ユーティリティ

プロフィール

管理者へメール

過去ログ

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

エントリー

カテゴリー「訓読」の検索結果は以下のとおりです。

書き下し文のきまり

  • 2020/04/30 07:36
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「書き下し文のきまり」というアニメーションGIFを作ったこと。)

コロナ対策で動画授業等、あれこれ苦心しているわけですが、先般の「返り点と送り仮名の施し方」の続きみたいな感じで、「書き下し文のきまり」もアニメーションGIFで作ってみました。

「返り点と送り仮名の施し方」は、施す順序に重点があって、アニメーションにする意味があるのですが、書き下し文の場合はアニメーションにする意味があるのか、はなはだ疑問です。
まあ余勢を駆ってというところです。

書き下し文のきまりといっても、実際のところ、学校では一応そういうきまりになっているということであって、どこにそんな基準が明記されてるんだとおっしゃる方が時々あります。
たとえば、なぜカタカナではいけないんだとか…
高い次元で疑問に感じる場合は学問につながるのですが、低い次元でそれを生徒にぶつけると、生徒は混乱するばかりです。
ずっと以前に、私は漢字とカタカナで書き下すように生徒に指導していると声高におっしゃった方があり、個人の趣味のレベルでおっしゃる限りは害はないんだが…と、ため息をついたこともあります。

なんにせよ、「返り点と送り仮名の施し方」というより施す順序、そして「書き下し文のきまり」は、案外実際の授業ではサラッと流してしまう部分だと思うのですが、この形式的なことをきちんとマスターさせることは、その日の授業ノートから効果を発揮します。
格段にノートをとるスピードが改善するはずです。
漢文が苦手だという生徒が、実は返り点と送り仮名をきちんと施せないとか、書き下し文のきまりがまだよくわかっていないという基本的な知識の不足が足をひっぱっているということもあるような気がします。

そういうことで、これもつまらないのですが、せっかくアニメーションGIFを作成したので、ここにも載せておきます。
自由にご利用ください。

1.漢字の送り仮名は平仮名にする

2.日本語の助詞・助動詞として読む漢字は平仮名にする

3.置き字は書かない

4.再読文字は最初に読むときに漢字をあて、返って読むときは平仮名にする

5.まとめ(1~4のPDF)

↑それぞれクリックしてください。

返り点と送り仮名の施し方

  • 2020/04/18 14:34
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「返り点と送り仮名を施す順」というアニメーションGIFを作ったこと、全返り点編。)

勤務校がコロナのせいで休校中、そのためにオンライン課題の作成や動画撮影に追われているという話は、前エントリーに書きました。
さしあたって、一度も教えたことのない新1年生に、漢文はどんな課題を出せばいいのやら…と考え、「返り点と送り仮名を施す順序」をアニメーションGIFにして公開することにしたわけです。

それぞれの返り点の働きは『体系漢文」や教科書で自習してもらうことにしましょう(というより、中学校で習ってきたはず)。
しかし、おそらく送り仮名を上から順に施し、その後に返り点をこれまた上から順につけているであろうと想像するわけです。
たぶん、中学校の先生方は、施す順までは教えておられないでしょうから。

この手の話をすると、必ず「返り点と送り仮名はすでに施されているものを読むためのもので、施す順など関係ない!」と、声高におっしゃる方が出てきます。
確かに訓点のついた漢文を読む限りはそうなのですが、実は教える先生方だって、最初の授業から黒板に漢文を書いて、返り点と送り仮名をつけなければなりません。
それをノートに写す生徒だって同じです。
つまり、漢文を教える・教えられる初日から、漢文を書き、返り点と送り仮名を施さなければならないわけです。

施す順序に決まったものはないのかもしれませんが、私としては、読む順に施すのが最善と考えています。
つまり、漢字を読んでから、上に返ることを示すために返り点をつけ、その上で上の漢字に送り仮名をつける。

レ点の場合なら、下の漢字に送り仮名を施し、レ点をつけ、上の漢字に送り仮名を施す。

一二点の場合なら、下の漢字に送り仮名を施し、その漢字に一点をつけ、上の漢字に二点をつけ、それから上の漢字に送り仮名を施す。

ですから、「一レ点」や「上レ点」も、施す側からすれば1つの特殊な点ではなく、レ点と一点、レ点と上点が、異なるタイミングで同じ箇所に施された2つの点になるわけです。

