ユーティリティ

プロフィール

管理者へメール

過去ログ

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

インフォメーション

拙著『真に理解する漢文法』を無料提供しています こちら
高校生のみなさん向け楽しく学べる『ためぐち漢文』 こちら
管理人へのメール → こちら

エントリー

2021年01月の記事は以下のとおりです。

データ救出完了

  • 2021/01/21 07:54
  • カテゴリー:その他
(内容:PCのHDDが突然壊れたため失われた書籍・研究のデータ復元についての報告。)

年末にメインPCが吹っ飛んだという悲惨な出来事がありました。
なにより怖れたのは、これまでの研究成果や基礎となる資料の喪失でした。
年末から正月のほとんどすべてをかけてデータの救出と、新しいPC環境の構築に時間を費やしましたが、ようやくほぼ復旧。
怖れていたデータは、(たぶん)完全に救出。
なにしろPDF化していた書籍数は約4500冊、テキスト処理していた漢籍は6500ファイルを超えるものでしたので、ほっと胸をなで下ろしています。
まだまだ新しいPC環境を、研究に便利なように構築していくには時間がかかりそうですが、ようやく落ち着いて仕事ができそうです。

みなさんも、大切なデータは必ずバックアップしましょう(自戒をこめて)。

「目眦尽く裂く」の「尽」の意味は?

(内容:『史記』鴻門の会に見られる樊噌の「目眦尽裂」について、「尽」の意味を考察する。)

『史記・項羽本紀』のいわゆる「鴻門の会」について、色々と語義を確認していると、あれ?と思うことに出会いました。

・噲遂入、披帷西嚮立、瞋目視項王。頭髪上指、目眦尽裂
(▼噲遂に入り、帷を披きて西嚮して立ち、目を瞋らして項王を視る。頭髪上指し、目眦(もくし)(ことごと)く裂く。
 ▽樊噲はそのまま中に入り、とばりを開いて西に向いて立ち、目をいからせて項王を見た。髪の毛が逆立ち、まなじりは裂けんばかりである。)

いうまでもなく、主人沛公の危機を救うべく、参乗の樊噲が宴会場に乗り込んだ場面です。
今使っている教科書では「目眦」とありますが、『会注考証』では「目眥」に作り、水沢利忠の「校補」にも異同は示されておらず、どのテキストを底本としたのかは不明です。
別の教科書では「目眥」となっています。

さて、私があれ?と思ったのは、その「目眦尽裂」の説明です。

まなじりは裂けんばかりである。「目眦」は、まなじり(目の外側の端)。「尽」は、ここでは「裂」を強調する用法。

まあまさか本当にまなじりが裂けるわけがなく、「頭髪上指」と共に誇張表現であることは言うまでもないのですが、「目眦尽裂」は「まなじりは裂けんばかりである」という意味でしょうか?

私自身、特にこの箇所を語義的に疑問に感じたことがなく、以前このブログにも載せた『鴻門の会・語法注解』では、「頭髪が逆立ち、まなじりがすっかり裂けていた」と訳し、次のように説明しています。

「目眥尽裂」は、まなじりがすっかり裂ける。
「尽」は範囲副詞、すべての意。
「頭髪上指」「目眥尽裂」はいずれも誇張表現だが、現実に即して意訳するよりはそのまま解する方が味わいがあってよい。

つまり私は単純に「尽」を「すべて」の意で解したわけです。
しかし、「『尽』は、ここでは『裂』を強調する用法」などと説明するからには、よるところが必ずあるはずです。

そこで『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると次のように書かれています。

五、用在形容词谓语前,表示谓语所指处于顶端状态。可译为“十分”、“至”、“极(其)”等。
(五、形容詞謂語の前で用いられ,謂語が指すものが頂点の状態にあることを表す。“十分(十分に・非常に)”、“至(極めて・もっとも)”、“極(其)(極めて)”などと訳せる。)

そして、その例文として、次のものが示されていました。

・子謂韶、尽美矣、又尽善也。(論語・八佾)

「尽」を「きわめて・非常に」と訳すとすると、「先生が韶についておっしゃる、きわめて美で、またきわめて前だ」となるでしょうか。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)にも同じ例が挙げられて、次のように説明されています。

