(記事削除・5)
- 2016/08/31 15:16
- カテゴリー:その他
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2016年08月の記事は以下のとおりです。
(内容:「画竜点睛」に見られる兼語文について述べるとともに、原文の解釈をする。)
「画竜点睛」の故事は、教科書などにもよく採られるエピソードです。
先日、こんなことを質問して来た人がありました。
「武帝崇飾仏寺、多命僧繇画之。」の「之」の指示内容は何ですか?
「僧繇に命じて彼に描かせた」と訳されて、「之」が僧繇を指すと授業で教わったんですが、違うんじゃないかと思うんです。
だってこの文は兼語式の文ですよね?
この人の指摘は正鵠を射ていて、実に驚きました。
なるほど「多く僧繇に命じて之に画(ゑが)かしむ」という訓読だけを見れば、「彼(=僧繇)に描かせた」とも解釈できるのですが、指摘通りこの文は兼語式の文ですから、漢文の構造的には「之」が僧繇ではなく、仏寺を指すことは明らかです。
つまりこういうことです。
(武帝)命僧繇。 (武帝)僧繇に命ず。→(主語)+述語(命)+賓語(僧繇)
僧繇画之。僧繇之に画く。 →主語(僧繇)+述語(画)+賓語(之)
前の文の賓語「僧繇」が次の文の主語になり、賓語と主語を兼ねるので兼語といい、この2つの文が1つになったのが原文です。
このような文のことを兼語式の文(兼語文)といい、いわゆる使役の形はこの構造をとります。
後の文「僧繇画之」を見れば、僧繇が僧繇に描くことなどあり得ないのですから、「之」が僧繇を指すと授業で取り扱われたことが、構造的に誤りであることは明白です。
漢文を語法的に理解するということの大切さと、疑問を抱いた人がそれをきちんと身につけていることへの驚きに、しばらく言葉もありませんでした。
語法を理解せずに「日本語」感覚で漢文を取り扱うことの危険性がここにあります。
さて、これがきっかけで、この画竜点睛のお話が、原典ではどのように書かれているのか興味をもちました。
そこで原典の『歴代名画記』のちょっとあたってみたところ、なかなかおもしろいお話でしたので、下記引用します。
ご参考までに。
【原文】
張僧繇、呉中人也。天監中、為武陵王国侍郎、直秘閣。知画事、歴右軍将軍・呉興太守。
武帝崇飾仏寺、多命僧繇画之。時諸王在外、武帝思之、遣僧繇乗伝写貌。対之如面也。
江陵天皇寺、明帝置、内有栢堂、僧繇画盧舍那仏像及仲尼十哲。帝怪問、「釈門内、如何画孔聖。」僧繇曰、「後当頼此耳。」及後周滅仏法、焚天下寺塔、独以此殿有宣尼像、乃不令毀拆。
又、金陵安楽寺四白龍不点眼睛。毎云、「点睛、即飛去。」人以為妄誕、固請点之。須臾、雷電破壁、両龍乗雲、騰去上天。二龍未点眼者見在。
初、呉曹不興図青谿龍、僧繇見而鄙之、乃広其像於武帝龍泉亭、其画草留在秘閣。時未之重。至太清中、雷震龍泉亭、遂失其壁、方知神妙。
又、画天竺二胡僧、因侯景乱、散坼為二。後一僧為唐右常侍陸堅所宝。堅疾篤、夢一胡僧告云、「我有同侶離坼多時、今在洛陽李家。若求合之、当以法力助君。」陸以銭帛果於其処購得。疾乃愈。劉長卿為記述其事。張画所有霊感、不可具記。(以下略)
【書き下し文】
張僧繇は、呉中の人なり。天監中、武陵王国の侍郎と為り、秘閣に直(あ)たる。画事を知り、右軍将軍・呉興太守を歴たり。
武帝仏寺を崇飾し、多く僧繇に命じて之に画かしむ。時に諸王外に在り、武帝之を思ひ、僧繇を遣はし伝に乗り貌を写さしむ。之に対ふに面するがごときなり。
江陵の天皇寺は、明帝置くに、内に栢堂有り、僧繇盧舍那仏像及び仲尼十哲を画く。帝怪しみ問ふ、「釈門の内に、如何ぞ孔聖を画く。」と。僧繇曰はく、「後に当に此に頼らんのみ。」と。後周仏法を滅ぼし、天下の寺塔を焚くに及び、独り此の殿に宣尼の像有るを以て、乃ち毀拆せしめず。
又た、金陵の安楽寺の四白龍は眼睛を点ぜず。毎に云ふ、「睛を点ぜば、即ち飛去せん。」と。人以て妄誕と為し、固く之に点ぜんことを請ふ。須臾にして、雷電壁を破り、両龍雲に乗じ、上天に騰去せり。二龍の未だ眼を点ぜざる者は見に在り。
