「可以」について
- 2022/10/26 16:58
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「可以」の用法について考察する。)
高等学校2学期お決まりの定期試験と処理、その繁忙さに加えて、同時多発的な突発的公務の発生、思わず笑い出したくなるほどの慌ただしさなのですが、そこへさらに土日返上の活動なんぞが加わってくると、じっくりものを考えられる時間に飢えてきます。
「可」がなんとなく曖昧さをもっているように思えて、難しいなあと思ったっきり、思考がストップした状態がいつまでも続いていましたが、いくら忙しくても自分なりのペースでいいので少しずつでも考えを進めなければと思えてきます。
「学は以て已むべからず」ですからね。
して、その「学不可以已」にも用いられている「可以」ですが、この例はともかくとして、一般に「A可以B」の場合、AがBの客体ではなく、Bという動作の主体であるとされます。
なぜそうなるのか、文法的に知りたいところながら、よくわかりません。
中国の古い文献は『書経』だと思いますが、古文尚書の中には次の1例が見えるばかりです。
・二公曰、「我其為王穆卜。」周公曰、「未可以戚我先王。」(尚書・金縢)
(▼二公曰はく、「我其(ねがは)くは王の為に穆卜せん」と。周公曰はく、「未だ以て我が先王を戚(うごか)すべからず」と。)
(▽太公と召公の二公が(周公に)言うことには、「我々は武王の(病平癒の)ためにつつしんで占いをしたいものです」と。周公が言うことには、「それで我が先王を感動させることはできまい」と。)
この例は「未可以戚我先王」の主体が明示されていませんが、占いを行う「二公」とも、占い自体ともとることができそうです。
いずれにしても、「戚」という行為の客体ではありません。
次に『詩経』の例を探してみました。
・我心匪鑒、不可以茹。亦有兄弟、不可以拠。(邶風・柏舟)
(▼我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず、以て茹(はか)るべからず。亦兄弟有れども、以て拠るべからず。)
(▽わが心は鏡ではないから、それで(人の心を)はかることはできない。私にも兄弟はあるが、それで頼ることはできない。)
この例も「我心」は「茹」の客体ではないし、「不可以拠」の主体は我だと思いますが、やはり「拠」の対象ではありません。
なお、この詩はこの後に、次の一節があります。
・我心匪石、不可転也。我心匪席、不可巻也。
(▼我が心は石に匪ず、転ずべからざるなり。我が心は席(むしろ)に匪ず、巻くべからざるなり。)
(▽私の心は石ではないから、転がすことはできない。私の心はむしろではないから、巻くことはできない。)
堅く結ばれた心は変えることはできないことを言うのですが、「我心」は、「転」「巻」の客体を表しており、つまりこの詩において「可」と「可以」はきちんと使い分けられているのがわかります。
・衡門之下、可以棲遅。泌之洋洋、可以楽饑。(陳風・衡門)
(▼衡門の下、以て棲遅すべし。泌の洋洋たる、以て楽饑すべし。)
(▽一本木のそまつな家、そこでのどかに暮らせる。泉のさかんに流れるところ、そこで飢えても楽しんで暮らせる。)
この例は、「以」が「そんな状態で」「そんなところで」と前句を踏まえているのだと思います。
表現されていない「我」が主体のようにも思えますが、そのまま「衡門之下」は、「泌之洋洋」たるはと、それを主体とみることもできそうに思います。
・東門之池、可以漚麻。彼美淑姫、可与晤歌。(陳風・東門之池)
(▼東門の池、以て麻を漚(ひた)すべし。彼の美なる淑姫、与に晤歌(ごか)すべし。)
(▽東門の池は、それで麻を浸してやわらかくするによい。あの美しい娘は、その子と向かい合って歌うによい。)
この例も前例と同じく、表現されていない「我」が主体とも見えますが、そのまま「東門之池」「彼美淑姫」を見ることもできそうです。
そして、「可与晤歌」が「可与彼美淑姫晤歌」(あの美しい娘と向かい合って歌うによい)の意であることは明らかで、「与」の賓語が「彼美淑姫」であるように、「以」の賓語も「東門之池」だと言えるでしょう。
