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2022年05月の記事は以下のとおりです。

「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置か?・2

(内容:『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置文か?ということの考察から、帰着性従属について考える、その2。)

先日、2年生の授業で、『史記』項羽本紀のいわゆる「鴻門の会」を扱っていて、例の沛公の老獪な謝罪の言葉にさしかかりました。

・然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。
(然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆることを得んとは。…句読点、読みは教科書による。)

そしてこのちょっと凝った読み方に触れて、「不自意」の部分が先に読まれているけれども、「能先入関破秦、得復見将軍於此」の部分は本来賓語であって、別に倒置形ではない、もしこれを本来の構造に従って読めば、「然れども自ら能く先づ関に入りて秦を破り復た将軍に此に見ゆることを得んとは意はず」となって、「不」には五点をもって返ることになるなどと口にしました。

その時、ふとこの説明は正しいか?と疑問に思いました。
これまで何度も扱ってきた教材で、この箇所にさしかかると、同じような説明をしてきたのですが、これは漢文の正規の語順で、訓読で倒置して読んでいるから強調表現なのだと思われては困ると思うと共に、「おもはざりき」という読み方が、別に「おもはず」でいいのではないかという引っかかりから、つい口にする文言だったのですが。

この説明は正しいか?という疑問は、もちろんもしやこれは帰着性従属ではないかという思いがなさせたものです。
そして、そのこととは別か、もしくは別でないのか、「能先入関破秦、得復見将軍於此」の部分を「不自意」のただの賓語とみなすにしては長すぎるという思いは、帰着性従属という考え方を知る以前から気になっていたことではありました。

同様のことは、「曰」についても言えます。
たとえば、

・項王曰、「諾。」
(項王曰はく、「諾。」と。)

この程度であれば、「諾」を「曰」の生産性の賓語として、主語「項王」+謂語「曰」+賓語「諾」と説明できないことはありません。
しかし、たとえば次の例、

・謝曰、「臣与将軍勠力而攻秦。将軍戦河北、臣戦河南。然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」
(謝して曰はく、「臣将軍と力を勠はせて秦を攻む。将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆるを得んとは。今者小人の言有り、将軍をして臣と郤有らしむ。」と。)

賓語の部分がこれだけ長いと、「~と言った」と説明するのはかなり苦しくなります。
「曰~」の形式は、~の部分がこれよりはるかに長いものも普通にあり、それらがみな「曰」のただの賓語だというのは、果たしてどうだろうかと思ってしまいます。

松下大三郎氏の『標準漢文法』に、断句的修用語というものが説かれています。
断句とは意義の尽きるところ、すなわち句であって、我々がいわゆる文と称するものに該当します。
修用語とは別の語の運用を修飾する語で、連用修飾語と考えてよいでしょう。
氏は、断句的修用語について、次のように述べています。

斷句的修用語は獨立性の語が從屬化して修用語となつたものである。
斷句的修用語となり得るものは、一、實質感動詞、二、喚呼態名詞、三、指示態名詞、四、敍述態名詞、五、動詞、この五種である。何れも一度獨立して一斷句となつたものゝ從屬化である。

5種あるうちの、「動詞」が問題になるのですが、断句的修用語がどんなものなのかを比較的理解しやすいものとして、喚呼態名詞の例を引用してみましょう。

・求爾何如。…赤爾何如。…。論語先進
(求よ爾(なんぢ)は何如。…赤よ爾は何如。…)

の場合なら、「求」「赤」が「名詞の喚呼態より成る斷句的修用語」です。
そして「爾何如」(おまえはどうだ?)が「その被修用語」となります。
氏の説明を借りると、「求よ」は独立性はありますが、「爾は何如」という問いを発するために呼びかけたのですから、その問いの語の相手を示すものとして「爾何如」に従属します。
他者に対する呼びかけは、たとえば、「先生」と呼びかければ、それだけで独立性をもちます。
しかし、大概の場合、その後に何らかの要件を伴うもので、呼びかけた語は、後の要件に従属するとする、それが断句的修用語です。

さて、その断句的修用語になり得るものとして、ここで問題となるのが動詞です。

動詞は獨立して斷句の代表部となり得べきものである。例へば「月出」「風清」は各一つの斷句であつて「出」「清」はその代表部である。
併し之を從屬化して用ゐる場合が有る。

