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2021年03月の記事は以下のとおりです。

『人面桃花』に見られる「莫知所答」の「莫」の意味は?

(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「護驚起、莫知所答」の「莫」の意味について考察する。)

これまで、「莫」は「不」と同じか?という問題について、より慎重に判断すべきだと、文意から合理的に解釈することの危険性を、何度も指摘してきました。

無指代詞とされるにもかかわらず、「莫~者」という用例が多々みられること。
また、「諸将皆莫信」(諸将皆信ずる莫し)のような文の「莫」が「不」に同じで、「諸将皆不信」の意味だと中国の虚詞詞典や語法書に述べられていることなど。
一概に「莫」を無指代詞で片付けることの問題点は確かにあります。
しかし、「莫」の働きを、「不定のある人(もの)が~することがない」という意味を表すと位置づけて、その働きで説明できないかと考えることは「莫」の用法を考える時の基本的な姿勢であろうかと思います。

しかし、一方で、強引に「莫」を、何が何でも「不定のある人(もの)が~することがない」の意だと決めつけることも、また危険な態度であろうかなとも思います。
合理的に解釈しようとすることが危険であるように、また、強引にこじつけることも十分に危険なことだと思うからです。
以前にも述べたように、「莫」は「日が草に隠れて見えなくなる」が原義の字で、人や事物の存在を否定する用法は、そこからの引申義ともいい、また、音を借りたものともいいます。
その意味で、用法が無指代詞に限定されるとは限らず、また、「無」と「莫」は上古音が近く、「莫」が「無」の意味で用いられることもあったのではないかとも思うからでもあります。

とはいえ、「不」で解釈されそうな「莫」の諸例は、実は多くが「不定のある人(もの)が~することがない」で説明できるのではないかと考えてきました。

ところが、つい先日のこと、若い同僚の先生から、「莫」が用いられた文をうまく説明できないので教えてほしいと質問されたのです。
常々、授業ノートにびっしりと書き込みをして勉強をする、とても熱心な先生です。
私なんぞは今年度末で定年、再雇用であと数年もすれば退職する老年ですが、こういう若い努力家がいれば、安心して後を任せられるなと思えます。

彼が示した文例は『本事詩』のいわゆる「人面桃花」の一節です。

・有老父出曰、「君非崔護邪。」曰、「是也。」又哭曰、「君殺吾女。」護驚起、莫知所答(本事詩・情感)
(▼老父有り出でて曰はく、「君は崔護に非ずや。」と。曰はく、「是なり。」と。又た哭して曰はく、「君は吾が女(むすめ)を殺せり。」と。護驚き起ち、答ふる所を知る莫し。)

この「莫」をどう解釈するかは、確かに難しいと思います。
同僚が教示を求めてきたのは、この「莫」が無指代詞として説明しにくいからでした。

さて、この「人面桃花」のお話、該当箇所までの概略は次の通りです。

1年前の清明の日にたまたま立ち寄った家の娘に、崔護は酒で喉が渇いたからと水を求め、それを機にしとやかな娘の気を引こうとするが、娘もまんざらでもない様子で彼を見つめる。
崔護は後ろ髪をひかれつつ別れを告げたきり、そのまま再訪することもなかったが、翌年の清明の日に思い出して、気持ちを抑えきれず、また娘の家を訪れてみると、門が閉ざされていた。
そこで、昨年桃花と娘はともに美しかったが、娘はどこに行ったか、桃の花だけが変わらず風に吹かれて咲いていると、崔護は扉に詩を書き付けて去る。
そして数日後、もう一度娘の家を訪れてみると、家の中から哭声が聞こえてくるので、門を叩いて事情を聞いてみると…
と、例文に続くわけです。

「あなたは崔護ではないか」という老父の問いに、「そうです」と答えると、老父は大声で泣きながら「あなたは私の娘を殺した」と言う。
崔護は驚いて立ち上がり(『太平広記』は「驚起」を「驚怛」に作っており、それだと「驚き悲しんで」)、「莫知所答」
この「莫知所答」が、意味的に、「何と答えればよいかわからなかった」という内容であることはほぼ間違いがありません。

まず、この箇所の「所」はここでは後にとる「答」の生産性の客体を表しています。
「ソレを答えるソレ」あるいは「ソレと答えるソレ」、つまり「答える何かしらの言葉」の意です。
「答える方法」の意味ではありません。
ソレは「答」の生産性の客体ですから、「方法を答える」など、あり得ないからです。
もし「答える方法」の意味なら、「所以答」です。
つまり、「ソレによって答えるソレ」です。
「知所答」とは、「ソレを答えるソレを知る」、つまり「答える言葉を知る」「答える言葉がわかる・言葉を思いつく」の意です。
何であれ生み出される応答の言葉を指していて、それと1つに限定できるものではありません。