なにを当たり前のことを…と思われてしまうようなことを書きましたが、とりあえず完成したアニメーションGIFを公開します。

1.レ点

2.レ点の連続

3.一二点

4.一二三点

5.一二点(熟語に返る時)

6.レ点と一二点の混合

7.上下点

8.上中下点

9.一レ点

10.上レ点

11.まとめ (1~10 をpdfファイルにしたもの。印刷可)

(↑それぞれクリックしてみてください。)

こういうのは慣れない作業である上に、膨大な時間がかかり、すっかり疲労してしまいました。
もし、訓点を施す順序に自信がない方は、ぜひお役立てください。

コロナ対策で…

  • 2020/04/16 18:22
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「返り点と送り仮名を施す順」というアニメーションGIFを作ったこと、「レ点」「一二点」編。)

新型コロナウイルスのために、もちろん勤務校は現在休校中です。
いつ終息するともしれぬコロナ禍に、勤務校もご多分に漏れず、動画配信などの措置を講じているわけですが、私も「ためぐち漢文」を配信すると共に、授業の動画を2本ほど撮影しました。

しかし、まだ漢文の初心者で入門段階すら経ていない新1年生のために、何か教材が作れないか…と、あまり見たことのない「返り点と送り仮名を施す順」というパラパラ漫画風のアニメーションGIFを作ることにしました。

『標準漢文法』がいよいよ佳境に入ってきたのに、動画撮影や慣れないアニメーションGIF作りで時間をとられ、読む暇がないのが、ちょっと悲しいところです。

さて、返り点と送り仮名をどういう順で施していくかについて、何かに決められているとか、書かれた文献があるとかは、私は知らないのですが、私的には「読む順に施す」が一番合理的ではないかと思っています。
必ずこの順でなければならないとは思いませんが、生徒には最初の段階で教えることです。

素人なので、膨大な時間がかかるのですが、とりあえず「レ点」と「一二点」のアニメーションGIFを作ってみましたので、興味のある方はご覧ください。
いずれほかの返り点と併せて、ページ登録するつもりです。

・レ点   (←クリックしてください)

・一二点 (←クリックしてください)

勤務校用の教材ですが、本校生しか閲覧できないシステムなんてケチくさいと思いますので、どうぞ見ていただき、おもしろければ自由にご利用ください。

※高校の先生でも、送り仮名だけまとめて施し、後から返り点をつける方があるようで驚きます。
こうでなければならないわけでは、たぶんないと思いますが、この順に施すのがよろしいのでは?と思っています。

※それから、送り仮名で用いる片仮名の「ヲ」ですが、時々「フ」に横棒をつける方があります。「ニ」に「ノ」をつけるのが正しいので、黒板では正しくお書きください。

「有AB」はなぜ「BにA有り」と読むのか:私見

  • 2019/10/09 23:27
  • カテゴリー:訓読
(内容:「有AB」の形を、なぜ「BにA有り」と訓読するのかについて私見を述べる。)

最近、教室の横を通ると、同僚の授業の黒板が見えることがあります。
古典中国語文法に基づいた漢文の構造が丁寧に説明されています。
勉強熱心な若い同僚たちが着実に力をつけてきています。
IT機器を駆使したり、アクティブラーニング等の授業技術の実践にも熱心な彼らですが、その大本になるべき学問的教養をおろそかにしない姿勢には、本当に嬉しくなります。

さて、その勉強熱心な同僚が、先日、ある文について質問してきました。
『戦国策・燕策二』の「蘇代為燕説斉」の条です。

足下有意為臣伯楽乎。
(足下臣の伯楽と為るに意有らんか。…読みは問題集のもの)

この文の構造がどうなっているのか教えてほしい、「為臣伯楽」は「意」を修飾しているのでしょうか?と。
この箇所は、彼の見た書物では「あなたは私の伯楽になる気持ちがあるか(ありませんか)。」と訳されています。
なるほど、訳が「私の伯楽になる」→「気持ち」と修飾する関係で訳されているので、先の質問になったわけです。

