「不亦~乎」は本当に感嘆・詠嘆を表すか?
- 2021/11/24 07:06
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「なんと~ではないか」という感嘆文だとされる「不亦~乎」について、本当にそういう意味であるかどうかを考察する。)
『論語』は、高等学校の定番教材です。
1年生に対して、そろそろ『論語』の授業もしなければならないし、このブログでは項羽と劉邦の「語法注解」の後には、『論語』を取り扱おうとも思っています。
「語法注解」では、教科書によく採られる教材について考えるのですが、まずはなんと言っても「学而」篇の冒頭です。
・子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語・学而)
(▼子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」と。
(▽先生が、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、『不亦説乎』。友人が遠くから来てくれるのは、『不亦楽乎』。人が理解してくれなくても不平に思わないのは、『不亦君子乎』」とおっしゃった。)
「学」や「時」「習」などの語義については、なにしろ『論語』の研究は古来なされてきたわけですから、実にもう様々な解釈があります。
そういうのを本当のところはどうなのだろう?と考えてみるのも楽しいのですが、私的にはやはり文構造と語法が気になります。
そうです、最初に引っかかったのは「不亦説乎」「不亦楽乎」「不亦君子乎」に見られる「不亦~乎」の意味です。
この「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とされます。
つまり、「なんと喜ばしいではないか」「なんと楽しいではないか」「なんと君子ではないか」と解釈するわけです。
しかし、「不亦~乎」が、なぜ詠嘆・感嘆の意味を表すのでしょうか。
というよりも、そもそも「不亦~乎」は本当に詠嘆・感嘆を表すのでしょうか。
「不亦~乎」は、頻繁に出てくるので、生徒にも注意喚起する形です。
「なんと~ではないか」と訳すんだ、覚えとけ!と、学校や予備校でやっておられるのではないかと思います。
しかし、なぜそういう意味を表すのかについて、きちんと説明されることはおそらくないのではないでしょうか。
たいていの漢文の語法について述べた書籍には「なんと~ではないか」という詠嘆の表現として済まされています。
江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)には、次のように書かれています。
反語専用の慣用句。「亦」はここでは語気を婉曲に、おだやかにするために添えた語。「不…乎」で反対の構文となり、「不亦…乎」で「なんと…ではないか」と、感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣。
最後の「感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣」というのは微妙な表現で、本来はそうではないという意味がこめてあるのでしょうか。
この形は反語で、「亦」は語気を婉曲にする語というのですから、本来は感嘆・同意ではなく「…ではないか」の意だというのが趣旨なのかもしれません。
加地伸行氏の『漢文法基礎』(増進会出版1977)には、「不亦~乎」の形について、
「なんと…ではないか」の意味で、反語形であって詠嘆的な肯定を表す。
と書いてあります。
また、『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、「不亦―乎」の項を設け、
「亦」は、ふつう「AハBナリ。Cモ亦タBナリ」のように、「CもまたAと同様にBだ」と、二つのものが同じであるときに用いる助字である。この働きから「モ亦タ」と呼ばれる。しかし、右の構文の時には、「なんと」のような感嘆の意味を表す。「乎」が反語を表し、「不亦―乎」全体で「なんと…ではないか」と訳してしまう、一種の慣用句である。
と説明してあります。
しかし、残念ながら、どの書物にも、なにゆえ「亦」が感嘆の意味を表すのかまでは説明されていません。
高等学校の先生方が、漢文の語法に疑問を感じられた時に、教科書の指導書や漢文句法のサブテキスト以外に参照するものとしては、こういったところが代表格かなと思うのですが、どうも「不亦~乎」の形についてきちんと説明したものは見当たらないようです。
そして、詠嘆・感嘆で訳すことになっているのだと、「習慣」で説明されてしまっています。
これではやっぱり「不亦~乎」の形は感嘆・詠嘆を表し「なんと~ではないか」と訳す、覚えとけ!になってしまいます。
それではあまりに…と思いますので、私的に考えてみたいと思います。
そもそも「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字だと言われています。
藤堂明保氏は、『漢字語源辞典』(學燈社1965)に、「亦」の字について、次のように説明しています。
「ワキ」とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である。
また、加藤常賢氏は『漢字の起源』(角川書店1970)で、
「亦」を「また」の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う。
と述べています。
してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになるでしょうか。
以前のエントリーでも述べたように、「亦」は、「則」に対する語です。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説く。