さて、次は「莫」なのだが…と、最近語法解説に明るい教科書会社の指導書の「人面桃花」の部分を見てみると、次のように述べられています。

莫知所答 どう答えたらよいかわからなかった。「莫~」は、ここでは「不~」と同じ用法。訓読上「莫知」を「知る莫し」と読むが、「知らない(=わからない)」と訳してよい。「所」は、後に続く動作を表す語句を「~するもの・こと」の意で名詞句化する用法。「所答」は、「答えること(=答えるべき内容)」の意を表す。全体では「答えるべき内容をわからなかった」となるので、「どう答えたらよいかわからなかった」意になる。

「所」についての説明は、じゃっかんたどたどしいところがありますが、まあ妥当な説明だと思います。
そして、やはり、この「莫」を「不」と同じ用法とみなしています。
これはこれで、中国の語法学を踏まえた最新の解釈であり、この教科書会社の漢文解釈の基本姿勢のひとつです。

しかし、素朴な疑問なのですが、もし「何と答えてよいかわからない」なら、「不知所答」(答ふる所を知らず)と表現すればいいことです。
なぜ「莫知所答」と表現する必要があるのでしょうか?
そのことの方に、むしろ生徒は疑問を感じるのではないでしょうか?

もしや文字の異同はないか?と調べてみましたが、どうもないようです。
『太平広記』に載せられている話も、同じ「莫知所答」です。

普通に「何と答えればよいかわからない」なら「不知所答」であるのに、あえてそう表現せずに「莫知所答」と「莫」を用いている。
これをどう考えればよいのでしょうか。

まず、このような「莫」は「不」と同じ用法であるとする説について考えてみましょう。

日本で一番よく参照されていると思われる商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』には、意外にもこの用法については触れられていません。
また、解恵全等の『古書虚詞通解』(中華書局2008)も、『詞詮』や『古書虚字集釈』の「莫」を「不」と解する記述を引用してはいますが、積極的に肯定せず、慎重な姿勢をとっています。

前々エントリーで引用した何楽士の『古代漢語虚詞詞典』の記述を再引用します。

(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。)

確かに何楽士は「一般的な否定を表す」と述べていますし、「不」「不能」などと訳すことができるとしています。
ですが、現代中国語で、そう解釈できる、そう訳せるということと、「莫」と「不」が同じ機能をもつということとは全く別の問題です。
もし現代語からの類推で、合理的解釈、自然な解釈として通るから、同じ意味を表すのだというのなら、それはとても危険な立ち位置ではないでしょうか。

「莫」も「不」も、春秋時代から常用される語であって、どちらかが淘汰されずにともに用いられてきたということは、本質的な機能が異なるものだからでしょう。
藤堂明保氏によれば、古代漢語の「不」は声母が〔p-〕類の破裂音、「莫」は〔m-〕類の鼻音と推定されるそうです。
系統の異なる音の2語が、同じ機能をするとは考えにくいことです。

「不」は動作や状況などを打ち消す働きをしますが、同時に表現者の意思がこもる語だと思います。
その意味で、客観的な事実の存在を打ち消す「無」とは本質的に異なるものだと以前述べました。
古代音に微妙な違いがあるとはいえ、「莫」と「無」は同じ〔m-〕類の鼻音に属します。
後の時代の用いられ方の変化はいざ知らず、もともとの「莫」の機能が別の語に近いとすれば、「不」よりはむしろ「無」というべきでしょう。

とはいえ、「莫知所答」を「不知所答」と同義として、「答える言葉を知らなかった」と解すればわかりやすいことは事実です。

次に、「莫」と古代音の近い「無」と同じ機能をしていると考えるのはどうでしょうか。
つまり、「無知所答」です。

先にも述べたように、「不」は表現者の意思がこもる語であるのに対して、「無」は客観的に事実の存在を打ち消す語であり、「~しない」と訳して意味が通るからといって、同じだと論じるのは、危険極まりない考え方です。
「不知所答」は「答える言葉を知らない」であり、「無知所答」はそれとは違って「答える言葉を知ることがない」です。
あくまで客観的に表現されているのです。

この場合、「護驚起、莫知所答」ですから、「無」に置き換えると「崔護無知所答」となるわけですが、「崔護は答える言葉を知ることがなかった」となるのでしょうか。
それなら、「崔護無所答」として、「崔護には答える言葉がなかった」とするほうが自然なようには思えますが、それを言ってしまっては始まらないし、「崔護無知所答」でもそれなりに意味が通らないわけではありません。
「莫」を「無」の意味に用いているのだとしても、説明がつかないわけではないように思います。
しかし、なんだか釈然としません。

