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2021年12月の記事は以下のとおりです。

江戸の学者は「不亦~乎」をどう捉えていたか?

(内容:「不亦~乎」の形を、江戸時代の学者がどう捉えていたかを調査する。)

いつの頃からか、漢字の字義や用法を考える時、中国の研究書や虚詞詞典の記述をそのまま信じることがなくなってきました。
まず疑ってかかるというのは、失礼な言い方なのかも知れませんが、少なくとも自身の思考の裾野を拡げる努力をするべきだと思うようになったからです。
代表的な虚詞詞典などに断定的に書かれていることが、実はきちんと原典にあたって調べ直すと、実に怪しいということが多いのです。
その意味で、この頃は、たとえば1つの漢字の字義についても、なるべくどのように考えられてきたかという流れを意識します。
そして、江戸期の学者たちの研究にも目を向けることが頻繁になりました。
幸いにして、汲古書院が出している『漢語文典叢書』がありますので、簡単にその叡智に触れることができます。

今回は「不亦~乎」の意味について、江戸の学者たちがどう考えていたのか見てみました。

河北景楨『助辞鵠』(天明6年(1786))で次のように述べています。

○亦 総也又也又旁及之詞ト注ス
物二ツアルヲ此モソレナリ彼モ亦ソレナリト云ヤウナル處ニ亦ヲ用ウルヿ辨ズルニ及ハズ自明ナリ
ソレモコレモト云ズシテタヾ何トナク汎フ惣体ヨリ及シテ亦ト云アリ
此レ旁及之詞ナリ
旁及ハ覃被也ト注ス
亦ノ本義総也ト云ヲ助字ニ用タルナレハ惣体ヨリ旁子ク及フノ義也
此ノ亦ノ字ノマタニ限リテ旁及之辞ト注スルヲヨリ心得ベシ
タトヘバ又復ナドノマタハ竪ニイヒタル如シ
亦ハ旁及之詞ト云ハ竪ニモ横ニモ泛ク及シ云ヘル詞ト云ヿ也
此意ヲ得ザルユヱ下ニ引ケル諸書ノ亦ノ字ニ至テ窮スルヿ多シ
論語ノ不亦説乎ヲ悦ブヘキ事ハ多ケレド此モ亦説シト云ヤウニ心得或ハ我悦シイホドニ汝モ亦説カラント云ヤウニ心得ルハ殊テ聖人ノ語意ヲ失フモノ也
此ハ全体学習ノ説ヲ得タル人ノ上カラ仰ラレシ亦ノ字也
設令ハ月ヲ見花ヲ詠〆至極面白フ思フヨリ情ト共ニナント亦面白イデハナイカヤト云亦ノ如シ
且説フベキヿ多ケレトコレモ亦説シカラズヤ又我カ説キホドニ汝モ亦説シカラズヤナトト云意ナラハ亦ノ字重シ
サラバ亦不其説乎ナンドト亦ノ字不ノ上ニ在ヘシ
今不亦トアレハ不ノ字重ク亦ノ字軽シ
コレヲ以テモ辨フヘシ
又或人ノ訣ニ不亦ト用ウルハ下ノ乎字ニ応シテ反語トナルト云モ疎ナル説ナリ
反語トナルハ不ト乎ト應スル處ニアリ
亦字ニハカカラヌヿ也
此マタ客主ノ用法ヲ知ラザルモノ也
孟子ニイフ周公之過不亦宜乎モ周公デモ亦過ハアルハズト落シツケテ云タル語意ニハ非ズ
カカル餘義ナイ處カラ出タルヿナレハ周公ノ過タマヘルハナント尤ナヿデハナイカト云ヿ也
語孟トモ亦ノ字婉ナルヿ味ヘシ
論語ノ知和而和不以礼節之亦不可行也ヲ朱注ノ如ク解スレバコノ亦ノ字不通ト疑フ人アルモ皆亦ノ字ヲ急促ニ心得ルヨリ過ツナリ
劉向新序ニ楚王問羣臣曰吾聞北方畏昭奚恤亦誠何如ン
コレモ楚王ノ心ニ彼レハ敵軍ニモイカニモ畏ルベキ者ト思ヘルヨリ何ント亦誠ニ畏ルヽヤト問ヘル也
詩周頌ノ章ノ首ニモ有客有客亦白其馬
魏ノ世家田子方カ亦貧賤者驕人耳
又列子ニ常勝之道曰柔不常勝之道曰強二者亦知而人未之知
大雅豊年ニ多黍多稌亦有高廩
コレ等皆同シ
彼ト比並シテコレモ亦ト云ハ語意急促ナリ
此等汎ク惣体ノ上ヨリ云亦ユヱ語意緩婉ナリ
サレバトテ別義ニハ非ラズ
…上記「〆」の字は「シテ」と読む片仮名のフォントがないために便宜的に用いている
(「亦」は「総(すべて)」であり、「又(また)」であり、また「旁及のことば」と注する。
