解説のように思えます。
教科書編集者が必ず参照したはずの明治書院の『新釈漢文大系 史記』ではどう訳されているか見てみると、
・荊軻は片足の自由を失い、やむなく匕首をぐっと引きつけてから秦王めがけて投げつけた。
A社もB社も口語訳を見るだけならこれに近く、それほど違和感を感じなかったのですが。
さて、この「引其匕首」を、中国ではどのように訳しているか調べてみました。
・于是拿起匕首擲撃秦王。(『史記選訳』巴蜀書社1990) …原文簡体字
(そこで匕首を持ち上げ秦王に投げ攻撃した。)
・就挙起他的匕首来投刺秦王,…(『史記全訳』貴州人民出版社2001) 原文簡体字
(そこで彼の匕首を持ち上げて秦王に投げ刺した。)
・就擧起匕首投擲秦王,…(『二十四史全訳 史記』漢語大詞典出版社2004)
(そこで匕首を持ち上げ秦王に投げつけた。)
「拿起」も「挙起」も「持ち上げる」という意味ですね。
「起」は趨向補語で主に下から上への動きを表します。
いずれも「手元に引き寄せる」あるいは「引きつける」という表現ではありません。
あるいは状況から見た意訳かもしれないので、今度は辞書を引いてみることにしました。
まずは『漢語大詞典』(上海辞書出版社1986)、
⑪抽取;執持;取用。
《史記·刺客列傳》:“荊軻廢,乃引其匕首以擿秦王。”晉 陶潛《歸去來兮辭》:“引壺觴以自酌。”晉 潘岳《悼亡詩》:“衾裳一毀撤,千載不復引。”
「抜き取る;持つ;取って用いる」ということでしょうか。
陶潜の例は「酒壺と杯を手に取って自分でつぐ」の意味ですし、潘岳の例は「敷物はひとたび撤去されれば、未来永劫二度としつらえられない」の意味です。
この流れで「引其匕首」の例を考えると、「手に取る」ことになり、おやおやC社の解釈が近いことになってしまいます。
次に『漢語大字典』(四川辞書出版社2010)、
⑦持取。《戦國策・秦策一》:“(蘇秦)讀書欲睡,引錐自刺其股,血流至足。”…
この⑦が該当するかなと思うのですが、錐(きり)を手に持って自分の股を刺すということですね。
『古漢語辞典』(南方出版社2002)には、
⑦抽;操。《後漢書・列女伝》:“妻乃引刀趨機。” …原文簡体字
楽羊子の妻が、夫が遊学中に帰宅したのを難じて機を断つという孟母断機に似た話ですが、刀を抜いて(あるいは刀を手にとって)織機に走ったということでしょう。
『古漢語詞典』(延辺人民出版社2000)では、
⑤挙(杯等)。杜甫《夜宴左氏荘》詩:“検書焼燭短、看剣引杯長。”
⑨抽。《宋史・太祖紀》:“馬蹶,墜地,因引佩刀刺馬殺之。” …原文簡体字
⑤は杯を手にするということ、⑨は佩刀を抜いて馬を刺し殺したということです。
『古代漢語詞典』(商務印書館2014)は、
⑥挙,拿。《戦国策・斉策二》:“一人蛇先成,~酒且飲。” 又《秦策一》:“読書欲睡,~錐自刺其股,血流至足。” …原文簡体字
卮酒や錐を取りということでしょうか。
辞書には「引」についてさまざまな訳が載っています。
したがって「引匕首」だけをみれば、何通りか解釈が可能になります。
しかし、辞書に載っているからといって、それが正しいとは限りません。
思えば、昔「辞書に載っていました」と言ったら、恩師にひどく叱られたことがあります。
用例にあたり、専門書にあたり、そして自分自身がきちんと考察するように戒められた懐かしい思い出です。
そもそも「引」は、「弓を引き開く」が原義です。その動作から「引っ張る」「率いる」「招く」「導く」「推薦する」「引用する」などのさまざまな引申義が生まれました。
したがって、「引匕首」という動作も、持っていなかった匕首を手に取るという動き、あるいは匕首を扱おうとする手の動きをも表すのです。
先の楽羊子の妻は、ふだん刀を身につけているとは思えませんから、手に取ることになるし、太祖は皇帝ですから佩刀を身につけており、それを抜いたことになる。
一番最初に蛇の絵を描き終えたものも、そこで初めて酒を手にする権利を得たわけですから、卮酒を引き寄せた。
蘇秦も錐を持ちながら読書するわけがありませんから、眠くなると錐を手にして股を刺したわけです。
要するに、「引」は後に「刀」「錐」「匕首」などの賓語を伴っても、置かれた状況から、具体的な動きは異なるのが当然だということです。
荊軻は秦王に謁見するにあたって、佩刀が許されるはずもありませんから、あるのは地図の中に隠していた徐夫人の匕首のみです。
それを手に持って秦王を殺そうと追い回すわけで、左股を断たれたからといって、匕首を落としたり、いったん地に置いたりするわけがありません。
それをしたが最後、彼は丸腰になってしまうわけですから。
したがって、「引匕首」という動作は、離れた秦王に最後の一撃を与えようとした匕首を投げるための動作であるはずです。
実際、手にした短刀を投げようとしてみてください。
誰もが等しく短刀を振り上げようとするでしょう、あたかも槍投げのように。
これはまさしく「拿起」「挙起」であり、短刀を持ち上げる(lift)する動作です。
「手元に引き寄せる」動作でもなければ、「引き寄せて手にとる」動作でもありません。
A社もB社もC社も、あるいはそうとわかっていて、あのように書いてしまったのかもしれませんが、日本語としてはいかがでしょうか。
さて、『中山狼伝』の「使引匕刺狼」です。
墨家の徒である東郭先生を戦国時代の人とみなした上で、持っていた匕首は銅と錫の合金、すなわち青銅製だと思われます。
この匕首に鞘があったかどうかは定かではありませんが、実際、短刀の鞘も出土してます。
むき出しで携帯するとは思えませんから、取り出した匕首を鞘から抜き取る動作を「引」と表現しているのかもしれません。
その場合は、「匕首を抜いて狼を刺させる」という意味になります。
また、老人は袋の中にいる狼に悟られないように、狼殺害を指示しているわけですから、あるいは身振りで刺せと示したのかもしれません。
それならば、あるいは手を振り上げた?