これを松下大三郎氏は、『標準漢文法』(紀元社1927)で、分説・合説の別をもって説明しています。
また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示します。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となります。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となります。
「亦」の働きは基本的にこの2つであることは、これも松下氏に学びながら、前エントリーで述べたものです。
さらに、これも前エントリーで述べましたが、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られます。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではありませんし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではありません。
これについても松下氏は、これらの「亦」が、色々と考えをめぐらした中から、これというものを示して、「やはり~だ」と示す語だと説いています。
「王は(私が色々思う中でも)やはり仁義があるばかりです」だし、「范増は(私が色々思う中でも)やはり人傑であるなあ」となるわけです。
私は、「不亦~乎」についても、松下氏がすでに試みているように、これらの「亦」の基本義を踏まえた検討をすべきであると思います。
「不亦~乎」の形については、清朝中期の学者、王引之が『経伝釈詞』で、
凡言「不亦」者、皆以「亦」為語助。「不亦説乎」、不説乎也。「不亦楽乎」、不楽乎也。「不亦君子乎」、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、「不亦者、亦也」、失之。
(▽すべて「不亦」というのは、みな「亦」は語助である。「不亦説乎」は不説乎(よろこばしくないか)である。「不亦楽乎」は不楽乎(たのしくないか)である。「不亦君子乎」は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に「不亦は、亦である」と注しているのは、誤っている)
と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとします。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのは軽率な判断だと思います。
後漢末の趙岐は、「不亦~乎」が「不~乎」という反語により結果的に「亦~」になると、きちんと述べているのであって、私的にはむしろ王引之の説の方がうさんくさい気がします。
趙岐は「亦~」の「亦」の義について述べていませんが、たとえば「不亦楽乎」は「亦楽」であって、「楽」であるとも述べていません。
つまり「亦」には何らかの意味があるということでしょう。
「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もあります。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解するわけです。
『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)で、楚永安は、王引之の説を引用して、
这个说法很对。在这个格式中,“亦”没有实在意义,只有加强语气的作用。
(この説は正しい。この形式中では,「亦」にははっきりした意味がなく,ただ語気を強める働きがあるだけである。)
とした上で、さらに、
“不亦……乎”有时也作“无亦……乎”、“不以……乎”、“不已……乎”。
(「不亦……乎」は「無亦……乎」、「不以……乎」、「不已……乎」に作ることもある。)
と述べています。
例証として、『孟子・滕文公下』に、
・後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎。
(▽後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)
とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っていることを指摘しています。
この場合の「以」「已」は「はなはだ」の意とされるので、さしずめ楚永安は「不亦~乎」は「はなはだ~ではないか」の意味だと解したことになります。
楚永安に限らず、古典の同じ部分の引用が異なる漢字を用いていることを証左として、2つの漢字の字義を同じとする類推はよくある手法です。
ですが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険ではないでしょうか。
暗誦に基づく誤写の可能性もあるでしょうし、場合によっては記述者の意識が字を変えてしまうことだってあるのではと思うからです。
なにしろ「刺孟」は孟子批判なのですから。
尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、「不亦」の構造を次のように説明しています。
固定词组。作用相当于一个副词,常“不亦……乎”连用,表委婉的反问语意,可译为“岂不”、“难道不”。“不”是“岂不”的省略;“亦”是语气助词。
(固定詞組。働きは一つの副詞に相当し、常に「不亦……乎」の形で続けて用いられ、婉曲的な反語の意味を表し、「豈不」(~ではないか)、「難道不」(~ではあるまいか)と訳せる。「不」は「豈不」の省略であり、「亦」は語気助詞である。)
として、いくつか例を挙げた上で、さらに、
按:这类句式,也有不省“岂”的,如《史记・蔡泽列传》:“闳夭事文王,周公辅成王也,岂不亦忠圣乎?”《三国志:魏武帝纪》:“夫人孝于其亲者,岂不亦忠于君乎?”
