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2019年06月の記事は以下のとおりです。

動詞や形容詞の前の「無」「非」は「不」と同じか?

(内容:現在主流の古典中国語文法では、動詞や形容詞の前の「無」や「非」が「不」と同じ働きとされ、日本の漢和辞典にも同様の記載があるが、その妥当性について考察する。)

漢文を中国の古典文法に基づいて理解しようと思い始めたのは、そう昔のことでもないのですが、ひとたびその明快さに触れると楽しくてなりません。
必然的に中国の専門書を読みあさり、いわゆる工具書の類を買い揃え手元に置いて、何か疑問に感じるたびに調べるようになりました。
その初めの頃というのは、専門の語法書や虚詞詞典等に書いてあることが目に新しく、今思えば極めて危険なことですが、いわば鵜呑みにしてしまうということもありました。
考えてみれば、いくら漢文が本来中国のものであっても、だから中国の書物に書かれていることが必ず正しいとは言えないことぐらい理の当然です。
それにもかかわらず一心に信じてしまうほど、漢文を古典中国語文法で理解しようとすることは新鮮だったのです。

拙著『概説 漢文の語法』は、そんな時期の新鮮な驚きに突き動かされるようにして書いたものですから、今改めて読み直すと、気になる部分がないわけではありません。
本当は一から見直して書き直したいのですが、多忙につき時間が捻出できないので、気づき次第訂正していくしかない状態です。

気になることの一つが、「『無』が動詞述語を修飾する時は『不』と同じ働きをする」です。

最近の日本の書籍にも、中国の語法研究を踏まえて、「無」が否定副詞として、動詞述語の前に置かれて行為や状態を否定し、「~しない」という意味を表すと述べているものがあるようです。

『漢語大詞典』にも次のように書かれています。

(8)副詞。表示否定,相當於“不”。
(副詞。否定を表し、“不”に相当する。)

また、『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)にも、

三、用在动词、形容词谓语前,表示对所述事实的否定。义通“不”。可译为“不”、“没有”等。
(動詞、形容詞述語の前で用いて,述べた事実の否定を表す。意味は“不”に通じる。“不”、“没有”などと訳すことができる。)

と書かれています。

「無」は「なし」だと思い込んでいた身としては、その新鮮さに目を奪われ、「無」が動詞述語の前に置かれた時は、副詞であって「不」と同じく述語を修飾して「~しない」と訳すのだと、授業でも言い、また書きもしました。
実際、拙著『概説 漢文の語法』にも「無」を否定副詞として取りあげ、同様の説明をしました。

しかし、熱病のように信じる一方で、どこか釈然としないものも感じていました。
「無A」(Aは動詞)が「Aしない」という意味なら、「不A」と表現すればよいものを、なぜあえて「無A」と表現するのだろうか。
そういう素朴な疑問です。
表現が異なれば、もつ意味も変わるのが自然です。
それなのに、「無」は否定副詞で「不」と同じだと断じてしまうことは、大体の意味において同じことを表していたとしても、細かい差異を無視することになりはしないか。

そんなふうに内心疑問を感じていた時に読んだのが、張文国/張文強の「论先秦汉语的“有(无)+VP”结构」(先秦漢語の「有(無)+VP」構造)という論文でした。
この論文については、「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」のエントリーでも引用紹介したことがありますが、その中で、論語の「志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁。」について、馬建忠が『馬氏文通』で「『無』字は『不』字と解するのが常である。」と述べたことに対する反論が見られます。
再引用します。

有无句“在形式上虽是叙述句,在意义上却有些是带有描写性的”。这句话就是从正反两个角度描写“志士仁人”所具有的品质的,意思是说在“志士仁人”那里,没有“杀生以害仁”这样的事儿,有“杀身以成仁”的事儿,至于《马氏文通》的解释,“志士仁人决不求生以害仁,惟有杀身以成仁而已”,则不是描述称颂“志士仁人”,而是叙述“志士仁人”的决心,显然与该句本来的意思大相径庭。
(有無句は、「形式上は叙述句であるが、意味上は描写的な性質を帯びている」。この文は正反対の二つの角度から「志士仁人」がもつ品性を描写しているが、意図は「志士仁人」の句において、「求生以害仁」のようなことはなく、「殺身以成仁」ということがあることを述べることにあり、『馬氏文通』の「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。(志士仁人は決して生を求めて仁を害せず、ただ身を殺して仁をなすことがあるばかりだ。)」という解釈に至っては、「志士仁人」を称賛することを述べたのではなく、「志士仁人」の決意を述べたことになり、明確にこの句の本来の意味と大きな隔たりがある。)

この論文にそう書かれているからそうだと、またしても鵜呑みにするのではありません。
得心もせずに中国の語法書や辞書の記述を信じ込むことの危険性に気づかされたのです。

その後、多くの用例に接し、さまざまな論文に触れていくうちに、動詞や形容詞の前に置かれる「無」は「不」とはみなさず、存在しないことを客観的に描写する働きと切り分ける方が適切だと思うに至りました。
その意味では、「無A」を「Aする(こと)無し」と訓読して、「Aすることはない」と訳す従来の方式の方がむしろ適切です。
この「無」を否定副詞と取り扱うか、「有」の対義である動詞とみなすか。
中国の語法書が副詞とするのは、動詞や形容詞述語を前置修飾すると考えているからですが、それは「無」を「不」と同じ働きの語とする結果でしょう。
「Aしない」も「Aすることがない」も現象的には同じことを指しますから、それはそれでよいのかもしれませんし、実際中国では副詞とみなされています。
ですが、私的には「不」と同じとする否定副詞「無」の用例の多くが、実は依然として存在しないことを客観的に描写する動詞であって、Aはその賓語であるように思えます。

「無」を「不」と同義とする考え方に危険性を感じ始めると、似たようなことは他にもあります。

否定副詞「非」についても、動詞や形容詞の前に置かれた時には「不」と同義だと説かれることがあるようです。
しかし、果たして本当にそうでしょうか?

「非」は打消の副詞、すなわち否定副詞とされます。
しかし、一方で判断を打ち消す動詞とする説もあります。
「A為B」(AハBたリ)は、「AはBである」という意味の判断文ですが、「為」はいわばbe動詞、判断を表す動詞です。
その対にあたるのが「非」と考えれば、否定的判断を表す動詞とみなすことになります。
否定副詞とみなすか、否定的判断を表す動詞とみなすかは、品詞に対する解釈の違いになりますが、働き自体は変わりません。

本来、「非」は「~ではない」という否定的判断を表す語、それを用いて「非A」(Aスルニあらズ)という形で動詞Aを否定する働きが、本当に「不」と同じなのでしょうか。

臣非知君、知君乃蘇君。(史記・張儀列伝)

たとえばこの例は「臣不知君」に同じで「私は君を理解しない、君を理解するのは蘇秦殿である。」という意味でしょうか?
「臣不知君」であれば、「知らない」という話者の主観的な思いを述べたものですが、「臣非知君」は、自分が「君を知る」ということについての否定的判断を示したものです、そういう存在ではないと。
だから、その後に「君を知るのはまさに蘇秦殿である」という表現が成立するのだと思います。

すべての例がそのように説明がつくとはもちろん思いませんが、私の言いたいことは、「無」や「非」が簡単に「不」と同じ働きと断じてしまうことは、とても危険な考え方だということです。

その意味で、『概説 漢文の語法』は、まだまだ見直しを図らなければなりません。
あちこちにまだまだ怪しいところがある、道は遠いと思わずにはいられません。

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