いずれも想像の域を越えませんが、少なくとも「手元に引き寄せ」たり、「引き寄せて手にと」ったりするという意味ではないと思います。
(内容:「従来」の「来」の意味と働きについて考察する。)
「所従来」については、前エントリーで臆説を述べましたが、いわゆる「従来」、つまり「今まで・これまで」の意の副詞としての用法については、まだ触れていません。
前エントリーで紹介した『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、
由介词“从”和助词“来”构成。
(介詞“従”と助詞“来”により構成される。)
と説明してあるわけですが、介詞「従」はともかくとして、「来」の字義が問題です。
「来」は「麥(麦)」の象形字で、この点については諸説ほぼ一致しています。
しかし、それがなぜ「来る」という意味を表すのかについては、さまざまな説があるようです。
藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(学燈社1965)には、
来の字形を見ると、両わきに実った穂が垂れている。ムギを*mləgと称したのは,おそらく賚ライと同系であり,上から下にたまわる,さずけられるという意味を含んだに違いない。来麰ライボウとは「賜わったムギ」との意味である。上から下へと送られてきた物であるから,やがて先方から当方へと来るという意味を派生した。降来とか出来とかの来には,なおその意味が含まれており,当方の意志とは無関係に,何かが眼前に現われてくることを表す。
と述べてあります。
そもそも『説文解字』の「来」にも、
周所受瑞麦来麰。一来二縫、象芒朿之形。天所来也。故為行来之来。詩曰、詒我来麰。
――周の受くる所の瑞麦来麰なり。一来に二縫あり、芒朿の形に象る。天の来(きた)す所なり。故に行来の来と為す。詩に曰はく、我に来麰を詒(おく)ると。
(周王朝が天から受けためでたい麦、来麰である。一茎に二穂があり、穂のとげにかたどる。天が来すものである。ゆえに行来の来とする。『詩経』に「わが民に来麰をおくる」という。)
してみると、「来」はムギゆえに「来る」の意味を派生したということになるのですが、加藤常賢氏につながる山田勝美・進藤英幸両氏は『漢字字源辞典』(角川学芸出版1995)に、「来」を「麥」(麦)の象形字とした上で、
「くる」という通用義は殷代以来使われているが借用であって、その意味の本字としては金文第三字めにも「逨」が使われている。
と述べており、仮借義としています。
中国の研究でも、仮借とする説が多いようで、本当のところははっきりしません。
どうあれ、「来」が「来る」という意味をもつのは、かなり古くからの用法のようです。
そこからの引申義で、未来、将来などの意味、至る、招くなどの意味も生まれてきたわけですね。
ところで、「来」は動詞「来る」の意味とは別に、賓語の倒置を示す結構助詞的な働きをしたり、語気詞として感嘆や命令、呼びかけの語気を表したり、趨向補語として用いられるなど、さまざまな用法で用いられるのですが、ここで取り上げたいのは、いわゆる「従来」(今まで・これまで)の意で用いられる用法です。
冒頭で引用した『古代汉语虚词词典』では、「来」を助詞としています。
つまり動詞とは扱いを別にしているわけです。
同書に次のように書かれています。
二、“来”附加在某些动词、形容词、时间词、数词等后,表示一种趋向。可仍译为“来”,有时可随上下文义灵活译出。
(“来”はある種の動詞や形容詞、時間詞、数詞等の後に付加して,一種の方向を表す。そのまま“来”と訳してもよく,ある場合は上下の文脈に照らして弾力的に訳してもよい。)
そしてこの項目の中で、
(三)时间词后加“来”,表示某一时间或自某时以后至说话时的一段时间。
(時間詞の後に“来”を加え,ある期間またはある時以降話をしている一定の期間までを表す。)
と述べられています。
この「表示某一时间」というのは、例に挙げられているものをいくつか示せば、
(1)適来飲他酒脯,寧無情乎?(《捜神記・管輅》…原文簡体字
(さきほど彼の酒と肉を食べたのに、情なしというわけにもいかないだろう。)
(2)又及其子祥云:“我唯有一子,死后勿如比来威抑之。”霊太后以其好戯,時加威訓,国珍故以為言。(《北史・胡国珍伝》…原文簡体字
(胡国珍は、さらにその子の祥に言い及んで、「私には一人息子がいるだけです、私の死後今までのようにこの子に圧迫なさらないでください。」と言った。霊太后は戯れを好んで、時に威圧的な教訓を加えたので、国珍はことさらに口にしたのである。)
(3)急呼其子曰:“此曲興自早晩?”其子対曰:“頃来有之。”(隋書・王令言伝)…原文簡体字
(王令言は急いで彼の子を呼び、「この楽曲はいつの頃より生まれたのか。」と言うと、彼の子は「最近です。」と答えた。)
のように、「適」(たった今)、「比」「頃」(近頃)のような時間詞の後に置かれて、一定の期間を表すわけです。
他にも「夜来」(夜間)「今来」(いま)などの形でも用いられます。
いわゆる「従来」は、「自某时以后至说话时的一段时间。」に相当します。
(B)表示某一时间以来。
(ある一時点以降を表す。)
(1)但看古来盛名下,終日坎壈纏其身。(《杜工部集・丹青引贈曹将軍覇》)…原文簡体字
(しかし見たまえ昔から盛んな名声のもと、終日不遇がその身にまとわりつくものだ。)
(2)聞道近来諸子弟,臨池尋已厭家鶏。(《柳河東集・殷賢戯批書後寄劉連州并示孟崙二童》)…原文簡体字
(聞けば最近の子弟達は、書法が家鶏(王羲之)を厭うようになったとのこと。)
(3)爾来又三歳,甘沢不及春。(《王谿生詩集・行次西郊作一百韻》)…原文簡体字
(それ以来さらに三年、恵みの雨が春に降らない。)
(4)不堪有七今成九,傖父年来老更傖。(《誠斎集・早炊商店》)…原文簡体字
((嵇康は)堪えられないものに七つあると言ったが今私は九つもある、野暮な田舎者である私はここ数年来さらに野暮になってきた。)
ある特定の時点を起点としてそれ以降の幅のある期間を表すのがこの「来」の用法です。
「来」は最初にも述べたように「来る」を原義として、その引申義として「至る」という意味が生まれたわけですが、ここまでは動詞としての働きです。
それが「来る・至る」という動詞としてのふるまいが虚化され、動作の方向を表すようになった。
いわゆる趨向補語としての働きが「来」にはあるのですが、それとは別に時間詞や数詞の後に置かれて、ある一定の期間を表したり、特定の時点を起点とする期間を表したりするようになったと思われます。
「――来」の働きは主に副詞として謂語を修飾します。
その意味で、動詞ではなく助詞に分類されるのでしょう。
数学のことはさっぱりわかりませんが、大昔に習ったベクトルという用語を久しぶりに思い出しました。
矢印のある語なのですね、「従来」は。
(内容:『桃花源記』に見られる「問所従来」の意味について考察する。)
陶淵明の有名な『桃花源記』について、勉強熱心な同僚から質問を受けました。
「問所従来」の「従来」はどう説明されるのですか?
「どこから来たのか」という意味であろうことはわかった上での質問で、なんとなくわかったではなく、きちんと語法的にどう説明されるのかを理解したいという問いかけです。
こういう真面目な問いには、いい加減に答えるわけにはいきません。
見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。
(漁人を見て、乃ち大いに驚き、従(よ)りて来たる所を問ふ。具(つぶさ)に之に答ふ。)
「従来」の「従」はおそらく介詞であろうと思っていたのですが、確かめたわけではありません。
また、「従来」という句は、現在日本でも「これまで・以前から今まで」という異なる意味で用いられています。
この際、きちんと調べてみようと思いました。
まず、「従来」という句を各種の虚詞詞典で調べてみました。
定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、次のように書かれています。
由介词“从”和助词“来”构成。
(介詞“従”と助詞“来”により構成される。)
副词
用在谓语前,表示事态从过去一直延续下来。可译为“一向”,或仍作“从来”。
(謂語の前で用いられ,事態が過去からずっと続くことを表す。“一向”と訳せる,またはそのまま“従来”とする。)
「従」は介詞となっていますが、しかしこれはいわゆる「従来」の意味です。
『桃花源記』で用いられている用法についての説明がないか、他の虚詞詞典や語法書にあたってみますが、「従来」の項目では見当たりません。
念のため、『漢語大詞典』の記述を確認してみました。
(1) 亦作“從徠”。來路;由來;來源。
(“従徠”にも作る。道筋、由来、出所。)
(2) 歷來;向來。
(従来、今まで。)
(3) 從前;原來。
(以前、もともと。)
『桃花源記』の「従来」はもちろん(1)に相当します。
(2)と(3)が並記されているので、語法的にも同じ扱いなのでしょうが、その語法的な説明はありません。
Web上ではどのように説明されているか探してみると、とあるサイトで、
问他是从哪里儿来的。
と訳した上で、次のように語義が説明されていました。
从来:从……地方来。
まあ、現代語訳というのは、必ずしも古典語法に忠実とは限らないのですが、語義の説明から見ると、このサイトは「従」を介詞と解しています。
さて、これから先どう考えていけばいいのか考えあぐねながら、いったん小休止して、帰宅の途につきましたが、その途上、ふと気づきました。
これまで「従来」にこだわって調べてきましたが、「来」は本来動詞でしょうから、実詞を含む形の見出しにはなっていないのではないか。
一方「所」は結構助詞ですから、「従」が介詞なら、「所従」の形で説明されているのではないかと。
そこで、帰宅してから「所従」の形について調べてみることにしました。
すると、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)に、「所由……」の項があり、「所自……」「所从……」の形が並記されていました。
“所从……”一般也是表示起始的处所或时间。例如:
(“所従……”は、普通、開始の場所や時間を表す。たとえば、)
⑫楚人有涉江者,其剣自舟中墜於水,遽契其舟曰:“是吾剣之所従墜。”(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字。「坠于水」を「墜於水」に改む
――楚国有个人渡江,他的剑从船上掉到水里,就赶紧在船上刻个记号,说:“这就是我的剑掉下去的地方。”