・糾糾葛屨、可以履霜。摻摻女手、可以縫裳。(魏風・葛屨)
(▼糾糾(きうきう)たる葛屨(かつく)、以て霜を履(ふ)むべし。摻摻(さんさん)たる女手、以て裳(しやう)を縫ふべし。)
(▽ぼろぼろの葛の靴、それで霜を踏める。かよわい娘の手、それでもすそが縫える。)
この例は、「摻摻女手」が「縫」の主体であることは明らかで、表現されていない何かではありません。
してみると、「履」の主体も「糾糾葛屨」とみるべきでしょうか。
なお、「糾糾葛屨、可以履霜」の句は、「小雅・大東」にも見えます。
・維南有箕、不可以簸揚。維北有斗、不可以挹酒漿。(小雅・大東)
(▼維南に箕(き)有り、以て簸揚(はやう)すべからず。
(▽南の空に箕星がある、それで糠を払い去ることはできない。北の空には北斗星がある、それで酒や水を酌むことはできない。)
「箕」が糠を取り去る農具、「斗」が飲料を酌む道具の名で、星の名に通じることからの趣向ですが、これも「箕」「斗」が主体と考えるべきでしょう。
・牂羊墳首、三星在罶。人可以食、鮮可以飽。(小雅・苕之華)
(▼牂羊(さうやう)墳首(ふんしゆ)、三星罶(りう)に在り。人以て食らふべし、以て飽くべき鮮(すく)なし。)
(▽牝羊は痩せて頭ばかりが大きく見え、三星は魚をとる仕掛けに映って輝く。人は食べることができるが、腹一杯になることはできない。)
極貧の民の生活を歌ったものですが、「食」の主体は「人」です。
この「可以」の「以」は、「そんな貧しさで」と、前に述べられた状況を指しているのでしょうか。
・他山之石、可以為錯。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て錯(さく)と為すべし。)
(▽よその山の石は、それを砥石にすることができる。)
・他山之石、可以攻玉。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て玉を攻(をさ)むべし。)
(▽よその山の石は、それで玉を磨くことができる。)
この2句、後者は人口に膾炙するものです。
いずれも「他山の石」は「為」「攻」の主体となりますが、特に前者「可以為錯」は、「以」が用いられ方によっては「それを」という意味を表しうることがわかります。
・泂酌彼行潦、挹彼注茲、可以餴饎。(大雅・泂酌)
(▼泂(とほ)く彼の行潦(かうらう)を酌み、彼に挹(く)みて茲(これ)に注ぐ、以て饎(し)を餴(ほん)すべし。)
(▽遠くからあの道にたまった水を汲み、大器に入れてまた小器に注ぐ、それで一度蒸した食べ物を水を加えてさらに蒸すことができる。)
この最後の部分は、繰り返して
・…、可以濯罍。
(▼…、以て罍(らい)を濯ぐべし。)
(▽…、それで祭事に酒を入れておく器を洗うことができる。)
・…、可以濯漑。
(▼…、以て濯漑すべし。)
(▽…、それで色々な祭器を洗うことができる。)
と歌われていますが、「餴」「濯」「濯漑」の主体は、汲んだ水でしょう。
こうして『詩経』の例を見ていくと、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)は、Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけでなく、むしろA、または前句を踏まえたAにあたる内容が、そのまま「以B」「以BC」に可であるという意味を表していることがわかります。
ちなみに、「A可以B」の形は、授業なんぞでは「可以」を1つの塊のようにとりあげて説明しがちで、「A+可以+B」の構造のように思っている先生も多いのではないかと思います。
しかし、少なくとも古代漢語においてはそうではなくて、これは「A+可+以B」と捉えなければなりません。
だから、Aは「以てBする」に可と言ったわけです。
Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけではないと述べたのは、たとえば、
・滄浪之水清兮、可以濯吾纓。(楚辞・漁父)
(▼滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。)
(▽滄浪の川の水が清らかであれば、私の冠のひもを洗うことができる。)
