エントリー
2022年11月の記事は以下のとおりです。
(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その3。)
いつものように、拙稿を読んでいただいたN氏がツイッターで、前エントリーの次の箇所につき、説明不足を指摘してくださいました。(いつも本当にありがとうございます。)
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。
確かにこれでは読んでいただいた方がどういうことなのか、あるいは中井が何を言いたいのかが伝わってきません。
私が何を考えたのかを補足しておこうと思います。
『史記・呉太伯世家』の次の文、
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。
この「越在腹心疾」が「越は腹心に在るの疾なり」と読まれていることに違和感を感じ、本当にそのような意味であろうかと考えたのが、前2エントリーでした。
しかし、考えを進めた結果、文法的にこの読みを完全否定することはできないと判断しました。
その一方で、「越は腹心に在るの疾なり」という読みにはやはり違和感があり、もしそのような意味なら、もっと明確にそうであるとわかるような表現方法があるのではないかと思ったのです。
つまり「腹心に在る」が「疾」を修飾する形であると一目でわかるような表現形式です。
もしそれが可能なら、『史記』の本文がその形をとらずに「越在腹心疾」であることに、「越は腹心に在るの疾なり」ではなく「越は腹心の疾に在り」と読む可能性がある程度高まるかもしれないと考えたのです。
もちろん可能であったとしても、「越は腹心に在るの疾なり」という読みを否定することはできませんが。
そして「在腹心」が「疾」を修飾して「腹心にある病気」という名詞句を構成するには、「所」や「之」を用いる方法があると考えました。
ところが、「所」を用いて表現すれば、
・越所在腹心疾(越は腹心に在る所の疾なり)
となりますが、この句は少なくとも「越は腹心にある病気」という意味の句にはなりえないのではないでしょうか。
単に「所在」の場合なら、「所」は「在」の客体を表して、「ソコに在るソコ」という意味を表します。
だから「問先生之所在」(先生のソコにいるソコを問う→先生の居場所を問う)などの表現が可能になります。
別の動詞の場合、たとえば「与」(与える)などなら、
・所与桃
の形をとって、この句は2通りの意味を表し得ます。
・「与える桃」という意味の場合 → 与ふる所の桃
これは「所」が「与」という動詞の多動性に対する客体を表して、「ソレを与えるソレである桃」という意味です。
それに対して、
・「桃を与える人」という意味の場合 → 桃を与ふる所
これは「所」が「与」という動詞の依拠性に対する客体を表して、「ソノヒトに桃を与えるソノヒト」という意味になります。
同じ「所与桃」の形をとっても、「所」が「与」の多動性の客体なのか、依拠性の客体なのかによって、表す意味が異なるわけです。
これは文脈でどちらを表しているのか判断しなければならず、「所与桃」の句だけでどちらと決めつけることはできません。
話を「越所在腹心疾」に戻します。
「在」は「A在B」(ABに在り)という意味で用いられ、「在」の客体は場所を表します。
「在」が「与」のように別の客体、たとえば依拠性や生産性に対する客体をとりうる語であれば話は別なのですが、「~を在り」「~と在り」などの用法はないと思うのです。
したがって、「所在」なら「所」は依拠性に対する客体を表して「ソコにある(いる)ソコ」で「ある(いる)場所」という意味になりますが、「所在腹心」(腹心に在る所)となれば、すでに「在」が依拠性に対する客体「腹心」をとっているために、意味をなさなくなります。
だから前エントリーで、「所在腹心+疾」が「腹心にある+病気」という意味にはなり得ないと説明したわけです。
学校の漢文の授業では、「A所BC」(AのBする所のC)を、「AがBするC」、「所BC」(Bする所のC)を「BするC」という意味だと教えていると思います。
それだと「所在腹心+疾」が「所BC」の型にはまるように見えるため、「腹心にある+病気」と解せそうな気がしますが、私は以上の理由から、そのような意味にはならないと考えています。
次に、「越在腹心疾」を「之」を用いて「在腹心之疾」(腹心に在るの疾)とすることで、「腹心に在る病気」という意味を明確にできないかと考えました。
これはたとえば『史記』の「鴻門の会」に見られる「有功之人」(功績のある人)のような形です。
しかし、あらためて「在腹心之疾」を見てみると、「在腹心+之+疾」のつもりが、「在+腹心之疾」のようにも見えてしまうことに気づきました。