(楚国に河を渡る人がいて、彼の剣が船の上から水中に落ちたので、急いで船の上で印を刻み、「ここが私の剣が落ちた所だ。」と言った。)
⑬嗚呼哀哉!禍所従来矣!(《史記・魏其武安侯列伝》)…原文簡体字
――唉,可悲啊!这就祸患产生的根源。
(ああ、悲しい!これが災いが生まれた根本原因だ。)
⑭故郊祀社稷,所従来尚矣。(《漢書・郊祀志上》)…原文簡体字
――所以祭祀社稷,由来的时间很古了。
(だから社稷を祀るのは、由来とする時が古いのだ。)
「所従」に類する表現に「所自」「所由」が見られるからには、「従」は「自」「由」と同じく介詞だと考えてよいように思います。
そこで、『桃花源記』の「問所従来」のような表現が、「所自」に見られないか探してみることにしました。
・尽於酒肉入於鼻口矣、而何足以知其所自来。(荘子・徐無鬼)
((あなたがした息子の人相の見立ては、)酒肉が鼻や口に入るということに尽きているが、どうしてその酒肉がどうやって来るのかまではわかっているといえようか。)
・馬望所自来、悲鳴不已。(捜神記・巻十四)
(馬はやって来た方角をはるか見て、悲しげに鳴いてやまなかった。)
どうも「所従来」や「所自来」には、単純に「どこから来たかということ」以外に「どうやって来たかということ」という意味があるようですね。
さて、結構助詞「所」が後に介詞や介詞句の修飾を帯びた動詞をとることがあるのかどうかについては、もう少し調べてみる必要があると思いました。
すると、『古代汉语虚词词典』の「所」の項にきちんと述べられていました。
助詞
二、“所”字先与介词相结合,然后再与动词组成名词性短语,在句中表示跟动词相关的原因、处所、时间以及动作行为赖以进行的手段或涉及的对象等。可根据上下文义灵活译出。
(“所”字は、まず介詞と結びついた後で、さらに動詞と名詞句を作り、文中で動詞と関係する原因、場所、時間、ならびに動作行為のよりどころとなる手段や関係する対象などを表す。前後の文意に基づき、弾力的に訳す。)
(1)長勺之役,曹劌問所以戦於荘公。(《国語・鲁語上》)…原文簡体字。「战于庄公」を「戦於荘公」に改む
――所以战:依靠什么跟齐国作战。
(長勺の役で、曹劌は何をよりどころとして斉国と戦うのかを荘公に尋ねた。)
(2)此嬰之所為不敢受也。(《晏子春秋・内篇雑下》)…原文簡体字
――这就是我晏婴不敢接受的原因。
(これが私晏嬰が受けようとしない原因です。)
(3)是吾剣之所従墜。(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字
――这就是我的剑在这里坠落的地方。
(これが私の剣がここで落ちた場所だ。)
(4)蒙問所従来。(《史記・西南夷列伝》)…原文簡体字
――唐蒙问从何处而来。
(唐蒙はどこから来たのかを尋ねた。)
(5)夫水所以載舟,亦所以覆舟。(《文選・張衡:東京賦》)…原文簡体字
――水可以凭借它把船浮起,也可以凭借它使船覆没。
(水はそれをよりどころとして船を浮かせることができ、それをよりどころとして船を転覆水没させることもできる。)
(6)所与遊皆当世名人。(《韓昌黎集・柳子厚墓志銘》)…原文簡体字
――跟他交往的都是当代的名人。
(彼と交際する人はみな当代の著名な人である。)
「所従来」の例も含まれており、まさにこれですね。
考えてみれば、「所以」も「それにより~するもの」という意味が元々ですから、この形に該当するわけです。
では、次に「問所従来」は「問所従[どこ]来」([どこ]から来たのかを問う)の省略形なのかという問題について調べてみることにしました。
というのは、『漢詩漢文解釈講座 第13巻 文章Ⅰ』(昌平社1995)の「桃花源記」注にそう記してあると耳にしたからです。
さっそくあたってみると、「問所従来」について、次のように書かれていました。
どこから来たのかと尋ねた。経路を聞いている。「所」は元来名詞であるが、そのあとに動詞をとり、その連語全体が名詞に等しい機能を持つようになったもの、英語の関係代名詞に似た働きをする助字。「従来」は「従何処来=何処(いづく)より来たる」の省略した形。
なるほど、確かに省略形と書かれています。
省略形なら省略されない形もあるだろうと、検索にかけてみました。
・其家問之、従何処来。(抱朴子・内篇・袪惑)
(その家は彼に、どこから来たのかと問うた。)
・笑問客従何処来。(賀知章「回郷偶書」)
(笑って客人はどこから来たのかと問うた。)
10例ほど見つかりました。
これだとなるほどと思うわけですが、「従何処来」の例があるということは証明できても、「所従来」が「所従何処来」の省略形かどうかは別の問題です。
そこで、今度は「所従何処来」を検索にかけてみましたが、私の検索システムではヒットしませんでした。
さらに『文淵閣 四庫全書』で用例を探してみましたが、見当たりませんでした。
念のため、「所自何処来」の例も探してみましたが、私の検索システムでも『四庫全書』でも見つかりませんでした。
このことが用例が全く存在しないということの証明にはなりませんが、省略されない形が見つからない以上、少なくとも『漢詩漢文解釈講座』の説明は当を得ない不用意なものだとわかります。
もう少し慎重にと考え、「所従何来」や「所自何来」の例も探してみましたが、やはり見つかりませんでした。
また、「問所従来」の結構助詞「所」を用いずに「問従来」や「問自来」という表現があるかどうかについても調べてみましたが、少なくとも私の検索システムでは用例は皆無でした。
このことから、「どこから来たのか」を表す表現には、問い方により2つの種類があり、また特徴がわかります。
・相手に対して問いかける言葉としての「どこから来たのか」は「従何処来」が受け持つ。
・客観的に「どこから来たのかを尋ねる」のような表現は「問所従来」や「問所自来」が受け持つ。
・「問所従[処所代詞]来」の形はない。
・「問従来」「問自来」という表現もない。
では、なぜたとえば「所従何処来」という表現がないのでしょうか。
これについては、あくまで想像ですが、「所従来」がたとえば「どこから来たのか」という意味であることは古代の中国人にとって自明のことだったからであろうと思います。
結構助詞「所」は、後にとる動詞が自動詞の場合、「~する場所」という名詞句を作ることが多いのですが、「従来」(~から来る)を場所の意味で名詞化すれば、「~から来た場所」となり、それはとりもなおさず「スタートした場所」という起点を表すことになります。
その表現に「どこ」にあたる「何処」を加えることは、「どこから来た場所」という名詞句を作ることになり、意味不明の句になってしまいます。
一方、「所」を欠いて「問従来」にしてしまうと、場所を表す名詞句を作る結構助詞の働きがないために、「~から来たを問う」という、これまた意味不明の文になってしまいます。
前に述べた特徴はこのように説明されるのではないでしょうか。
ちなみに、直接言葉として「どこから来たのか」と相手に問いかける時、「何処来」(何れの処より来たる)という表現の他に、先に例示したように介詞を用いて「従何処来」という表現もあるのですが、この「どこから来たのか」を「所」によって名詞化する必要は全くありません。
介詞「従」や「自」は、時や場所の起点を表すだけでなく、動作行為のよりどころや根拠、来源を表して「~により・~に基づいて」などの他の意味を表すこともあります。
「所従来」が単に「どこから来たのか」という場所だけでなく、「どうやって来たのか」「どのようにしてこんな状況になったのか」などの意味を表すのは、根拠となる物事に基づいて現在の状況が起きていることを踏まえた表現でしょう。
・及問所従来、乃因土豪献果、妻偶食之、遂得茲病。(太平広記172)
(どうしてこんなことになったのかを聞くと、土地の豪族が果実を献上し、妻がたまたまそれを食べて、この病気になったという。)
この例の場合、「所従来」が病気になったいきさつを問うているのは明らかです。
本来「どこから来たのか」という意味を表す「所従来」が「病気がどこから来たのか」=「病気のそもそもの原因となった事実は何によるのか」という意味をも表し得るのは容易に理解できるでしょう。
・王問所従来。左右曰、王黙存耳。(列子・周穆王)
(王はこれまでどうであったかを問うた。側近たちは、王は黙ってじっとしておられただけですと言った。)
周の穆王が幻術使いによって、天帝の住まいに連れて行かれ、何十年もの時を過ごしたかと思った後に、今度は太陽も月も河も海もない世界に行き、混乱して幻術使いに頼んで元の世界に戻してもらうと、自分が座っている場所は以前と変わらず、時もほとんど経っていないことがわかった…そこで王は「所従来」を問うたのです。
これが「どこから来たのか」という意味でないことは、側近たちの答えからも明らかで、「これまでどうであったか」という意味と解せざるを得ません。
しかし、これは「どうやってここへ来たのか」=「これまでどのようないきさつで現状に至っているのか」という流れで考えることができます。
「所従来」のこれらの用法は、他にも多く見られますが、介詞「従」がもつ意味が時や場所の起点だけではなく、動作行為のよりどころや根拠、来源をも表し得ることによるのでしょう。
『桃花源記』の「見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。」の「所従来」も、おそらく「どこから来たのか」という意味ではないでしょう。
それなら「具」(すべてのことを一切合切)答える必要はないわけで、起点だけ答えれば十分です。
漁人は、「どこから来たのか」は言うに及ばず、桃花源に来ることになった事情のすべてを人々に語ったはずです。
(この記事には、もっと明快に説明した続編があります。)
(内容:「盍」は「何不」二字分の働きをすると言われるが、なぜそのような意味を表すのかについて調査、考察する。)
「盍」は、高等学校の漢文では、1年生で再読文字として学習する字です。
再読しなければ読みようのない字で、高等学校の現場では「何不」二字分の働きをする字として扱います。
その際、「何不」の音は「カ/フ」、「盍」の音も「カフ」だから、一字で代用したのだという説明をすることが多いのではないでしょうか。
巷の参考書を見てみましょう。
『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、
「何不―」(何不(カフ))の二字を「盍(カフ)」(コウ)一字で代用した用法。疑問詞で、疑問・反語の働きをし、勧誘や詰問の意味を表す。「蓋(コウ)」と書くこともある。
とあります。