この「可以濯吾纓」は、清らかな滄浪の川の水が、「以濯吾纓」に可であるという意味です。
その「清らかな滄浪の川の水」がAですが、「濯吾纓」という実際の行為を行うのは洗う人です。
ですから、少なくとも「A可以B」の比較的古い用法においては、AはBの主体とはいっても、必ずしも動作行為を行う直接の主体であるとは限らないというわけです。
ここまで私があえて主語という言葉を避けてきたのは、主語とは何ぞやという部分での定義のズレが学者の中にあるためです。
今、一般に文頭に置かれた名詞成分が主語と言われますが、その意味ではAは主語といってもいいのかもしれません。
『詩経』の例を見ていて、さらに気づくことは、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)の「以」の賓語が何であるかが、ほぼ明瞭にわかるということです。
Aを受けて、「それを用いて」「それを理由に」「それを」「その状態で」など、AそのものやAの性質や事情が賓語の内容になっています。
その意味で、たとえば、「A可以B」が「Aは+『Aを用いて+Bする』に可である」という構造で、Bの客体がAになるということは、まず普通はないのではないでしょうか。
それゆえに、後の時代はともかくも、「A可以B」において、AがBの主体になるのが、もともとの用いられ方だったのではないかと思います。
ここで、前エントリーで紹介した『孟子』の例をもう一度見てみましょう。
・斉人伐燕。或問曰、勧斉伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕可伐与、吾応之曰、可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之、則将応之曰、為天吏則可以伐之。……
(▼斉人燕を伐つ。或ひと問ひて曰く、斉に勧めて燕を伐たしむること、諸(これ)有りやと。曰く、未だしきなり。沈同問ふ、燕伐つべきかと、吾之に応へて曰く、可なりと。彼然うして之を伐つなり。彼如(も)し孰(たれ)か以て之を伐つべきと曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、天吏たらば則ち以て之を伐つべしと。…)
(▽斉国が燕国を討伐した。ある人が孟子に尋ねて、「あなたは斉に勧めて燕を討伐させたそうだが、そういうことがありましたか」。孟子「そうとはいえないのである。沈同が『燕は伐ってもよろしいか』と問うたので、わたしはそれに答えて『よろしい』と言った。彼はかくして燕を伐ったのである。彼がもし『だれが燕を伐ってもよろしいか』といったならば、これに答えて『天命を受けた役人すなわち天子であったならば、これを伐ってもよろしい』と言ったであろう。……」。)
孟子が沈同の問いかけとして示した言葉は「燕可伐与」ですが、それに孟子は「可」と答えています。
読みようによっては孟子の言い訳にも見える部分ですが、孟子は「燕の国は伐つ(こと)について可であるか?」という問いかけに対して「可」であると答えたのです。
つまり、誰が伐つかについてはもともと問題にされない問いかけへの回答でした。
しかし「孰可以伐之」と問われていれば、これは、「誰が『その立場で』これを攻めるに可であるか」となりますから、沈同でも斉王でもなく天吏と答えていたろうという理屈です。
・有献不死之薬於荊王者。謁者操以入。中射之士問曰、可食乎。曰、可。因奪而食之。王怒、使人殺中射之士。中射之士使人説王曰、臣問謁者、謁者曰、可食。臣故食之。是臣無罪、而罪在謁者也。……(戦国策・楚四)
(▼不死の薬を荊王に献ずる者有り。謁者操(と)りて以て入る。中射の士問ひて曰はく、「食らふべきか。」と。曰はく、「可なり。」と。因りて奪ひて之を食らふ。王怒り、人をして中射の士を殺さしむ。中射の士人をして王に説かしめて曰はく、「臣謁者に問ふに、謁者曰はく、「食らふべし。」と。臣故に之を食らふ。是れ臣に罪無くして、罪は謁者に在るなり。……」と。)
