「有AB」はなぜ「BにA有り」と読むのか:私見
- 2019/10/09 23:27
- カテゴリー:訓読
(内容:「有AB」の形を、なぜ「BにA有り」と訓読するのかについて私見を述べる。)
最近、教室の横を通ると、同僚の授業の黒板が見えることがあります。
古典中国語文法に基づいた漢文の構造が丁寧に説明されています。
勉強熱心な若い同僚たちが着実に力をつけてきています。
IT機器を駆使したり、アクティブラーニング等の授業技術の実践にも熱心な彼らですが、その大本になるべき学問的教養をおろそかにしない姿勢には、本当に嬉しくなります。
さて、その勉強熱心な同僚が、先日、ある文について質問してきました。
『戦国策・燕策二』の「蘇代為燕説斉」の条です。
足下有意為臣伯楽乎。
(足下臣の伯楽と為るに意有らんか。…読みは問題集のもの)
この文の構造がどうなっているのか教えてほしい、「為臣伯楽」は「意」を修飾しているのでしょうか?と。
この箇所は、彼の見た書物では「あなたは私の伯楽になる気持ちがあるか(ありませんか)。」と訳されています。
なるほど、訳が「私の伯楽になる」→「気持ち」と修飾する関係で訳されているので、先の質問になったわけです。
「足下臣の伯楽と為るに意有らんか。」という読みが適切かどうかはともかくとして、日本語訳自体は間違ってはいません。
もう少し正確にいえば、自然な日本語としては適切な訳だろうということです。
構造的には、
主語「足下」+謂語「有」+賓語「意」+賓語「為臣伯楽」+語気詞「乎」
で説明されると思うので、同僚にはそう説明して、「あなたは気持ちを私の伯楽になることに対してもちますか」もしくは「あなたは気持ちを私の伯楽であることに対してもちますか」から、「あなたは私の伯楽になるおつもりがありますか」と意訳されることもあると解説しました。
しかし、個人的にふと疑問に感じたことがあったのと、本当にそれで正しかったかという検証が必要だと思い、少し調べてみることにしました。
私が抱いた疑問というのは、古典中国語文法とは関係なくて、AB2つの賓語をとる「有AB」の文を、なぜ「BにA有り」と訓読するのか?です。
「ABに有り」となぜ読まないのか?とも言い換えられます。
これは日本語の問題、訓読の問題なので、解決不能かもしれないな…と感じました。
「有AB」の文は、「有A於B」の形をとることが多く、その意味であるいは介詞「於」の省略形かもしれません。
・今有宝剣良馬於此、玩之不厭、視之無倦。(呂氏春秋・不苟論)
(今此に宝剣良馬有れば、之を玩(もてあそ)びて厭かず、之を視て倦むこと無し。)
(いまここに宝剣や良馬があれば、それを厭きることなく賞玩し、倦むことを知らずに眺めやる。)
読みと訳は『新編漢文選3 呂氏春秋・下』(明治書院1998)によりましたが、やはり「宝剣良馬此に有れば」ではなく「此に宝剣良馬有れば」と読まれています。
・今有璞玉於此、…(孟子・梁恵王下)
(今此に璞玉有らんに、…)
(今ここに山から掘り出したままで、まだ磨いていない玉があったとする。)
これも同様の例になりますが、『新釈漢文大系4・孟子』(明治書院1962)では、前の例と同じ語順で読まれています。
通常、存在文は、「A有B。」(AにB有り。)の形をとります。
存在主語「A」+謂語「有」+賓語「B」の構造で、賓語Bは意味上の主語となり、構造上の主語AはBが存在する範囲を示します。
・甕中有人。(広異記・10)
(甕中に人有り。)
(かめの中に人がいる。)
この例なら賓語「人」が意味上の主語となり、存在主語「甕中」がその存在する範囲を表すことになります。
Aが明確に範囲を表す場合は、訓読では必ず「AにB有り」と読みます。
これは理にかなった読み方と言えるでしょう。
それに対して、同じ「あり」と読む動詞には「在」があります。
「A在B。」(ABに在り。)の構造をとり、「AがBにある・いる」という意味を表します。
・令史在甕中。(広異記・10)
(令史甕中に在り。)
(令史がかめの中にいる。)
同じ出典の同じ文章の中で、2通りの表現を見つけました。
この「有」と「在」の違いは周知のことで、荻生徂徠の『訓訳示蒙』に明快に述べられています。
有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)
要するに、「有」は存在を表し、「在」は場所を表すということです。
したがって、「有」の下には存在する物が置かれ、「在」の下には存在する場所が示されます。
先の2例を対比しやすくするために次のように加工してみます。
・甕中有人。(甕中に人有り。)