『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)を開いてみると、
一字で「どうして…ないのか」という意味を持っているので、その意味を生かして「なんゾ…ざル」と二度読む再読文字。
なお「盍(カフ)」は「何不(カフ)」の二字の音を一字に表したものであり、否定を表す〔p,m-〕系の音ではない。
とあります。
この〔p,m-〕系の音というのは、同書「否定(打消)の形」に説明があり、
話し言葉で否定したり打ち消したりする意味を表す時には、上下の唇をやや突き出して息や音を出したり、突き出した両唇を鳴らすようにしたりしていた。これらの音は、主として〔p〕系や〔m-〕系で表すことができる。
と、藤堂明保『漢字語源辞典』の推定音を下敷きにして、例を挙げながらかなり詳しく説明されています。
いずれにしても、「何不」二字の働きをしているというわけで、これが現場教育でも引用されているのでしょう。
「蓋」「闔」も同様で、これらも「何不」二字の働きをしていると説明されます。
しかし、いかにももっともらしい説明ではあるけれども、拭いきれない疑問がわいてきます。
「盍」にせよ「蓋」にせよ、確かに「何不」の意味を表すのですが、一方で「盍不~」という用例も実際に見られます。
・子張問於満苟得曰、盍不為行。(荘子・盗跖)
(子張が満苟得に問うた、どうして行いを修めないのか。→行いを改めるべきだ。)
・中婦諸子謂宮人、盍不出従乎。(管子・戒)
(宮中の女官を取り締まるものが女官たちに言った、どうして宮中を出てご主人様に随行しないのか。→随行するべきだ。)
・苟有過、盍不早正。(宋史・胡宿列伝)
(もし過ちがあるなら、どうして早く正さないのか。→早く正すべきだ。)
・我故人子、盍不過我。(新唐書・沈伝師列伝)
(私の旧友の子だ、どうして私を訪問しないのか。→私を訪問するべきだ。)
これらの例に用いられる「盍」を「何不」とみなすことは勿論無理で、これは単独に「なんゾ」と読み慣わしています。
二字分の働きをする語のことを兼詞(縮約語)といいますが、「盍」は兼詞だが、「盍不」の形では兼詞ではなく反語の語気副詞だというのは、それで簡単に見分けが付くわけですから合理的だといえば合理的ですが、どこか釈然としません。
そこでいくつか虚詞詞典を見てみることにしました。
まず、定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)。
副词
一、“盍”用于谓语前,表示反问,义为“何不”。可译作“为什么不”、“怎么不”。
(“盍”が謂語の前で用いられて、反問を表し、“何不”の意。“为什么不”、“怎么不”と訳せる。)
二、“盍”在“不”前,可译作“为什么”、“怎么”。
(“盍”が“不”の前にあるときは、“为什么”、“怎么”と訳せる。)
日本の参考書とたいして変わりませんが、字義について気になることが書いてあります。
《说文》:“盇:覆也。”虚词“盍”与本义无关,而假借字。《说文》段注:“曷,何也。凡言‘何不’者,急言之亦曰何,是以《释言》云:‘曷,盍也。’郑注《论语》云:‘盍,何不也。’‘盍’古音在十五部,故为‘曷’之假借。”可用作副词。先秦已有用例,后沿用于文言中。
(《説文解字》に、“盇は覆である”という。虚詞の“盍”は本義と関係がなく、仮借の字である。《説文解字段玉裁注》に、“曷,何である。そもそも‘何不’というのは、これを急言すると何という、したがって《釈言》に‘曷は、盍である’という。《論語》の鄭注に、‘盍は、何不である’という。‘盍’の古音は十五部にあるので、‘曷’の仮借である。”という。副詞として用いられる。先秦にすでに用例があり、以後文言中で受け継がれている。)
「急言」というのは『漢語大詞典』の説明によると、
漢代注家譬況字音用語。與“緩言”、“徐言”對言。有i[i]介音的細音字,因發音時口腔的氣道先窄而後寬,肌肉先緊而後鬆,其音急促,故名。
(漢代の注釈家が字音を喩える用語。“緩言”、“徐言”の対義語。i介音(韻母中の主母音の前の母音)の細音(斉歯呼ともいう)の字があれば、発音する時に口の中の気道が先がすぼまり後が緩むことで、筋肉は先が緊張し後が緩む、その音は切迫するので、急言と名付ける。)
とあり、音韻学には疎いのでよくわかりませんが、「盍」が「何不」、「何」の両義をもつのは、発音上の問題のような気がしてきます。
さらに尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を見ると、次のように書かれています。
按:很多人说“盍”是“何不”两字的合音词,而“盍不”连用现象很多,如前项所引“盍不出从乎”,无法解释。为此私意认为,是由于语言缓急的不同,而出现了省略与否的问题。
(案ずるに:多くの人が“盍”は“何不”二字の合音の語であると述べるが、“盍不”が連用される例は多く、前項に引用した“盍不出従乎”のような場合は、解釈する術がない。このため私的には、これはことばの緩急が同じでなく、省略されるか否かによる問題であると考える。)
「盍」が「盍不」の形でも用いられることに対する、私と同じ疑問ですね。
尹君も発音上の問題と考えているようです。
さらに韩峥嵘の『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社1984)の「盍(盇) 闔 盖(蓋)」の項を見てみました。
代词,表示疑问或反问,作状语,可译为“为什么”、“怎么”。常与“不”连用。例如:
(代詞,疑問や反語を表し,状語となる,“为什么”、“怎么”と訳せる。“不”と共に用いられることが多い,例えば、)
盍不起為寡人寿乎?(管子・小称)…原文簡体字
――为什么不起身给我敬酒呢?
(どうして身を起こして私のために酒を勧めないのか?)
闔不亦問是已?(荘子・徐無鬼)…原文簡体字
――为什么不也追问这个道理呢?
(どうしてこの道理をつきとめようとしないのか?)
譆,善哉!技盖至此乎?(庄子・養生主)…原文簡体字
――呀,妙哇!〔解剖牛的〕技术怎么能够达到这种程度呢?
(ああ、素晴らしい!〔牛を解剖する〕技術はどうしてこの程度にまで到達できるのか?)
这里应该注意:连用的“盍”、“不”二字,由于古代发音有相近之处,急读时“不”便被“盍”所吞没,所以在古书上常有“盍”等于“盍不”的情形。
(ここで注意を要するのは,連用される“盍”、“不”の二字は,古代の発音が近いことにより,急いで読む時“不”が“盍”に飲み込まれるため,古書においては“盍”が“盍不”に等しい状況があるのである。)
古代の発音が近いというのはどういうことか調べてみました。
郭錫良の『漢字古音手冊(増訂本)』(商務印書館2014)によれば、
盍闔嗑(噬嗑)𨜴 (古)匣葉 ɣap
不(弗也) (古)幫之 pǐwə
なるほど現代中国音ではわかりませんが、上古音では「盍」の韻母の末尾と、「不」の声母に共通して「p」があります。
これが「盍不」を急いで発音する時、「“不”が“盍”に飲み込まれる」という現象が起きるわけでしょうか。
この時、「否定を表す〔p,m-〕系の音」が実は含まれているのですね。
してみると、「盍」はやはり本来は反語の語気副詞であって、「盍不」のつもりで発音しても「盍」と等しくなってしまうのでしょう。
「盍」は「何不」二字分の働きをする再読文字と、深く考えもせずに教えているのが実情ですが、兼詞(縮約語)とされる「盍」には、実はこのような事情があるのかもしれません。
(内容:『中山狼伝』に見られる「是羿亦有罪焉」は、その典拠『孟子』では「是亦羿有罪焉」であるが、「亦」の位置の違いで、どのように意味が異なるか考察する。)
(以下の記事は、考察に誤りがあります。「再考:『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という新記事をご参照ください。2021.9.2)
結構長い時間をかけて『中山狼伝』の注釈を施していて、その成果は少しずつ本ブログにもご報告しているのですが、一字々々の漢字の働きに気を配りつつの作業は、かなり勉強になります。
そんな作業もそろそろ終盤なのですが、おもしろい問題に出くわしました。
趙簡子に追われていた狼を、東郭先生が命がけで助けてやったのに、いったん危機を逃れるや、恩知らずにも狼は自分は腹がすきすぎているから先生を食べるのだなどと言い出す、ひどい話なのですが、詳細は『中山狼伝・注解』をご覧いただくとし、要するに助けた相手に食べられることが妥当か妥当でないかが話の焦点です。
東郭先生と狼は、三人の老人に意見を聞くことにしましたが、杏の老木も老雌牛も先生は食べられて当然だと判決を下してしまいました。
自分たちは、主人である人間に一生をかけて多大な恩恵を施したのに、老いさらばえると、木は切り倒してしまえ、牛は肉屋に売ってしまえという手のひらを返したような仕打ちをうける。
それに比べれば、一度狼を助けたぐらいの恩恵に過ぎない先生なんぞは食べられても当然だというわけです。
絶体絶命の東郭先生ですが、最後に老人に出会い助けを請います。
事情を聞いて、いったんは狼に非があるということになりかけたのですが、狼も饒舌に言い返す。
先生が自分を袋に隠して助ける際、身体をねじ曲げひどいしうちをし、あることないこと趙簡子に言ったというのです。
さて、問題は、これを聞いた老人の言葉です。
・果如是、是羿亦有罪焉。
「果たして是くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読んで、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」と解します。
つまり羿の故事を踏まえて「これは、東郭先生にも罪がある」と述べたことになります。
『中山狼伝・注解』の底本は『東田文集』です。
この言葉のもとになった『孟子』にあたってみましょう。
・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)
一見すると気づきにくいのですが、孟子の言葉は『東田文集』と違っています。
是羿亦有罪焉。(東田文集)
是亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)
「羿」と「亦」の位置が入れ替わっています。
気になったので、『古今説海』所載の「中山狼伝』を見てみました。
果如是、亦羿有罪焉。(古今説海・巻49「中山狼伝」)
後句に「是」を欠きますが、『孟子』の語順になります。(前句が「如是」とある関係で、「果如是是亦羿有罪焉」の「是」を一字欠いてしまったのかもしれません。)