(▽不死の薬を荊王に献上する者がいた。取り次ぎの役人が手に取って入った。中射の士が問うた、「食べられるか。」(取り次ぎの役人が)言った、「食べられる。」そこで(中射の士は)奪ってそれを食べた。王が怒り、人に中射の士を殺させようとした。中射の士は人に王に説かせて言った、「私が取り次ぎの者に問うと、取り次ぎの者は「食べてよい」と言いました。私はだからそれを食べました。これは私に罪はなく、罪は取り次ぎの者にあるのです。…)
「不死の薬」の逸話として有名な話で、『韓非子・説林上』にも同じ話が見える例です。
この話は、一般に中射の士の「可食乎」は「食べることができるか」という意味、謁者の「可食」は「食べてよい」の意に解釈されていて、「可」が可能と許可の意味をもつがゆえに成立する話になっています。
しかし、「食」の主体、すなわち「誰が食べるか」を問題にしない表現であったために成立するとも言えます。
中射の士はこの不死の薬が「食べる」に可であるかと問いかけ、「食べる」に可であると回答を得たと主張したのであって、「誰が」は問題にされていなかったからです。
もし中射の士が「可以食乎」と問いかけていたら、謁者はその主体が中射の士であると認識して、「不可」と答えていたはずです。
さて、ここからはあくまで私の推論になりますが、「A可B」のAがBの主体を表さず客体を表すのが本来であったとして、しかし実際に主体を表す例が見られるわけですが、Aが主体なのか客体なのかを明確にするには、「A可以B」の形式で表現するという方法があったのではないかと思うのです。
つまり、「A可B」の曖昧さを回避する表現として「A可以B」が用いられるようになった。
「A可以B」は、後に述べるように、「以」の賓語が何であるか特定しにくい例も見られるようになるのですが、それでも「可以」の形をとることで、Aが主体であることを明確にすべく機能したのではないかと思うのです。
一般に「可以」の「以」は虚化されて具体的な意味がないことが多いと説明されます。
太田辰夫『中国語歴史文法』(朋友書店2013)にも「しかしながら《以》の意味のほとんどみとめられないものも古代にある。」と述べられています。
岩波文庫の『荀子』(金谷治,岩波文庫1961)の「勧学篇」冒頭が、「君子曰わく、学は已むべからず。」と「以」を不読にしているのも、そうした判断に基づくものでしょうか。
・弱固不可以敵強。(孟子・梁恵王上)
(▼弱きは固より以て強きに敵すべからず。)
(▽弱いものはもちろん強いものに敵対できない。)
この例なんかは、拙著では「『以』の前置詞としての働きは明らかにすでに虚化されていて、『可』単独と同じ意味を表していると考えたほうがよい」などと不用意に述べているのですが、「弱いものは、もともと『その弱さゆえに』強いものに敵対できない」と解することができなくもありません。
しかし、確かにこの「以」の意味をこれと特定しにくい例はたくさんあります。
・二三子可以賀我矣。(国語・晋語五)
(▼二三子以て我を賀すべし。)
(▽あなた方は私を祝ってくれるがよい。)
たとえばこの例の場合は、「以」の意味をあえて入れれば、「あなた方は『その立場で』私を祝ってくれるがよい」とでも補うしかないでしょうか。
しかし、それはかなり無理があります。
そもそもこのような場合に「以」を用いる意味はどこにあるかと考えてみれば、あるいは先に述べたように「A可以B」のAがBの主体を表すという本来の働きを利用したものではないでしょうか。
ここまでの推論をまとめると、「A可B」は原則としてAがBの客体を表す表現であるが、主体と解さざるを得ない実例が見られる。
それは、「A可B」のAが必ずしもBの客体を表すと限定されないものとしての用法もあったことを示す。
一方、「A可以B」はもともと「以」がAもしくはAの性質や事情を賓語とするために、一般にAはBの主体を表す表現であった。
「A可B」がもともと主体が何かを示す表現ではないためにもつ曖昧さを回避するために、主体がAである時は「A可以B」の表現をするようになった。
これはあくまで推論に過ぎないし、そしてそう言い切ってしまえるなら楽なのですが、実はまだよくわからないのです。
そもそもこのエントリーの初めに触れた次の言葉、
・学不可以已。(荀子・勧学)
(▼学は以て已(や)むべからず。)
(▽学ぶことはやめてはいけない。)
「学」は「已」の対象ではないでしょうか?
