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2022年07月の記事は以下のとおりです。

「命中」とはどういう意味か?・2

(内容:「命中」という言葉の意味について考察する、その2。)

「中」の字の原義については諸説あるところですが、日本は加藤常賢『漢字の起源』(角川書店1970)、白川静『字統』(平凡社1999)、中国では李学勤『字源』(天津古籍出版社2012)などは、旗竿の象形に解しています。
旗竿は真ん中に棒を通してあるらしく、それがいわゆる「なか・中心」という意味を表すことになったのでしょう。
一方、朱駿声は『説文通訓定声』で、「□」と「|」の会意として、「上下通」すなわち、|が□を上下に貫く意に解し、「当たる」が原義であるとします。
「□」は射の的で、「|」がその真ん中を貫くわけです。
これを藤堂明保は『漢字語源辞典』(学燈社1965)で、「□印は的とは限るまい。」として、「枠の中を棒状の物がつきぬけて,両端の抜け出るさまを表わす。『命中・まん中・まん中を通す』などの意味を表す」と論じています。

つまり「なか・中心」が原義とする説と、「当たる」が原義とする説の2つあるわけですが、どうあれ、「中」の字に「当たる」という意味があるのは、字のなりたちそのものに関連があるわけです。

一方、「命」の字については、「令」+「口」からなり、基本的には「令」と同義の字のようです。
「令」は「△」+「⼙」からなる字だそうです。
「⼙」は人の屈服した姿を表しますが、「△」については、藤堂明保が「集める」の意に解しているのに対して、加藤は「叫ぶ」そして「教える」の意とする点が異なります。
どうあれ、屈服した人に言いつけて従わせるというのが「令」ということです。
「命」はそれに「口」を付して、声を出して指示し従わせるというのが、原義ということになります。

屈服した人に「叫ぶ」または「教える」というのは、その人たちのまだ知らぬこと、わからぬことを教え諭すに通じます。
藤堂が「しかし名と命とは,実は同じコトバであり,相手に対し,相手の知らない何事かを, 口でもってわからせる動作にほかならない。命名と熟して用いられるのは, そのためである。」と述べているのは興味深いことです。

してみると、「命」は「命じる」「教えてさせる」を原義として、わからぬものを教え諭す意から「名づける」という意味を表すことになります。
顔師古が「命中」について、

・命中者所指名処即中之也。

と注したのは、「命」を「指名する所の処」と説明したわけで、「射るのはあそこだ」と名づけるからの解釈とも「あそこに射ろよ」と命令するからの意ともとれそうです。
このあたりの解釈が、漢和辞典によって、この「命中」の語を、「めあて・目標」に寄せるか、「名づける」に寄せるかに分かれさせているのかなと思いますが、そのまま「命令する」の意味でも解せるかもしれません。

さて、肝心の次の句、

・力扼虎、射命中。

これをどう解するかが本題です。

「力は虎をひしぎ、射は命中する」と、我々の理解の「命中」で解してしまえばそれまでのことです。
案外それでもいいのかもしれません。

しかし、「命中」ということばが生まれたその時に立ち返って、班固がどういう意味で用いたのかをもし考えてよいのなら、可能性としてはいくつかあります。
ただし、「命中」は、「力」と「射」が対になる表現なので、「射は『命中』」で考えなければなりません。

まず、「命ずるままに中たる」(あそこに射ろよと命じた通りに当たる)です。
「命じて中たる」と読んでもよいかもしれません。
これは、「命」という動詞が「中」の修飾語であるという解釈です。

次に「命ずれば中たる」(あそこに射ろよと命じると当たる)です。
これも「命」が「中」の修飾語であるという点においては前と同じですが、仮定を含んだ意で解する点が異なります。
つまり、「命則中」(命ずれば則ち中たる)の意に解するものです。
『国宝 漢書 宋慶元本』(朋友書店1977)がこの読みになっています。

どちらでも解釈できそうなのですが、無理があると承知の上で、もう一つ考えたいのが、「中たるを命(ずるところ)にす」(当たるのをそこに射ろよと命じたところにする)です。
無理があるかもと思いながらこれを提示するのは、「力扼虎、射命中」が対になる表現だからです。
対になっているのだから、必ず構造が同じでなければならないわけではないと思います。
しかし、一つの解釈としては検討の余地がないでしょうか。
「力は虎をひしぎ(=それほど勇猛で)、射は当たるのを命じたところにする(=それほど正確である)」という対句表現は意味としては通るかなと思います。

この場合、顔師古のつけた注から、「命」を「指定」「めあて」「目標」と解する必要は特にないのではないでしょうか。
顔師古は「命中」の状況を説明したのであって、この「命」が命令するの意ではなく、「なづける」の意だと言ったわけではないのですから。

「命中」の意味は何かという生徒の問いに、色々考えてみました。

「命中」とはどういう意味か?・1

(内容:「命中」という言葉の意味について考察する、その1。)

3年生の古典の授業で『史記』の刺客列伝を扱いました。
いわゆる荊軻の始皇帝暗殺の場面です。
荊軻が始皇帝の剣により左股を断たれ、身動きならなくなった彼が匕首を秦王になげうちますが、当たらずに銅柱に当たってしまいます。
そのせいで荊軻は万事休す、左右の者によって殺されてしまうのですが…

さて、その場面を司馬遷は次のように記しています。

・不中、中銅柱。
(▼中(あ)たらず、銅柱に中たる。)
(▽当たらずに、銅柱に当たった。)