『東田文集』については底本の「叢書集成初編所収」本以外に、「旧小説」本、「畿輔叢書」本をあたってみましたが、いずれも「是羿亦有罪焉」に作っています。
そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。
しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。
「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、
亦有仁義而已矣。
「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。
では、「是亦羿有罪焉」の「亦」はいったいどんな意味を表しているのでしょうか。
虚詞詞典を開いてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に、次のような記述がありました。
⑧副词 就,便。和“则”条⑳项差不多。
(副詞 就,便。“則”の条⑳項とほぼ同じ。)
として、3例が挙げられている中に、3例目に次のようなものがありました。
荘子儀曰:“吾君王殺我而不辜,死人毋知亦已,死人有知,不出三年,必使吾君知之。”(《墨子・明鬼》)…原文簡体字
――庄子仪说:“我的国君杀我,而我是没有有罪的,如果死人没有知觉就算了,死人如果有知觉,不出三年,一定要使我的国君知道这事(是要报应的)。”
(荘子儀が“わが君は私を殺すが、私は無実である、もし死人に知覚がないならそれまでのこと、死人にもし知覚があるなら、三年経たないうちに、きっとわが君にこのこと(が報いを受けなければならないということ)を思い知らせてやる”と言った。)
この例について、尹君が補足しています。
按:例3,就在同篇文中:“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”文意句式完全相同,而用“则”字,可见两字义通。
(按ずるに、例3は、同篇の文中に、“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”の例がある。文意も構文も完全に同じで、“則”の字が用いられている、二つの字義が通じることがわかる。)
つまり、尹君は『墨子』の用例を根拠に、「亦」の字が「則」に通じることを指摘しているのです。
ただこの説明は、前句に述べられた条件のもとに後句で結果を示す、いわば連詞の働きをする「則」とみるべきです。
しかし、『古今説海』本は、「是」の字を欠き「果如是、亦羿有罪焉。」に作るため、これに該当してしまうことになります。
さて、同じ『文言虚词通释』の⑩には、次のように述べられています。
⑩副词 和“乃”条⑬项相同,可译为“乃(是)”、“原本(是)”、“本来(是)”。
(副詞 “乃”の条⑬項と同じで、“すなわち(…である)”、“もともと(…である)”、“本来(…である)”と訳すことができる。)
「乃」⑬には、
常用以表肯定的论断语意
(常用して肯定的な判断の語意を表す)
とあります。
「亦」は「乃」が肯定的判断を表すのと同様の働きをしているというわけです。
例文をみると、
会稽守通謂梁曰:“江西皆反,此亦天亡秦之時也。”(《史記・項羽本紀》)…原文簡体字
――会稽太守殷通对项梁说:“江西一带都造反了,这乃是上天灭亡秦国的时候呢。”
(会稽の太守殷通が項梁に、“江西一帯はみな背いた、これは天が秦を滅ぼす時だ。”と言った。)
『孟子』の「是亦羿有罪焉」は、これに該当するのでしょう。
上に二つ挙げた「亦」の働き「則」「乃」は、それぞれに異なるものですが、私には関連性があるように思えます。
前に述べた内容を踏まえて、それならば「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしているという点で、両者はつながるところがあるのではないでしょうか。
教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪があると述べた、それが孟子の言葉。
「逢蒙にも罪があるが、羿にも罪がある」という意味ではないと思います、少なくとも語法的には。
『東田文集』と『古今説海』所載の「中山狼伝」は文字の異同が多く見られ、どちらが原本にあたるのか論じるだけの材料を筆者は持ち合わせませんが、注釈をつけていく過程で、後者の表現の方が洗練されているように思えます。
その勘だけで勝手な想像をさせていただくなら、『東田文集』の方は「是亦羿有罪焉」という『孟子』の言葉を引用しながらも、あえて「是羿亦有罪焉」と文字を入れ替えることで、「狼に罪があるのはもちろんだが、狼の話によれば、東郭先生にも罪がある」と表現したのではないでしょうか。
ところが、『古今説海』本は、文章を推敲する中で、『孟子』からの引用なのだから、正しく「亦羿有罪焉」に戻し、しかも「是」を削ってしまった。
その結果、「亦」は「則」または「乃」の意に用いられ、「狼の話によれば、東郭先生に罪があるのだ」と判断を強めることになってしまった。
臆断に過ぎるかもしれませんが、文字がたった一字移動するだけで、こんなにも意味が変わってしまうのです。
(内容:孟子の湍水の説に関連して、『大学』の「小人之使為国家」という句に見られる「之」の働きについて考察する。)
前エントリーで、次の文を引用しました。
彼為善之、小人之使為国家、菑害並至、雖有善者、亦無如之何矣。(礼記・大学)
兼語の後に「之」の字を伴って使役動詞に前置される例として示したものですが、そこでも述べたように、そのまま「之」の字が兼語の前置を示す標識として働いているとは断じ得ません。
そう判断するには、あまりにも同様の例がなさすぎるからです。
この文は、朱熹が指摘するように「闕文誤字」が疑われ、文意そのものも何通りか解釈があるようなので、語法を論じること自体があまり意味がないのかもしれません。
しかし、このブログをご覧の方に、兼語の倒置を示す標識として働いている例だと思い込まれても困るので、少し私の見解は述べておこうと思います。
『全釈漢文大系3 大学・中庸』(集英社1974)で、山下龍二氏は次のような注をつけています。
【小人之使爲國家】鄭玄は、「使三小人治二国家一」と読む。『正義』に之は語辞とある。赤塚忠氏は、「小人を之れ使ひて、国家を為むれば」と読んでいる。
これは、鄭玄が小人を使役対象だと説明し、さらに『礼記正義』が「之」を「語辞」としているのを倒置を示す虚詞だと踏まえた上で、赤塚忠が「使小人」という動賓構造を倒置して「小人之使」と読んでいると、山下氏自身の見解を3人の学者で固めた形になっているように思います。
しかし、実際に『礼記正義』にあたってみると、
彼爲善之彼謂君也君欲爲仁義之道善其政教之語辭故云彼爲善之小人之使爲國家菑害並至者言君欲爲善反令小人使爲治國家之事毒害於下故菑害患難則並皆來至
となっています。
参考までに北京大学出版社(2000)『十三経注疏6 礼記正義』の句読を示します。
○「彼爲善之」,彼,謂君也。君欲爲仁義之道,善其政教之語辭,故云「彼爲善之」。「小人之使爲國家,菑害並至」者,言君欲爲善,反令小人使爲治國家之事,毒害於下,故菑害患難,則並皆來至。
「之語辞」を独立した句と見るか、北京大学出版社の「其政教之語辞」と見るか、見解の分かれるところですが、いずれにしても、「之語辞」は、「彼為善之」に対する注にあたり、「小人之使為国家」の注ではないでしょう。
「語辞」は文言虚詞の意味で用いられる言葉ですから、山下氏は「之は語辞なり」と読んだ上で、「之は虚詞である」の意に解したものと思われます。
話が脱線しますが、北京大学出版社の句読「善其政教之語辞」は、確かに意味がとりにくく、「語辞」が「ことば」という意味かと考えてみても、「政教のことばをよくする」というのがどういう意味なのかよくわかりません。
そもそもそのような表現が必要な理由もよくわからず、「善其政教」(其の政教を善くす)、すなわち「その政治や教育をよくする」の方がよっぽどわかりやすいと思えます。
あるいは、山下氏が「之は語辞なり」と解しているのは正しいのかもしれません。
ただし、だからといってこの「之」が「小人之使為国家」の「之」を指しているとは、絶対いえないでしょう。
私見ながら、「之語辞」とは、「善」が形容詞でも名詞でもなく、「之」の字を伴うことで動詞に活用していることをいうのかもしれないとも思いますが、確証はありません。
話を元に戻しまして、要するに山下氏の引く『礼記正義』の記述は倒装の根拠にはなりません。
『日本名家四書註釈全書・学庸部』におさめられている浅川善庵『大学原本釈義』におもしろいことが書いてあります
「彼為善之小人之使為国家」を一文とみなし、「彼為善之小人」を「彼の善を為すの小人」と読んだ上で、次のように注しています。
使字。當在彼爲上。但彼爲善之小人。字多句長。故使上更用之字。以倒其句。
(「使」の字は、「彼為」の上にあるべきである。ただ「彼為善之小人」は、字が多く句が長い。だから「使」の上にさらに「之」の字を用いて、その句を倒置している。)
要するに浅川善庵は「使彼為善之小人為国家」が元の姿だというわけです。
なかなかもっともらしい解釈ですが、さていかがなものでしょうか。
そもそも「[小人]之使為国家」であれ「[彼為善之小人]之使為国家」であれ、普通に読めばこの[ ]が本来は使役動詞「使」の直接の賓語であり、兼語であるのは明らかです。
だから、後句との関係から、仮定で「(もし)小人に国家を治めさせれば」と解するのが自然です。
「之」の字は、果たしていったいどんな働きをしているのでしょうか。
「小人」は本来兼語で受事主語ですから、「小人若使為国家」のような文が成立するかどうかはわかりませんが、たとえば「若」や「如」のような仮設連詞で表現されていれば、とてもわかりやすかったかもしれません。
「之」の置かれている位置は確かに仮設連詞を置ける場所です。
そこで虚詞詞典を開いてみると、「之」を仮設連詞として説明しているものも見受けられます。
たとえば、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)には、次のように述べられています。
连词 假设连词。和“如”相同,可译为“假如”、“如果”。
(連詞 仮定の連詞。“如”と同じ。“仮如”、“如果”(もし)と訳すことができる。)
士之耽兮,猶可説也;女之耽兮,不可説也!(《詩経・衛風・氓》)…原文簡体字
――男子如果沉溺于爱情,还可能解脱的;女子如果迷恋于爱情,就不容易解脱呢!
