「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・1
- 2022/11/09 16:50
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その1。)
最近授業研究熱心な若い同僚がよく質問に来ます。
あれ?と思ったことをそのままにせず、納得がいくまで考えようという姿勢は、なにも生徒に限らず、教員である我々にこそ必要な態度だと常々思っているので、問われたことにはきちんと考えようと自身に言い聞かせているのですが…
つい先日の質問に、私もあれ?と思いました。
今回の質問は、『史記・呉太伯世家』の文章の一節についてでした。
いわゆる呉越の抗争にかかわる内容です。
呉王の夫差が、斉を攻めようとした場面。
斉の景公が亡くなり、新君も幼年、攻めるなら今がチャンスだというわけです。
それに対して、伍子胥が呉王夫差を諫めた言葉が問題です。
「越王句践は、食事は味を重ねず、衣服は采色を重ねず、死者を弔問し、病人を慰問し、いずれその民衆を用いようとしています。この人が死ななければ、きっと呉の憂いとなるでしょう…」
越こそ真の敵で、斉の国を攻めてる場合じゃないというわけですね。
そして、その後に続く言葉が、次の一文です。
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。(史記・呉太伯世家)
(▼今越腹心に在るの疾なり。而るに王先にせずして斉を務む。亦謬(あやま)たずや。 )
(▽今、越は[在腹心疾]。ところが王は(その問題を)先にせずに斉に務めています。間違っているのではありませんか。)
同僚はこの「越在腹心疾」の部分が引っかかったようです。
確かに普通に見れば、「越腹心の疾に在り」と読む構造に見えます。
書物に「越腹心に在るの疾なり」と読まれていて、何も考えずにそう読めば何の疑問もわいてこないのですが、きちんと構造を理解しようという姿勢があれば、なぜ「越腹心の疾に在り」ではないのか、気になって当然の箇所で、同僚の態度を頼もしく思ったのですが…
まず『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)を確認してみました。
読み:今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや、
通釈:越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか
現行の『史記』の注釈書で簡単に閲覧できるのはこの書だと思うのですが、通釈はともかくとして、読みは同僚が目にしたものとほぼ同じです。
その場では、確かにひっかかる変な読みだねとだけ答えておいたのですが、気になるので、ちょっと手元の資料をいくつか調べてみることにしました。
すると、王叔岷の『史記斠證 世家(一)』(中央研究院歴史語言研究所1983)に、おもしろいことが書いてありました。
考證:楓山、三條本在作猶,與呉語合。
案楓、三本在作猶,在與猶同義。伍子胥傳作『今呉之有越,猶人之有腹心疾也。』亦其證。左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼考證に、楓山、三條本は「在」を「猶」に作る、呉語と合すと。
案ずるに、楓、三本「在」を「猶」に作るは、「在」「猶」と義を同じくすればなり。伍子胥伝に『今呉の越有るは、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。』に作る、亦た其の證なり。左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『史記会注考証』に、「楓山本と三條本では『在』が『猶』になっていて、『国語・呉語』の記述と合致する。」とある。
私が考えるに、楓山本と三條本で「在」が「猶」になっているのは、「在」が「猶」と同義だからである。『史記・伍子胥列伝』は「今、呉に越があるのは、人に腹心の病気があるようなものである」とあるのも、その証である。『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)
なかなかおもしろい説なので、こんなふうに説かれているのがあるよと、同僚に渡しておいたのですが、私的にはどこか釈然としないものを感じました。
まず瀧川資言の『史記会注考証』に直接あたってみると、確かに王叔岷の引用通り「楓山、三條本在作猶、與呉語合」という注がついていました。
そこで『考証』が合致すると指摘する『国語・呉語』を見てみると、
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。
(▼越の呉に在るは、猶(な)ほ人の腹心の疾(やまひ)有るがごとし。)
(▽越は呉にとっては、人の腹や心の病気のようなものです。)
…読みと訳は、大野峻『新釈漢文大系 国語 下』(明治書院1978)による。
この書は2系統ある『国語』の伝本のうち、明道本が底本ですが、公序本にあたってみると、