・由此観之、学不可已、明矣。(淮南子・脩務訓)
(▼此に由りて之を観れば、学の已むべからざること、明らかなり。)
(▽このことから考えると、学問のやめてはいけないことは、明らかである。)
この例にも見られるように、「学問はやめてはならない」なら、「学不可已」となるべきはずではないでしょうか。
「学、人不可以已」(学問については、人はやめてはいけない)の「人」が省略されたものだと説明することもできないわけではないようにも思えますが。
しかし、そのような曖昧なことでは、先の推論は根底から崩れてしまうことになります。
「可」と「可以」… いよいよもってわからない、それが正直な気持ちです。
高等学校2学期お決まりの定期試験と処理、その繁忙さに加えて、同時多発的な突発的公務の発生、思わず笑い出したくなるほどの慌ただしさなのですが、そこへさらに土日返上の活動なんぞが加わってくると、じっくりものを考えられる時間に飢えてきます。
「可」がなんとなく曖昧さをもっているように思えて、難しいなあと思ったっきり、思考がストップした状態がいつまでも続いていましたが、いくら忙しくても自分なりのペースでいいので少しずつでも考えを進めなければと思えてきます。
「学は以て已むべからず」ですからね。
して、その「学不可以已」にも用いられている「可以」ですが、この例はともかくとして、一般に「A可以B」の場合、AがBの客体ではなく、Bという動作の主体であるとされます。
なぜそうなるのか、文法的に知りたいところながら、よくわかりません。
中国の古い文献は『書経』だと思いますが、古文尚書の中には次の1例が見えるばかりです。
・二公曰、「我其為王穆卜。」周公曰、「未可以戚我先王。」(尚書・金縢)
(▼二公曰はく、「我其(ねがは)くは王の為に穆卜せん」と。周公曰はく、「未だ以て我が先王を戚(うごか)すべからず」と。)
(▽太公と召公の二公が(周公に)言うことには、「我々は武王の(病平癒の)ためにつつしんで占いをしたいものです」と。周公が言うことには、「それで我が先王を感動させることはできまい」と。)
この例は「未可以戚我先王」の主体が明示されていませんが、占いを行う「二公」とも、占い自体ともとることができそうです。
いずれにしても、「戚」という行為の客体ではありません。
次に『詩経』の例を探してみました。
・我心匪鑒、不可以茹。亦有兄弟、不可以拠。(邶風・柏舟)
(▼我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず、以て茹(はか)るべからず。亦兄弟有れども、以て拠るべからず。)
(▽わが心は鏡ではないから、それで(人の心を)はかることはできない。私にも兄弟はあるが、それで頼ることはできない。)
この例も「我心」は「茹」の客体ではないし、「不可以拠」の主体は我だと思いますが、やはり「拠」の対象ではありません。
なお、この詩はこの後に、次の一節があります。
・我心匪石、不可転也。我心匪席、不可巻也。
(▼我が心は石に匪ず、転ずべからざるなり。我が心は席(むしろ)に匪ず、巻くべからざるなり。)
(▽私の心は石ではないから、転がすことはできない。私の心はむしろではないから、巻くことはできない。)
堅く結ばれた心は変えることはできないことを言うのですが、「我心」は、「転」「巻」の客体を表しており、つまりこの詩において「可」と「可以」はきちんと使い分けられているのがわかります。
・衡門之下、可以棲遅。泌之洋洋、可以楽饑。(陳風・衡門)
(▼衡門の下、以て棲遅すべし。泌の洋洋たる、以て楽饑すべし。)
(▽一本木のそまつな家、そこでのどかに暮らせる。泉のさかんに流れるところ、そこで飢えても楽しんで暮らせる。)
この例は、「以」が「そんな状態で」「そんなところで」と前句を踏まえているのだと思います。
表現されていない「我」が主体のようにも思えますが、そのまま「衡門之下」は、「泌之洋洋」たるはと、それを主体とみることもできそうに思います。
・東門之池、可以漚麻。彼美淑姫、可与晤歌。(陳風・東門之池)
(▼東門の池、以て麻を漚(ひた)すべし。彼の美なる淑姫、与に晤歌(ごか)すべし。)
(▽東門の池は、それで麻を浸してやわらかくするによい。あの美しい娘は、その子と向かい合って歌うによい。)
この例も前例と同じく、表現されていない「我」が主体とも見えますが、そのまま「東門之池」「彼美淑姫」を見ることもできそうです。
