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「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・2

(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その2。)

手元の『史記』の注釈書を色々見ていると、韓兆琦による訳注『史記』(中華経典名著 全本全注全訳叢書,中華書局2010)に、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の箇所について、次のような注釈がついていました。

通行本“犹”字原作“在”。泷川曰:“枫山、三条本,‘在’作‘犹’,与《吴语》合。”按,泷川说是,今据改。
(通行本では「猶」の字はもと「在」に作る。瀧川が(『史記会注考証』に)言うには、「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」と。考えるに、瀧川の説は正しい、今それにもとづき改める。)

驚いて本文を見ると、「今越腹心疾而王不先」(原文簡体字)になっています。
本文まで改めたわけですね。
韓兆琦はこれに先立つ2009年刊の『史記箋証』(江西人民出版社2009)でも同様のことを述べ、本文を改訂しています。
王叔岷が『史記斠證』を刊行したのは1983年ですから、韓兆琦もあるいはそれを参照したかもしれません。

韓兆琦がなにをもって瀧川資言の説を是としたのか、私が前回のエントリーで考えたことと照らし合わせると、どうにも腑に落ちませんが、まずは王叔岷の注釈をもう少し検討したいと思います。
前エントリーで紹介した王叔岷の注釈の後半部分を再引用します。

左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)

まずは『春秋左氏伝・哀公11年』の文から。

・越在我心腹之疾也。

『十三経注疏・春秋左伝正義』(北京大学出版社2000)では、「越在我,心腹之疾也。」と句読が切ってあります。
これだと「越の我に在るは,心腹の疾なり。」と読むことになりますが、王叔岷が「旧読『越在我』句,非。」と言ったのは、この読み方のことです。
何事も否定する以上は根拠を示さなければなりませんが、読む限りこの「在」が「猶」と同義だからという根拠以外はなく、それは『考証』に示された「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」というものでしかありません。
ひとたび楓山、三條本の方が誤っている、もしくは誤らないまでも「在」を「猶」と同義として改めたものでないとなれば、たちまちにして崩れてしまうものだと危ぶみます。

「越在我心腹之疾也」の句読について、気になるのが『国語 公序本』の次の1文です。

・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。

『国語』や『左伝』の作者、成立年代については諸説があり、私にはとうてい突き止められないものです。
しかし、かりに成立年代を語法上から類推した言語学者カールグレンの説に従えば、『国語』の成立は『左伝』とともにそうとうに古く、「戦国時代の初めごろに同一人または同系統の人によって編集されたことを暗示する。」(『新釈漢文大系 国語上』明治書院1975)というのが大野峻の見解です。
そうだとすれば、この『国語』の1文は、「越之在呉也」で1つの句をなすことは明らかで、『左伝』の1文も「越在我,心腹之疾也」と「越在我」が1つの句をなす可能性は高まります。
そして内容としては同じはずの『国語』の文が、「在」を「猶」に置き換えて、「越之猶呉也、猶人之有腹心之疾也」という文にはなしえないことも明らかです。

しかし、私はだから『左伝』の文をやはり「越在我,心腹之疾也」と区切って読むべきだと主張するわけではありません。
回りくどい述べ方をして申し訳ありませんが、まずは王叔岷の注釈が当を得ないことを押さえておきたかったのです。

ここで仕切り直して、それでは『左伝』『史記 呉太伯世家』の文をどう解釈するか、考えてみたいと思います。

実は『史記 呉太伯世家』には、「越在腹心」の記述が2箇所あります。

・今越在腹心疾。而王不先、而務斉。不亦謬乎。
(▼今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや)
(▽越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか)

・越在腹心。今得志於斉、猶石田無所用。
(▼越は腹心に在り。今志を齊に得とも、猶ほ石田の用ふる所無きがごとし。)
(▽越はわが腹心に在る疾病のようなものであります。今、わが君が志を斉に得られたところで、それは石ばかりの瘠地が役立たないように、呉の利益にはなりません。)
  …2例とも、句読、読み、訳は『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)による

『新釈漢文大系』が1つめの例を「越は腹心に在るの疾なり」としながら、2つめの例を「越は腹心に在り」と読んでいるのは一貫していないと言わざるを得ませんが、そう読むしかしかたがなかったのは興味深いことです。
また、水沢利忠が『史記会注考証附校補』で、1例目の「在」が楓山本、三條本ほか2書で「猶」に作られていることを指摘しながら、2例目にはその指摘がないことも興味深いことです。
できれば、2例目の本文がこれらの書で「越猶腹心」ではなく「越在腹心」に作られていることを確認したいものですが、それはできず残念です。

「越在腹心」を認めれば、これは「越が腹心にある」です。
「在」は場所を表しますから、越の在りかは「腹心」です。
それはつまり越が「腹心(の病)」そのものであることを示すことではありませんか。

そう考えれば、問題となった「今越在腹心疾」という文も、「今越は我らの腹心の病という場所にある」の意に解せそうです。

ところが、「越在腹心疾」という文は「越は腹の中にある病気です」という意味を表すことがあり得ないかといえば、そんなことはないと思います。
しかし、非常に不安定で不確かな表現になります。
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。

とすれば、「之」を用いて、「在腹心+之+疾」の形をとり、「越在腹心之疾」(越は腹心に在るの疾なり)が考えられますが、それはとりもなおさず『左伝』の「越在我心腹之疾也」に酷似することになります。

つまり、考えの道筋に従えば、『左伝』の文は、次の2通りの読み方が可能になります。

1.越は我が心腹の疾に在るなり。
(越は我が国の心腹の病にある。=越は我が国の心腹の病の位置にある)

2.越は我が心腹に在るの疾なり。
(越は我が国の心腹にある病である。)

このどちらが是なのか、あるいは「越は我に在りて心腹の疾なり」が正しいのか、断じ得ません。

結論として、『新釈漢文大系』が「越在腹心疾」を「越は腹心に在るの疾なり」と読んでいることを誤りとすることはできません。
そして、これが果たして文法の力で断じることができるのか、今のところ私にはわかりません。
ただ、「越在腹心疾」とだけある表現を、「在腹心」と「疾」に分けて読むのはどこか不自然に感じるし、やはり「越は腹心の疾に在り」と読まれてしまう(あるいはそう読む方が自然な)構造になっていると思います。

ちなみに、『史記国字解』(桂湖村 等,早稲田大学出版部1919)、『漢文叢書 史記』(塚本哲三,有朋堂書店1925)を、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができますが、いずれも「越は腹心の疾に在り」と読まれています。

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