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2021年11月の記事は以下のとおりです。

「不亦~乎」は本当に感嘆・詠嘆を表すか?

(内容:「なんと~ではないか」という感嘆文だとされる「不亦~乎」について、本当にそういう意味であるかどうかを考察する。)

『論語』は、高等学校の定番教材です。
1年生に対して、そろそろ『論語』の授業もしなければならないし、このブログでは項羽と劉邦の「語法注解」の後には、『論語』を取り扱おうとも思っています。

「語法注解」では、教科書によく採られる教材について考えるのですが、まずはなんと言っても「学而」篇の冒頭です。

・子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語・学而)
(▼子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」と。
(▽先生が、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、『不亦説乎』。友人が遠くから来てくれるのは、『不亦楽乎』。人が理解してくれなくても不平に思わないのは、『不亦君子乎』」とおっしゃった。)

「学」や「時」「習」などの語義については、なにしろ『論語』の研究は古来なされてきたわけですから、実にもう様々な解釈があります。
そういうのを本当のところはどうなのだろう?と考えてみるのも楽しいのですが、私的にはやはり文構造と語法が気になります。
そうです、最初に引っかかったのは「不亦説乎」「不亦楽乎」「不亦君子乎」に見られる「不亦~乎」の意味です。

この「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とされます。
つまり、「なんと喜ばしいではないか」「なんと楽しいではないか」「なんと君子ではないか」と解釈するわけです。
しかし、「不亦~乎」が、なぜ詠嘆・感嘆の意味を表すのでしょうか。
というよりも、そもそも「不亦~乎」は本当に詠嘆・感嘆を表すのでしょうか。

「不亦~乎」は、頻繁に出てくるので、生徒にも注意喚起する形です。
「なんと~ではないか」と訳すんだ、覚えとけ!と、学校や予備校でやっておられるのではないかと思います。
しかし、なぜそういう意味を表すのかについて、きちんと説明されることはおそらくないのではないでしょうか。

たいていの漢文の語法について述べた書籍には「なんと~ではないか」という詠嘆の表現として済まされています。

江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)には、次のように書かれています。

反語専用の慣用句。「亦」はここでは語気を婉曲に、おだやかにするために添えた語。「不…乎」で反対の構文となり、「不亦…乎」で「なんと…ではないか」と、感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣。

最後の「感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣」というのは微妙な表現で、本来はそうではないという意味がこめてあるのでしょうか。
この形は反語で、「亦」は語気を婉曲にする語というのですから、本来は感嘆・同意ではなく「…ではないか」の意だというのが趣旨なのかもしれません。

加地伸行氏の『漢文法基礎』(増進会出版1977)には、「不亦~乎」の形について、

「なんと…ではないか」の意味で、反語形であって詠嘆的な肯定を表す。

と書いてあります。

また、『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、「不亦―乎」の項を設け、

「亦」は、ふつう「AハBナリ。Cモ亦タBナリ」のように、「CもまたAと同様にBだ」と、二つのものが同じであるときに用いる助字である。この働きから「モ亦タ」と呼ばれる。しかし、右の構文の時には、「なんと」のような感嘆の意味を表す。「乎」が反語を表し、「不亦―乎」全体で「なんと…ではないか」と訳してしまう、一種の慣用句である。

と説明してあります。

しかし、残念ながら、どの書物にも、なにゆえ「亦」が感嘆の意味を表すのかまでは説明されていません。

高等学校の先生方が、漢文の語法に疑問を感じられた時に、教科書の指導書や漢文句法のサブテキスト以外に参照するものとしては、こういったところが代表格かなと思うのですが、どうも「不亦~乎」の形についてきちんと説明したものは見当たらないようです。
そして、詠嘆・感嘆で訳すことになっているのだと、「習慣」で説明されてしまっています。
これではやっぱり「不亦~乎」の形は感嘆・詠嘆を表し「なんと~ではないか」と訳す、覚えとけ!になってしまいます。

それではあまりに…と思いますので、私的に考えてみたいと思います。

そもそも「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字だと言われています。
藤堂明保氏は、『漢字語源辞典』(學燈社1965)に、「亦」の字について、次のように説明しています。

「ワキ」とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である。

また、加藤常賢氏は『漢字の起源』(角川書店1970)で、

「亦」を「また」の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う。

と述べています。

してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになるでしょうか。

以前のエントリーでも述べたように、「亦」は、「則」に対する語です。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説く。
これを松下大三郎氏は、『標準漢文法』(紀元社1927)で、分説・合説の別をもって説明しています。

