(内容:高校生向けの漢文法解説「これならわかるぜ!ためぐち漢文」(漢文の基本構造編)をページにアップしたことの告知。)
長らくお待たせしておりました。
少しでも読みやすくしようと、ためぐちで書いた『これならわかるぜ!ためぐち漢文 ――漢文の構造をわかりやすく知りたい君へ―― 漢文の基本構造編』の改訂を済ませ、本日アップしました。
サイドメニューのページよりご参照ください。
手元に置いて読みたいとか、授業で使ってみたいという方が、もしおられましたら、ご連絡を頂ければ、印刷可能版を提供させていただきますので、お気軽にご相談ください。
もちろん、拙著『真に理解する漢文法』と同様、一切料金は頂戴しませんので、ご安心ください。
なお、『ためぐち漢文』の句式編の方は、まだこれから執筆の部分が多いので、1つの章が完成するごとに、随時アップしていく予定です。
気長にお待ちください。
(内容:現在主流の古典中国語文法で、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあると説かれることについて、疑問を呈する。)
拙著の改訂に伴い、生徒向けにいわゆる「ためぐち」で書いた『ためぐち漢文』の改訂も進めています。
最初に書いたのは、もういつだったか…と思うほど昔で、読み返してみれば、あちこち今の自分の考え方や、納得のいく説明とは食い違っています。
拙著『真に理解する漢文法』の後記にも述べたように、「いわば熱病のように古典中国語文法を独学し」た時期に書いたものですから、中国の語法学の受け売りであったわけです。
ですが、同じ後記に続いて述べているように、「熱病が覚めゆくにつれ、旧著の内容に疑問を感じたり、明らかに誤ったものに気づきもした」という今の自分から見れば、中国の定説も、もはや鵜呑みにすることはなくなり、まずは疑ってみるようになりました。
必然的に、自分が書いたものでも、おかしいと思ったものは、そのまま放置できず、訂正しようという思いに駆られます。
読んで頂く方からすれば、記述に責任をもたない無責任な態度に思われるかもしれず、申し訳ないのですが、学び続ける姿勢としては間違っているとは思いません。
ネットを通じて、おかしなことを書いているぞと指摘していただくこともあり、感謝の念に堪えません。
私にはそれは決して批判には思えない、ありがたいご教示だと思わずにはいられません。
真実を追いかけていくことは、本当に楽しいことですから。
さて、前置きが長くなりましたが、その『ためぐち漢文』を改訂していて、あれ?と思った記述があります。
否定副詞のくだりで、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあるという説明です。
「莫」が本来無指代詞であるということを述べた後に、次のように書いています。
諸将皆莫信。
▼諸将皆信ずる莫し。
▽諸将はみな信じなかった。
この「莫」が無指の代詞ではないってのがわかるかい? だって、「皆」は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか。つまり「諸将はみんな信じなかった」ってことであって、「莫」は「皆」とともに述語の中心語「信」を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。無指の代詞というよりは、「不」に近い働きの副詞として機能してるってことだな。
自分で書いたものでありながら、これが「あれ?」と思わせたわけです。
何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「莫」の代詞の項とは別に副詞の項を設け、さらに禁止とは別に否定の副詞として次のように述べられています。
(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。如:
(1)令其裨将传飧,曰:“今日破赵会食!”诸将皆莫信,佯应曰:“诺。”
――(韩信)令他的副将通知部队先稍微吃些食物,说:“今天打垮了赵军再会餐!”将领们都不相信,假意答应道:“好!”