・譬越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。
(▼譬ふれば越の呉に在るや、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。)
(▽喩えると、越が呉に在るのは、人に腹心の病気があるようなものである。)
となっていて、文字の異同があります。
これらを見るかぎり、『考証』が「楓山、三條本は『在』を『猶』に作るのは、呉語と合致する」とするのは、どういうことなのだろうと思えてきます。
残念ながら『史記』の楓山、三條本を直接見ることはできないのですが、「在」を「猶」に置き換えたものと『国語』の記述を比べてみると、次のようになります。
・越猶腹心疾。(史記 楓山、三條本)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語 明道本)
・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。(国語 公序本)
語義「似る」に近い「猶」による対応は次のようになっていて、
「越」=「腹心疾」(史記)
「越之在呉」=「人之有腹心之疾」(国語)
『国語』が「在」を「猶」に置き換えた表現になっていないことは明らかです。
だとすれば、『考証』が「呉語と合す」と述べているのは、語義的な説明ではなく、「猶」が削られた状態で「在」のみを残している『史記』の諸本とは違い、楓山、三條本が内容的に『国語』の記述と合致していることを指摘したものと考えるべきでしょう。
それを「楓、三本『在』作『猶』,『在』与『猶』同義」(楓山本と三條本が「在」を「猶」に作るのは、「在」が「猶」と同義だからである)と解したのは、『考証』ではなく、王叔岷によるものというべきです。
つまり、王叔岷は語義的にこの二字が同じであると断じたわけです。
次に王叔岷が引用した『伍子胥列伝』を確認しました。
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。
これが「在」が「猶」と同義であることの「亦其證」であるというのですが、どうでしょうか。
確かに司馬遷は、この例に限らず、同じ内容や発言を本紀や世家、列伝で述べることが多いのですが、その箇所ごとに微妙に表現を変えています。
たとえば、有名な「鴻門の会」の樊噌の発言は、教科書によくとられている『項羽本紀』では、
・臣死且不避、卮酒安足辞。
(▼臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辞するに足らん。)
(▽私は死ぬことすら避けない、卮酒はどうして断るほどのものであろうか。)
となっていますが、樊噌の列伝である『樊酈滕灌列伝』では、
・臣死且不辞、豈特卮酒乎。
(▼臣死すら且つ辞せず、豈に特(た)だに卮酒をや。)
(▽私は死ぬことすら辞さない、どうであろうただ卮酒のみ(辞したりするであろう)か。)
このように、表現を変えています。
どちらかの表現が間違っているわけでは、もちろんありません。
そういう目で今一度『呉太伯世家』『国語』『伍子胥列伝』の表現を見比べてみましょう。
・今越在腹心疾。(呉太伯世家)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語)
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。(伍子胥列伝)
すぐに気がつくのは、『国語』と『伍子胥列伝』の前半部が、表現を異にしている点です。
「越之在呉」と「呉之有越」、これは「之」の働きによって、「在呉」「有越」がそれぞれ「越」「呉」のそれに限定される形で名詞句になっていますが、これは文の主語にしやすくするためのものであって、独立した文であれば「越在呉」(越呉に在り)と「呉有越」(呉に越有り)です。
「在」と「有」の違いは周知のことで、以前に別のエントリーで荻生徂徠の『訓訳示蒙』の記述を紹介しましたから、再掲します。
有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)
「人在市」(人が市にいる)=「越在呉」(越が呉にある)
「市有人」(市に人がいる)=「呉有越」(呉に越がある)
この違いです。
「有」は存在を表し「在」は場所を表しますから、もちろん文意は異なりますが、表される事実は同じです。
つまり、「越之在呉」(国語)と「呉之有越」(伍子胥列伝)は、事実としては同じことを言っているのであり、司馬遷が表現を変えただけのことです。
したがって、『伍子胥列伝』に「今呉之有越、猶人之有腹心疾也」とあるからといって、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の「在」が「猶」と同義であることの証にはなり得ません。
「在」は「有」となり、別の表現形式で『伍子胥列伝』の中に生きているからです。
王叔岷の説も、なにやら怪しくなってきました。
同氏はさらに『春秋左氏伝』と『呉越春秋』の記述を引き合いに出しています。