(思うに、この種の句式は、『史記・蔡沢列伝』の「閎夭が文王に仕え、周公が成王を輔佐したのは、忠聖ではないか?」や、『三国志・魏志・武帝紀』の「自分の父母に対して孝である者は、君に対しても忠ではないか?」のように、「豈」が省略されないこともある。)
と述べています。
つまり、尹君は、「不亦~乎」は「豈不亦~乎」の省略形だとするわけです。
ですが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形も「不亦~乎」と同じぐらいの例がありそうなものですが、私の手元にある分の資料で検索しても、「不亦~乎」が1000例以上見つかるのに対して、「豈不亦~乎」はわずかに11例に過ぎません。
もちろん他の資料も探せば見つかるでしょうが、おおむね「豈不亦~乎」の用例数が「不亦~乎」の100分の1程度だというのは変わらないでしょう。
したがって、「不亦~乎」が「豈不亦~乎」の「豈」を省略したものだというのは説得力のない説明になってしまいます。
しかし、そのこととは別に、「豈不亦~乎」の例があるというのは、「不亦~乎」の意味を考える上で、鍵になるように思います。
高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介されます。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳しています。
しかし、松下氏が説くように、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だと思います。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」と問いかけてみるのです。
「豈不悲乎」なら、「どうであろう悲しくないか?」です。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではないでしょう。
「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからだと思います。
「色々考えてみて、どうであろう(豈)、やはり(亦)~」というのは、自然な思考の流れではないでしょうか。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」「安」と語義の異なる語だからでしょう。
結論として、「不亦~乎」の意味は、「亦」の基本義に照らして考えればよいのではないかと思います。
孔子は、弟子たちに対して、「学んで、しかるべき時に復習するのは、やはり喜ばしいことではないかね?」と、語りかけたのでしょう。
「なんと喜ばしいではないか!」と主張したのではないと思います。
最後に、解恵全等編の『古書虚詞通解』に、次のように述べられています。
“亦”主要用作副词,表示类同,与今“也”字相当,有时可译为又。此条列义项大多为随文释义,不确。这大约是因为“亦”与今语“也”字一样,类同的两方面经常是只说出一方面,另一方面隐而不现。如“学而时习之,不亦说乎?”实际是说“学而时习之”不也和其他令人喜悦之事一样令人喜悦吗?另外,“亦”还常常兼有加强语气的作用,大多也可以译为“也”。
(「亦」は主に副詞として用いられ、ほぼ同じであることを示し、今の「也」の字に相当する、「又」と訳せることもある。これらの「亦」の意味条項は多くが文にしたがって解釈したもので、確かではない。これはおそらく「亦」が現代語の「也」と同じであるために、ほぼ同じである二方面のことについて、ただ一方面だけを述べて、別の一方面は隠れて現れない。たとえば、「学而時習之、不亦説乎」なら、実際には「学んで時にこれを復習する」のは、その他の人喜ばせることと同様に、人を喜ばせるのではないか?」と述べているのである。他に、「亦」はよく語気を強める働きもあるが、多くはやはり「也」と訳してよい。)
この二方面というのは、言葉にされたものとされていないものとを指すのですが、私も、思うところが複数あって、その中から「やはり」と提出するのが「亦」の働きだと思います。
そして、それはすでに昭和の初めに松下大三郎氏が『標準漢文法』で分析されていたことに他ならず、実に驚くべきことではないでしょうか。
「亦」の字に限らず、ともすれば虚詞の解釈について、文脈から解釈して、その字義以外の意味や働きがあると説かれることは、各虚詞詞典にありがちのことだと思います。
その点、『古書虚詞通解』は、概ね慎重な態度で分析を行っているので好感がもてます。
我々は、わずか1字の義についても、もう少し慎重に考えなければなりません。
『論語』は、高等学校の定番教材です。
1年生に対して、そろそろ『論語』の授業もしなければならないし、このブログでは項羽と劉邦の「語法注解」の後には、『論語』を取り扱おうとも思っています。
「語法注解」では、教科書によく採られる教材について考えるのですが、まずはなんと言っても「学而」篇の冒頭です。
・子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語・学而)
(▼子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」と。