これでは「之」を用いても、「越在腹心疾」を「越は腹心の疾に在り」ではなく「越は腹心に在るの疾」だと明確にすることはできません。
結局のところ、「越在腹心疾」を誰が読んでも「越は腹心にある病気である」としか読めない形にはできそうにないというのが私の見解でした。
ただし、私は『史記・呉太伯世家』の「越在腹心疾」自体は、「越は腹心の疾に在り」の意ではないかと思っています。
(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その2。)
手元の『史記』の注釈書を色々見ていると、韓兆琦による訳注『史記』(中華経典名著 全本全注全訳叢書,中華書局2010)に、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の箇所について、次のような注釈がついていました。
通行本“犹”字原作“在”。泷川曰:“枫山、三条本,‘在’作‘犹’,与《吴语》合。”按,泷川说是,今据改。
(通行本では「猶」の字はもと「在」に作る。瀧川が(『史記会注考証』に)言うには、「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」と。考えるに、瀧川の説は正しい、今それにもとづき改める。)
驚いて本文を見ると、「今越猶腹心疾而王不先」(原文簡体字)になっています。
本文まで改めたわけですね。
韓兆琦はこれに先立つ2009年刊の『史記箋証』(江西人民出版社2009)でも同様のことを述べ、本文を改訂しています。
王叔岷が『史記斠證』を刊行したのは1983年ですから、韓兆琦もあるいはそれを参照したかもしれません。
韓兆琦がなにをもって瀧川資言の説を是としたのか、私が前回のエントリーで考えたことと照らし合わせると、どうにも腑に落ちませんが、まずは王叔岷の注釈をもう少し検討したいと思います。
前エントリーで紹介した王叔岷の注釈の後半部分を再引用します。
左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)
まずは『春秋左氏伝・哀公11年』の文から。
・越在我心腹之疾也。
『十三経注疏・春秋左伝正義』(北京大学出版社2000)では、「越在我,心腹之疾也。」と句読が切ってあります。
これだと「越の我に在るは,心腹の疾なり。」と読むことになりますが、王叔岷が「旧読『越在我』句,非。」と言ったのは、この読み方のことです。
何事も否定する以上は根拠を示さなければなりませんが、読む限りこの「在」が「猶」と同義だからという根拠以外はなく、それは『考証』に示された「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」というものでしかありません。
ひとたび楓山、三條本の方が誤っている、もしくは誤らないまでも「在」を「猶」と同義として改めたものでないとなれば、たちまちにして崩れてしまうものだと危ぶみます。
「越在我心腹之疾也」の句読について、気になるのが『国語 公序本』の次の1文です。
・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。
『国語』や『左伝』の作者、成立年代については諸説があり、私にはとうてい突き止められないものです。
しかし、かりに成立年代を語法上から類推した言語学者カールグレンの説に従えば、『国語』の成立は『左伝』とともにそうとうに古く、「戦国時代の初めごろに同一人または同系統の人によって編集されたことを暗示する。」(『新釈漢文大系 国語上』明治書院1975)というのが大野峻の見解です。
そうだとすれば、この『国語』の1文は、「越之在呉也」で1つの句をなすことは明らかで、『左伝』の1文も「越在我,心腹之疾也」と「越在我」が1つの句をなす可能性は高まります。
そして内容としては同じはずの『国語』の文が、「在」を「猶」に置き換えて、「越之猶呉也、猶人之有腹心之疾也」という文にはなしえないことも明らかです。
しかし、私はだから『左伝』の文をやはり「越在我,心腹之疾也」と区切って読むべきだと主張するわけではありません。
回りくどい述べ方をして申し訳ありませんが、まずは王叔岷の注釈が当を得ないことを押さえておきたかったのです。
ここで仕切り直して、それでは『左伝』『史記 呉太伯世家』の文をどう解釈するか、考えてみたいと思います。
実は『史記 呉太伯世家』には、「越在腹心」の記述が2箇所あります。
・今越在腹心疾。而王不先、而務斉。不亦謬乎。
(▼今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや)
(▽越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか)
・越在腹心。今得志於斉、猶石田無所用。