これらをどう説明していくかで、『呉太伯世家』の文をどう解釈するかが導かれそうですが、今回はまずここでお休みをいただきます。
最近授業研究熱心な若い同僚がよく質問に来ます。
あれ?と思ったことをそのままにせず、納得がいくまで考えようという姿勢は、なにも生徒に限らず、教員である我々にこそ必要な態度だと常々思っているので、問われたことにはきちんと考えようと自身に言い聞かせているのですが…
つい先日の質問に、私もあれ?と思いました。
今回の質問は、『史記・呉太伯世家』の文章の一節についてでした。
いわゆる呉越の抗争にかかわる内容です。
呉王の夫差が、斉を攻めようとした場面。
斉の景公が亡くなり、新君も幼年、攻めるなら今がチャンスだというわけです。
それに対して、伍子胥が呉王夫差を諫めた言葉が問題です。
「越王句践は、食事は味を重ねず、衣服は采色を重ねず、死者を弔問し、病人を慰問し、いずれその民衆を用いようとしています。この人が死ななければ、きっと呉の憂いとなるでしょう…」
越こそ真の敵で、斉の国を攻めてる場合じゃないというわけですね。
そして、その後に続く言葉が、次の一文です。
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。(史記・呉太伯世家)
(▼今越腹心に在るの疾なり。而るに王先にせずして斉を務む。亦謬(あやま)たずや。 )
(▽今、越は[在腹心疾]。ところが王は(その問題を)先にせずに斉に務めています。間違っているのではありませんか。)
同僚はこの「越在腹心疾」の部分が引っかかったようです。
確かに普通に見れば、「越腹心の疾に在り」と読む構造に見えます。
書物に「越腹心に在るの疾なり」と読まれていて、何も考えずにそう読めば何の疑問もわいてこないのですが、きちんと構造を理解しようという姿勢があれば、なぜ「越腹心の疾に在り」ではないのか、気になって当然の箇所で、同僚の態度を頼もしく思ったのですが…
まず『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)を確認してみました。
読み:今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや、
通釈:越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか
現行の『史記』の注釈書で簡単に閲覧できるのはこの書だと思うのですが、通釈はともかくとして、読みは同僚が目にしたものとほぼ同じです。
その場では、確かにひっかかる変な読みだねとだけ答えておいたのですが、気になるので、ちょっと手元の資料をいくつか調べてみることにしました。
すると、王叔岷の『史記斠證 世家(一)』(中央研究院歴史語言研究所1983)に、おもしろいことが書いてありました。
考證:楓山、三條本在作猶,與呉語合。
案楓、三本在作猶,在與猶同義。伍子胥傳作『今呉之有越,猶人之有腹心疾也。』亦其證。左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼考證に、楓山、三條本は「在」を「猶」に作る、呉語と合すと。
案ずるに、楓、三本「在」を「猶」に作るは、「在」「猶」と義を同じくすればなり。伍子胥伝に『今呉の越有るは、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。』に作る、亦た其の證なり。左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『史記会注考証』に、「楓山本と三條本では『在』が『猶』になっていて、『国語・呉語』の記述と合致する。」とある。
私が考えるに、楓山本と三條本で「在」が「猶」になっているのは、「在」が「猶」と同義だからである。『史記・伍子胥列伝』は「今、呉に越があるのは、人に腹心の病気があるようなものである」とあるのも、その証である。『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)
なかなかおもしろい説なので、こんなふうに説かれているのがあるよと、同僚に渡しておいたのですが、私的にはどこか釈然としないものを感じました。
まず瀧川資言の『史記会注考証』に直接あたってみると、確かに王叔岷の引用通り「楓山、三條本在作猶、與呉語合」という注がついていました。
そこで『考証』が合致すると指摘する『国語・呉語』を見てみると、
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。
(▼越の呉に在るは、猶(な)ほ人の腹心の疾(やまひ)有るがごとし。)
(▽越は呉にとっては、人の腹や心の病気のようなものです。)
…読みと訳は、大野峻『新釈漢文大系 国語 下』(明治書院1978)による。
この書は2系統ある『国語』の伝本のうち、明道本が底本ですが、公序本にあたってみると、
・譬越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。