「足下臣の伯楽と為るに意有らんか。」という読みが適切かどうかはともかくとして、日本語訳自体は間違ってはいません。
もう少し正確にいえば、自然な日本語としては適切な訳だろうということです。

構造的には、

主語「足下」+謂語「有」+賓語「意」+賓語「為臣伯楽」+語気詞「乎」

で説明されると思うので、同僚にはそう説明して、「あなたは気持ちを私の伯楽になることに対してもちますか」もしくは「あなたは気持ちを私の伯楽であることに対してもちますか」から、「あなたは私の伯楽になるおつもりがありますか」と意訳されることもあると解説しました。

しかし、個人的にふと疑問に感じたことがあったのと、本当にそれで正しかったかという検証が必要だと思い、少し調べてみることにしました。

私が抱いた疑問というのは、古典中国語文法とは関係なくて、AB2つの賓語をとる「有AB」の文を、なぜ「BにA有り」と訓読するのか?です。
「ABに有り」となぜ読まないのか?とも言い換えられます。
これは日本語の問題、訓読の問題なので、解決不能かもしれないな…と感じました。

「有AB」の文は、「有A於B」の形をとることが多く、その意味であるいは介詞「於」の省略形かもしれません。

・今有宝剣良馬於此、玩之不厭、視之無倦。(呂氏春秋・不苟論)
(今此に宝剣良馬有れば、之を玩(もてあそ)びて厭かず、之を視て倦むこと無し。)
(いまここに宝剣や良馬があれば、それを厭きることなく賞玩し、倦むことを知らずに眺めやる。)

読みと訳は『新編漢文選3 呂氏春秋・下』(明治書院1998)によりましたが、やはり「宝剣良馬此に有れば」ではなく「此に宝剣良馬有れば」と読まれています。

・今有璞玉於此、…(孟子・梁恵王下)
(今此に璞玉有らんに、…)
(今ここに山から掘り出したままで、まだ磨いていない玉があったとする。)

これも同様の例になりますが、『新釈漢文大系4・孟子』(明治書院1962)では、前の例と同じ語順で読まれています。

通常、存在文は、「A有B。」(AにB有り。)の形をとります。
存在主語「A」+謂語「有」+賓語「B」の構造で、賓語Bは意味上の主語となり、構造上の主語AはBが存在する範囲を示します。

・甕中有人。(広異記・10)
(甕中に人有り。)
(かめの中に人がいる。)

この例なら賓語「人」が意味上の主語となり、存在主語「甕中」がその存在する範囲を表すことになります。
Aが明確に範囲を表す場合は、訓読では必ず「AにB有り」と読みます。
これは理にかなった読み方と言えるでしょう。

それに対して、同じ「あり」と読む動詞には「在」があります。
「A在B。」(ABに在り。)の構造をとり、「AがBにある・いる」という意味を表します。

・令史在甕中。(広異記・10)
(令史甕中に在り。)
(令史がかめの中にいる。)

同じ出典の同じ文章の中で、2通りの表現を見つけました。

この「有」と「在」の違いは周知のことで、荻生徂徠の『訓訳示蒙』に明快に述べられています。

有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)

要するに、「有」は存在を表し、「在」は場所を表すということです。
したがって、「有」の下には存在する物が置かれ、「在」の下には存在する場所が示されます。

先の2例を対比しやすくするために次のように加工してみます。

・甕中有人。(甕中に人有り。)
・人在甕中。(人甕中に在り。)

訓読では、「A有B」の場合「AにBあり」と読み、「B在A」の場合「BAにあり」という読み分けがあるわけです。

ところが、存在を表す謂語動詞「有」は、「有B(於)A」の形をとることがあります。
上の例文が、理論上「有人於甕中。」の形をとることができるのは、次の例文からも明らかです。

・有人於此。(孟子・告子下)
(此に人あり。)
(ここに人がいる。)