そして、「可与晤歌」が「可与彼美淑姫晤歌」(あの美しい娘と向かい合って歌うによい)の意であることは明らかで、「与」の賓語が「彼美淑姫」であるように、「以」の賓語も「東門之池」だと言えるでしょう。
・糾糾葛屨、可以履霜。摻摻女手、可以縫裳。(魏風・葛屨)
(▼糾糾(きうきう)たる葛屨(かつく)、以て霜を履(ふ)むべし。摻摻(さんさん)たる女手、以て裳(しやう)を縫ふべし。)
(▽ぼろぼろの葛の靴、それで霜を踏める。かよわい娘の手、それでもすそが縫える。)
この例は、「摻摻女手」が「縫」の主体であることは明らかで、表現されていない何かではありません。
してみると、「履」の主体も「糾糾葛屨」とみるべきでしょうか。
なお、「糾糾葛屨、可以履霜」の句は、「小雅・大東」にも見えます。
・維南有箕、不可以簸揚。維北有斗、不可以挹酒漿。(小雅・大東)
(▼維南に箕(き)有り、以て簸揚(はやう)すべからず。
(▽南の空に箕星がある、それで糠を払い去ることはできない。北の空には北斗星がある、それで酒や水を酌むことはできない。)
「箕」が糠を取り去る農具、「斗」が飲料を酌む道具の名で、星の名に通じることからの趣向ですが、これも「箕」「斗」が主体と考えるべきでしょう。
・牂羊墳首、三星在罶。人可以食、鮮可以飽。(小雅・苕之華)
(▼牂羊(さうやう)墳首(ふんしゆ)、三星罶(りう)に在り。人以て食らふべし、以て飽くべき鮮(すく)なし。)
(▽牝羊は痩せて頭ばかりが大きく見え、三星は魚をとる仕掛けに映って輝く。人は食べることができるが、腹一杯になることはできない。)
極貧の民の生活を歌ったものですが、「食」の主体は「人」です。
この「可以」の「以」は、「そんな貧しさで」と、前に述べられた状況を指しているのでしょうか。
・他山之石、可以為錯。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て錯(さく)と為すべし。)
(▽よその山の石は、それを砥石にすることができる。)
・他山之石、可以攻玉。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て玉を攻(をさ)むべし。)
(▽よその山の石は、それで玉を磨くことができる。)
この2句、後者は人口に膾炙するものです。
いずれも「他山の石」は「為」「攻」の主体となりますが、特に前者「可以為錯」は、「以」が用いられ方によっては「それを」という意味を表しうることがわかります。
・泂酌彼行潦、挹彼注茲、可以餴饎。(大雅・泂酌)
(▼泂(とほ)く彼の行潦(かうらう)を酌み、彼に挹(く)みて茲(これ)に注ぐ、以て饎(し)を餴(ほん)すべし。)
(▽遠くからあの道にたまった水を汲み、大器に入れてまた小器に注ぐ、それで一度蒸した食べ物を水を加えてさらに蒸すことができる。)
この最後の部分は、繰り返して
・…、可以濯罍。
(▼…、以て罍(らい)を濯ぐべし。)
(▽…、それで祭事に酒を入れておく器を洗うことができる。)
・…、可以濯漑。
(▼…、以て濯漑すべし。)
(▽…、それで色々な祭器を洗うことができる。)
と歌われていますが、「餴」「濯」「濯漑」の主体は、汲んだ水でしょう。
こうして『詩経』の例を見ていくと、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)は、Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけでなく、むしろA、または前句を踏まえたAにあたる内容が、そのまま「以B」「以BC」に可であるという意味を表していることがわかります。
ちなみに、「A可以B」の形は、授業なんぞでは「可以」を1つの塊のようにとりあげて説明しがちで、「A+可以+B」の構造のように思っている先生も多いのではないかと思います。
しかし、少なくとも古代漢語においてはそうではなくて、これは「A+可+以B」と捉えなければなりません。
だから、Aは「以てBする」に可と言ったわけです。
Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけではないと述べたのは、たとえば、
・滄浪之水清兮、可以濯吾纓。(楚辞・漁父)
(▼滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。)
(▽滄浪の川の水が清らかであれば、私の冠のひもを洗うことができる。)
この「可以濯吾纓」は、清らかな滄浪の川の水が、「以濯吾纓」に可であるという意味です。