また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示します。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となります。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となります。
「亦」の働きは基本的にこの2つであることは、これも松下氏に学びながら、前エントリーで述べたものです。

さらに、これも前エントリーで述べましたが、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られます。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではありませんし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではありません。
これについても松下氏は、これらの「亦」が、色々と考えをめぐらした中から、これというものを示して、「やはり~だ」と示す語だと説いています。
「王は(私が色々思う中でも)やはり仁義があるばかりです」だし、「范増は(私が色々思う中でも)やはり人傑であるなあ」となるわけです。

私は、「不亦~乎」についても、松下氏がすでに試みているように、これらの「亦」の基本義を踏まえた検討をすべきであると思います。

「不亦~乎」の形については、清朝中期の学者、王引之が『経伝釈詞』で、

凡言「不亦」者、皆以「亦」為語助。「不亦説乎」、不説乎也。「不亦楽乎」、不楽乎也。「不亦君子乎」、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、「不亦者、亦也」、失之。
(▽すべて「不亦」というのは、みな「亦」は語助である。「不亦説乎」は不説乎(よろこばしくないか)である。「不亦楽乎」は不楽乎(たのしくないか)である。「不亦君子乎」は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に「不亦は、亦である」と注しているのは、誤っている)

と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとします。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのは軽率な判断だと思います。
後漢末の趙岐は、「不亦~乎」が「不~乎」という反語により結果的に「亦~」になると、きちんと述べているのであって、私的にはむしろ王引之の説の方がうさんくさい気がします。
趙岐は「亦~」の「亦」の義について述べていませんが、たとえば「不亦楽乎」は「亦楽」であって、「楽」であるとも述べていません。
つまり「亦」には何らかの意味があるということでしょう。

「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もあります。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解するわけです。
『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)で、楚永安は、王引之の説を引用して、

这个说法很对。在这个格式中,“亦”没有实在意义,只有加强语气的作用。
(この説は正しい。この形式中では,「亦」にははっきりした意味がなく,ただ語気を強める働きがあるだけである。)

とした上で、さらに、

“不亦……乎”有时也作“无亦……乎”、“不以……乎”、“不已……乎”。
(「不亦……乎」は「無亦……乎」、「不以……乎」、「不已……乎」に作ることもある。)

と述べています。
例証として、『孟子・滕文公下』に、

・後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎。
(▽後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)

とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っていることを指摘しています。
この場合の「以」「已」は「はなはだ」の意とされるので、さしずめ楚永安は「不亦~乎」は「はなはだ~ではないか」の意味だと解したことになります。

楚永安に限らず、古典の同じ部分の引用が異なる漢字を用いていることを証左として、2つの漢字の字義を同じとする類推はよくある手法です。
ですが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険ではないでしょうか。
暗誦に基づく誤写の可能性もあるでしょうし、場合によっては記述者の意識が字を変えてしまうことだってあるのではと思うからです。
なにしろ「刺孟」は孟子批判なのですから。

尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、「不亦」の構造を次のように説明しています。

固定词组。作用相当于一个副词,常“不亦……乎”连用,表委婉的反问语意,可译为“岂不”、“难道不”。“不”是“岂不”的省略;“亦”是语气助词。
(固定詞組。働きは一つの副詞に相当し、常に「不亦……乎」の形で続けて用いられ、婉曲的な反語の意味を表し、「豈不」(~ではないか)、「難道不」(~ではあるまいか)と訳せる。「不」は「豈不」の省略であり、「亦」は語気助詞である。)

として、いくつか例を挙げた上で、さらに、

按:这类句式,也有不省“岂”的,如《史记・蔡泽列传》:“闳夭事文王,周公辅成王也,岂不亦忠圣乎?”《三国志:魏武帝纪》:“夫人孝于其亲者,岂不亦忠于君乎?”
(思うに、この種の句式は、『史記・蔡沢列伝』の「閎夭が文王に仕え、周公が成王を輔佐したのは、忠聖ではないか?」や、『三国志・魏志・武帝紀』の「自分の父母に対して孝である者は、君に対しても忠ではないか?」のように、「豈」が省略されないこともある。)