二、程度副词
(一)用于形容词或动词谓语前作状语,表示状态或动作行为程度极深。
(二、程度副詞
 (一)形容詞や動詞謂語の前で用いられて状語(連用修飾語)となり、状態や動作行為の程度が極めて深いことを表す。)

・及死之日,天下知与不知,皆為哀。(史記・李将軍列伝)
(亡くなった日、世の知る者も知らない者も、みな彼のために非常に悲しんだ。)

この例は、上記2冊がともに例として引用しているものですが、何楽士の解釈に従う限りは、「哀」は形容詞というよりはやはり動詞、もしくは形容詞が動詞のように働いている語ということになるのでしょう。
つまりは、動詞といっても、ものの状態や形容を表す性質を強くもつ語の場合にこの用法が適用されるのだと思います。

ところで、「尽(盡)」は、「皿の中の拭除される意」(加藤常賢『漢字の起源』)、「食い尽くして,皿中に点々と小間切れのみが残ること」(藤堂明保『漢字語源辞典』)、「器中に洗滌のための細い棒(聿)を入れ、水を加えて器中を洗う意で、器を洗い尽すことをいう」(白川静『字統』)などと原義に諸説あるものの、『説文解字』の「器中空也」の解釈が妥当で、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義の字です。
これの引申義が「ことごとく」で、「全て」「全部」の意になるわけです。
だから、『史記・項羽本紀』の「珍宝尽有之」も、「珍宝については、ことごとく(=残すところなくすべて)これを有した」の意であって、謂語動詞の表す意味や文脈によって「全部」「すべて」「みな」などと訳し分けたり、「完全に」と訳すこともあるけれども、基本は「残すところなくすべて」の意であろうと思うのです。

形容詞謂語の前に置かれる「尽」の例として諸本が引用している次の例、

・子謂韶、「美矣、又善也。」謂武、「美矣、未善也」。(論語・八佾)
(▼子韶を謂ふ、「美を尽くせり、又た善を尽くすなり。」と。武を謂ふ、「美を尽くせり、未だ善を尽くさざるなり。」と。)

これは美や善について、孔子が「何ひとつ欠けることがない」と評しているのであって、むしろ「完全に美である、また完全に善である」と訳すべきではないでしょうか。
「尽善也」を「きわめて善である」と解して、「未尽善也」の形で打ち消せば、当然「まだそれほど善であるわけではない」となりますが、これはそういう意味でしょうか?
やはり「まだ完全に善であるとはいえない」という意味ではないでしょうか?
その意味で、商務印書館『古代漢語虚詞詞典』が『論語』の例文を、初めの部分だけ引用しているのは、ご都合主義だなと思えてきます。

商務印書館『古代漢語虚詞詞典』がこの用法の例として挙げているものは他にもあります。

(2)善挟治之謂神。(荀子・儒效)

これは「尽く善にして挟(あまね)く治むるを之れ神と謂ふ」と読んで、「欠けるところなく善であって広く治まっているのを神という」の意でしょう。
明らかに「尽」は「挟」(あまねし)と対になっていて、すみずみまで行き渡ることを表していると思います。
「きわめて」とか「とても」という意味ではないでしょう。

(3)及死之日、天下知与不知、皆為哀。(史記・李将軍列伝)

先にも取りあげたこの例は、何楽士に従い、「哀」を動詞、または動詞のように働いている語として説明しましたが、あるいは名詞かもしれません。
なんであれ、「皆」は「人々はみな」の意、「尽」は「哀」(かなしむ)ことについて欠けることがないことを表しているのでしょう。
「哀」を名詞とすれば、「尽」は副詞ではなく動詞で、悲しみの限りを尽くすことを表すことになります。
案外、その方が妥当な解釈かもしれません。

(4)先生見諸葛亮連弩曰、「巧則巧矣、未善也。」(三国志・魏書・杜夔伝・注)

これは『杜夔伝』に裴松之がつけた注の一節です。
「先生諸葛亮の連弩を見て曰はく、『巧なるは則ち巧なり、未だ善を尽くさざるなり』と。」と読み、「先生(馬鈞)が諸葛亮の連弩を見て『巧みなのは巧みである、(だが)まだ完全に善いとはいえないぞ』と言った」という意味でしょう。
「それほど善くはない」の意味ではないと思います。