その「清らかな滄浪の川の水」がAですが、「濯吾纓」という実際の行為を行うのは洗う人です。
ですから、少なくとも「A可以B」の比較的古い用法においては、AはBの主体とはいっても、必ずしも動作行為を行う直接の主体であるとは限らないというわけです。
ここまで私があえて主語という言葉を避けてきたのは、主語とは何ぞやという部分での定義のズレが学者の中にあるためです。
今、一般に文頭に置かれた名詞成分が主語と言われますが、その意味ではAは主語といってもいいのかもしれません。
『詩経』の例を見ていて、さらに気づくことは、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)の「以」の賓語が何であるかが、ほぼ明瞭にわかるということです。
Aを受けて、「それを用いて」「それを理由に」「それを」「その状態で」など、AそのものやAの性質や事情が賓語の内容になっています。
その意味で、たとえば、「A可以B」が「Aは+『Aを用いて+Bする』に可である」という構造で、Bの客体がAになるということは、まず普通はないのではないでしょうか。
それゆえに、後の時代はともかくも、「A可以B」において、AがBの主体になるのが、もともとの用いられ方だったのではないかと思います。
ここで、前エントリーで紹介した『孟子』の例をもう一度見てみましょう。
・斉人伐燕。或問曰、勧斉伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕可伐与、吾応之曰、可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之、則将応之曰、為天吏則可以伐之。……
(▼斉人燕を伐つ。或ひと問ひて曰く、斉に勧めて燕を伐たしむること、諸(これ)有りやと。曰く、未だしきなり。沈同問ふ、燕伐つべきかと、吾之に応へて曰く、可なりと。彼然うして之を伐つなり。彼如(も)し孰(たれ)か以て之を伐つべきと曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、天吏たらば則ち以て之を伐つべしと。…)
(▽斉国が燕国を討伐した。ある人が孟子に尋ねて、「あなたは斉に勧めて燕を討伐させたそうだが、そういうことがありましたか」。孟子「そうとはいえないのである。沈同が『燕は伐ってもよろしいか』と問うたので、わたしはそれに答えて『よろしい』と言った。彼はかくして燕を伐ったのである。彼がもし『だれが燕を伐ってもよろしいか』といったならば、これに答えて『天命を受けた役人すなわち天子であったならば、これを伐ってもよろしい』と言ったであろう。……」。)
孟子が沈同の問いかけとして示した言葉は「燕可伐与」ですが、それに孟子は「可」と答えています。
読みようによっては孟子の言い訳にも見える部分ですが、孟子は「燕の国は伐つ(こと)について可であるか?」という問いかけに対して「可」であると答えたのです。
つまり、誰が伐つかについてはもともと問題にされない問いかけへの回答でした。
しかし「孰可以伐之」と問われていれば、これは、「誰が『その立場で』これを攻めるに可であるか」となりますから、沈同でも斉王でもなく天吏と答えていたろうという理屈です。
・有献不死之薬於荊王者。謁者操以入。中射之士問曰、可食乎。曰、可。因奪而食之。王怒、使人殺中射之士。中射之士使人説王曰、臣問謁者、謁者曰、可食。臣故食之。是臣無罪、而罪在謁者也。……(戦国策・楚四)
(▼不死の薬を荊王に献ずる者有り。謁者操(と)りて以て入る。中射の士問ひて曰はく、「食らふべきか。」と。曰はく、「可なり。」と。因りて奪ひて之を食らふ。王怒り、人をして中射の士を殺さしむ。中射の士人をして王に説かしめて曰はく、「臣謁者に問ふに、謁者曰はく、「食らふべし。」と。臣故に之を食らふ。是れ臣に罪無くして、罪は謁者に在るなり。……」と。)
(▽不死の薬を荊王に献上する者がいた。取り次ぎの役人が手に取って入った。中射の士が問うた、「食べられるか。」(取り次ぎの役人が)言った、「食べられる。」そこで(中射の士は)奪ってそれを食べた。王が怒り、人に中射の士を殺させようとした。中射の士は人に王に説かせて言った、「私が取り次ぎの者に問うと、取り次ぎの者は「食べてよい」と言いました。私はだからそれを食べました。これは私に罪はなく、罪は取り次ぎの者にあるのです。…)
「不死の薬」の逸話として有名な話で、『韓非子・説林上』にも同じ話が見える例です。