(▼越は腹心に在り。今志を齊に得とも、猶ほ石田の用ふる所無きがごとし。)
(▽越はわが腹心に在る疾病のようなものであります。今、わが君が志を斉に得られたところで、それは石ばかりの瘠地が役立たないように、呉の利益にはなりません。)
…2例とも、句読、読み、訳は『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)による
『新釈漢文大系』が1つめの例を「越は腹心に在るの疾なり」としながら、2つめの例を「越は腹心に在り」と読んでいるのは一貫していないと言わざるを得ませんが、そう読むしかしかたがなかったのは興味深いことです。
また、水沢利忠が『史記会注考証附校補』で、1例目の「在」が楓山本、三條本ほか2書で「猶」に作られていることを指摘しながら、2例目にはその指摘がないことも興味深いことです。
できれば、2例目の本文がこれらの書で「越猶腹心」ではなく「越在腹心」に作られていることを確認したいものですが、それはできず残念です。
「越在腹心」を認めれば、これは「越が腹心にある」です。
「在」は場所を表しますから、越の在りかは「腹心」です。
それはつまり越が「腹心(の病)」そのものであることを示すことではありませんか。
そう考えれば、問題となった「今越在腹心疾」という文も、「今越は我らの腹心の病という場所にある」の意に解せそうです。
ところが、「越在腹心疾」という文は「越は腹の中にある病気です」という意味を表すことがあり得ないかといえば、そんなことはないと思います。
しかし、非常に不安定で不確かな表現になります。
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。
とすれば、「之」を用いて、「在腹心+之+疾」の形をとり、「越在腹心之疾」(越は腹心に在るの疾なり)が考えられますが、それはとりもなおさず『左伝』の「越在我心腹之疾也」に酷似することになります。
つまり、考えの道筋に従えば、『左伝』の文は、次の2通りの読み方が可能になります。
1.越は我が心腹の疾に在るなり。
(越は我が国の心腹の病にある。=越は我が国の心腹の病の位置にある)
2.越は我が心腹に在るの疾なり。
(越は我が国の心腹にある病である。)
このどちらが是なのか、あるいは「越は我に在りて心腹の疾なり」が正しいのか、断じ得ません。
結論として、『新釈漢文大系』が「越在腹心疾」を「越は腹心に在るの疾なり」と読んでいることを誤りとすることはできません。
そして、これが果たして文法の力で断じることができるのか、今のところ私にはわかりません。
ただ、「越在腹心疾」とだけある表現を、「在腹心」と「疾」に分けて読むのはどこか不自然に感じるし、やはり「越は腹心の疾に在り」と読まれてしまう(あるいはそう読む方が自然な)構造になっていると思います。
ちなみに、『史記国字解』(桂湖村 等,早稲田大学出版部1919)、『漢文叢書 史記』(塚本哲三,有朋堂書店1925)を、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができますが、いずれも「越は腹心の疾に在り」と読まれています。
(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その1。)
最近授業研究熱心な若い同僚がよく質問に来ます。
あれ?と思ったことをそのままにせず、納得がいくまで考えようという姿勢は、なにも生徒に限らず、教員である我々にこそ必要な態度だと常々思っているので、問われたことにはきちんと考えようと自身に言い聞かせているのですが…
つい先日の質問に、私もあれ?と思いました。
今回の質問は、『史記・呉太伯世家』の文章の一節についてでした。
いわゆる呉越の抗争にかかわる内容です。
呉王の夫差が、斉を攻めようとした場面。
斉の景公が亡くなり、新君も幼年、攻めるなら今がチャンスだというわけです。
それに対して、伍子胥が呉王夫差を諫めた言葉が問題です。
「越王句践は、食事は味を重ねず、衣服は采色を重ねず、死者を弔問し、病人を慰問し、いずれその民衆を用いようとしています。この人が死ななければ、きっと呉の憂いとなるでしょう…」
越こそ真の敵で、斉の国を攻めてる場合じゃないというわけですね。
そして、その後に続く言葉が、次の一文です。
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。(史記・呉太伯世家)
(▼今越腹心に在るの疾なり。而るに王先にせずして斉を務む。亦謬(あやま)たずや。 )
(▽今、越は[在腹心疾]。ところが王は(その問題を)先にせずに斉に務めています。間違っているのではありませんか。)
同僚はこの「越在腹心疾」の部分が引っかかったようです。