ちなみに本来の存在文の形式に戻した「此有人。」という例文は見当たらず、必ず「於此有人。」の形をとります。

「甕中有人。」と「有人於甕中。」の表す意味自体は同じはずですが、なぜこのような2通りの表現があるのかについては、よく言われるように、中国語は既知情報が先、未知情報は後に表現されるということで説明できるのではと思います。
たとえば、以前のエントリーで取り上げた韓愈のいわゆる「馬説」に、連続する次の2文があります。

・世有伯楽、然後有千里馬。
(世に伯楽がいて、はじめて千里の馬がいる。)
・千里馬常有、伯楽不常有。
(千里の馬は常にいるが、伯楽は常にはいない。)

前文は世に存在する「伯楽」や「千里馬」は、読者にとっていわば未知情報にあたるので後に、後文はすでにその存在が示された「伯楽」「千里馬」は既知情報になるので主題主語として先に示されています。

このように考えると、「甕中有人。」は、すでにかめの存在が明らかになっているが、その中に人がいるということは未知情報であるために「甕中」が先に示され、「有人於甕中。」は、「人」の存在もかめの存在も未知情報ではあるが、まず人の存在を示すことが先で、それがどこに存在するのかという未知情報がその後に置かれていると説明されるのではないでしょうか。

漢文の構造に踏み込みましたが、さて、もう一度2つの文の読みを比べてみましょう。

甕中有人。  →甕中に人有り。
有人於甕中。 →甕中に人有り。

どちらも同じ読み方です。
もしも、後者を「人甕中に有り」と読めば、どうなるでしょう。
「人甕中にあり」と読まれた文は、「人在甕中。」のように聞こえます。

確かなことはわからず、現時点では訓読の慣習としか言えないのですが、「有AB」を「ABに有り」と読まず、「BにA有り」と読むのは、案外そんなところが理由なのかもしれません。

もう一つの課題、「足下有意為臣伯楽乎。」の構造が、私の説明でよかったのかどうかについては、項を改めて書いてみようと思います。

「ずんばあらず」という読みの意味は?

  • 2018/10/02 17:43
  • カテゴリー:訓読
(内容:漢文訓読特有の表現「~ずんばあらず」という読みについて、その意味と由来を考察する。)

少し前のことになりますが、同僚から、

~ずんばあらず」というのは、どういう意味ですか?」

という質問を受けました。
質問の趣旨は、

「~ずんば」というのは「もし~しなければ」という仮定表現だと思うが、どこが仮定になっているのか?

という意味でした。
私は「~ずんばあらず」が仮定表現だとは考えていなかったので、その質問には答えようがなかったのですが、そもそもこの訓読表現はどういう意味だろうと疑問に思いました。

さっそく山田孝雄氏の『漢文の訓讀によりて傳へられたる語法』(宝文出版 1935)を開いてみましたが、残念ながらその項目は見当たりませんでした。
しかたがないので、江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店 1997)を見てみると、次のように説明されています。

(6)ずんバアラ(ず)
⑧吾未嘗不得見也。(論語・八佾)
〔吾未だ嘗て見ゆることを得ずんばあらざるなり。〕
私は今まで一度もお目にかかれなかったことはないのです。
【注】「未嘗不~」で、二重否定の形。「ずンバアラ(ず)」と、習慣的に特有の読み方をしてきている。

「習慣的に」「特有の読み方」だということです。

次に『漢詩・漢文解釈講座』別巻「訓読百科」(昌平社 1995)を開いてみました。
「不―不」「未―不」の項目がありますが、読み方については特に説明がありません。

さらに『研究資料漢文学10』「語法・句法・漢字・漢語」(明治書院 1994)の二重否定の項を見ると、「不敢不」の項に、次のように書かれています。

次にあげる「不必不」「未嘗不」などは「……ずんばあらず」という訓読独特の読みくせがある。

「訓読独特の読みくせ」だそうです。

訓読は古典中国語とは違い、日本語ですから、私もより一層門外漢です、困ってしまいました。
「ずんば」がもし仮定表現なら、多少なりとも説明がありそうなものですが、ないところを見ると、仮定表現ではないからなのだろうと推測します。
しかし、どうあれこの表現が「特有の読み方」であり、「訓読独特の読みくせ」なら、なぜそういう読み方をするのか説明があってほしいところです。