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。たとえば:
(1)彼の副将たちに部隊はまず少しばかり食事をとるように伝えさせ、「今日、趙を破って改めて会食しよう」と言った。将校たちはみな信じず、偽って「はい」と答えた。)
これに先行する韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』にも同様の記述と例があります。
しかし、今あらためて自分の書いたことを読み返してみると、やはりおかしなことを書いていると思えてきます。
問題を感じる点は2つあって、まず1つは「皆」の説明です。
「『皆』は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか」のくだりです。
理屈の上では、通常副詞は謂語を連用修飾するので、これでもいいように見えますが、「皆」という副詞の独特の働きを度外視しています。
西田太一郎氏の『漢文の語法』(角川書店1980)に、副詞「皆・尽・悉・独」の項として、興味深いことが書かれています。
ここでは副詞の働きのいささか特徴的なものについて述べる。どのようなことを問題にするかというと、日本語でたとえば「これらの生徒がみな饅頭を食べてしまった」とあると、「生徒がみな」か「饅頭をみな」かわかりにくい場合があり、それと同様の現象が漢文にも見られることである。
として、「皆」が、「行為者の主語に関係している」場合と、「行為の賓語(目的語)に関係している」場合の2つがあることを例を挙げて説明しています。
「諸将皆莫信」の場合、「諸将はみな」すなわち「全部の諸将が」と、行為の主語に関係している例になり、よもや賓語に関係して「全てのことを信じる」の意味ではないでしょう。
してみると、「ためぐち」の「つまり『諸将はみんな信じなかった』ってことであって、『莫』は『皆』とともに述語の中心語『信』を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。」という記述は、誤解を招く表現だというより、そもそも当時の私が強引に論じたか、わかっていなかったかのどちらかであったろうと思うのです。
これは「諸将皆」であっても、あくまでも意味的に「諸将のすべてが」だからです。
次に、「無指の代詞というよりは、『不』に近い働きの副詞として機能してるってことだな」の部分です。
今あらためて「諸将皆莫信」について考えをめぐらすと、おや?と思えてきます。
有名な次の一節、
・左右皆泣、莫能仰視。(史記・項羽本紀)
(▼左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。
▽側近達はみな泣いて、誰も仰ぎ見ることができなかった)
この例は、中国の主流の語法学や、それにもとづく日本の辞書、語法書は「莫」を無指代詞とするのでしょうか?それとも否定副詞「不」に同じとするのでしょうか?
おそらく無指代詞と解するのだと思いますが、それではこの文を次のように書き改めて、
・左右皆莫能仰視。
とすれば、とたんに否定副詞「不」と同じになるのでしょうか?
この文は「諸将皆莫信」とほぼ同じと考えてよいと思うのですが。
「天下」を限定された話題の内容である主語、すなわち主題主語として、その中に属する(存在しないのですが)「莫」を主語とする主謂構造(主述構造)が謂語(述語)になるという点では、この文も変わらないと思います。
つまり、「左右のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として、「存在しない人が仰ぎ見ることができる」という主謂謂語だと説明されるなら、「諸将のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として「存在しないひとが信じる」と説明して、何の矛盾も起こりません。
「諸将皆莫信」は、「諸将のみなは、存在しない人が信じる」すなわち「諸将のみなは、誰も信じなかった」で、何かおかしいのでしょうか?
「天下莫能当也」の「莫」は無指代詞、「左右皆泣、莫能仰視」の「莫」も無指代詞だが、「左右皆莫能仰視」の「莫」は否定副詞「不」、「諸将皆莫信」も否定副詞「不」だというのなら、いったいどうやって区別すればいいんだ!と叫びたくなります。
というよりも、私にはこれらの「莫」はみな同じであって、「不」と同じとする説の方が疑わしく思えます。
以前のエントリーで、「莫」がもともと「毋或」「無或」の2音の合音であることに、その本質があるとする鈴木直治氏の見解を紹介しました。(「古代漢語における否定詞について」1975)
「天下莫能当也」は、「天下に、[不定のある者が対抗できること]がない」から「誰も対抗できない」の意になるのでしょうし、「諸将皆莫信」は、「諸将のみなに、[不定のある者が信じること]がない」から「誰も信じない」という意味になるのだと思います。
「莫」を「不」と同じと説明するのは、またぞろ状況から合理的に説明できるからという危険な行為のように思えてきます。
「ためぐち漢文」の該当箇所は、一応「莫」を無指代詞とする説に従って、次のように書き改めたいと思います。
この「莫」が無指の代詞とすると、ちょっとアレ?って思うだろ?
これは「諸将はみんな信じなかった」ってことだよな?
つまり意味的に「諸将皆不信」と考えて、現在主流の古典中国語文法ではこういう「莫」は「不」と同じ否定副詞だと説くんだよ。
日本の漢和辞典にもそう書いてるのがある。
あるいは正しい説明なのかもしれんが、最近ためぐち先生は、ちょっと懐疑的だ。
その方が説明しやすいからという合理的な解釈のような気がするんだよ。
そこでひとつ私見を述べておくことにしようかな。
「皆」が主語に関係することがあるというのは前に述べたよね、この「諸将皆~」は、「みなの諸将が」ってことさ。
「莫信」は、「存在しない人が信じる」つまり「誰も信じない」ってことだろ?
だったら、「諸将はみな、誰も信じなかった」で、別にいいんじゃない?
わざわざ「莫」を「不」と同じと論じる必要があるのかね。
と、まあ、そんなふうに思うわけだ。
ただ、現在の学説がそういう方向にあることは示しておくよ。
一度書いたことと、180度違うことを書く、こういうのを無責任というのかもしれませんが、やはり改めたいと思います。