と述べています。

つまり、尹君は、「不亦~乎」は「豈不亦~乎」の省略形だとするわけです。
ですが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形も「不亦~乎」と同じぐらいの例がありそうなものですが、私の手元にある分の資料で検索しても、「不亦~乎」が1000例以上見つかるのに対して、「豈不亦~乎」はわずかに11例に過ぎません。
もちろん他の資料も探せば見つかるでしょうが、おおむね「豈不亦~乎」の用例数が「不亦~乎」の100分の1程度だというのは変わらないでしょう。
したがって、「不亦~乎」が「豈不亦~乎」の「豈」を省略したものだというのは説得力のない説明になってしまいます。

しかし、そのこととは別に、「豈不亦~乎」の例があるというのは、「不亦~乎」の意味を考える上で、鍵になるように思います。

高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介されます。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳しています。
しかし、松下氏が説くように、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だと思います。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」と問いかけてみるのです。
「豈不悲乎」なら、「どうであろう悲しくないか?」です。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではないでしょう。

「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからだと思います。
「色々考えてみて、どうであろう(豈)、やはり(亦)~」というのは、自然な思考の流れではないでしょうか。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」「安」と語義の異なる語だからでしょう。

結論として、「不亦~乎」の意味は、「亦」の基本義に照らして考えればよいのではないかと思います。
 
■「不亦~乎」の意味■

「不亦~乎」は「やはり~ではないか」の意味。

たとえば、「不亦説乎」は、「亦説」((色々考えて)やはり喜ばしい)を否定の形で問いかけたもので、「『やはり喜ばしい』ではないか」という意味。
「不亦説乎」は「亦説」と相手に婉曲的に伝えるための反語表現。感嘆や詠嘆を表す表現ではないであろう。
孔子は、弟子たちに対して、「学んで、しかるべき時に復習するのは、やはり喜ばしいことではないかね?」と、語りかけたのでしょう。
「なんと喜ばしいではないか!」と主張したのではないと思います。

最後に、解恵全等編の『古書虚詞通解』に、次のように述べられています。

“亦”主要用作副词,表示类同,与今“也”字相当,有时可译为又。此条列义项大多为随文释义,不确。这大约是因为“亦”与今语“也”字一样,类同的两方面经常是只说出一方面,另一方面隐而不现。如“学而时习之,不亦说乎?”实际是说“学而时习之”不也和其他令人喜悦之事一样令人喜悦吗?另外,“亦”还常常兼有加强语气的作用,大多也可以译为“也”。
(「亦」は主に副詞として用いられ、ほぼ同じであることを示し、今の「也」の字に相当する、「又」と訳せることもある。これらの「亦」の意味条項は多くが文にしたがって解釈したもので、確かではない。これはおそらく「亦」が現代語の「也」と同じであるために、ほぼ同じである二方面のことについて、ただ一方面だけを述べて、別の一方面は隠れて現れない。たとえば、「学而時習之、不亦説乎」なら、実際には「学んで時にこれを復習する」のは、その他の人喜ばせることと同様に、人を喜ばせるのではないか?」と述べているのである。他に、「亦」はよく語気を強める働きもあるが、多くはやはり「也」と訳してよい。)

この二方面というのは、言葉にされたものとされていないものとを指すのですが、私も、思うところが複数あって、その中から「やはり」と提出するのが「亦」の働きだと思います。
そして、それはすでに昭和の初めに松下大三郎氏が『標準漢文法』で分析されていたことに他ならず、実に驚くべきことではないでしょうか。

「亦」の字に限らず、ともすれば虚詞の解釈について、文脈から解釈して、その字義以外の意味や働きがあると説かれることは、各虚詞詞典にありがちのことだと思います。
その点、『古書虚詞通解』は、概ね慎重な態度で分析を行っているので好感がもてます。

我々は、わずか1字の義についても、もう少し慎重に考えなければなりません。

「所」の用法を生徒にどう説明するか?