(▼譬ふれば越の呉に在るや、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。)
(▽喩えると、越が呉に在るのは、人に腹心の病気があるようなものである。)
となっていて、文字の異同があります。
これらを見るかぎり、『考証』が「楓山、三條本は『在』を『猶』に作るのは、呉語と合致する」とするのは、どういうことなのだろうと思えてきます。
残念ながら『史記』の楓山、三條本を直接見ることはできないのですが、「在」を「猶」に置き換えたものと『国語』の記述を比べてみると、次のようになります。
・越猶腹心疾。(史記 楓山、三條本)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語 明道本)
・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。(国語 公序本)
語義「似る」に近い「猶」による対応は次のようになっていて、
「越」=「腹心疾」(史記)
「越之在呉」=「人之有腹心之疾」(国語)
『国語』が「在」を「猶」に置き換えた表現になっていないことは明らかです。
だとすれば、『考証』が「呉語と合す」と述べているのは、語義的な説明ではなく、「猶」が削られた状態で「在」のみを残している『史記』の諸本とは違い、楓山、三條本が内容的に『国語』の記述と合致していることを指摘したものと考えるべきでしょう。
それを「楓、三本『在』作『猶』,『在』与『猶』同義」(楓山本と三條本が「在」を「猶」に作るのは、「在」が「猶」と同義だからである)と解したのは、『考証』ではなく、王叔岷によるものというべきです。
つまり、王叔岷は語義的にこの二字が同じであると断じたわけです。
次に王叔岷が引用した『伍子胥列伝』を確認しました。
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。
これが「在」が「猶」と同義であることの「亦其證」であるというのですが、どうでしょうか。
確かに司馬遷は、この例に限らず、同じ内容や発言を本紀や世家、列伝で述べることが多いのですが、その箇所ごとに微妙に表現を変えています。
たとえば、有名な「鴻門の会」の樊噌の発言は、教科書によくとられている『項羽本紀』では、
・臣死且不避、卮酒安足辞。
(▼臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辞するに足らん。)
(▽私は死ぬことすら避けない、卮酒はどうして断るほどのものであろうか。)
となっていますが、樊噌の列伝である『樊酈滕灌列伝』では、
・臣死且不辞、豈特卮酒乎。
(▼臣死すら且つ辞せず、豈に特(た)だに卮酒をや。)
(▽私は死ぬことすら辞さない、どうであろうただ卮酒のみ(辞したりするであろう)か。)
このように、表現を変えています。
どちらかの表現が間違っているわけでは、もちろんありません。
そういう目で今一度『呉太伯世家』『国語』『伍子胥列伝』の表現を見比べてみましょう。
・今越在腹心疾。(呉太伯世家)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語)
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。(伍子胥列伝)
すぐに気がつくのは、『国語』と『伍子胥列伝』の前半部が、表現を異にしている点です。
「越之在呉」と「呉之有越」、これは「之」の働きによって、「在呉」「有越」がそれぞれ「越」「呉」のそれに限定される形で名詞句になっていますが、これは文の主語にしやすくするためのものであって、独立した文であれば「越在呉」(越呉に在り)と「呉有越」(呉に越有り)です。
「在」と「有」の違いは周知のことで、以前に別のエントリーで荻生徂徠の『訓訳示蒙』の記述を紹介しましたから、再掲します。
有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)
「人在市」(人が市にいる)=「越在呉」(越が呉にある)
「市有人」(市に人がいる)=「呉有越」(呉に越がある)
この違いです。
「有」は存在を表し「在」は場所を表しますから、もちろん文意は異なりますが、表される事実は同じです。
つまり、「越之在呉」(国語)と「呉之有越」(伍子胥列伝)は、事実としては同じことを言っているのであり、司馬遷が表現を変えただけのことです。
したがって、『伍子胥列伝』に「今呉之有越、猶人之有腹心疾也」とあるからといって、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の「在」が「猶」と同義であることの証にはなり得ません。
「在」は「有」となり、別の表現形式で『伍子胥列伝』の中に生きているからです。
王叔岷の説も、なにやら怪しくなってきました。
同氏はさらに『春秋左氏伝』と『呉越春秋』の記述を引き合いに出しています。
これらをどう説明していくかで、『呉太伯世家』の文をどう解釈するかが導かれそうですが、今回はまずここでお休みをいただきます。