さて、困ってしまいましたが、そもそもこの「~ずんばあらず」という表現はいつの頃からあるのだろうと、手元の和漢混交文で書かれた古典を探してみることにしました。
すると、『平家物語』の巻2「烽火沙汰」に次のような一節がありました。

君君たらずといふとも、臣以て臣たらずんばあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずんばあるべからず。(冨倉徳次郎『平家物語全注釈(角川書店 1966)』による)

この書の底本は市立米沢図書館蔵の『平家物語』なので、原本の表記を確認してみました。

君不君いふとも臣以不臣はあるへからす父不父いふとも子以不子はあるへからす

原本は漢文書きになっているのを、冨倉氏が書き下し文に改めたもので、妥当な読み方だと思います。
この一節は、『古文孝経』の孔安国の序文を引用したものです。

・君雖不君、臣不可以不臣。父雖不父、子不可以不子。(古文孝経・孔安国序)

この文は、今なら「君君たらずと雖も、臣は以て臣たらざるべからず。父父たらずと雖も、子は以て子たらざるべからず。」と読みます。
つまり、『平家物語』では「臣たらざるべからず」を「臣たらずんばあるべからず」と表現していることになります。
考え方の道筋が見えてきたような気がしました。

そこで、築島裕氏の『平安時代の漢文訓讀語につきての研究』(東京大學出版會 1963)を見てみました。すると、第一章「總説」の第三節「漢文訓讀語の性格」に次のように述べられています。

訓讀特有語形の他の一つの顯著な例は、否定語を伴った熟語に見ることが出來る。漢文で用ゐられる否定語には、「不」「非」「無」「靡」「匪」「莫」「未」など多くがあり、漢文法では何れも副詞として働き、この下に體言や用言を從へるのであるが、この際、下の「敢」「堪」「能」「不」「如」「遑」「曾」などと續いて、「不敢」「不堪」「不能」「無不」「非不」「不如」「不遑」「未曾」など多くの熟語を形作る。これを訓讀する際、否定語は下から反讀しなければならないし、又「敢」「堪」「如」「曾」などの字の訓法にも、本來のその和語の意味からずれたものもあつて、この類の熟語の訓讀には、訓讀特有の語法を形成するものが多いのである。

そして、次の例が挙げられています。

〔……ズハアラズ(ジ)〕
不敢不奉(慈恩傳卷第六永久點九二行)
(原典は訓点あり。「敢テ奉(ラ)ズハアラジ」と読んでいる模様。)

〔……ズハアルベカラス〕(原典、末尾「ス」と濁らず。「ズ」の誤りか。)
不可不愼(成簣堂文庫本醫心方院政期點二ノ一)
(原典は訓点あり。「愼マズハアルベカラズ」と読んでいる模様。)

前者は「興福寺蔵大慈恩寺三蔵法師伝」の永久四年点で、西暦1116年のものです。
また、後者は12世紀末と考えられ、つまりいずれも平安末の例で、『平家物語』の成立に先立つものになります。
つまり、否定語は下から返読しなければならない事情にあって、訓読特有の語法として、「不敢不」は「~ずはあらず」、「不可不」は「~ずはあるべからず」と読む訓法がすでに院政期からあったわけです。
ここで注意すべきは、下の「不」は「ずは」と訓じたのではなく、「ずはあら」と訓じた点です。
「ずはあら」とは「ずあら」に「は」を加えたもので、「ずあら」は言うまでもなく後の「ざら」の未融合形でしょう。

では、もっと時代を遡って平安初期にはどのように否定語が読まれていたのか気になり、門前正彦氏の『漢文訓読史上の一問題 ― 打消助動詞の連体形について ―』(訓点語と訓点資料8 1957)を読んでみました。
平安朝初期の訓点物を詳細に調査され、「ぬ」と「ずある(ざる)」の用法の差を論じています。
その上で、次のように述べられています。

下に助動詞が接続しない場合、つまり連体修飾語、準体言、係り結び、連体終止の用法には、本活用の「ぬ」が310例であるのに対して、補助活用の未融合形「ずある」が12例である。すなはち、助動詞が接続しない場合には、大体、本活用の「ぬ」が使用されている。次に、助動詞が下に接続する場合には、助動詞「なり」を除外すれば、すべて補助活用の未融合形「ずある」が使われている。