(内容:理解の難しい結構助詞「所」の用法を、高等学校の生徒にわかりやすくどう説明するか考える。)

これまで何度も漢文における「所」の働きについて考えてきました。
しかしそれを実際の学校現場で、生徒にどのように説明すればわかりやすいか…が難関でした。

「所」の働きを先生方はどのように説明しておられるのでしょうか。
たとえば「所A」(Aする所)の形で、「Aするもの」という名詞句を作るのだ!その説明で終わりということもあるのかもしれません。
しかし、それはただの丸覚えでしかなく、また実のところ汎用性のある説明ではありません。

・「所B」(Bする所)→Bするもの
・「A所B」(AのBする所)→「AがBするもの」
・「A所BC」(AのBする所のC)→「AがBするC」
このようにパターンを細かく分けて、「入試問題によく出てくる形だから覚えとけ!」というのも、ある意味実戦的ではあるものの、やっぱりただの丸覚えでしょう。

いったいどう説明すれば生徒には「なるほど…」と得心してもらえるのでしょうか。
私どもがいくら文法的に理解を進めても、それをきちんと生徒にわかりやすく説明できなければ、それは教材研究とはいえないと思うのです。

そこでまだまだ不十分ではあるけれども、ここで生徒向けの説明をきちんと考えてみたいと思います。

「所」の用いられ方については、大きく2つの場合に分かれます。
第1に、「所+動詞」の構造をとるもの。
第2に、「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造をとるもの。
この2者について、学校の授業向けの説明を考えましょう。

1.「所+動詞」について。

動詞が後にとる目的語には、動詞の性質によって、いくつかの種類があります。
①「何をどうする」の何
②「何にどうする・何でどうする・何からどうする…」などの何
③「何とどうする」の何

かなり曖昧な説明ですが…
①は、たとえば「食桃」(桃を食らふ)の「桃」、「愛人」(人を愛す)の「人」がそれになります。
②は、「之市」(市に之(ゆ)く)の「市」、「出国」(国を出づ・国より出づ)の「国」がそれです。
③は、「称賢」(賢なりと称す)の「賢」、「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の「孟嘗君」がそれです。

これらの性質の違いは、松下大三郎氏がすでに昭和の初めに『標準漢文法』で明快に見極めておられたのですが、現在の学校現場では単に訓読の読みの違いから「目的語」「補語」という用語で説明されるだけになってしまいました。
一方、述語の後に置かれる名詞成分を賓語として、従来の「目的語」と「補語」を区別しない立場、すなわち中国語文法における賓語を「目的語」と総称する立場を私もとってきましたが、述語動詞とその後の「目的語」との関係をきちんと見極めることはとても重要だと考えます。

話が横道にそれてしまいましたので、本題に戻します。

上記①の場合。
「食」(食べる)や「愛」(愛する)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所食」(食らふ所)、「所愛」(愛する所)となります。
つまり、これが「所A」(Aする所)です。
この「所」は後の動詞の不定の客体ですから、「ソレを食べる」のソレ、「ソレを愛する」のソレになります。
したがって、「所食」は「食べるソレ」、「所愛」は「愛するソレ」という意味を表すことになります。
これを学校現場や、入試問題対策の説明としては、「食べるもの」「愛するひと」とするわけです。

ここで大事なことは、「食桃」と「所食」は、「桃」と「所」が等しく「食」の客体を表してはいますが、「桃」が桃以外の何物でもなく限定的であるのに対して、「所」にはその限定性がなく、あくまで不定の客体「ソレ」であるということです。
つまり、食べるものならなんでもよく、桃でも肉でも野菜でもいいわけです。

これが「我」などの修飾を受ければ「我所食」(我の食らふ所)となって、「私の+食べるソレ」→「私の+食べるもの」となります。
また、「所食」が「桃」を修飾すれば、「食べるソレである+桃」→「食べる桃」という意味になります。

次に②の場合。
「之」(ゆク)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所之」(之く所)となります。
「之」は「どこに行く」の「どこ」を客体にとる動詞ですから、「所之」の「所」は、ソレというよりはソコになります。
つまり、「所之」(之く所)とは「行くソコ」という意味を表すことになります。

これを学校現場では「行く場所」として、「『所』が後に自動詞をとる場合、場所を表す名詞句を作る」と説明しているのです。
これはそう丸覚えするというよりも、「之」(ゆク)という動詞が後に「どこ(に)」という目的語をとる性質をもっているからなのだと理解することが大切だと思います。

もちろんこの場合も、「所之」(之く所)を「之市」(市場へ行く)と比較して、限定性がないことを了解しなければなりません。
行く場所ならどこでもいいわけで、市場と限定されるものではありません。