(▽先生が、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、『不亦説乎』。友人が遠くから来てくれるのは、『不亦楽乎』。人が理解してくれなくても不平に思わないのは、『不亦君子乎』」とおっしゃった。)
「学」や「時」「習」などの語義については、なにしろ『論語』の研究は古来なされてきたわけですから、実にもう様々な解釈があります。
そういうのを本当のところはどうなのだろう?と考えてみるのも楽しいのですが、私的にはやはり文構造と語法が気になります。
そうです、最初に引っかかったのは「不亦説乎」「不亦楽乎」「不亦君子乎」に見られる「不亦~乎」の意味です。
この「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とされます。
つまり、「なんと喜ばしいではないか」「なんと楽しいではないか」「なんと君子ではないか」と解釈するわけです。
しかし、「不亦~乎」が、なぜ詠嘆・感嘆の意味を表すのでしょうか。
というよりも、そもそも「不亦~乎」は本当に詠嘆・感嘆を表すのでしょうか。
「不亦~乎」は、頻繁に出てくるので、生徒にも注意喚起する形です。
「なんと~ではないか」と訳すんだ、覚えとけ!と、学校や予備校でやっておられるのではないかと思います。
しかし、なぜそういう意味を表すのかについて、きちんと説明されることはおそらくないのではないでしょうか。
たいていの漢文の語法について述べた書籍には「なんと~ではないか」という詠嘆の表現として済まされています。
江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)には、次のように書かれています。
反語専用の慣用句。「亦」はここでは語気を婉曲に、おだやかにするために添えた語。「不…乎」で反対の構文となり、「不亦…乎」で「なんと…ではないか」と、感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣。
最後の「感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣」というのは微妙な表現で、本来はそうではないという意味がこめてあるのでしょうか。
この形は反語で、「亦」は語気を婉曲にする語というのですから、本来は感嘆・同意ではなく「…ではないか」の意だというのが趣旨なのかもしれません。
加地伸行氏の『漢文法基礎』(増進会出版1977)には、「不亦~乎」の形について、
「なんと…ではないか」の意味で、反語形であって詠嘆的な肯定を表す。
と書いてあります。
また、『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、「不亦―乎」の項を設け、
「亦」は、ふつう「AハBナリ。Cモ亦タBナリ」のように、「CもまたAと同様にBだ」と、二つのものが同じであるときに用いる助字である。この働きから「モ亦タ」と呼ばれる。しかし、右の構文の時には、「なんと」のような感嘆の意味を表す。「乎」が反語を表し、「不亦―乎」全体で「なんと…ではないか」と訳してしまう、一種の慣用句である。
と説明してあります。
しかし、残念ながら、どの書物にも、なにゆえ「亦」が感嘆の意味を表すのかまでは説明されていません。
高等学校の先生方が、漢文の語法に疑問を感じられた時に、教科書の指導書や漢文句法のサブテキスト以外に参照するものとしては、こういったところが代表格かなと思うのですが、どうも「不亦~乎」の形についてきちんと説明したものは見当たらないようです。
そして、詠嘆・感嘆で訳すことになっているのだと、「習慣」で説明されてしまっています。
これではやっぱり「不亦~乎」の形は感嘆・詠嘆を表し「なんと~ではないか」と訳す、覚えとけ!になってしまいます。
それではあまりに…と思いますので、私的に考えてみたいと思います。
そもそも「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字だと言われています。
藤堂明保氏は、『漢字語源辞典』(學燈社1965)に、「亦」の字について、次のように説明しています。
「ワキ」とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である。
また、加藤常賢氏は『漢字の起源』(角川書店1970)で、
「亦」を「また」の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う。
と述べています。
してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになるでしょうか。
以前のエントリーでも述べたように、「亦」は、「則」に対する語です。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説く。
これを松下大三郎氏は、『標準漢文法』(紀元社1927)で、分説・合説の別をもって説明しています。
また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示します。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となります。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となります。