この話は、一般に中射の士の「可食乎」は「食べることができるか」という意味、謁者の「可食」は「食べてよい」の意に解釈されていて、「可」が可能と許可の意味をもつがゆえに成立する話になっています。
しかし、「食」の主体、すなわち「誰が食べるか」を問題にしない表現であったために成立するとも言えます。
中射の士はこの不死の薬が「食べる」に可であるかと問いかけ、「食べる」に可であると回答を得たと主張したのであって、「誰が」は問題にされていなかったからです。
もし中射の士が「可以食乎」と問いかけていたら、謁者はその主体が中射の士であると認識して、「不可」と答えていたはずです。
さて、ここからはあくまで私の推論になりますが、「A可B」のAがBの主体を表さず客体を表すのが本来であったとして、しかし実際に主体を表す例が見られるわけですが、Aが主体なのか客体なのかを明確にするには、「A可以B」の形式で表現するという方法があったのではないかと思うのです。
つまり、「A可B」の曖昧さを回避する表現として「A可以B」が用いられるようになった。
「A可以B」は、後に述べるように、「以」の賓語が何であるか特定しにくい例も見られるようになるのですが、それでも「可以」の形をとることで、Aが主体であることを明確にすべく機能したのではないかと思うのです。
一般に「可以」の「以」は虚化されて具体的な意味がないことが多いと説明されます。
太田辰夫『中国語歴史文法』(朋友書店2013)にも「しかしながら《以》の意味のほとんどみとめられないものも古代にある。」と述べられています。
岩波文庫の『荀子』(金谷治,岩波文庫1961)の「勧学篇」冒頭が、「君子曰わく、学は已むべからず。」と「以」を不読にしているのも、そうした判断に基づくものでしょうか。
・弱固不可以敵強。(孟子・梁恵王上)
(▼弱きは固より以て強きに敵すべからず。)
(▽弱いものはもちろん強いものに敵対できない。)
この例なんかは、拙著では「『以』の前置詞としての働きは明らかにすでに虚化されていて、『可』単独と同じ意味を表していると考えたほうがよい」などと不用意に述べているのですが、「弱いものは、もともと『その弱さゆえに』強いものに敵対できない」と解することができなくもありません。
しかし、確かにこの「以」の意味をこれと特定しにくい例はたくさんあります。
・二三子可以賀我矣。(国語・晋語五)
(▼二三子以て我を賀すべし。)
(▽あなた方は私を祝ってくれるがよい。)
たとえばこの例の場合は、「以」の意味をあえて入れれば、「あなた方は『その立場で』私を祝ってくれるがよい」とでも補うしかないでしょうか。
しかし、それはかなり無理があります。
そもそもこのような場合に「以」を用いる意味はどこにあるかと考えてみれば、あるいは先に述べたように「A可以B」のAがBの主体を表すという本来の働きを利用したものではないでしょうか。
ここまでの推論をまとめると、「A可B」は原則としてAがBの客体を表す表現であるが、主体と解さざるを得ない実例が見られる。
それは、「A可B」のAが必ずしもBの客体を表すと限定されないものとしての用法もあったことを示す。
一方、「A可以B」はもともと「以」がAもしくはAの性質や事情を賓語とするために、一般にAはBの主体を表す表現であった。
「A可B」がもともと主体が何かを示す表現ではないためにもつ曖昧さを回避するために、主体がAである時は「A可以B」の表現をするようになった。
これはあくまで推論に過ぎないし、そしてそう言い切ってしまえるなら楽なのですが、実はまだよくわからないのです。
そもそもこのエントリーの初めに触れた次の言葉、
・学不可以已。(荀子・勧学)
(▼学は以て已(や)むべからず。)
(▽学ぶことはやめてはいけない。)
「学」は「已」の対象ではないでしょうか?
・由此観之、学不可已、明矣。(淮南子・脩務訓)
(▼此に由りて之を観れば、学の已むべからざること、明らかなり。)
(▽このことから考えると、学問のやめてはいけないことは、明らかである。)
この例にも見られるように、「学問はやめてはならない」なら、「学不可已」となるべきはずではないでしょうか。
「学、人不可以已」(学問については、人はやめてはいけない)の「人」が省略されたものだと説明することもできないわけではないようにも思えますが。
しかし、そのような曖昧なことでは、先の推論は根底から崩れてしまうことになります。
「可」と「可以」… いよいよもってわからない、それが正直な気持ちです。