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2019年11月の記事は以下のとおりです。

「耳」は推量の語気を表すか?

(内容:文末に用いられる語気詞「耳」について、一部の漢和辞典が中国の虚詞詞典に基づき、推量の語気を表すと述べていることに対して、疑問を呈する。)

古典中国語文法に基づいて語法を解説した拙著の改訂作業に入っていることは、以前のエントリーで書きましたが、現在第2部で、語気詞の用法について見直しを行っています。
疑問や反語、詠嘆、あるいは限定ぐらいが取りあげられて、学校漢文ではあまり語気詞の学習に重きが置かれていないのですが、実は奥が深いのです。
一つの語気詞が、言語環境によってさまざまな意味を表すことがあり、それを一つひとつ吟味していくのは楽しい作業でもあります。

まさにそんな作業をしていた折に、また若い同僚が質問をして来られました。
見せてくれた漢文は次の通りです。

・漢武帝乳母嘗於外犯事。帝欲申憲。乳母求救東方朔。朔曰、「此非唇舌所争。爾必望済者、将去時、但当屢顧帝。慎勿言。此或可万一冀耳。」(以下略)

私が訳してみると、次のようになります。
(漢の武帝の乳母が(宮廷の)外で罪を犯したことがあり、帝は法によって処罰しようとした。乳母が救いを東方朔に求めた。朔は、「これは言葉がどうこうできることではない。あなたがどうあっても救いを望むなら、去ろうとする時、ただ何度も帝を振り返りなさい。くれぐれも言葉を発してはならぬ。これがことによるとほんのわずかにも望めることだ。)

さて、この「此或可万一冀耳。」の箇所の現代語訳についての質問でした。
彼が言うには、よる所の書には「もしかすると万に一つの希望をもつことができるかもしれません。」と訳されているとのこと。
同僚の疑問は、その訳に「耳」の意味が反映されていないことを背景とするものでした。
なるほど、確かに「耳」のニュアンスが伝わってこない。

同僚は書籍にも「耳」が限定や肯定の他に、疑問や推量の語気も表すと書かれたものがあると言いました。
私的には「耳」は、限止(限定)・決定(断定)・停頓(ポーズ)の3つの語気を表すと思っていたので、驚いてしまいました。
なによりびっくりしたのは、その疑問や推量の語気を表すとしたものです。

「此或可万一冀耳。」の「耳」の語気は、当然「限定」か「断定」であろうと思っていたわけですが、それだと推量でも説明できてしまうことになります。
これはおそらく中国の虚詞詞典にそう書かれているものがあるに違いないと、同僚の前で、虚詞を調べる時一番最初に手に取る『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると、

四、用于测度问句的句末,助测度语气。可译为”吧”。
(推量文の文末で用い、推量の語気を助ける。”吧”と訳すことができる。)

として、次の例が挙げられています。

 (1)安掩鼻曰:”恐不免。”(《晋书・谢安传》)
 (2)舟人皆侧立,曰:”此本无山,恐水怪。”(《唐人小说・李朝威:柳毅传》)

中国の代表的な虚詞詞典にもこう書いてあるからには、それを信じれば、「此或可万一冀耳。」は「或」に呼応する形で、「耳」が推量の語気を表すことになるのかもしれないと、その場はお茶を濁しておいたのですが。

しかし、本当に「耳」が推量の語気など表すのだろうか?という疑問は拭えませんでした。
そこでまず、『漢語大詞典』を引いてみました。

(9) 語氣詞。表示限止語氣,與“而已”、“罷了”同義。
(語気詞。限止(限定)の語気を表し,「而已」「罷了」と同義。)

(10) 語氣詞。表示肯定語氣或語句的停頓與結束。
(語気詞。肯定の語気や語句の停頓(ポーズ)と結束(終結)を表す。)

とあり、これは私が了解していた意味に触れているのみで、推量だの疑問だのの語気については述べられていません。

次に手元の虚詞詞典を片っ端から調べてみました。
すると意外にも推量、疑問の語気について述べてあるものが見つかりません。
韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』(吉林人民出版社1984)や尹君の『文言虚詞通釈』(広西人民出版社1984)は、古いものの他の書にはない記述が多く見られ、よく参考にしています。
まず、『古漢語虚詞手冊』には次のように書かれています。

一、语气词,系“而已”的合音(与“而”同纽,与“已”同部),表示限止,常与“特”、“独”、“止”、“直”等范围副词相应,可译为“而已”、“罢了”。
(語気詞、「而已」の合音(「而」と同声母、「已」と同韻)に関わり、限止(限定)を表す、「特」「独」「止」「直」などの範囲副詞と呼応することが多く、「而已」「罷了」と訳せる。)