「亦」の働きは基本的にこの2つであることは、これも松下氏に学びながら、前エントリーで述べたものです。
さらに、これも前エントリーで述べましたが、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られます。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではありませんし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではありません。
これについても松下氏は、これらの「亦」が、色々と考えをめぐらした中から、これというものを示して、「やはり~だ」と示す語だと説いています。
「王は(私が色々思う中でも)やはり仁義があるばかりです」だし、「范増は(私が色々思う中でも)やはり人傑であるなあ」となるわけです。
私は、「不亦~乎」についても、松下氏がすでに試みているように、これらの「亦」の基本義を踏まえた検討をすべきであると思います。
「不亦~乎」の形については、清朝中期の学者、王引之が『経伝釈詞』で、
凡言「不亦」者、皆以「亦」為語助。「不亦説乎」、不説乎也。「不亦楽乎」、不楽乎也。「不亦君子乎」、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、「不亦者、亦也」、失之。
(▽すべて「不亦」というのは、みな「亦」は語助である。「不亦説乎」は不説乎(よろこばしくないか)である。「不亦楽乎」は不楽乎(たのしくないか)である。「不亦君子乎」は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に「不亦は、亦である」と注しているのは、誤っている)
と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとします。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのは軽率な判断だと思います。
後漢末の趙岐は、「不亦~乎」が「不~乎」という反語により結果的に「亦~」になると、きちんと述べているのであって、私的にはむしろ王引之の説の方がうさんくさい気がします。
趙岐は「亦~」の「亦」の義について述べていませんが、たとえば「不亦楽乎」は「亦楽」であって、「楽」であるとも述べていません。
つまり「亦」には何らかの意味があるということでしょう。
「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もあります。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解するわけです。
『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)で、楚永安は、王引之の説を引用して、
这个说法很对。在这个格式中,“亦”没有实在意义,只有加强语气的作用。
(この説は正しい。この形式中では,「亦」にははっきりした意味がなく,ただ語気を強める働きがあるだけである。)
とした上で、さらに、
“不亦……乎”有时也作“无亦……乎”、“不以……乎”、“不已……乎”。
(「不亦……乎」は「無亦……乎」、「不以……乎」、「不已……乎」に作ることもある。)
と述べています。
例証として、『孟子・滕文公下』に、
・後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎。
(▽後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)
とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っていることを指摘しています。
この場合の「以」「已」は「はなはだ」の意とされるので、さしずめ楚永安は「不亦~乎」は「はなはだ~ではないか」の意味だと解したことになります。
楚永安に限らず、古典の同じ部分の引用が異なる漢字を用いていることを証左として、2つの漢字の字義を同じとする類推はよくある手法です。
ですが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険ではないでしょうか。
暗誦に基づく誤写の可能性もあるでしょうし、場合によっては記述者の意識が字を変えてしまうことだってあるのではと思うからです。
なにしろ「刺孟」は孟子批判なのですから。
尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、「不亦」の構造を次のように説明しています。
固定词组。作用相当于一个副词,常“不亦……乎”连用,表委婉的反问语意,可译为“岂不”、“难道不”。“不”是“岂不”的省略;“亦”是语气助词。
(固定詞組。働きは一つの副詞に相当し、常に「不亦……乎」の形で続けて用いられ、婉曲的な反語の意味を表し、「豈不」(~ではないか)、「難道不」(~ではあるまいか)と訳せる。「不」は「豈不」の省略であり、「亦」は語気助詞である。)
として、いくつか例を挙げた上で、さらに、
按:这类句式,也有不省“岂”的,如《史记・蔡泽列传》:“闳夭事文王,周公辅成王也,岂不亦忠圣乎?”《三国志:魏武帝纪》:“夫人孝于其亲者,岂不亦忠于君乎?”