(男性がもし愛情に溺れていたら,まだ言い訳できるが、女性がもし愛情に迷っていたら,容易には言い訳できない。)
斉侯曰:“大夫之許,寡人之願也;若其不許,亦将見也。”(《左伝》成公2年)…原文簡体字
――齐侯说:“大夫们如果同意和我决战,是我的愿望;如果不同意,我也将和你们以军队相见。”
(斉侯が言う、“大夫方がもし私と決戦することに同意してくださるなら,それが私の願いですが,もし同意してくださらずとも,私はあなた方と軍隊を率いてお会いするつもりでした。”)
我之不賢与,人将拒我,如之何其拒人也?(《論語・子張》)…原文簡体字
――我如果不贤德,别人将拒绝和我交往,怎么还拒绝别人呢?
(私がもし賢明有徳であれば,ほかの人が私と付き合うことを拒むだろう,どうして他の人を拒んだりしようか。)
確かに「之」の字を「もし」という意味の連詞だと解せば、文意はわかりやすくなります。
「之、猶若也」(「之」は「若」に同じである)という説明は清の王引之『経伝釈詞』にも見え、同様の記述は同じ清の呉昌瑩『経詞衍釈』にも見られます。
このような説明を鵜呑みにすれば、「之」は仮設連詞で「若」と同じとして、この問題は済んでしまうのですが、たとえば先に挙げた例文をじっくり見てみると、「之」の字を「若」に置き換える必要があるのだろうか?と疑問に思えてきます。
確かに置き換えれば文意は明確になる、でも、そのことがそのまま「之」が「若」と同じだと断ずる根拠にはつながらないと思うのです。
たとえば、「士之耽兮,猶可説也」の例、「男性が(愛に)溺れることは」と解して不自然でしょうか。
また、「大夫之許,寡人之願也」の例、「大夫が同意してくださることは」とも解せるでしょう。
「之」の、主謂間に置かれて文の独立性を取り消し名詞句を作る結構助詞としての働きで、この二つの例は説明できてしまいます。
先の王引之は『経伝釈詞』に、「大夫之許、寡人之願也、若其不許、亦将見也。」や他の例を挙げた上で、
皆上言「之」而下言「若」;「之」,亦「若」也,互文耳。
((これらの用例は)みな上で「之」と言い、下で「若」という。「之」も、「若」であり、互文に過ぎない。)
と言い切っていますが、果たしてどうでしょうか。
私が気になるのは、「我之不賢与,人将拒我」の例です。
このような「之」の用いられ方は、よくあるように思います。
・百獣之見我、而敢不走乎。(戦国策・楚一)
(獣たちが私を見て、逃げずにいられましょうや。)
・天之亡我、我何渡為。(史記・項羽本紀)
(天が私を滅ぼすのに、私はどうして(この河を)渡ったりしようか。)
いずれも普通訳されている形で訳をつけましたが、それぞれ「獣たちがもし私を見たら」、「天がもし私を滅ぼすなら」と訳すことができます。
形としては先の例と同じではないでしょうか。
これらの例に共通するのは、「之」が複文の前句で用いられている点です。
だから仮設連詞という説明もできてしまうわけです。
しかし、「之」の字には、「A之B(也)、~」の形をとり、「AがBする時、~」という意味を表す働きがあります。
たとえば、
・帝王之生、必有怪奇。(論衡・奇怪)
(帝王が生まれる時には、必ず不思議な現象がある。)
などがその例です。
この用法は結構助詞として名詞句を作る働きから転じたものだと思いますが、いわゆる「主謂間に置かれて文の独立性を取り消し名詞句を作る」働きが、単文においても普通に用いられるのに対して、複文の前句で用いられて時を表す場合には、その文意から仮定に解することができると思うのです。
その意味で、「之」のこの用法を結構助詞ではなく連詞に分類することも可能で、何乐士『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)が、名詞句を作る用法も含めて「之」のこれらの用法を連詞に含めていることは興味深いことです。
しっかりした確証はありませんが、私には『大学』の「小人之使為国家、菑害並至」が、「小人は(=小人に)国家を治めさせる時には、災いが一斉にやって来る」の意味のように思えます。
(内容:孟子の湍水の説「人之可使為不善、其性亦猶是也」の「之」の働きについて考察する。)
『孟子』湍水の説について、最後の部分の読みがおかしいという話を前エントリーに書きましたが、本題は文の構造です。
人之可使為不善、其性亦猶是也。
この「之」の字の働きが気になります。
これについて、最近古典中国語文法に基づいた解説が充実した教科書会社S社の指導書は、次のように説明しています。
「之」は主述関係の間に置かれて名詞句を作る用法。「人に不善を行わせることができる」意の文を「人に不善を行わせることができること」という名詞句にすることで、文の主語にしている。
「之」が主謂間に置かれて文の独立性を取り消し名詞句を作るというのは、基本的な結構助詞としての働きであり、妥当な解説だと思います。
この指導書にはさらに次のような補足があります。
「之」を倒置の助字として「可使人為不善」(原文は訓点を施す)の倒置とする説もあるが、「使」の使役の対象が「之」によって前置される形は他に例を見ないため、本書では採らなかった。
およそ用例があるかないかについて、ある場合は一つ示すことによってあることを証明できるし、多く示せばより強く証明できるのですが、用例がないということを示すことは非常に困難です。
古典漢文の資料は膨大な量ですから、十分と思えるだけの量の資料に一通りあたってみて用例が見つからなければ、少なくとも一般によく用いられる用法ではないということが言えるばかりです。
そこで本当に「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形は他に例を見ない」というS社の指摘が正しいか否か、私も探してみることにしました。
すると、次の用例が見つかりました。
彼為善之、小人之使為国家、菑害並至、雖有善者、亦無如之何矣。(礼記・大学)
(彼が政治をよくしようとしても、小人に国家を治めさせれば、災いが一斉にやって来て、善政があっても、これをどうしようもないのである。)
後漢の鄭玄注には、
彼、君也。君将欲以仁義善其政、而小人治其国家之事、患難猥至、雖云有善、不能救之、以其悪之已著也。
(「彼」とは、君主である。君主が仁義によってその政治をよくしようとしても、小人がその国家のことを治めれば、災いがみだりにやってきて、善があっても、その悪がすでに著しいためにこれを救うことはできないのである。)
とあります。
すなわち、鄭玄は「小人之使為国家」を「小人に国家を治めさせる」と解釈していることが明らかです。
この箇所については、別に解釈もあるようですが、原文を文字通り見て一番すっきりしているのは鄭玄の解釈だと思います。
とすれば、少なくとも使役の対象が「之」を後に伴って使役動詞「使」に前置されている例はあるということになり、S社の記述はその説明内容はともかくとして、当を得ないものになります。
しかし、用例があったことが、そのまま「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」の存在を証明するものではありません。
なぜなら、使役対象が「之」の字を伴い使役動詞に前置されているからといって、「之」の字が倒置を示す標識の働きをしているとは言い切れないからです。
『全釈漢文大系2 孟子』(集英社1973)に、宇野精一は次のように書いています。
なお、終わりの「人之可使為不善」の句は、通常「人の不善を為さしむ可き」と読むが、この「之」は強めの助辞で倒装法とみられるから、「人をして不善を……」、または「人にして不善を……」と読みたい。
「強めの助辞で倒装法とみられる」というのは、おそらく「之」が倒置を示す標識として働く結構助詞であるということをいうのだと思います。
S社の「『之』を倒置の助字として『可使人為不善』の倒置とする説もあるが」という記述が、宇野精一の説明を念頭に置いたものかどうかはわかりませんが、その方向性にあることは間違いありません。
さて、本当のところはどうなのでしょうか。
仮に「使人為不善」を認めたとして、この文は使役の兼語文です。
「(施事主語)+謂語『使』+賓語『人』」((施事主語)が人を使役する)という文と、「施事主語『人』+謂語『為』+賓語『不善』」(人が善くないことをする)という文が、兼語「人」を介して一文化しているわけです。
ここで前文の施事主語は不明ですから、無主語文の形をとっています。