二、语气词,表示断定,用在句末,有时近似“矣”,有时近似“也”,可译为“了”、“的”、“啊”、“呢”,或不必翻译。
(語気詞、断定を表し、文末で用いられ、「矣」に近い時もあれば、「也」に近いこともある、「了」「的」「啊」「呢」と訳せるほか、訳す必要がないこともある。)

次に、『文言虚詞通釈』は次の通り。

①助词 语气助词。用在陈述句末,表限止语气,有“不过如此”的意味;或说是“而已”两字的合音,可译为“罢了”。
(助詞 語気助詞。陳述文の文末で用いられ、限止(限定)の語気を表し、「不過如此」(こんなものだ)という意味がある。「而已」二字の合音だと説明されることがあり、「罷了」と訳せる。)

②助词 语气助词。和“也”条④项相同,用在陈述句末,表论断、决断或终结语气。可译为“的”、“呢”,也可去掉不译。
(助詞 語気助詞。「也」の条④項と同じで、陳述文の文末で用いられ、論断、決断や終結の語気を表す。「的」「呢」と訳せるほか、訳さなくてもよいこともある。)

③助词 语气助词。和“也”条③项相同,用在复句的前一分句句末,表提顿、停顿语气。现代汉语中没有相应的词,一般去掉不译。有的地方,也可译为“啊”。
(助詞 語気助詞。「也」の条③項と同じで、複文の前句末で用いられ、提頓、停頓の語気を表す。現代漢語の中に相当する字がないので、一般的には訳す必要はない。ある場合は、「啊」と訳せることもある。)

④助词 语气助词。和“矣”条①项相同,表行为的已然、将然或必然。可译为“了”、“啦”。
(助詞 語気助詞。「矣」の条①項と同じで、行為の已然(完了過去)、将然(将来)や必然を表す。「了」「啦」と訳せる。)

⑤助词 语气助词。表慨叹、赞叹语气,可译为“啊”、“呀”。
(助詞 語気助詞。慨嘆、賛嘆の語気を表し、「啊」「呀」と訳せる。)

たくさん書いてあります。
もちろん鵜呑みにするわけにはいきませんが、考えのヒントになるので、参考にする価値があります。
慨嘆、賛嘆の語気というのが目を引き、これは別途考えてみる必要はありそうです。
ですが、ここにも推量の語気については一切書かれていません。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』も参照しましたが、『文言虚詞通釈』の①~③とほぼ同内容のことが書かれていたものの、推量の語気については述べていません。
何楽士は商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』の編纂にも関わっていたはずですが、どういうことでしょうか。

他に楊伯峻『古漢語虚詞』(中華書局1981)、于長虹等『常用文言虚詞手冊』(河北人民出版社1983)、王政白『古漢語虚詞詞典(増訂本)』(黄山書社1986)、王海棻等『古漢語虚詞詞典』(北京大学出版社1996)、陳霞村『古代漢語虚詞類解』(山西古籍出版社2007)、鐘兆華『近代漢語虚詞詞典』(商務印書館2015)などを見てみましたが、推量の語気については触れられていませんでした。

ところが、白玉林・遅鐸『古漢語虚詞詞典』(中華書局2004)に次のように述べられていました。

①用在分句末,表示停顿。可不译出。
(複文の文末で用いられ、停頓(ポーズ)を表す。訳出しなくてよい。)

②用在陈述句末。
(陳述文の文末で用いられて)
 1.助判断语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出。
(判断の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよい。)

 2.助肯定语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出,有的也可译为“啊”、“的”等。
(肯定の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよいが、ある場合は「啊」「的」などと訳せることもある。)

 3.助限止语气。常同表示范围的副词“唯(惟)”、“止”等呼应。可译为“罢了”。
(限止(限定)の語気を助ける。範囲を表す副詞「唯(惟)」や「止」などと呼応して用いられることが多い。「罷了」と訳せる。)

③用在祈使句末,助祈请语气。可译为“吧”。
(命令・請願文の文末で用いられ、命令・請願の語気を助ける。「吧」と訳せる。)

④用在疑问句末。
(疑問文の文末で用いられて)
 1.助反诘、特指问语气。可译为“吗”、“呢”。
(反語や疑問の語気を助ける。「吗」「呢」と訳せる。)

 2.助测度语气。常同表示语气的副词“恐”等呼应。可译“吧”。
(推量の語気を助ける。語気を表す副詞「恐」などと呼応して用いられることが多い。「吧」と訳せる。)

同じ遅鐸主編の『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』(商務印書館国際有限公司2011)にも同内容のことが述べられていました。
編者が同じなので当然というところでしょうか。
遅鐸が『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)の編纂に関わっているかどうかはわかりません。