初め、呉の曹不興青谿龍を図くに、僧繇見て之を鄙しみ、乃ち其の像を武帝の龍泉亭に広げ、其の画草は秘閣に留む。時に未だ之を重んぜず。太清中に至り、雷龍泉亭を震はし、遂に其の壁を失ひ、方に神妙なるを知る。
又た、天竺の二胡僧を画くに、侯景の乱に因り、散坼して二と為る。後に一僧は唐の右常侍陸堅の宝とする所と為る。堅疾篤きとき、一胡僧を夢み、告げて云ふ、「我に同侶の離坼すること多時なる有り、今洛陽の李の家に在り。若し求めて之を合せば、当に法力を以て君を助くべし。」と。陸銭帛を以てし果たして其の処に於て購ひ得たり。疾乃ち癒ゆ。劉長卿為に其の事を記述す。張の画の有する所の霊感は、具に記すべからず。(以下略)
【口語訳】
張僧繇〔南北朝時代、南朝梁の人〕は、呉中〔現在の江蘇省蘇州市〕の人である。天監年間〔西暦502年 - 519年〕、武陵王〔梁の初代皇帝武帝の第八男〕国の侍郎〔官名。秘書官のようなもの〕となり、秘閣〔宮中の書庫〕に勤務した。絵画のことをつかさどり、右軍将軍〔天子の三軍のうち右の将軍〕・呉興の長官を歴任した。
武帝〔南朝梁の初代皇帝〕は仏寺を崇拝して美しく飾ったが、多く僧繇に命じてこの寺々に絵を描かせた。この当時、武帝の諸王〔王子たち〕は地方を治めており、武帝は彼らのことを思い、僧繇を派遣して駅伝の馬車に乗って(諸王のもとへ行かせ諸王の)顔を写生させた。(武帝が)この肖像画に向かうとあたかも直接対面しているかのようであった。
江陵〔現在の湖北省南部〕の天皇寺は明帝〔前王朝斉の第五代皇帝〕が創建したが、その中に栢堂がある。僧繇は(その壁に)盧舎那仏〔毘盧遮那仏の略〕の像、孔子とその十哲(の絵)を描いた。武帝が不思議に思い、「仏教の寺の中に、どうして孔子の絵を描くのか。」と尋ねると、僧繇は「いずれこの絵に頼ることになるでございましょう。」と言った。後周〔南北朝時代北周のこと。ここでは第三代武帝の時。道教と仏教を禁じた〕が仏法を滅ぼし、天下の寺塔を焼き払った時に、ただこの仏殿に孔子の像があったがために、(北周武帝は)取り壊させなかった。
また、金陵〔現在の南京の古称〕の安楽寺の四白龍(の絵)は、ひとみを描き入れなかった。(僧繇は)常々、「ひとみを描き入れれば、すぐに飛び去ってしまうだろう。」と言っていた。人々はそれをでたらめだとして、強くひとみを描き入れるよう求めた。(僧繇が白龍の二つにひとみを描き入れると、)しばらくして雷電〔かみなりと稲妻〕が壁を壊し、二体の龍は雲に乗って大空へ躍り上がった。二体のまだひとみを描き入れないものは、今も(安楽寺に)ある。
その昔、呉の曹不興〔三国時代呉の人。画人として知られる〕が青谿龍を描いたが、僧繇は見てそれを見下し、そこでその龍の姿を武帝の龍泉亭に拡大し(て描き)、その画稿は秘閣〔宮中の書庫〕に留め置いた。時の人々はまだこの絵を重く見なかった。太清年間になり、雷が(落ちて)龍泉亭を震わせたことで、その壁を失うことになり、やっと(僧繇の青谿龍の)人知を越える不思議な力を知ることになった。
また、インドの二人の僧侶を描いたが、侯景の乱〔西暦548年,南朝梁の武帝の治世において、南予州刺史の侯景がおこした反乱〕により砕き裂かれて二つとなった。後に一断片の僧侶は唐の右常侍〔天子の側近〕である陸堅に宝蔵された。陸堅は病気が重篤であった時、(その病床で)一人のインド僧の夢を見たが、(この僧が夢の中で、)「私には共にする僧侶がいたが、長い間離ればなれになっており、(彼は)今、洛陽の李の家におります。もし探し出して(元の通り)合していただければ、きっと法力によりあなたをお助けしましょう。」と言った。陸堅は金銭絹織物により本当にそこで〔=インド僧が夢で告げた場所で〕買い取ることができた。病気はそこではじめて癒えた。(後にこの絵の所有者となった)劉長卿がそのことを記述している。張僧繇の絵がもつ霊感は詳しく書くことができない。
いかがだったでしょう?おもしろいお話ですよね。