確かに普通に見れば、「越腹心の疾に在り」と読む構造に見えます。
書物に「越腹心に在るの疾なり」と読まれていて、何も考えずにそう読めば何の疑問もわいてこないのですが、きちんと構造を理解しようという姿勢があれば、なぜ「越腹心の疾に在り」ではないのか、気になって当然の箇所で、同僚の態度を頼もしく思ったのですが…
まず『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)を確認してみました。
読み:今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや、
通釈:越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか
現行の『史記』の注釈書で簡単に閲覧できるのはこの書だと思うのですが、通釈はともかくとして、読みは同僚が目にしたものとほぼ同じです。
その場では、確かにひっかかる変な読みだねとだけ答えておいたのですが、気になるので、ちょっと手元の資料をいくつか調べてみることにしました。
すると、王叔岷の『史記斠證 世家(一)』(中央研究院歴史語言研究所1983)に、おもしろいことが書いてありました。
考證:楓山、三條本在作猶,與呉語合。
案楓、三本在作猶,在與猶同義。伍子胥傳作『今呉之有越,猶人之有腹心疾也。』亦其證。左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼考證に、楓山、三條本は「在」を「猶」に作る、呉語と合すと。
案ずるに、楓、三本「在」を「猶」に作るは、「在」「猶」と義を同じくすればなり。伍子胥伝に『今呉の越有るは、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。』に作る、亦た其の證なり。左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『史記会注考証』に、「楓山本と三條本では『在』が『猶』になっていて、『国語・呉語』の記述と合致する。」とある。
私が考えるに、楓山本と三條本で「在」が「猶」になっているのは、「在」が「猶」と同義だからである。『史記・伍子胥列伝』は「今、呉に越があるのは、人に腹心の病気があるようなものである」とあるのも、その証である。『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)
なかなかおもしろい説なので、こんなふうに説かれているのがあるよと、同僚に渡しておいたのですが、私的にはどこか釈然としないものを感じました。
まず瀧川資言の『史記会注考証』に直接あたってみると、確かに王叔岷の引用通り「楓山、三條本在作猶、與呉語合」という注がついていました。
そこで『考証』が合致すると指摘する『国語・呉語』を見てみると、
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。
(▼越の呉に在るは、猶(な)ほ人の腹心の疾(やまひ)有るがごとし。)
(▽越は呉にとっては、人の腹や心の病気のようなものです。)
…読みと訳は、大野峻『新釈漢文大系 国語 下』(明治書院1978)による。
この書は2系統ある『国語』の伝本のうち、明道本が底本ですが、公序本にあたってみると、
・譬越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。
(▼譬ふれば越の呉に在るや、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。)
(▽喩えると、越が呉に在るのは、人に腹心の病気があるようなものである。)
となっていて、文字の異同があります。
これらを見るかぎり、『考証』が「楓山、三條本は『在』を『猶』に作るのは、呉語と合致する」とするのは、どういうことなのだろうと思えてきます。
残念ながら『史記』の楓山、三條本を直接見ることはできないのですが、「在」を「猶」に置き換えたものと『国語』の記述を比べてみると、次のようになります。
・越猶腹心疾。(史記 楓山、三條本)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語 明道本)
・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。(国語 公序本)
語義「似る」に近い「猶」による対応は次のようになっていて、
「越」=「腹心疾」(史記)
「越之在呉」=「人之有腹心之疾」(国語)
『国語』が「在」を「猶」に置き換えた表現になっていないことは明らかです。