他にも探せばあるのかもしれませんが、「耳」に推量の語気を認める記述は、一部の虚詞詞典に限られているようです。
あるいは最新の語法研究の成果なのかもしれません。

虚詞詞典に述べられているかいないかを確認していっても拉致があかないので、「耳」の字がどのように解釈され、それに対してどのような分析がなされているかを調べてみることにしました。

こういう時には解恵全等『古書虚詞通解』(中華書局2008)の出番です。
清人の袁仁林『虚字説』、劉淇『助字弁略』、王引之『経伝釈詞』、呉昌瑩『経詞衍釈』の4著、近くは楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』、孫経世『経伝釈詞補・再補』の3著、あわせて7著の説を引用し、検討を加えたものです。
「耳」の字が、用例をもとにどのように説明されてきたのか、それにどのような検討が加えられているかを順に見ていくと、色々と説はあるものの、結論的に語気詞としての働きは、「限止語気」「決定語気」「停頓」の3つに尽きるもののようです。
そして、『詞詮』や『古書虚字集釈』、『経伝釈詞補』、『助字弁略』が、「耳」を「邪」または「乎」と同じ用法だと説いたものさえも、上記3つの語気として説明できるとしています。
しかし、「耳」を推量の語気とする説はどうも見当たりません。

『古代漢語虚詞詞典』が「耳」を推量の語気を表すとした根拠になっている例を見てみましょう。

・安掩鼻曰:”恐不免。”(晋書・謝安伝)

晋書の前後の部分を補ってみると、

・安妻、劉惔妹也。既見家門富貴、而安独静退、乃謂曰、「丈夫不如此也。」安掩鼻曰、「不免。」及万黜廃、安始有仕進志、時年已四十餘矣。
(謝安の妻は、劉惔の妹である。すでに家門が富貴であるのに、謝安ひとりが静かに引退しているのを見て、彼に「男子たるものこのようではないですか。」と言うと、謝安は鼻を覆って、「恐不免耳。」と言った。弟の謝万が退けられると、謝安は初めて出仕する気になったが、時にすでに四十数歳であった。)

この話は『世説新語』の排調篇にも採られていて、

・初、謝安在東山居、布衣時、兄弟已有富貴者、翕集家門、傾動人物。劉夫人戯謂安曰、「大丈夫不当如此乎。」謝乃捉鼻曰、「但恐不免。」(世説新語・排調)
(はじめ謝安が東山の住まいにいて官についていなかった時、兄弟にすでに富貴であった者があり、一族を集めて、人々の耳目を驚かせていた。(謝安の妻の)劉夫人が戯れて謝安に「男子たるものはこのようではあるべきではないですか。」と言うと、謝安は鼻をつまんで、「但恐不免耳。」と言った。)

「排調」と言うのは「相手をやりこめる」という意味ですから、「但恐不免耳」は、妻の嫌みに対して切り返した言葉であるはずで、富貴にして今をときめく兄弟を念頭に、そんな生活を是としない謝安としては、「いずれ自分もそうなってしまうのを避けようもないわい」という意味であるはずです。

重要なのは、『世説新語』が『晋書』に先行する書だということです。
『晋書』は『世説新語』に取材しているはずで、その表記が「但恐不免耳」となっている。
これはもうどう見ても「耳」は範囲副詞「但」に呼応して用いられていることが明らかです。
つまり、「但だ免れざるを恐るるのみ」(ただ逃れられないのを心配するばかりだよ)の意になります。
『世説新語』の記述をもとにする『晋書』の表記が「但」を欠いて「恐不免耳」になっているからといって、これが「おそらく災いをまぬかれないであろう」という意味になるでしょうか。
よしや『晋書』の「恐不免耳」単体が「恐…耳」の形に見えたとしても、『世説新語』の記述から、例としての妥当性を欠く可能性があります。

この「範囲副詞+恐~耳。」の形式は、非常に多くの用例が見られます。

・太子曰、「僕甚願従、直恐為諸大夫累。」(枚乗「七発」)
(太子は、「私は(あなたの言うことに)従いたいと思うが、ただ大夫たちの心配の種となることが心配なのだ。」と言った。)

・此方之民、思為臣妾、延頸挙踵、惟恐兵来之遅(三国志・呉志・胡綜伝)
(こちらの民は、陛下の臣僕になりたいと思い、首を伸ばし踵を上げております、ただ貴国の軍の到着が遅いことを心配するばかりなのです。)

・王文達万人敵也、但恐勇決太過(北史・王傑列伝)
(王文達は万人に敵するほどの人物だ、ただ勇敢で果断でありすぎることを心配するばかりだ。)