最後に、「莫知所答」は、やはり「不知所答」でもなければ「無知所答」でもなく、あくまで「莫知所答」なのだと、少しこだわって考えてみたいと思います。

「莫」が無指代詞だとすれば、「崔護莫知所答」をどう解釈すればいいのか、首をかしげてしまいます。
これが崔護のように個人に特定される語が主語ではなくて、たとえば「人」だとか「諸将」であれば、説明は可能になります。
たとえば、「人莫知所答」なら、「人々は、だれも答える言葉を知らなかった」、つまり「人々は、誰も何と答えればよいかわからなかった」と解することができます。

しかし、この形式は、「莫知所答」の部分が、主語「人」に対して主謂謂語になるのが普通です。
つまり、「人は、その中の存在しないものが答える言葉を知る」です。

・尺地非其有也、一民非其臣。(孟子・公孫丑上)
(わずかな土地もその領土でない所はなく、一人の民もその臣下でないものはいない。)

この例のように、「莫」が判断文の主語の場合もあって、必ずしも施事主語になるとは限らないのですが、無指代詞として説明される「莫」は主語として位置づけられるのが基本です。
そうなると、「崔護莫知所答」は、「崔護は、存在しないものが答える言葉を知る」となってしまって、意味が通らなくなってしまいます。
なぜなら、「莫」は崔護に含まれるものでなければならないからです。
ですが、崔護は1人の個人に過ぎません。
同僚が説明できないと思ったのは、この部分でしょう。

たとえば、「崔護は、その中の何ものも答える言葉を知らなかった」と解してみてはどうでしょう。
崔護の中に何人もの彼がいて、その誰もが答えられなかったと解釈するわけですが、それはいかにもで、文学的表現としてはおもしろいかもしれませんが、語法的にはいかがなものでしょうか。

あるいは、「崔護は、いかなる部分についても、答える言葉を知らなかった」と解したら?
しかし、「莫」は、このような用いられ方で、崔護とは別の主題主語として機能するでしょうか?

このように考えてくると、やはりこの「莫知所答」は、「不知所答」または「無知所答」の意味で用いられていると考えるしかしかたがなくなります。

ここで1つの仮説を述べてみたいと思います。

先にも触れましたが、「莫」が「毋或」や「無或」の合音ではなかったかというのは、釈大典の見解に着目した鈴木直治氏の説です。(「古代漢語における否定詞について」(金沢大学教養部論集・人文科学篇1976))
氏はそれこそが「否定詞として用いられる『莫』の本質であると見るべきもののように考えられる」と述べています。
そして、

それでは,この「無或」の結合したものとしての「莫」の機能をどのようにとらえるべきであろうか。まず,「無或」は「無有」に通じて用いられることが多いものであることに注意しなければならない。「有」(ĥïuəg)と「或」(ĥuək)とは,その字音がきわめて近かったものであって,「或」は,よく「有」の意味に用いられているものである。それで,「無」と「或」との結合による「莫」も,当然,「無有」の意味にも用いられるようになっているわけである。(中略)
「無」と「無有」との相違は,(中略)単に「無」といっているものよりも,「無有」といっているものの方が,もちろん,より強い言いかたであったにちがいない。してみれば,「無或」の結合としての「莫」も,やはり通常の「無」よりも,より強い言いかたであったものにちがいない。

「莫」が「無」による禁止よりも、より強い言いかたであることを述べるくだりでの説明です。

「莫」がもし「無或」「無有」であるならば、「莫知所答」は、「無或知所答」もしくは「無有知所答」となります。
この「無或知所答」から、「不定のあるものが答える言葉を知ることがない」という無指代詞として働きが生まれると考えるわけですが、「無有知所答」として「無」よりも強い言い方で、「答えることばを知ることがあるということがない」という理解はできないでしょうか。

つまり、突然老父から、娘の死と、それが「君が私の娘を殺した」という思いもよらぬことを言われ、茫然とする崔護の態度として、「答える言葉がわからない・思いつかない」という以上に、「答える言葉がわかる・思いつくこと自体があるということがない」と客観的に表現されたものではないか。
そんなふうにも思うのです。
もちろん、これが冒頭で述べた強引な解釈になるかもしれないというのはあるのですが。

仮にそのような「莫」の用法があるとしても、『本事詩』は晩唐の伝奇小説であり、古代の「莫」の働きのままに用いられているなどと軽率に考えるわけにはいきません。
「莫」を「無有」で解し、私の仮説のように説明できたとしても、それが適切とは言いにくいでしょう。

「莫」の用法については、さらに慎重な調査研究を待ちたいと思います。

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