・人在甕中。(人甕中に在り。)
訓読では、「A有B」の場合「AにBあり」と読み、「B在A」の場合「BAにあり」という読み分けがあるわけです。
ところが、存在を表す謂語動詞「有」は、「有B(於)A」の形をとることがあります。
上の例文が、理論上「有人於甕中。」の形をとることができるのは、次の例文からも明らかです。
・有人於此。(孟子・告子下)
(此に人あり。)
(ここに人がいる。)
ちなみに本来の存在文の形式に戻した「此有人。」という例文は見当たらず、必ず「於此有人。」の形をとります。
「甕中有人。」と「有人於甕中。」の表す意味自体は同じはずですが、なぜこのような2通りの表現があるのかについては、よく言われるように、中国語は既知情報が先、未知情報は後に表現されるということで説明できるのではと思います。
たとえば、以前のエントリーで取り上げた韓愈のいわゆる「馬説」に、連続する次の2文があります。
・世有伯楽、然後有千里馬。
(世に伯楽がいて、はじめて千里の馬がいる。)
・千里馬常有、伯楽不常有。
(千里の馬は常にいるが、伯楽は常にはいない。)
前文は世に存在する「伯楽」や「千里馬」は、読者にとっていわば未知情報にあたるので後に、後文はすでにその存在が示された「伯楽」「千里馬」は既知情報になるので主題主語として先に示されています。
このように考えると、「甕中有人。」は、すでにかめの存在が明らかになっているが、その中に人がいるということは未知情報であるために「甕中」が先に示され、「有人於甕中。」は、「人」の存在もかめの存在も未知情報ではあるが、まず人の存在を示すことが先で、それがどこに存在するのかという未知情報がその後に置かれていると説明されるのではないでしょうか。
漢文の構造に踏み込みましたが、さて、もう一度2つの文の読みを比べてみましょう。
・甕中有人。 →甕中に人有り。
・有人於甕中。 →甕中に人有り。
どちらも同じ読み方です。
もしも、後者を「人甕中に有り」と読めば、どうなるでしょう。
「人甕中にあり」と読まれた文は、「人在甕中。」のように聞こえます。
確かなことはわからず、現時点では訓読の慣習としか言えないのですが、「有AB」を「ABに有り」と読まず、「BにA有り」と読むのは、案外そんなところが理由なのかもしれません。
もう一つの課題、「足下有意為臣伯楽乎。」の構造が、私の説明でよかったのかどうかについては、項を改めて書いてみようと思います。
最近、教室の横を通ると、同僚の授業の黒板が見えることがあります。
古典中国語文法に基づいた漢文の構造が丁寧に説明されています。
勉強熱心な若い同僚たちが着実に力をつけてきています。
IT機器を駆使したり、アクティブラーニング等の授業技術の実践にも熱心な彼らですが、その大本になるべき学問的教養をおろそかにしない姿勢には、本当に嬉しくなります。
さて、その勉強熱心な同僚が、先日、ある文について質問してきました。
『戦国策・燕策二』の「蘇代為燕説斉」の条です。
足下有意為臣伯楽乎。
(足下臣の伯楽と為るに意有らんか。…読みは問題集のもの)
この文の構造がどうなっているのか教えてほしい、「為臣伯楽」は「意」を修飾しているのでしょうか?と。
この箇所は、彼の見た書物では「あなたは私の伯楽になる気持ちがあるか(ありませんか)。」と訳されています。
なるほど、訳が「私の伯楽になる」→「気持ち」と修飾する関係で訳されているので、先の質問になったわけです。
「足下臣の伯楽と為るに意有らんか。」という読みが適切かどうかはともかくとして、日本語訳自体は間違ってはいません。
もう少し正確にいえば、自然な日本語としては適切な訳だろうということです。
構造的には、
主語「足下」+謂語「有」+賓語「意」+賓語「為臣伯楽」+語気詞「乎」
で説明されると思うので、同僚にはそう説明して、「あなたは気持ちを私の伯楽になることに対してもちますか」もしくは「あなたは気持ちを私の伯楽であることに対してもちますか」から、「あなたは私の伯楽になるおつもりがありますか」と意訳されることもあると解説しました。
しかし、個人的にふと疑問に感じたことがあったのと、本当にそれで正しかったかという検証が必要だと思い、少し調べてみることにしました。
私が抱いた疑問というのは、古典中国語文法とは関係なくて、AB2つの賓語をとる「有AB」の文を、なぜ「BにA有り」と訓読するのか?です。
「ABに有り」となぜ読まないのか?とも言い換えられます。
これは日本語の問題、訓読の問題なので、解決不能かもしれないな…と感じました。
「有AB」の文は、「有A於B」の形をとることが多く、その意味であるいは介詞「於」の省略形かもしれません。