だとすれば、『考証』が「呉語と合す」と述べているのは、語義的な説明ではなく、「猶」が削られた状態で「在」のみを残している『史記』の諸本とは違い、楓山、三條本が内容的に『国語』の記述と合致していることを指摘したものと考えるべきでしょう。
それを「楓、三本『在』作『猶』,『在』与『猶』同義」(楓山本と三條本が「在」を「猶」に作るのは、「在」が「猶」と同義だからである)と解したのは、『考証』ではなく、王叔岷によるものというべきです。
つまり、王叔岷は語義的にこの二字が同じであると断じたわけです。
次に王叔岷が引用した『伍子胥列伝』を確認しました。
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。
これが「在」が「猶」と同義であることの「亦其證」であるというのですが、どうでしょうか。
確かに司馬遷は、この例に限らず、同じ内容や発言を本紀や世家、列伝で述べることが多いのですが、その箇所ごとに微妙に表現を変えています。
たとえば、有名な「鴻門の会」の樊噌の発言は、教科書によくとられている『項羽本紀』では、
・臣死且不避、卮酒安足辞。
(▼臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辞するに足らん。)
(▽私は死ぬことすら避けない、卮酒はどうして断るほどのものであろうか。)
となっていますが、樊噌の列伝である『樊酈滕灌列伝』では、
・臣死且不辞、豈特卮酒乎。
(▼臣死すら且つ辞せず、豈に特(た)だに卮酒をや。)
(▽私は死ぬことすら辞さない、どうであろうただ卮酒のみ(辞したりするであろう)か。)
このように、表現を変えています。
どちらかの表現が間違っているわけでは、もちろんありません。
そういう目で今一度『呉太伯世家』『国語』『伍子胥列伝』の表現を見比べてみましょう。
・今越在腹心疾。(呉太伯世家)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語)
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。(伍子胥列伝)
すぐに気がつくのは、『国語』と『伍子胥列伝』の前半部が、表現を異にしている点です。
「越之在呉」と「呉之有越」、これは「之」の働きによって、「在呉」「有越」がそれぞれ「越」「呉」のそれに限定される形で名詞句になっていますが、これは文の主語にしやすくするためのものであって、独立した文であれば「越在呉」(越呉に在り)と「呉有越」(呉に越有り)です。
「在」と「有」の違いは周知のことで、以前に別のエントリーで荻生徂徠の『訓訳示蒙』の記述を紹介しましたから、再掲します。
有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)
「人在市」(人が市にいる)=「越在呉」(越が呉にある)
「市有人」(市に人がいる)=「呉有越」(呉に越がある)
この違いです。
「有」は存在を表し「在」は場所を表しますから、もちろん文意は異なりますが、表される事実は同じです。
つまり、「越之在呉」(国語)と「呉之有越」(伍子胥列伝)は、事実としては同じことを言っているのであり、司馬遷が表現を変えただけのことです。
したがって、『伍子胥列伝』に「今呉之有越、猶人之有腹心疾也」とあるからといって、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の「在」が「猶」と同義であることの証にはなり得ません。
「在」は「有」となり、別の表現形式で『伍子胥列伝』の中に生きているからです。
王叔岷の説も、なにやら怪しくなってきました。
同氏はさらに『春秋左氏伝』と『呉越春秋』の記述を引き合いに出しています。
これらをどう説明していくかで、『呉太伯世家』の文をどう解釈するかが導かれそうですが、今回はまずここでお休みをいただきます。
(内容:「可」と「可以」の用法についてさらに考察する。)
「A可以B」(A以てBすべし)の形式が、もともと「以」がAもしくはAの性質や事情を賓語とするために、以降「以」の賓語が何であるか明瞭に示し得ない場合も含めて、一般にAはBの主体を表す文として用いられるようになったというのが、私の推論でした。
それは、「A可B」(ABすべし)が、用例として圧倒的にAがBの客体を表す中にあって、主体を表す例外を引き受けていったのではないかということです。
「A可B」は、「可」が依拠性の語であるために、「AはBするに可である」という意味を表しますが、それは必ずしもAがBの客体でなくても成り立つ表現だと思います。
たとえば、「太郎可愛」(太郎愛すべし)は、普通「太郎は(→太郎を)愛してよい」など、愛する客体が太郎であることを表しますが、「太郎可学」(太郎学ぶべし)は、「太郎は(→太郎を)学ぶのがよい」という意味を表すとは限らず、太郎は学ぶ主体の場合もあるだろうということです。