それが、以後の漢文訓読文では、初期の訓読文では「ぬ」が使われていた用法にも「ざる」が使用されるようになったということです。

平安初期の点本では、先の調査によって判るように、連体修飾、準体言、係り結び、連体終止の各場合には、本活用の「ぬ」を用い、他方、助動詞が下に接続する場合には、補助活用の未融合形「ずある(ざる)」が用いられるというように、「ぬ」「ずある(ざる)」の間には、大体の使い分けがあった。しかるに、平安中期以後の漢文訓読文では、下に助動詞が接続する場合に「ざる」が用いられるのは勿論であるが、初期では「ぬ」が使われていた連体修飾、準体言、係り結び、連体終止の用法にも、「ざる」が使用されるようになり、結局、漢文脈ではあらゆる用法「ざる」を使用するようになったのである。

さらに、補助活用「ざる」の発生について、

助動詞「べし」「めり」「らむ」を接続させる場合には、打消の助動詞は形容詞的な性格を持っているので終止形「ず」から直接にこれ等の助動詞を接続させることができない。したがってこれらの助動詞が下に接続する場合にのみ補助活用の「ざる」の形をとったのであるが、漢文脈でも、平安初期のものでは、ほぼ和文脈と同様な「ぬ」と「ざる」の使い分けが存している事が明らかになった。助動詞が下に接続する場合にのみ、補助活用「ずある(ざる)」の形をとり、他の場合には、本活用「ぬ」が使われているのである。

と考察されています。
漢文訓読において、たとえば「不」などが、なぜ「ぬ」系の読みをせず、「ざる」系の読みをするのか、以前から疑問を感じていたのですが、このような経緯が推定されるわけですね。

さて、話を元に戻しましょう。
『平家物語』の「君不君いふとも臣以不臣はあるへからす父不父いふとも子以不子はあるへからす」を、冨倉氏は「君君たらずといふとも、臣以て臣たらずんばあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずんばあるべからず。」と読んでおられるわけですが、これまでの資料を踏まえると、あるいは次のように読む方が適切なのかもしれません。

君君たらずといふとも、臣以て臣たらずはあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずはあるべからず。

この「ずはある」は、先にも述べたように、本来「ざる」の未融合形「ずある」が係助詞「は」を伴ったものだと思います。
ここで「ずある(ずはある)」という訓が用いられているのは、『古文孝経』の原文「臣不可以不臣」「子不可以不子」が、後の「不」から返って読むべき語が「可」であり、助動詞「べし」と読む語であるため、平安初期からすでに「ずある(ざる)」系の読みがなされたと考えるべきでしょう。
つまり、もとは「臣は以て臣たらずあるべからず」「子は以て子たらずあるべからず」だった。
それが、強調の働きをする係助詞「は」を伴って「ずはあるべからず」に転じ、「ずは」を「ずんば」と読むようになった。
そんなところなのかもしれません。

ただ注意しなければならないのは、「ずは」自体は順接の仮定条件を表すこともあるという点です。
「~(せ)ずは、…」は、「~しなくては、~しないならば」という意味を表すというのが、普通の認識でしょう。
それが、冒頭「ずんばあらず」の「どこが仮定になっているのか?」という誤解を生みます。

「ずは(ずんば)」ではなく、「ずはあら(ずんばあら)」なのだと捉え直してみる必要があります。
「べし」につながる場合は、「ず(は)あるべし」が、やがて融合系の「ざる」を用いて「ざるべし」と読まれるようになった。
しかし、「ず」につながる場合は、「ず(は)あらず」が融合系の「ざら」を用いて「ざらず」とはならず、そのまま「ずはあらず」が生きて、やがて「ずんばあらず」と読みが固定されるようになった。
このあたりの事情はよくわかりませんが、やはり日本語の自然さということなのでしょうか。

「猶是也」の読み方は?