(5)杜詩最多、可伝者千余首、至於貫穿今古、覼縷格律、善、又過於李。(白氏長慶集・与元九書)

これは、「杜詩最も多く、伝ふべき者千余首、今古を貫穿し、格律に覼縷(らる)なるに至り、工を尽くし善を尽くし、又た李に過ぐ。」と読み、「杜甫の詩は最も多く、伝えるべきものは千余首もあり、古今の詩に通じ、詩の格律に詳細であり、完璧なまでに巧みであり完璧なまでに善く、また李白にも勝る。」という意味でしょうか。
「尽工尽善」の部分、「尽」を副詞として解しましたが、これもあるいは「工を尽くし善を尽くし」と解した方がよいのかもしれません。
訓読で動詞で読むというのでなく、もともとが「尽」は「尽きる」の意なのですから、「巧みの限りを尽くし、善美の限りを尽くす」と解しておかしいとは思いません。
これを「非常に巧みで非常に善である」と解することもできるけれども、それは意訳でしょう。

(6)美固揚、片善亦不遏。(孟東野詩集・投所知詩)

最後の例は「美を尽くすは固より揚ぐるも、片善も亦た遏(とど)めず。」と読んで、「完全に美であるものは、当然賞賛するも、一部の良さも遮らない。」という意味だと思います。
これが「極めて美である」とするよりも「完全に美である」と解する方が妥当なのは、「片」と「尽」が対になっていることから明らかでしょう。

こうして見てくると、「尽」を「きわめて・非常に」などと解するのは、本来は「欠けるところがない」「余すところがない」という意味からの意訳であろうと思えてきます。
「欠けるところがない」からこそ「きわめて・非常に」と言えるのであって、つまりは「余すところがなく」「欠けるところがない」のです。
たとえば「尽美」をかりに「非常に美である」と解したとしても、「甚美」(甚だ美なり)とは違う表現だと思います。
「甚」は程度副詞ですが、「尽」が近い意味で用いられているとしても、あくまで範囲副詞としての用法でしょう。

さて、最初に戻って、「尽」が「裂」を強調する用法という説を、どう考えるべきでしょうか。
この解釈を踏まえた口語訳が示されていないので、なんともいえないのですが、かりに「まなじりはとても裂けていた」と解したとしても、それは「欠けるところなく裂けていた」からの意訳になるわけで、私が「語法注解」で示した「まなじりがすっかり裂けていた」という訳に他ならないではありませんか。
もともと「尽」は「尽きる」からの引申義で「すべて」の意味の副詞なのですから、これを「裂」を強調する用法と言われても、そうなのかな?と思えてしまいます。

私は普通に「まなじりはすっかり裂けていた」と解したいと思います。
現実的にはありえない誇張表現だからといって、「まなじりは裂けんばかりである」と訳してしまっては、せっかくの司馬遷の表現が台無しになってしまう気がします。

謹賀新年

  • 2021/01/02 15:04
  • カテゴリー:その他
(内容:新年のご挨拶)

正月の鏡餅の画像

みなさま、あけましておめでとうございます。
拙い見解ばかり述べるブログでございますが、なにとぞ本年もよろしくお願いします。

年末のぎりぎりのところで、突然メインPCがぶっ壊れるという事態になり、アクセス不能のデータディスク!
データ消滅の危機から、必死に救出をはかっているところです。
膨大な資料等が消え失せる恐怖と戦っています。
これが救出できないと、研究もへったくれもなくなるという怖いありさま。
なんとか解決しなければなりません。
いくつものハードディスクを目の前に、なかなか大変な正月を迎えております。
PCが使えるようになるのは、おそらくひと月後でしょうか…

それだけでなく、最近は学期末ということもあって、多忙の極みでブログに書くほどの研究もできず、更新ままならないありさまですが、ぼちぼち行くというのがポリシーですので、突然記事をアップしたりすることもありますので、気長にお付き合いください。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ
  • ページ
  • 1