また、「使」は動詞ですから、助動詞「可」の目的語となり、「可使人為不善」という表現が可能になります。
これを一般化して、「使BCD」(BヲシテDをCセシム)、つまり「BにDをCさせる」という文において、Bが「使」に前置される例について調べてみることにしました。
つまり、兼語Bが文頭に置かれる例ということになります。
すると、杨伯峻・何乐士『古汉语语法及其发展(修订本)』(语文出版社2001,607頁)に次のような記述が見つかりました。
特殊兼语:兼语作受事主语的兼语句
在语言中,常有将强调的成分置于句首的状况。兼语句中有时为了强调兼语而把它前置,作为句子的受事主语,下文的兼语一般不再重复出现。如:
(特殊兼語:兼語が受事主語となる兼語句
言語においては,強調する成分を文頭に置くことはよくある。兼語文で時に兼語を強調するためにそれを前置して、文の受事主語とする、後の兼語は普通重複しては現れない。たとえば:)
(1)民,可使( )由之,不可使( )知之。(论语・泰伯)
(民はこれ(=政治)に頼らせるべきで、これを知らせるべきではない。)
(2)雍也,可使( )南面。(又,雍也)
(雍は、南面させることができる(=君主として政治をおこなわせることができる)。)
(3)夫颛顼、昔者先王以( )为东蒙主。(又,季氏)
(そもそも顓臾の国は、昔先王がそれを蒙山の祭祀を司るものとさせた。)
(4)方寸之木,可使( )高於岑楼。(孟子・万章下)
(一寸四方の木は、尖った山より高くさせることができる。)
(3)の例は介詞句なので、兼語文といえるかどうかは怪しいと思いますが、(1)(2)(4)については、いずれも本来( )の位置にあるべき兼語が、倒置されて文頭に置かれたものです。
注意すべきは、このいずれにおいても、文頭に置かれた兼語の後に、倒置を示す標識「之」が置かれていない点です。
つまり、「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」があるかないかは別にして、使役対象、すなわち兼語が「之」を伴わずに文頭に置かれる例はいくつも見られるわけです。
言い換えれば、兼語を文頭に置くとき、倒置を示す「之」は必要がないということです。
楊伯峻と何楽士は、この倒置された兼語を受事主語とはっきり言い切っていますが、私もそう思います。
つまり、兼語はすでに文の主語という成分になっているわけです。
したがって、「人可使為不善。」は「人は善くないことをさせることができる」という意味の文として成立することになります。
さて、ではなぜ孟子の原文が「人之可使為不善」と「之」の字が用いられているかというと、S社の説明の通りで、主語「人」と謂語「可使」の間に結構助詞として「之」の字を置くことで、文の独立性を取り消して名詞句を作り、「人が(=人に)善くないことをさせることができること」という名詞句となって、文の主語の位置に置きやすくなっているわけです。
つまりS社の説明は概ね正しいのですが、兼語が文頭に置かれて受事主語となるという説明がないために、やや不親切なものになってしまっているのでした。
『全釈漢文大系2 孟子』が、「之」を用いた倒装法と考えているとしたら、誤りだと思います。
(内容:孟子の湍水の説「人無有不善、水無有不下」に見られる「無有」について考察する。)
『孟子』湍水の説で、「人無有不善、水無有不下。」(人善ならざる有る無く、水下らざる有る無し。)という表現がひっかかると以前のエントリーに書きました。
「有」が用いられていることがひっかかるわけです。
「人無不善、水無不下。」(人善ならざる無く、水下らざる無し。)でも十分意味が通るのに、わざわざ「有」が用いられています。
用いられている以上は何らかの働きがあるはずだと思うわけですが。
気になるので、例によって楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)を開いてみると、「无有」(無有)の項に次のように書かれていました。
动词性结构。“无”本身就是个否定性的动词,相当于“没有”,可是古汉语中又常常习惯于“无有”连用。这样,“无”就起着副词的作用了。“无有”一般是对存在进行否定,可译为“没有”。例如:
(動詞性構造。“無”はもともと否定性の動詞で、“没有(もたない・ない)”に相当するが、古漢語ではよく“無有”と続けて用いられる習慣がある。このように、“無”は副詞の働きになっている。“無有”は一般に存在していることに対して否定し、“没有”と訳すことができる。例は次の通り:)
①明恕而行,要之以礼,虽无有质,谁能间之?(《左传・隐公三年》)
――以相互宽容的原则行事,又用礼义加以约束,即使没有人质,谁又能离间他们呢?
(互いに寛容の原則で事を行い、さらに礼義によって固めれば、人質がいなくても、誰がいったい彼らの仲を裂くことができるだろうか?)
②其竭力致死,无有二心,以尽臣礼,所以报也。(《左传・成公三年》)
――我将尽力拼命,没有其他想法,以尽到为臣的职责,这就是我用来报答您的。
(私は力を尽くして命を投げ出し、別の考えをもたずに、家臣の職責を果たそうと思っており、これが私があなた様に報いる道です。)
③季曰:“是何人也?”家室皆曰:“无有。”(《韩非子・内储说下》)
――李季说:“这是什么人?”家里的人都说:“没有(人)。”
(李季が“これは誰だ?”と言うと、家の者はみな“誰もいない。”と言った。)
この記述によると、この場合の「無」は「有」と連用されて副詞として働いているということになってしまいます。
『漢語大詞典』の「無」の説明、「副詞。表示否定,相當於“不”。」をまた想起します。
動詞「無」が動詞句を目的語にとる時、「~しない」という意味を表して、述語動詞を連用修飾するということなのですが、それなら理屈の上では「人無有不善」は「人不有不善」と同じということになってしまいますが、「不有不~」という形の文は見たことがありません。
同書には、さらに次のように湍水の例を引いて説明されています。
“无有”与“不”用连,则表示肯定。例如:
(“無有”と“不”が続けて用いられて、肯定を表す。例は次の通り:)
④人性之善也,犹水之就下也。人无有不善,水无有不下。(《孟子・告子上》)
――人性的善良,就如同水向低处流一样。人没有不善良的,水没有不向下流的。
(人の性質の善良さは、水が低いところへ向かって流れるのと同じだ。人は善良でないものはなく、水は下に向かって流れないものはない。)
「無」と「不」を合わせ用いる、いわゆる二重否定が肯定を表すということの説明です。
『文言复式虚词』の説明は「無有」のうちの「無」の説明に傾いていて、「有」がどういう意味を表しているかについては触れられていません。
漢語の辞書や虚詞詞典に述べられているから、すぐそういう意味だと断ずることは危険です。
本来の働きとは別に、現代語としてより自然に解釈できる意味として述べられている可能性があるからです。
出典が『孟子』ですので、また太田辰夫の『改訂 古典中国語文法』(汲古書院1983,140頁)を開いてみました。
すると、
「無有」は論語にはないが孟子に5例ある。このばあいは「有」とそれ以下を名詞的なものと解すべきである。
とあって、「人無有不善、水無有不下。」の例が引用されていました。
この考えによれば、「無」はあくまで動詞で、「有不善」「有不下」が名詞句で「無」の賓語ということになります。
そして、同書(139頁)には、さらに次のように記されていました。
「有」が賓語に動詞(さらに賓語・副修のつくこともある)をとるばあい,それは名詞化する。このばあい「所」又は「者」を補って考えるべきであるが,また「時として…の場合がある」という意味になることもある。
さらに、
「有」が形容詞を賓語にとるものは「者」を補って解すべく,また「…の点がある」という意味にもなる。
とあります。
賓語が動詞の場合も形容詞の場合も、要するに名詞句としての賓語とみなすべきだとするもので、実は私の見解と同じです。
「人無有不善、水無有不下」は、「人は善でないものはなく、水は下に流れないものはない」という意味ではなく、あくまで「不善」「不下」は「有」の賓語であり、また、「有不善」「有不下」は「無」の賓語ではないでしょうか。
つまり、「人に善でないということがあることはなく、水に下に流れないということがあることはない」という意味なのでは?