物が二つあるのを、これもそれだ、あれもまたそれだと言うようなところに「亦」を用いることは、述べるまでもないことで、自明である。
これは「旁及のことば」であり、「旁及は覃被(広く及ぼす)である」と注する。
「亦」の本義「総である」というのを、助字に用いたのであるから、「全般的に考えた上からあまねく及ぶ」の意味である。
(「また」と読む字は他にもあるが …中井補)この「亦」の字の「また」に限って「旁及のことば」と注するのを、より理解しなければならない。
たとえば、「又」「復」などの「また」は縦にいったようなものだが、「亦」は「旁及のことば」というのは、縦にも横にも広く及ぼし言ったことばということである。
この意味を理解しないから、後に引用する諸書の「亦」の字に、きわめて行き詰まることが多い。
『論語』の「不亦説乎」を、「悦ぶべきことは多いが、これも亦た悦ばしい」というように理解したり、あるいは、「私が悦ばしいのだから、あなたも亦た悦ばしいだろう」というように理解するのは、すべて聖人の言葉の意味を失うものである。
これは、もともと学習の喜びを得た人の立場からおっしゃった「亦」の字である。
たとえば、月を見たり花を詠じて、とてもおもしろく思うから、情とともに、なんと亦たおもしろいではないかという「亦」のようなものだ。
かつ、「悦ぶべきことは多いが、これも亦た悦ばしいではないか」、また、「私が悦ばしいのだから、あなたも亦た悦ばしいではないか」などという意味なら、「亦」の字は重い。
それなら、「亦不其説乎」などと、「亦」の字が「不」の上にあるべきだ。
今、「不亦」とあるから、「不」の字が重く、「亦」の字は軽い。
このことからも判断することができる。
また、あるひとの訣に、「『不亦』と用いるのは、下の『乎』の字と呼応して反語となる」というのも、愚かな説である。
反語となるのは、「不」と「乎」が呼応するところにある。
「亦」の字には関係しないことである。
『孟子』に「周公之過、不亦宜乎」(▼周公の過つは、亦た宜ならずや)というのも、周公でも亦た過ちはあるはずと、結論づけていった語意ではない。
こんなどうしようもないことから出たことであるから、周公が失敗なさったのは、なんともっともなことではないかということである。
『論語』『孟子』のどちらも、「亦」の字がゆるやかであることを味わうべきだ。
『論語』の「知和而和、不以礼節之、亦不可行也」(▼和を知りて和するも、礼を以て之を節せざれば、亦た行ふべからざるなり)を、朱注のように解釈すると、この「亦」の字は通じないと疑う人があるが、みな「亦」の字をせっかちに理解することから間違うのである。
劉向の『新序』に「楚王問群臣曰、吾聞北方畏昭奚恤、亦誠何如」(▼楚王群臣に問ひて曰はく、吾北方の昭奚恤を畏ると聞く、亦た誠に何如と)とあるが、これも楚王の心に、彼は敵軍にも、なんとも畏るべき者と思っていることから、なんと亦た本当に畏れているのかと問うたのである。
『詩経・周頌』の章の初めにも、「有客有客、亦白其馬」(▼客有り客有り、亦た其の馬を白くす)とある。
『史記・魏世家』に、田子方が「亦貧賤者驕人耳」(▼亦た貧賤の者人に驕るのみ)と。
また、『列子』に、「常勝之道曰柔、不常勝之道曰強、二者亦知而人未之知」(▼常に勝つの道柔と曰ひ、常には勝たざるの道強と曰ふ、二者亦た知りて人之を知らず)と。
『詩経・大雅・豊年』に、「多黍多稌、亦有高廩」(▼黍多く稌多し、亦た高廩有り)と。
これらはみな同じである。
かれとこれとを並べて、これも亦たというのは、語意がせっかちである。
これらはすべて全般的に考えた上からいう「亦」だから、語意はゆるやかである。
だからといって別の意味ではない。)