氏はその場合として、「1.接続性従属」「2.喚呼性従属」「3.感動性従属」「4.帰著性従属」の4つを挙げるのですが、1~3は自分でお読みいただくとして、私がここのところずっと気にかかっているのが、4の帰著性従属です。
帰著性とは帰着性です。

「人食桃。」という文があった場合、「人」を主語、「食」を述語、「桃」を目的語とします。
中国語では主語、謂語、賓語と呼びますが、これを日本人になじみやすい用語に改めたのが述語、目的語です。
賓語や目的語は、客語と呼ばれることもあります。
しかし、述語は主語に対する概念であり、客語や賓語、目的語は述語に対する概念ではなく、帰着語に対する概念です。
つまり、主語「人」+述部「食桃」という考え方と、帰着語「食」+客語「桃」という考え方は、異なる考え方だということです。

述語は主語に対するものである以上、帰着語を述語とみなしてしまうと、必ず主語に対するものでなければなりませんが、帰着語は必ずしも述語になるとは限りません。
「有食桃者」(桃を食べる人がいる)は、「食」は帰着語ですが、客語の一部であり、述語ではありません。
「食桃之人笑」(桃を食べる人が笑う)も、「食」は主語の一部ですが、述語ではありません。

帰着語は、客体に帰着する作用を表して客語を統率します。
すなわち、帰着語「食」は、客体(桃)に帰着する作用を表して客語(桃)を統率するのです。

したがって、前エントリーの続きについて考えを進めれば、たとえば、

・王不知客之欺己、而誅学者之晩也。(韓非子・外儲説左上)
(王は客が自分をだましたことを知らずに、学ぶものが遅いのを責め殺した。)

という文の場合は、「不知」は帰着語で、「客之欺己」は客語です。
それは「客之欺己」が「之」によって名詞化していることからも、また、文が説明の語気を表す「也」で結ばれていることからもわかります。

しかし、原田氏が「これらは皆倒置法では解釈することができない」として引用した次の例はどうでしょうか。

・不識可使寡人得見乎。(孟子・公孫丑下)

これをもし「不識」を帰着語とした場合、その客体は「可使寡人得見乎」になるでしょうか。
仮にそうだと決めて、「寡人をして見ゆるを得しむべきかを識らず」と、この文を解釈することは可能でしょうか。
そんなことはないと批判されることを覚悟して私見を述べれば、もし「不識」をただの帰着語とすれば、私にはこの文は、

・寡人をして見ゆるを得しむべきことを識らずや。
(私に会うことができるようにさせることを知らないのか。)

という意味になってしまうように思えます。
うまく言えないのですが、「不識」がただの帰着語であれば、語気詞「乎」はやはり「不識~」に疑問の語気を添える働きをするように思うのです。

原田氏が示したもう一つの例、

・不識此語誠然乎哉。(孟子・万章上)

これも「不識」がただの帰着語なら、

・此の語の誠に然るを知らざるか。(または、此の語の誠に然るを知らざるかな。)
(この語が本当にそうであることを知らないのか。(または、この語が本当にそうであることを知らないのだなあ。)

となってしまうと思います。
しかし、いずれの例もそういう意味ではない。
「可使寡人得見乎」の「乎」は「可使寡人得見」に、「此語誠然乎哉」の「乎哉」は「此語誠然」に疑問の語気を添える働きをしており、「不識」に対するものではないでしょう。

そして、氏が説明した次の例、

・不識有諸。(孟子・梁恵王上)

そもそも「之乎」の兼詞という「諸」が、「諸(これ)有るを識らずや。(これがあることを知らないのか。)」などと、「有」を飛び越えて「不識」に疑問の語気を添えることなどあるでしょうか。
私は、「有諸」でひとまとまりであって、「これがあるのか」という意味以外表さないように思います。

『孟子』に次のような例があります。

・不識舜不知象之将殺己与。(孟子・万章上)
(識らず舜は象の将に己を殺さんとするを知らずや。)

この「与」は「舜不知象之将殺己」に添えた疑問の語気詞で、「不識」に対するものではありません。
「不識」をどう訳すかはともかくとして、「不識、舜は象が自分を殺そうとしていることを知らなかったのか」です。

すべての例がそうであるとは言えませんが、「不知」がただの帰着語で、その後の部分が主語と謂語の関係からなる客語の場合、この例のように、主語と謂語の間に「之」が置かれることが多いと思います。
それは「象将殺己」が帰着語「不知」の客語であることを明確にするためでしょう。
文末の語気詞「与」が「将殺己」を疑問態にするのではないということを、結果的に示す働きをしているとも言えます。