訓読した通りの意味になるわけですが、太田氏も述べているように、あるいは「善でないという点があることはなく」「時として下に流れないという場合があることはない」と饒舌に訳しても通りそうです。
つまり前エントリーで述べたように、「有」や「無」が動詞句を賓語にとる時、そのような状況・事態が客観的にあるかないかを述べているのだと思うのです。
人の性質に、「善でないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のであり、水の性質に「下に流れないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のではないでしょうか。
このような解釈は当然くどいので、日本語訳自体はもっとスマートでよいと思いますが、「有」にはそんな働きがあるのではないかなと思っています。
ちなみに、太田辰夫氏には『中国語歴史文法』(朋友書店 新装版2013,301頁)がありますが、その「没」の項に、
《無有》とはがんらい所有・存在するという事実がないということかとおもわれるが,實際はそれほど深い意味で使われるのではなく,單に《無》を口調の関係で二音節にのばしたに過ぎないとおもう。
とも書かれていることを付記しておきます。
(内容:「寧A、無B」の形で用いられる「無」の働きと意味について考察する。)
「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」という先のエントリーで、「無」が存在文や所有文の謂語動詞ではない時、副詞として謂語を連用修飾して「~しない」という意味を表すと説明することがあることについて触れました。
そのため、「無」の後に動詞が置かれて「無A」の形を取るとき、私的にはむしろ「Aすることがない」と訳すべきだと思うのに、ことさらに「Aしない」と訳し、「不A」に同じと説明されることがあります。
それは中国の語法学で説かれる説であり、学問上の一つの考え方として捉えることはできます。
そして、私がこの考え方を是としないことについては、前エントリー「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」で述べました。
しかし、そのこととは別に動詞Aが「無」の後に置かれ、「無A」の形をとった時、それを「Aしない」という意味だと言えない形があります。
たとえば、
・寧信度、無自信。(韓・外儲説左上)
(▼寧ろ度を信ずとも、自ら信ずる無し。)
(▽寸法書きを信じる方がよく、自ら信じるということはない。)
の例は、これを「自ら信じない」と訳すことはできません。
この「無」はあくまで「無」であって、「不」とは働きが異なるからです。
本題に入る前に、「寧A、無B。」の形について述べておきます。
これは、古来「むしロAストモ、Bスルコトなカレ」、「むしロAストモ、Bスルコトなシ」と読み慣わされていて、それぞれ「いっそAしても、Bしてはいけない」、「いっそAしても、Bすることはない」などと訳されています。
実はこの日本語訳自体があやしくて、「寧」の字は「安寧」が原義で、そこからの引申義で願わしい選択、すなわち「(…するよりも)、~するほうがよい」とか「~するほうがよく、(…はしない・~することはない)」という意味を表す連詞として用いられるようになりました。
従来の「いっそ~しても」という日本語訳は、「いっそ」にいかにも投げやりな調子が感じられますが、あくまで二者を比較した上で、望ましい方を選択する意味を表すのです。
さて、そのことはさておき、この「無B」が語法的にどう説明されるかが問題です。
楚永安『文言复式虚词』(中華人民大学出版社 1986)には、次のように書かれています。
这是个表示取舍关系的格式。在其所关联的两个并列的小句中,用“宁”表示选取,用“无”表示舍弃。相当于“宁肯……也不”。
(これは取捨関係を表す形式である。その関連する二つの並列した小句において、“寧”を用いて選択を表し、“無”を用いて捨てることを表す。“宁肯……也不(……しても、~しない)”に相当する。)
これだけを読めば、なるほどと納得してしまいますが、用例に照らし合わせながら読み直すとあることに気づきます。
①进之!宁我薄人、无人薄我。(《左传・宣公十二年》)
――前进!宁肯我们逼近敌人,也不让敌人迫近我们。
(進め!我々が敵に迫っても,敵に我々に迫らせない。)
②臣闻鄙语曰:“宁为鸡口,无为牛后。”今大王西面交臂而臣事秦,何以异于牛后乎?(《战国策・韩策一》)
――我听俗语说:“宁肯做鸡嘴,也不做牛尾巴。”现在大王您面西拱手象臣子那样事奉秦国,这与做牛尾巴有什么不同?
(私は次のようにいう俗語を聞いております、“鶏のくちばしになっても、牛のしっぽにならない。”今大王様は西面拱手して家臣のように秦国に仕えておられますが、これは牛のしっぽになるのとどんな違いがありますか?)
③人曰:“何不试之以足?”曰:“宁信度,无自信也。”(《韩非子・外储说左上》)
――有人说:“为什么不用脚试一试鞋呢?”那个郑人说:“宁肯相信尺码,也不相信自己的脚。”
(ある人が言う、「なぜ足で靴を試さないのか?」その鄭国の人は言った、「寸法書きを信じても、自分の足を信じない。」)
③の用例はまさにここで問題としているものそのものであり、その訳も「也不相信自己的脚」なのですから、やはり「無」を「~しない」と訳してもいいではないかと思えるのですが、実はそう簡単にはいきません。
①の用例「無人薄我」は、楚永安の説明に従えば、「無」を用いて「人薄我」を捨てることを意味することになります。
つまり「人薄我」(敵が我が軍に迫る)を捨てるわけです。
ここが注意すべきところで、「敵が我が軍に迫らない」のではなく、「敵が我が軍に迫る」ことがないのです。
そうでなければ、「人薄我」という選択を捨てたことにはなりません。
言い換えれば、「人」は「無」の主語ではないということです。
もう少し他の例を見てみましょう。
「鶏口牛後」が人口に膾炙しているために、たくさん用例が見つかりそうに思えたのですが、それほど多いわけではありません。
まして、「寧A、無B」複文の後句、すなわち「無B」の部分が主謂構造になっているものは、手元のデータでは次の二例しか見つけられませんでした。
寧我負卿、無卿負我。(東坡志林・卷五)
(私があなたにそむいても、あなたが私にそむくことはない。)
この例は、「あなたが私に背かない」のではなく、「あなたが私に背くことはない」の意です。
つまり、捨てられた選択は「卿負我」(あなたが私にそむく)なのです。
帝不悦曰、「兵寧拙速、無工遲。」(新唐書・韋挺列伝)
(主上は不快げに、「軍隊は行動が緩やかであっても、糧食の運搬が遅れてはならない。」と言った。)
この例も「糧食の運搬が遅れない」のではなく、「糧食の運搬が遅れることはない」の意で、捨てられた選択は「工遲」(糧食の運搬が遅れる)です。
こうして見てくると、「無」以下が主謂構造をとる時、その主語が「無」の前に来ることはないことがわかります。
つまり、「寧A、[主語]無B」の形をとることはないということです。
つまり、先の『韓非子』の例は、「寧信度、無自信。」ですが、この後句にもし主語「我」を補うとすれば、次のようになるはずです。
寧信度、無[我]自信。
「自」があるので、内容の重複する「我」を入れてくることはないはずですが、入れるとすればこの位置になる。
「無」が捨てる選択は「自信」すなわち「私が自分を信じること」なのです。
そうであるとすれば、このような「無」を述語の行為や状態を否定する働きとみなすことはできません。
「我無信。」(私は信じない。)ではないからです。
『文言复式虚词』には、次のようにも書かれています。
这个格式中的“无”,可同“毋”字替换,作“宁……毋”。
(この形式の“無”は、“毋”の字と換えて、“寧……毋”とすることができる。)
また、
“宁”也常与“不”相配合,组成“宁……不……”的格式,表示取舍。
(“寧”は“不”と組み合わされて、“寧……不……”の形式をとることもあり、取捨を表す。)
先の「寧我負卿、無卿負我。」によく似た例に、次のものがあります。
a.寧人負我、不我負人。(北斉書・文襄帝紀)
(人が私にそむくことがあっても、私が人にそむくことはない。)
b.寧我負人、不人負我。(南史・柳元景列伝)
(私が人にそむくことがあっても、ひとが私にそむくことはない。)
例aは別に「寧人負我、無我負人。」の形の例が見られ、例bは「寧我負人、無人負我。」の例が見られ、同じ意味で用いられていると思います。
「寧A、不B」の形のすべてがBの選択を捨てる働きを「不」がとっているとは思いません。
たとえば、
・寧使人負我、我不忍負人也。(資治通鑑・晋紀三十一)
(ひとに私にそむかせても、私は人にそむくことはできない。)
のような例も見られることから、「不」が単純に以下の選択を捨てる働きをしているとはいえず、謂語動詞の動作行為を打ち消すことも多いと思われ、むしろ「不」の場合は、その方が多い印象を受けます。
漢の劉邦の有名な言葉、「吾寧闘智、不能闘力。」(史記・項羽本紀)は、やはり「私は智を闘わせても、力を闘わせることはできない。」という意味で、もし強引に後句に主語「我」を入れれば、やはり「我不能闘力。」になるでしょう。
ただ、結論としてはっきり言えることは、「寧~、無AB。」「寧~、不AB。」の形をとってABが主語と謂語の関係の時、「無」や「不」は謂語Bを否定修飾するのではなく、あくまで「AがBする」ことの選択を捨てる働きをしているのです。
したがって、「無自信」の「無」は、「自分を信じない」ではなく、あくまで「自分を信じる」ことを捨てる、つまり「自分を信じることはない」の意なのです。