3例ほど挙げてみましたが、このような「恐」は文脈から明らかに動詞「心配する」の意で、範囲副詞がこの動詞を修飾する形で用いられています。

一方で、範囲副詞を伴わない形式、つまり「恐~耳」の形式の例も見られます。

①我乃信汝、為人所誑(宋書・蕭恵開列伝)
(私はむしろあなたを信じる、たぶん人に欺かれただけだ。)

②婦曰、「此是妖魅憑依。」文曰、「我亦疑之。」(捜神記・巻4)
(妻が、「これはたぶん妖怪が憑依したんですよ。」と言うと、戴文謀は、「私もそれを疑ってる。」と言った。)

③象知之欲去曰、「官事拘束我。」(神仙伝・巻9)
(介象はこれ(=介象が非凡であることをお上に報告されたこと)を知って、立ち去ろうとして、「公事が私を拘束するのが心配だ。」と言った。)

④鬼云、「人鬼異路、無宜相逼、不免。」(広異記・巻2)
(鬼は、「人と鬼は道を異にしています、無理を言ってはいけません、(延命を望んでも)たぶん免れないですよ。」と言った。)

③の例はおそらく「恐」は心配するの意の動詞だと思いますが、①②④は、その動詞の意から派生した推量の副詞です。
もともとが動詞なので、主によくない状況があること、起こることを予想して推量するわけです。

①の例は、あなたが人に欺かれたことを推量しているのですが、その推量は「恐」が表しているわけで、語気詞「耳」は、ただそれだけのことだという語気で、推量を表していると考える必要はないでしょう。

②の例も「恐」は、悪くするとそうではないかという推量を表していますが、これが妖怪が憑依したことに尽きるというのが想像内容であって、「耳」は推量の語気を表しているわけではないでしょう。

④の例は、先の『世説新語』と同じ表現ですが、この「恐」は動詞としては解せません。
今日を限りの命をなんとか救ってほしいという張御史の要望に、鬼の世界の小役人は、それは無理な話と断る文脈での言葉です。
「恐」は推量の副詞ですが、推量しつつも、「延命は無理ですよ」と言い切っているのであって、「耳」が推量の語気を表しているとは言い切れないでしょう。

中国語のことを日本語の文法で語ってはいけないのは百も承知の上で、たとえば「これは太郎が犯人だ」といえば「だ」は断定を表すが、「おそらく太郎が犯人だ」といえば「だ」は推量を表すと言えるでしょうか?
あるいは、「茶柱が立つと縁起がいいというのは迷信に過ぎない」を、「茶柱が立つと縁起がいいというのは、恐らく迷信に過ぎない」と言い換えれば、「~に過ぎない」は推量を表すことになるのでしょうか。
私にはこの問題がそれと似ているような気がします。

『古代漢語虚詞詞典』が引用する2つめの例を見てみましょう。

・舟人皆側立,曰:”此本無山,恐水怪耳。”(《唐人小説・李朝威:柳毅伝》)

前の部分を補います。

・至開元末、毅之表弟薛嘏為京畿令、謫官東南、経洞庭、晴昼長望、俄見碧山出於遠波。舟人皆側立曰、「此本無山、恐水怪耳。」
(開元年間の末に、柳毅の従兄弟の薛嘏が京畿令となり、(さらに)東南に左遷され、洞庭湖を経たが、晴れた昼に遠く眺めると、急に青い山が波の彼方から現れるのを見た。舟人たちはみな舷に立ち、「ここにはもともと山はない、たぶん湖の化け物だ。」と言った。)

これも「恐」があるから、必然的に「~だろう」と解したくなるのですが、「耳」は本来、「水怪に他ならない」という意味でしょう。
なぜなら、その根拠となることが、その前の「此本無山」に示されているからです。
舟人は洞庭湖にこんな青い山はないことを知っていたからこそ、「水怪耳」と断じることができるのです。
それに推量の副詞「恐」を用いただけではないでしょうか。
「此水怪耳」と表現すれば、「これは水怪だ」と決定の語気を表すのですが、「恐」ひとつで「耳」が推量の語気に変化する、「耳」は元々そういう性質の語気詞でしょうか。

さて、話を最初に戻しましょう。
同僚が質問してこられた「此或可万一冀耳。」という一文、「或」という副詞があるために、「耳」は推量の語気を表すのか?と、あの時は迷いました。
しかし、「万一」とは万分の一、ほんのわずかであることを表します。
「耳」は、「或」に呼応するのではなく、この副詞的に用いられた「万一」に呼応しているのでしょう。
つまり、「これがことによるとほんのわずかに期待できるばかりのことだよ。」というのがこの文の意味、そして「耳」の語気ではないでしょうか。

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