  • 2018/03/06 20:21
  • カテゴリー:訓読

(内容:孟子の湍水の説「其性亦猶是也」の句が「其の性も亦猶ほ是くのごとければなり」と読まれるのに疑問を呈する。)

今講義に使っているテキストは、いろいろと気になる点が多いのですが、『孟子』湍水の説の最後の部分「人之可使為不善、其性亦猶是也。」が次のように訓読されています。

人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごとければなり。

これが気になりました。
訓読は日本語への翻訳ですから、漢語の語法に必ずしも忠実でない場合もあり、自然な日本語であることが優先されてもよいと思います。
しかし、これはそういう問題ではなく、日本語としておかしいのではないかと感じたのです。

「不如~」を「~のごとからず」と読んで恥をかいた先生がいたという話をどこかで聞いたような気がしますが、これは「ごとし」という日本語の古語に「ごとから」などという形がないからで、「~のごとくならず」と読むべきなのは周知のことです。
同様に、「ごとし」に已然形「ごとけれ」はないわけで、だからおかしいと感じたのです。
その活用形がないということは、古典の中に用例が見つからないということだと思いますが、訓読の場合は、あるいは別かもしれないと思い、この部分が過去どのように読まれていたか気になりました。
残念ながら、詳細に調べ上げる知識も資料もないのですが、早稲田大学図書館のWeb公開資料から、いくつか江戸時代の版本を見ることができました。
すると、

・猶ヲ是ノ(レ)ゴトシ也 (『四書集註』林道春点 1832弘簡堂)
・猶ヲ是(レ)シ也 (『孟子集註』山崎嘉点 ?)
・猶是ノ(レ)キ也 (『四書集註』1863松敬堂)
・猶ヲ是ノ(レ)シ也(『四書集註』1692梅花堂)

( (レ)はレ点)

などが見られました。
見る限り、基本的に「猶ほ是くのごとし」または「猶ほ是くのごときなり」と読んでいるわけです。

明治以降の出版物となると、あまりにも膨大で、とても確認のしようがありませんが、国立国会図書館デジタルコレクションで、いくつか調べてみても、やっぱり「ごとし」「ごときなり」ばかりです。
探せば「ごとければなり」というのもあるかもしれませんが、私には見つけられませんでした。

さて、手元の参考書ではどうなっているだろうかと調べてみると、『全釈漢文大系2 孟子』(集英社1973)が「其の性も亦猶ほ是のごとければなり」と読んでいます。
もう一つ、『鑑賞 中国の古典③ 孟子・墨子』(角川書店1989)もこの読み方です。
教科書を書くにあたって、このあたりの参考書は当然見るべきものですから、これらがあるいは元になっているかもしれません。
また、いわゆる他の教科書もこれまた当然見ているでしょうから、それにならった可能性もあります。

なんであれ、古くからの読みが「猶ほ是くのごとし」または「猶ほ是くのごときなり」なのに、あえて「猶ほ是くのごとければなり」と読んだ経緯はもちろんわかりませんが、日本語として訳す上で、その方がわかりやすいからでしょう。
「人之可使為不善、其性亦猶是也。」という文の構造から見て、後句が前句の理由を表していると解釈すれば確かに文意はわかりやすくなります。
この文は構造的には主謂謂語の文で、主語「人之可使為不善」+謂語「主語『其性』+謂語『亦猶是也』」の構造ですから、多少わかりにくく、謂語の部分を理由を説明するような形に、訓読を工夫したわけです。

なるべく日本語としてわかりやすく訓読しようという姿勢は反対しませんし、それによって漢文が身近になるのであればよいとも思います。
個人的には、訓読はすっきりしたのが魅力だと思うので、くどい訓読は好きではないのですが、認めるべきことは認めたいと思います。

しかし、日本語として誤っている読み方を是とはしません。
Web上を調べると、湍水の説を解説したものはたくさん見つかりますが、「猶ほ是くのごとければなり」と読まれている例が少なくありません、困ったことです。

少なくとも教科書作成に携わる会社やその執筆者、編集者は、もっと慎重であってほしいし、それを検査する機関もあるのですから、おかしいと気づいてほしいものです。

「其性亦猶是也。」を、もし理由を説明するように読むなら、「其の性も亦た猶ほ是くのごとくなればなり。」と読まねばなりません。
私は個人的に「猶ほ是くのごときなり」で十分だと思ってはいますが。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ
  • ページ
  • 1