「銅柱」は「桐柱」に作るテキストもあり、画像石には匕首が柱に刺さっている絵もありますから、「桐柱」のテキストに基づいたものでしょう。

この「中」という字が「あたる」という意味で用いられるのは周知のことで、入試問題などでもその意味として用いられる「中」を含む熟語が問われることがあります。
だから、「中」の意味を押さえた後、「命中」「的中」という熟語を一緒に覚えておきなさいと授業では強調するのですが。

そう教えた放課後、1人の熱心な生徒が質問に来ました。

「『中』が『あたる』という意味なのはわかりましたが、『命中』『的中』というのは、構造的にどう説明されるのですか?」

一瞬、ギクリとしました。
確かにうまく説明できないのに、「覚えておけ」と言ったのは私です。
その生徒は、的にあたるのなら「中的」だと思うし、「命中」に至っては「命」の意味がわからないと言います。

その場で質問に答えられなかった私は、正直よくわからないので調べてみると答えましたが、一方でこういうことを疑問に思える生徒に、少し嬉しい気がしました。
なぜだろう?と考えることがどれだけ大切なことか、常々生徒に投げかけていたからです。
教えられたことを鵜呑みにせず、あれ?なぜだろう?と思えた生徒には頼もしさを覚えます。

さて、私も探究活動をしなければなりません。
「命中」とはいったいどういう意味なのでしょうか。

手許のデータベースで検索をかけてみると、いわゆる「的中」の例はヒットしませんでした、和製の語でしょうか。
一方、「命中」の方は、漢文の文献の中でいわゆる命中の意味で用いられている例は、どうやら『漢書』が最初のようです。

・陵召見武台、叩頭自請曰、「臣所将屯辺者、皆荊楚勇士奇材剣客也。力扼虎、射命中。願得自当一隊、到蘭干山南以分単于兵、毋令専郷弐師軍。」(漢書・李広伝)
(▼陵武台に召見し、叩頭して自ら請ひて曰はく、「臣の将(ひき)ゐる所の辺に屯する者は、皆荊楚の勇士奇材剣客なり。力は虎を扼し、「射命中」。願はくは自ら一隊に当たるを得、蘭干山の南に到りて以て単于の兵を分かち、専ら弐将軍に郷(むか)はしむること毋(な)けん。」と。)
(▽李陵は召されて武台殿で主上に謁見し、叩頭して自ら言った、「私めが率いる辺境に駐屯する者どもはみな荊楚の勇士や奇才剣客です。力は虎をおさえつけ、「射命中」。願いますことには、自ら一隊を指揮し、蘭干山の南まで進軍して単于の兵を分断し、専ら弐将軍(李広利)に向かわせることがないようにしたいものです。)

李陵は、騎馬がなくても寡兵で匈奴に攻め入ると主張して武帝に認められ、歩兵5000人で単于の30000兵と激突し、善戦するも敗れて、あの有名な「李陵の禍」につながることになるわけです。

さて、この「射命中」は、我々がそもそも「命中」ということばを、弾丸や矢が的に見事にあたることと理解しているために、すんなり「射が命中する」「射れば命中する」という意味だと読めてしまいます。
実際、小竹武夫氏も『漢書』(筑摩書房1978)で「その力は虎をもひしぎ、射ればかならず命中します。」と訳しておられます。
後漢の班固らがもとよりその意味で記述したことは、まず疑いありません。

しかし、この「射命中」が語法的、構造的にどう説明されるかは、また別の問題です。

唐の学者である顔師古が該当箇所に次のような注をつけています。

・師古曰、扼謂捉持之也、命中者所指名処即中之也。
(▼師古曰はく、扼とは之を捉持するなり、命中とは指名する所の処即ち之を中つるなりと。)
(▽師古がいう、「扼」とはとらえ持つの意である、「命中」とは指定した場所はとりもなおさずあてるのである。)

顔師古がこのような注を施したのは、おそらく文献上初出の「命中」という語句の意味が定かでなかったからでしょう。

手元にあるいくつかの漢和辞典で「命中」がどのように訳されているかを調べてみました。
すると概ね、指定した通りの場所や目標物に正しく当たるの意で説明されています。
売れ筋の具体的な辞書名を挙げて意見を述べると、批判的記事と見なされ、嫌な思いをすることになっても困るし、憚られるのでやめておきますが、中国の『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社)には、「命中」の義として、

射中或投中預定的目標。
(射てまたは投げて予定の目標にあたること。)

とあり、また、本邦の『大漢和辞典 修訂版』(大修館書店)には、

狙った所に正しくあたる。命は、めあての所。

とあるので、手元の辞書の数々はこれらを参考にしたのかもしれません。

ところで、この『大漢和辞典』は「命中」の項には、用例として『漢書・李広伝』の「射命中」を引用して返り点はついていないのですが、字義の項では「めあて」として同例を引きながら、「射」と「命」の間にレ点がついています。
その影響なのか、「命ヅクルトコロニ射レバ中タル」と訓じてある辞書もあります。

しかしおそらくこれは誤読です。
『史記』の記述をもう一度示します。

・力扼虎、射命中。

李陵が自分の率いる兵士の勇猛さと戦闘技術の高さを述べている箇所です。
これは「力」と「射」が対になり、「力は~」「射は~」と読むべきであることは明らかです。
何事にも絶対ということはないでしょうが、「命」から「射」に返って読む構造ではないと思います。
つまり、「力は虎を扼し」「射は『命中』する」の関係にほぼ間違いありません。
問題はその『命中』をどう解するかです。

(記事削除・11)

  • 2022/07/20 08:02
  • カテゴリー:その他
(内容:記事削除の連絡。No.11)

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