多くの例をもって検証したわけではないので、断定的な物言いはできませんが、これらの文頭に置かれた「不識」「不知」をその後の疑問を表す客語の帰着語だと考えることは、「不知~乎」の形にはまってしまって、「~するかを知らず」ではなく、「~するを知らずや・~するを知らざるか」という意味を表してしまって、文意に合わなくなってしまうように思います。

もとより、文末に疑問の語気詞が置かれない形、客語にあたる部分に「之」が用いられない形、そもそも疑問文ではない形等々、簡単にはこうと結論づけられないものがありますが、少しずつ検討していかねばなりません。
そして、「不知」を帰着性従属と捉えてどう解釈すればいいのか、またどう訳せばいいのかという問題も。

この件に関する検討は、まだ続きますが、とりあえず、思考過程を示しておこうと思います。

「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置か?・1

(内容:『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置文か?ということの考察から、帰着性従属について考える、その1。)

教育実習生に2年生の古典の授業を担当してもらうことになり、『方丈記』の冒頭を見ていると、指導案に「『知らず』はどこを受けているか確認する。」という内容がありました。
これは、次の一節に対するものです。

知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

これがちょっとひっかかりました。
気になっていくつか手許の書籍を見てみると、漢文訓読体による倒置法で『……を知らず』の強調表現と述べられていたり、また、「生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る(を)知らず」という文の倒置だとも書かれています。
いくつか教師用の指導書を確認しましたが、総じて倒置法と説明してありました。

これがなぜひっかかったのかというと、ずっと以前に、このような「知らず」は倒置表現ではないという文章を読んだ記憶があったからです。
それと倒置に伴う「強調表現」という説明が、あれ?と思わせたのです。
これをそのまま漢文に直せば、「不知」は文頭に来るのであって、それを先に読んだからといって強調表現にはなるまいと思うし、そもそも「漢文訓読体」における強調表現と漢文そのものとは切り離して限定的に捉えるなら、なぜ「生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る(を)知らず」と表現していないのか、そのこと自体を考えてはいないと思うのです。

このようなことが気にかかったのは、かねてより「曰」(いはく)の用法について、考え続けているからです。
『論語・語法注解』を公開し、それに対して精査してくださったN氏のことは前エントリーでご紹介しましたが、その中に「A曰、B。」(A曰はく、Bと。)の形について、私がよく考えもせずに「ABと曰ふ」の構造を「曰」を先に読んだものに過ぎず、Bは「曰」の賓語と即断したことに、疑義を呈して下さっていました。
手近なところに、「曰」についての、最近の中国・日本の研究を見いだせず、考えあぐねていたのですが、それとこの「不知」が関連性があるように思えたのです。

私が以前読んだ書物は何だっただろうか…と、しばらく時間がかかりましたが、色々と情報を集めて、それが原田種成氏の『私の漢文講義』(大修館書店1995)であることがわかり、今は手許になかったので、早速取り寄せて読んでみました。

原田氏は、ある大学の入試問題に件の『方丈記』の文が示され、「不知(知らず)」とは何を知らないのであるのかという設問に驚き、手近にある教授用指導書でどのように解釈しているかを調べてみると、どれもこれも倒置法として解釈していると指摘しています。
その上で、

しかし、これは漢文脈をちょっと知っていれば、ここの「知らず」は「……がわからない」「……を知らない」の意ではなくして、「いったい……であろうか」という、疑問の気持を強調する働きを持つ、強めの修辞で、句末を疑問詞で結ぶ一種の発語であることは自明のことである。漢詩、漢文の中には実例が極めて多い。

と述べています。
そして例として、

・李白、洞庭に遊ぶ「日落ちて長沙秋色遠し、知らず何れの処にか湘君を弔わん」(いったい何処で湘水の神をとむらってよいものだろうか)
・李白、秋浦の歌「知らず明鏡の裏、何れの処よりか秋霜を得たる」(明るい鏡の中の頭へ、いったい何処から秋の霜がふって来たのであろうか)

などの6例を挙げて、

これらの例を倒置法と解してしまったのでは文脈を正しく理解することはできない。試みに方丈記のこの条を、倒置法として「……がわからない」とは訳さずして、「いったい……であろうか」と訳してみれば、どんなにスッキリすることであろうか。