そして③の場合。
「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の客体は「号する」ことによって表現される「孟嘗君」ですが、これが「所」の場合なら「所号」(号する所)となります。
つまり「ソレと号する」のソレが客体ですから、「所号」はソレと「号するソレ」になります。
「号孟嘗君」は「孟嘗君」に限定されますが、「所号」はこれと具体的に限定されず、平原君でも春申君でも、状況によってはあり得るわけです。

ただしこの場合、別に事情があります。

そもそも動詞の種類によっては、①②③のうちの1つに限定されず、2つの性質の目的語をとるものがあります。
それは、二重目的語の文(双賓文)といわれる文の述語動詞を思い浮かべていただければ、わかると思います。

たとえば、「与」(あたフ)という動詞は、「何を与える」の「何」、「誰に与える」の「誰」という2種類の目的語をとります。
前者は①に、後者は②にあたります。
「与太郎桃」(太郎に桃を与える)の場合なら、「桃」は①の客体、「太郎」は②の客体です。

したがって、「所与桃」という句は、2種類の意味を表します。
つまり、「所」が①の客体を表すソレなら、「所与桃」は「与えるソレである+桃」すなわち「与える桃」という意味になり、「与ふる所の桃」と読むことになります。

それに対して、「所」が②の客体を表すソレ(→ソノヒト)なら、「所与桃」は「桃を与えるソレ(=ソノヒト)」で、「桃を与えるひと」という意味になり、「桃を与ふる所」と読むことになります。

この違いは、「与」という動詞の性質によって生まれるのですが、このあたりが学校現場だけでなく漢籍の注釈書の中でも混乱していると言わねばなりません。
混乱しているというよりは、あるいは「所」の働きをちゃんと理解していないから生じることなのかもしれません。

上記③に該当する動詞「謂」(いフ)の場合、「謂AB」(AをBと謂ふ)のBもそれにあたります。
「謂」はAとBという2つの客体をとりますが、「所謂~」は「謂ふ所の~」または「~と謂ふ所」と読まれ、多くの場合「~」は客体Bです。
たとえば「我所謂勇」(我の謂ふ所の勇・我の勇と謂ふ所)は「私の+(ソレを)勇というソレ」で、「私が勇というもの」という意味を表しますが、この場合の「所」は③ではなく、①になります。
つまり「所」は「ソレを」というAの方を指しているのです。
これが先に別の事情と述べたものです。

「所+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+動詞」の構造■

①「所」は後に伴う動詞の不定の客体(目的語)を表す名詞句を作る。
②後に伴う動詞はその性質によって、3種類の客体をとるので、「所」がどんな種類の客体を指しているのか見極めなければならない。
③動詞の中には2種類の客体をとるものがあるので、「所」がどちらを指しているのか見極め、それに応じて読み分ける。

2.「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造

この構造には色々ありますが、なんといっても代表的なのは「所以」句です。
これを学校現場では「ゆゑん」と熟して読んで、「~する理由」とか「~する手段」、あるいは「~するためのもの」などと、これも丸覚えです。

たとえば「我所以愛花子」(我の花子を愛する所以)は、「私が花子を愛する理由」と訳せばわかるし、それでいいといえばいいのかもしれません。
しかし、なぜそういう意味を表すのか?と問われて、現場の教師はきちんと説明できるでしょうか。
「理由もくそもない、そういう意味なんだから、覚えろ!」では、授業とも学問とも言えないでしょう。

私的にはこの「所以」を「ゆゑん」と熟して読むから、構造がわからなくなるのだと思います。
「我所以愛花子」を「我の以て花子を愛する所」と読みかえてみましょう。

私は「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造を、「前置詞によって修飾される述語句について、その前置詞の不定の客体を表す名詞句を作る」と説明してみたいと思います。

前置詞すなわち介詞は、もともと動詞ですから、「所+前置詞」の「所」は前置詞の不定の客体を表します。
「以棒叩人」(棒を以て人を叩く)は、「以棒」(棒で)が「叩」(たたく)を修飾し、「棒で人を叩く」という意味を表します。
この「棒」が前置詞「以」の客体(目的語)です。
これを「所」に置き換えると、「所以」となり、「ソレで~するソレ」という意味を表します。

一方述語動詞の前に置かれた前置詞句は、述語を連用修飾するので、「所以叩人」(以て人を叩く所」は、「ソレで」という前置詞句が「(人を)叩く」を修飾することになります。
なおかつ「所以叩人」という句は「以」の不定の客体「所」(ソレ)を表す名詞句になるので、「ソレで人を叩く+ソレ」→「ソレを用いて人を叩くソレ」、すなわち「人を叩くもの・人を叩く道具・人を叩くためのもの」という意味になるのです。