ただ用例の数として、比較的少ないものです。
そもそも「A可B」が通常はBの主体を問題にしない表現であったのに、AがBの主体を表してしまう用い方もされることがあったというのが実情なのかもしれません。
本来はBの客体として用いられるのが普通の「(A)可B」において、Bが賓語として客体を後に伴う例をいくつか調べてみました。
・其下駢石、不可得泉。(管子・地員)
(▼其の下駢石にして、泉を得べからず。)
(▽その下は一枚岩で、地下水を得られない。)
この例の場合、「泉不可得」(泉得べからず)といえば、通常の形になりますが、例文とは表す意味が異なるように思います。
「泉は」ではなく「其の下は」が主体になるはずだからです。
(あるいは「A可BC」のうち、B(得)の他動性に対する客体「泉」をCにとって、依拠性に対する客体「其下」をAとした構造か?とも思ったのですが、この後の例を見ると、そうではないような気がします。)
したがって、「其下可以得泉」(其の下以て泉を得べからず)とするのが普通の表現なのでしょうが、ここでは「以」は用いられていません。
・孔丘知礼而怯、請令莱人為楽、因執魯君、可得志。(史記・斉太公世家)
(▼孔丘は礼を知るも怯なり、請ふ莱人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得べし。)
(▽孔丘は礼を知っていますが臆病です、どうか莱人に音楽をさせて、その機に魯君を捕らえれば、志を得ることができます。)
この例の場合、「志」が「可」の前に置かれて「志可得」(志は得られる)の形をとっていない以上、主体になる語はあえていうなら「吾君」とか「吾国」になるでしょう。
「志可得」ではなく「可得志」と表現しているところに、書かれていなくても表現者の意図が「我が君は得られる」「我が国は得られる」というところにあるのだという気がします。
これも、「可以得志」(以て志を得べし)とするのが普通の表現でしょう。
・徐偃王之状、目可瞻馬。(荀子・非相)
(▼徐偃王の状、目は馬を瞻(み)るべし。)
(▽徐の国の偃王の形状は、目がやっと馬が見えるほどであった。)
これも「目可以瞻馬」(目以て馬を瞻るべし)とするのが本来でしょうか。
・夫人先誡御者曰、王適有言、必可従命。(韓非子・内儲説下)
(▼夫人先づ御者を誡めて曰はく、「王適(も)し言ふ有らば、必ず命に従ふべし」と。)
(▽夫人はまず侍臣を戒めて言った、「王がもし何か言われたら、必ず命令にしたがうがよい。」)
この例の場合、「命可従」(命は従ふべし)という表現が可能かどうかはわかりませんが、そう表現するのでなく、「おまえは」という「若」(なんぢ)などの代詞が主体になるものだと思います。
「胡可伐」(胡伐つべし)などの表現に見られるように、「A可B」は多くAがBの客体を表すわけですが、その場合、誰がということは問題になっていないということは前に述べました。
しかし、「王可伐胡」(王胡を伐つべし)という表現が可能であることは、ここまでの例を見ても明らかです。
そしてその場合、誰が「胡を攻めてよい」のかを明示しているのであって、その必要性がある場合には決して破格でなく成り立つ表現だったのではないかと思います。
しかし、それを「王可伐」(王伐つべし)と「伐」の賓語を示さず表現してしまうと、用いられた環境によっては「王が攻める」のか「王を攻める」のかが、わからなくなってしまいます。
それを、「王可以伐」(王以て伐つべし)として、たとえば「王はその立場で攻めてよい」などの意味で、「王」が「伐」の主体であることを示せば、誤解が生じにくくなるのではないでしょうか。
私が、「A可以B」の形式が、「A可B」のAがBの主体を表す表現を引き受けていったのではないかと述べたのは、そういうことです。
本来「学不可已」(学は已(や)むべからず)と表現するのが普通である中で、荀子が「学不可以已」(学は以て已むべからず)としたことについて。
まず、「(人)不可以已学」((人)以て学を已むべからず)とするのが本来でしょうが、それでは「人というものは」という表現になってしまいます。
「人」が隠れた大主語であるにせよ、荀子は「学問というものは」と表現したのではないでしょうか。
また、「学不可已」は「学問はやめてはいけない」という意味ですが、「学不可以已」は「学問というものはその性質ゆえにやめてはならない」という本来の「以」の働きを残した表現なのではないでしょうか。
客体にあたる「学」を「可以~」の前に出すという、破格に見える表現が生まれたところにはそんな表現者の意図があるのかもしれません。
表現者の意図を勝手に類推して、そこから文法を考えるというのは、矢印の方向が逆で、誤った態度だとは思うのですが、私にはなんとなくそんな気がするのです。