・今有宝剣良馬於此、玩之不厭、視之無倦。(呂氏春秋・不苟論)
(今此に宝剣良馬有れば、之を玩(もてあそ)びて厭かず、之を視て倦むこと無し。)
(いまここに宝剣や良馬があれば、それを厭きることなく賞玩し、倦むことを知らずに眺めやる。)
読みと訳は『新編漢文選3 呂氏春秋・下』(明治書院1998)によりましたが、やはり「宝剣良馬此に有れば」ではなく「此に宝剣良馬有れば」と読まれています。
・今有璞玉於此、…(孟子・梁恵王下)
(今此に璞玉有らんに、…)
(今ここに山から掘り出したままで、まだ磨いていない玉があったとする。)
これも同様の例になりますが、『新釈漢文大系4・孟子』(明治書院1962)では、前の例と同じ語順で読まれています。
通常、存在文は、「A有B。」(AにB有り。)の形をとります。
存在主語「A」+謂語「有」+賓語「B」の構造で、賓語Bは意味上の主語となり、構造上の主語AはBが存在する範囲を示します。
・甕中有人。(広異記・10)
(甕中に人有り。)
(かめの中に人がいる。)
この例なら賓語「人」が意味上の主語となり、存在主語「甕中」がその存在する範囲を表すことになります。
Aが明確に範囲を表す場合は、訓読では必ず「AにB有り」と読みます。
これは理にかなった読み方と言えるでしょう。
それに対して、同じ「あり」と読む動詞には「在」があります。
「A在B。」(ABに在り。)の構造をとり、「AがBにある・いる」という意味を表します。
・令史在甕中。(広異記・10)
(令史甕中に在り。)
(令史がかめの中にいる。)
同じ出典の同じ文章の中で、2通りの表現を見つけました。
この「有」と「在」の違いは周知のことで、荻生徂徠の『訓訳示蒙』に明快に述べられています。
有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)
要するに、「有」は存在を表し、「在」は場所を表すということです。
したがって、「有」の下には存在する物が置かれ、「在」の下には存在する場所が示されます。
先の2例を対比しやすくするために次のように加工してみます。
・甕中有人。(甕中に人有り。)
・人在甕中。(人甕中に在り。)
訓読では、「A有B」の場合「AにBあり」と読み、「B在A」の場合「BAにあり」という読み分けがあるわけです。
ところが、存在を表す謂語動詞「有」は、「有B(於)A」の形をとることがあります。
上の例文が、理論上「有人於甕中。」の形をとることができるのは、次の例文からも明らかです。
・有人於此。(孟子・告子下)
(此に人あり。)
(ここに人がいる。)
ちなみに本来の存在文の形式に戻した「此有人。」という例文は見当たらず、必ず「於此有人。」の形をとります。
「甕中有人。」と「有人於甕中。」の表す意味自体は同じはずですが、なぜこのような2通りの表現があるのかについては、よく言われるように、中国語は既知情報が先、未知情報は後に表現されるということで説明できるのではと思います。
たとえば、以前のエントリーで取り上げた韓愈のいわゆる「馬説」に、連続する次の2文があります。
・世有伯楽、然後有千里馬。
(世に伯楽がいて、はじめて千里の馬がいる。)
・千里馬常有、伯楽不常有。
(千里の馬は常にいるが、伯楽は常にはいない。)
前文は世に存在する「伯楽」や「千里馬」は、読者にとっていわば未知情報にあたるので後に、後文はすでにその存在が示された「伯楽」「千里馬」は既知情報になるので主題主語として先に示されています。
このように考えると、「甕中有人。」は、すでにかめの存在が明らかになっているが、その中に人がいるということは未知情報であるために「甕中」が先に示され、「有人於甕中。」は、「人」の存在もかめの存在も未知情報ではあるが、まず人の存在を示すことが先で、それがどこに存在するのかという未知情報がその後に置かれていると説明されるのではないでしょうか。
漢文の構造に踏み込みましたが、さて、もう一度2つの文の読みを比べてみましょう。
・甕中有人。 →甕中に人有り。
・有人於甕中。 →甕中に人有り。
どちらも同じ読み方です。
もしも、後者を「人甕中に有り」と読めば、どうなるでしょう。
「人甕中にあり」と読まれた文は、「人在甕中。」のように聞こえます。
確かなことはわからず、現時点では訓読の慣習としか言えないのですが、「有AB」を「ABに有り」と読まず、「BにA有り」と読むのは、案外そんなところが理由なのかもしれません。
もう一つの課題、「足下有意為臣伯楽乎。」の構造が、私の説明でよかったのかどうかについては、項を改めて書いてみようと思います。