とします。

私的には氏の「これらの例を倒置法と解してしまったのでは」という一節について、これらの例のどこが倒置法なのかよくわからない思いはするのですが。
かりに「Aを知らない」「Aがわからない」という文を漢文にした場合、「不知A」となり、「不知」が先に来るのが正規の語順ですから。
しかし、原田氏がよもやそんなわかりきったことを誤って述べられるはずもなく、おそらくは、このような「不知、[疑問]」の用法を、[疑問]の部分が謂語「不知」の賓語ではないと主張しておられるのでしょう。

氏は、

しかし、これでもまだ、いや倒置法である。李白の詩の場合も「何処で湘水の神をとむらってよいものかわからない」と訳せるではないかと主張する人もあるであろう。そこで、どうしても倒置法としては訳せない例を次に示そう。

として、3例挙げて説明しておられます。
ここではその中から1例を挙げてみましょう。

・孟子、梁恵王上「臣これを胡齕(ここつ)に聞けり。曰く『王、堂上に坐せり。牛を牽(ひ)いて堂下を過ぐる者あり。王、これを見て曰く「牛何(いず)くにゆく」と。対えて曰く「将に鐘に釁(ちぬ)らんとす」と。王曰く「これを舎(お)け。吾、その觳觫(こくそく)として罪なくして死地に就くが若くなるに忍びず」と。対えて曰く「然らば則ち鐘に釁ることを廃止せんか」と。曰く「何ぞ廃すべけんや、羊をもつてこれに易(か)えよ」と』識(し)らず、これありや」

この例に対して、氏は、

ここは「不識」を用いて「不知」ではないが文脈は同じである。孟子が斉の宣王に「……王様は羊をもって牛に易えよとおっしゃそうですが、いったいそんなことがありましたのですか」と次に展開すべき議論のために、だめを押して尋ねたのである。これを倒置法として「これあるを識らず(そういうことがあったことを知りません)」とは訳すことはできない。

と断じています。
氏は強い口調で「……を知らない」「……がわからない」する理解を、厳しく批判しています。
ですから、それに反論したり、疑いをもって臨んでは、それこそお叱りを受けてしまうかもしれませんが、私はそれでも氏の主張を、まずは本当だろうか?と疑ってみたい気持ちを強くもちます。

まず、氏が倒置法としては訳せない例とした「識らず、これありや」ですが、「これあるを識らず(そういうことがあったことを知りません)」と訳すことはできないのは確かにその通りですが、知ってか知らずか「これがあったのかを知りません」「これがあったのかがわかりません」とは訳していません。
孟子の本文は「不識有諸」です。
「諸」は「之乎」ですから、疑問の語気が含まれています。
倒置法として訳せないというなら、「これがあったのかを知りません」と訳した上で論じなければ、お話にならないでしょう。

氏は他に、

・孟子、公孫丑上(筆者注:これは誤りで、公孫丑下)(省略)識らず、寡人をして見ることを得しむべきか」
・孟子、万章上「(省略)識らず、この語 誠に然るか」

を挙げていますが、これには訳はなく、「これらは皆倒置法では解釈することができない」と断ずるばかりです。
これらも「私に会うことができるようにさせてもらえるかがわからない」、「この言葉が本当にそうであるかがわからない」として、相手に判断を委ねる表現とみなせば、通らないことはないと思います。

断っておきますが、私がそう判断し、この構造を氏のいう倒置とみなしているわけではありません。

ただ、私が言いたいのは、この説明では「これでもまだ、いや倒置法であると主張する人」を納得させることはできないということです。
お叱りを覚悟して言うなら、これらの人を納得させるためには、訳をごまかしたりせず、なぜ倒置法ではないのかを、きちんと説明する必要があるのではないかと思います。

今、私の頭の中にあるのは、『標準漢文法』に書かれている「帰着性従属」の一語です。
それがずっと私をモヤモヤさせているわけです。
この「不知[疑問]」「不識[疑問]は、おそらくその構造でしょう。

原田氏の「『いったい』と訳すのは意訳ではなくして適訳である」を、いや、実は「適訳」ではなくして「意訳」ではあるまいか?と思ったりもするのですが…
公務が忙しく、なかなか考える時間が生まれてこない状況にはありますが、松下大三郎氏の「帰着性従属」を紹介し、検討してみたいと思います。

懸案の「曰はく」の働きも本当にそれで説明できるのか… 考えてみたいと思います。
少しずつですが。

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