江戸期の言葉遣いはよくわかりませんので、読み誤っているところがあるかもしれませんが、訳をつけてみました。
「月ヲ見花ヲ詠〆テ」の部分、「〆」(シテと読む片仮名フォントがないので便宜的に用いている)の後に「テ」があるのが不明です。
意味自体は「詠じて」だと思いますが、読みについてご教示いただければ幸甚です。

さて、「亦」が「旁及之詞」(旁及之辞)であるというのは、明末の張自烈による『正字通』に記載が見えます。
江戸期の学者は「亦」の字義を、この「旁及之詞」を基本において考えたようです。
しかし、その「旁及」の捉え方には幅があり、河北景楨の痛烈な批判にそれが見えています。
「論語ノ不亦説乎ヲ『悦ブヘキ事ハ多ケレド、此モ亦説シ』ト云ヤウニ心得、或ハ、『我悦シイホドニ汝モ亦説カラン』ト云ヤウニ心得ルハ、殊テ聖人ノ語意ヲ失フモノ也」というのは、おそらく次の荻生徂徠の解釈に対する批判でしょう。

『助辞鵠』よりさかのぼること、およそ60年前に、『訓訳示蒙』で、荻生徂徠は次のように述べています。

「亦」ハ「又」ノ字ト異ナリ。
「モマタ」ト意得ルヿ、古来ノ説ナリ。
但シ、「マタ」ノ仮名ヲ除キ、「モ」トバカリ意得ベシ。
華語ノ「亦」ノ字ハ、下ヘツキテ、倭語ノ「モ」ノ仮名ハ、上ヘツク。
夷夏語脉ノ異(タガヒ)ナリ。
「旁及之辭(バウキウノコトバ)」ト註セルモ、「モ」ノ意ナリ。
コレガカウアツテ、コレマデモカウアルト云フハ、「旁(カタハラ)マデ引(ヒキ)ヲヨボシタル義」ナリ。
倭歌(ワカ)ノ家ニ「モ」ヲ同心(トウシン)ノテニヲハト云フモ、此ノ意ナリ。
「不亦説乎」「不亦好乎」「不亦然乎」、此等ノ「不亦」ノ二字、世人多クハ解シ得ザルナリ。
「亦」ハ「モ」ト譯シ、「旁及之辞」ト註シタルヿヲ、能ク覚ヘテ、サテ「亦不」「不亦」ト、上下ノ置キヤウニテ、違フ意ヲ、能ク合点𬼀 ミレバ、能クスムナリ。
「旁及辭」ト云フ寸ハ、正(セイ)ト旁(ハウ)トヲ立テヽミルベシ。
假リニ論語「学而時習之不亦説乎」ト云フヲ以テイハヾ、此語ハ孔子ノ学者ニ示サレタル語ナリ。
故ニ孔子ヲ正ニ、学者ヲ旁ニ〆看ルナリ。
「我嘗学而時習之 則説故汝亦当学而時習之 不是汝心説乎(ヲレガ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレテ ミタレバ ヲモシロイホドニ ヲミモ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレヤレ ヲミノココロ モ ヲモシロイ デハ ナイ カヤ)」、是ノ如クミルベシ。
「吾既説汝不亦然乎(ヲレハ ハヤ オモシロイ ヲミ モ ソフデハ ナイ カ)」、是ノ如ク「説」ノ字ヲ上ヘ、ヌキダヒテ、下ノ「説」ノ字ノ處ヘハ、「然」ノ字ヲ、入カヘテ、ヨクスムナリ。
又、テミヂカニイヘバ、「説不亦乎(ヨロコブコト モナラズヤ)」、此ノ意ナリ。