(思うに、この種の句式は、『史記・蔡沢列伝』の「閎夭が文王に仕え、周公が成王を輔佐したのは、忠聖ではないか?」や、『三国志・魏志・武帝紀』の「自分の父母に対して孝である者は、君に対しても忠ではないか?」のように、「豈」が省略されないこともある。)
と述べています。
つまり、尹君は、「不亦~乎」は「豈不亦~乎」の省略形だとするわけです。
ですが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形も「不亦~乎」と同じぐらいの例がありそうなものですが、私の手元にある分の資料で検索しても、「不亦~乎」が1000例以上見つかるのに対して、「豈不亦~乎」はわずかに11例に過ぎません。
もちろん他の資料も探せば見つかるでしょうが、おおむね「豈不亦~乎」の用例数が「不亦~乎」の100分の1程度だというのは変わらないでしょう。
したがって、「不亦~乎」が「豈不亦~乎」の「豈」を省略したものだというのは説得力のない説明になってしまいます。
しかし、そのこととは別に、「豈不亦~乎」の例があるというのは、「不亦~乎」の意味を考える上で、鍵になるように思います。
高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介されます。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳しています。
しかし、松下氏が説くように、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だと思います。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」と問いかけてみるのです。
「豈不悲乎」なら、「どうであろう悲しくないか?」です。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではないでしょう。
「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからだと思います。
「色々考えてみて、どうであろう(豈)、やはり(亦)~」というのは、自然な思考の流れではないでしょうか。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」「安」と語義の異なる語だからでしょう。
結論として、「不亦~乎」の意味は、「亦」の基本義に照らして考えればよいのではないかと思います。
■「不亦~乎」の意味■ 「不亦~乎」は「やはり~ではないか」の意味。 たとえば、「不亦説乎」は、「亦説」((色々考えて)やはり喜ばしい)を否定の形で問いかけたもので、「『やはり喜ばしい』ではないか」という意味。 「不亦説乎」は「亦説」と相手に婉曲的に伝えるための反語表現。感嘆や詠嘆を表す表現ではないであろう。 |
「なんと喜ばしいではないか!」と主張したのではないと思います。
最後に、解恵全等編の『古書虚詞通解』に、次のように述べられています。
“亦”主要用作副词,表示类同,与今“也”字相当,有时可译为又。此条列义项大多为随文释义,不确。这大约是因为“亦”与今语“也”字一样,类同的两方面经常是只说出一方面,另一方面隐而不现。如“学而时习之,不亦说乎?”实际是说“学而时习之”不也和其他令人喜悦之事一样令人喜悦吗?另外,“亦”还常常兼有加强语气的作用,大多也可以译为“也”。
(「亦」は主に副詞として用いられ、ほぼ同じであることを示し、今の「也」の字に相当する、「又」と訳せることもある。これらの「亦」の意味条項は多くが文にしたがって解釈したもので、確かではない。これはおそらく「亦」が現代語の「也」と同じであるために、ほぼ同じである二方面のことについて、ただ一方面だけを述べて、別の一方面は隠れて現れない。たとえば、「学而時習之、不亦説乎」なら、実際には「学んで時にこれを復習する」のは、その他の人喜ばせることと同様に、人を喜ばせるのではないか?」と述べているのである。他に、「亦」はよく語気を強める働きもあるが、多くはやはり「也」と訳してよい。)
この二方面というのは、言葉にされたものとされていないものとを指すのですが、私も、思うところが複数あって、その中から「やはり」と提出するのが「亦」の働きだと思います。
そして、それはすでに昭和の初めに松下大三郎氏が『標準漢文法』で分析されていたことに他ならず、実に驚くべきことではないでしょうか。
「亦」の字に限らず、ともすれば虚詞の解釈について、文脈から解釈して、その字義以外の意味や働きがあると説かれることは、各虚詞詞典にありがちのことだと思います。
その点、『古書虚詞通解』は、概ね慎重な態度で分析を行っているので好感がもてます。
我々は、わずか1字の義についても、もう少し慎重に考えなければなりません。