先の「我所以愛花子」(我の以て花子を愛する所)を説明してみましょう。
まず「所以愛花子」は、「ソレで(=ソレを理由に)花子を愛するソレ」です。
したがって、「我所以愛花子」は、「私の+ソレで花子を愛するソレ」となり、つまりは「私が花子を愛する理由」という意味になるわけです。

他に「問所従来」(従りて来たる所を問ふ)なら、こうなります。
まず、「従」を動作行為の起点を表す前置詞とします。
「従」前置詞句は、たとえば「従故郷来」(故郷より来たる)のように、「従」が後に具体的な場所を表す客体をとって、「従故郷」(故郷から)が述語動詞「来」(来る)を修飾します。

この客体を「所」に置き換えると、「所従来」となりますが、「所」は「従」の不定の客体「ソコ」になりますから、「ソコから来るソコ」です。
したがって、「問所従来」は「ソコから来たソコを問う」という意味、つまり「どこから来たのかを問う」という意味になります。

「従故郷来」の「故郷」が限定的であるのに対して、「所従来」は具体的な「どこ」という限定性をもちません。
だから質問に用い得るのです。
この場合、「問所従来」は習慣的に「従りて来たる所を問ふ」と読んでいますが、「より来る所を問ふ」の方が本来の構造というべきでしょうか。

次に、「従」を動作行為の事情や原因理由を表す前置詞とします。
この場合も「所従来」は「ソノ事情で来たソノ事情」「ソノ理由で来たソノ理由」となり、つまり「問所従来」は「どういう事情で来たのかを問う」という意味になります。
これも「所従来」自体は限定性をもちません。

「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造■

・「所+前置詞(=介詞)+動詞」の「所」は、前置詞によって修飾される述語動詞句について、その前置詞の不定の客体そのものを表す。
この説明だけを見ればわかりにくいようですが、用例を示しながら説明すれば、明快になると思います。

たとえば、「漱石枕流」(世説新語)の次の例なら、

・所以枕流、欲洗其耳。(漱石枕流…世説新語)
(▼流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。)

「ソレを理由に流れに枕するソレは」→流れに枕する理由は

となり、「所以枕流」は何かに限定されない「流れに枕する理由内容」になります。
だから述部において、具体的にソレが「欲洗其耳」であると説明されるのです。

韓愈の「師説」の次の例なら、

・師者、所以伝道授業解惑也。
(▼師は、道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。)

「ソノ人によって道を伝え業を授け惑いを解くソノ人」→道を伝え業を授け惑いを解く人

この例はよく「道を伝え、礼楽などの技能を授け、疑問や迷いを解くためのもの(人)である」と訳してありますが、「所」は「ソノ人」そのものを指しており、そこから「~するためのもの・~するための人」と訳すことになるのです。

『孟子』の、夫が外出してはいつもお腹をいっぱいにして帰ってくるのを不審に思った妻の次の例なら、

・其妻問所与飲食者、則尽富貴也。
(▼其の妻与(とも)に飲食する所の者を問へば、則ち尽(ことごと)く富貴なり。)

「ソノ人と飲食するソノ人を問えば」→誰と飲食するのかを問えば

となり、「与」は通常「~と」と読む動作行為を共にする相手を示す前置詞ですが、やはり「所与飲食(者)」は、だれかに限定されない「飲食を共にする相手」を指すことになります。

他にも「所」が後に前置詞を伴う形式はいくつかありますが、同じように説明することができます。


いかがでしょうか。
まだまだ他にもっとわかりやすい説明のしかたがあるかもしれませんが、「所」が後に動詞をとる形、「所」が後に前置詞と動詞をとる形について、こんなふうに生徒に説明してみようと思います。

そんな説明をするよりも、丸暗記させた方が早いというご意見もあるでしょうし、実際その方が効率的かもしれません。
あるいは生徒の状況から、小難しい説明をあえて避けた方がいい場合もあるでしょう。
ですが、どんな場合でも少なくとも授業者は理解しておく必要がある、いつ「なぜですか?」という素朴な問いかけを生徒から向けられても、逃げをはらずに、きちんと考え方の道筋を示せるように。
そんなふうに思います。

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