無有
- 2018/03/06 06:08
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:孟子の湍水の説「人無有不善、水無有不下」に見られる「無有」について考察する。)
『孟子』湍水の説で、「人無有不善、水無有不下。」(人善ならざる有る無く、水下らざる有る無し。)という表現がひっかかると以前のエントリーに書きました。
「有」が用いられていることがひっかかるわけです。
「人無不善、水無不下。」(人善ならざる無く、水下らざる無し。)でも十分意味が通るのに、わざわざ「有」が用いられています。
用いられている以上は何らかの働きがあるはずだと思うわけですが。
気になるので、例によって楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)を開いてみると、「无有」(無有)の項に次のように書かれていました。
动词性结构。“无”本身就是个否定性的动词,相当于“没有”,可是古汉语中又常常习惯于“无有”连用。这样,“无”就起着副词的作用了。“无有”一般是对存在进行否定,可译为“没有”。例如:
(動詞性構造。“無”はもともと否定性の動詞で、“没有(もたない・ない)”に相当するが、古漢語ではよく“無有”と続けて用いられる習慣がある。このように、“無”は副詞の働きになっている。“無有”は一般に存在していることに対して否定し、“没有”と訳すことができる。例は次の通り:)
①明恕而行,要之以礼,虽无有质,谁能间之?(《左传・隐公三年》)
――以相互宽容的原则行事,又用礼义加以约束,即使没有人质,谁又能离间他们呢?
(互いに寛容の原則で事を行い、さらに礼義によって固めれば、人質がいなくても、誰がいったい彼らの仲を裂くことができるだろうか?)
②其竭力致死,无有二心,以尽臣礼,所以报也。(《左传・成公三年》)
――我将尽力拼命,没有其他想法,以尽到为臣的职责,这就是我用来报答您的。
(私は力を尽くして命を投げ出し、別の考えをもたずに、家臣の職責を果たそうと思っており、これが私があなた様に報いる道です。)
③季曰:“是何人也?”家室皆曰:“无有。”(《韩非子・内储说下》)
――李季说:“这是什么人?”家里的人都说:“没有(人)。”
(李季が“これは誰だ?”と言うと、家の者はみな“誰もいない。”と言った。)
この記述によると、この場合の「無」は「有」と連用されて副詞として働いているということになってしまいます。
『漢語大詞典』の「無」の説明、「副詞。表示否定,相當於“不”。」をまた想起します。
動詞「無」が動詞句を目的語にとる時、「~しない」という意味を表して、述語動詞を連用修飾するということなのですが、それなら理屈の上では「人無有不善」は「人不有不善」と同じということになってしまいますが、「不有不~」という形の文は見たことがありません。
同書には、さらに次のように湍水の例を引いて説明されています。
“无有”与“不”用连,则表示肯定。例如:
(“無有”と“不”が続けて用いられて、肯定を表す。例は次の通り:)
④人性之善也,犹水之就下也。人无有不善,水无有不下。(《孟子・告子上》)
――人性的善良,就如同水向低处流一样。人没有不善良的,水没有不向下流的。
(人の性質の善良さは、水が低いところへ向かって流れるのと同じだ。人は善良でないものはなく、水は下に向かって流れないものはない。)
「無」と「不」を合わせ用いる、いわゆる二重否定が肯定を表すということの説明です。
『文言复式虚词』の説明は「無有」のうちの「無」の説明に傾いていて、「有」がどういう意味を表しているかについては触れられていません。
漢語の辞書や虚詞詞典に述べられているから、すぐそういう意味だと断ずることは危険です。
本来の働きとは別に、現代語としてより自然に解釈できる意味として述べられている可能性があるからです。
出典が『孟子』ですので、また太田辰夫の『改訂 古典中国語文法』(汲古書院1983,140頁)を開いてみました。
すると、
「無有」は論語にはないが孟子に5例ある。このばあいは「有」とそれ以下を名詞的なものと解すべきである。
とあって、「人無有不善、水無有不下。」の例が引用されていました。
この考えによれば、「無」はあくまで動詞で、「有不善」「有不下」が名詞句で「無」の賓語ということになります。
そして、同書(139頁)には、さらに次のように記されていました。
「有」が賓語に動詞(さらに賓語・副修のつくこともある)をとるばあい,それは名詞化する。このばあい「所」又は「者」を補って考えるべきであるが,また「時として…の場合がある」という意味になることもある。
さらに、
「有」が形容詞を賓語にとるものは「者」を補って解すべく,また「…の点がある」という意味にもなる。
とあります。
賓語が動詞の場合も形容詞の場合も、要するに名詞句としての賓語とみなすべきだとするもので、実は私の見解と同じです。
「人無有不善、水無有不下」は、「人は善でないものはなく、水は下に流れないものはない」という意味ではなく、あくまで「不善」「不下」は「有」の賓語であり、また、「有不善」「有不下」は「無」の賓語ではないでしょうか。
つまり、「人に善でないということがあることはなく、水に下に流れないということがあることはない」という意味なのでは?
訓読した通りの意味になるわけですが、太田氏も述べているように、あるいは「善でないという点があることはなく」「時として下に流れないという場合があることはない」と饒舌に訳しても通りそうです。
つまり前エントリーで述べたように、「有」や「無」が動詞句を賓語にとる時、そのような状況・事態が客観的にあるかないかを述べているのだと思うのです。
人の性質に、「善でないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のであり、水の性質に「下に流れないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のではないでしょうか。
このような解釈は当然くどいので、日本語訳自体はもっとスマートでよいと思いますが、「有」にはそんな働きがあるのではないかなと思っています。
ちなみに、太田辰夫氏には『中国語歴史文法』(朋友書店 新装版2013,301頁)がありますが、その「没」の項に、
《無有》とはがんらい所有・存在するという事実がないということかとおもわれるが,實際はそれほど深い意味で使われるのではなく,單に《無》を口調の関係で二音節にのばしたに過ぎないとおもう。
とも書かれていることを付記しておきます。