(亦は又の字とは異なる。
「もまた」と解釈できることは、古来の説である。
ただし「また」の仮名を除いて、「も」とだけ解釈できる。
中国語の「亦」の字は下について、和語の「も」の仮名は上につく。
日本と中国の語と語の続き具合の違いである。
「旁及の辞(ことば)」と注しているのも、「も」の意味である。
これがこうあって、これまでもこうあるというのは、「傍らまで引き及ぼした意味」である。
和歌の家に「も」を同心のテニヲハというのも、この意味である。
「不亦説乎」「不亦好乎」「不亦然乎」、これなどの「不亦」の二字は、世の人の多くは解釈できない。
「亦」は「も」と訳し、「旁及の辞」と注してあることをよく覚えて、そして「亦不」「不亦」と、上下の置き方で、違う意味であることを、よく納得してみれば、よく理解できるのだ。
「旁及の辞」という時は、正と旁とを立ててみるとよい。
かりに論語の「学而時習之不亦説乎」という例で説明すると、このことばは孔子が学者に示されたことばである。
だから、孔子を正にして、学者を旁にして見るのだ。
「私が学んで時々それをしなれてみたらおもしろいから、あなたも学んでときどきそれをしなれなさい。あなたの心もおもしろいではないか」。このように見るがよい。
「私はすでにおもしろい、あなたもそうではないか」。このように、「説」の字を上へ抜き出して、下の「説」の字のところには、「然」の字を入れ替えて、よく理解できるのだ。
また、てみじかにいえば、「よろこぶこと『も』ならずや」、この意味である。)

徂徠の「不亦説乎」の解釈はおもしろいのですが、しかし本当にそういう意味だろうか?と、確かに疑問に感じます。
「不亦~乎」の形ではありませんが、『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」を、「古の聖王がそうであるように王もまた仁義があるばかりです」と解釈する教科書や参考書がありますが、それに近い考え方のようにも思えます。

『助辞鵠』は、さらに「或人ノ訣ニ、『不亦ト用ウルハ、下ノ乎字ニ応シテ反語トナル』ト云モ疎ナル説ナリ」と、「不亦」が「乎」と呼応して反語になるとする説を批判しています。
これは定かではないのですが、さかのぼること80年以上も前の伊藤東涯の説に対するものではないかと思います。
伊藤東涯は、『操觚字訣』という書を著していますが、そこには反語の記述はなく、『用字格』の方にそれらしい記述がありました。

不亦ハ不其不既ト同キヿニテ下ニ乎字ノ應アリテ不亦樂乎タノシムト云意ナリ
ソノ餘何レモ此通リナリ
亦不ハキコユル通リ解ニヲヨハズ

(「不亦」は、「不其」「不既」と同じことであって、下に「乎」の字の呼応があって、「不亦楽乎」、楽しむという意味である。
その他は、どれもこの通りである。
「亦不」は、聞こえるとおりで、解釈に及ばない。)

『助辞鵠』の批判がこれを指しているなら、この批判は当たらない。
伊藤東涯は、何も「不亦」が「乎」と呼応すると言っているのではなくて、「不其~乎」「不既~乎」などと同じで、「不亦~乎」は反語の形をとって、その実、「亦~」の意味であると述べているわけですから。


それにしても、江戸期の学者たちが、字義の真実をめぐって、(もちろん時代は離れているのですが)議論を戦わしているのは、敬服すべきことです。
「不亦~乎」は「なんと~ではないか」と感嘆・詠嘆で訳す習慣になっているなどと、いいかげんなことでは済ませない姿勢が、今の時代にもほしいものです。

私は、「惣体ヨリ旁子ク及フノ義」と捉えた河北景楨の解釈を、「亦」の働きを考えていく上で、意味があるように思えています。
ただ河北景楨が、「なんと亦~ではないかや」と解しているのがひっかかります。
そもそもこの形を「なんと~ではないか」と訳した最初の人は誰なのでしょうか?

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