「所謂」について
- 2020/11/17 07:02
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「所謂」について、結構助詞「所」の用法に基づき考察する。)
「所」字の用法について、以前のエントリーでかなり考えました。
それなりの理解はできたと思っていましたが、つい先日、この9月に改訂したばかりの拙著の記述を見ていて、あれ?と感じることがありました。
「いわゆる」(所謂)は、どんな意味?」と題した「所」字のコラムについてです。
「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、「世間で言われている」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、構造助詞「所」を前にとり「所謂」(謂フ所)の形で、「ソレをいうソレそのもの」から「いうこと」という意味の名詞句になる。これが「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になることは、前に述べた。
まずこのくだりです。
この説明はおかしいのではないか?と、感じたのです。
「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になるという部分が、現在の私の理解と異なるように思えたのです、自分で書いたものなのですが…
「A所謂B」を「Aの謂ふ所のB」と読めば、「所」字の働きからすれば、「Aの、ソレを言うソレであるB」と解することになりますが、「Aの言うことであるB」という意味で「所謂」は用いられているだろうか?と疑問に思ったのです。
実際、この「A所謂B」の形は多くの例が見られますが、普通は次のように読まれています。
・子曰、「何哉、爾所謂達者。」(論語・顔淵)
(▼子曰はく、「何ぞや、爾(なんぢ)の所謂(いはゆる)達なる者は。」)
「所謂」を「いはゆる」と熟して読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなるのですが、これを「いはゆる」と熟さずに読んであるものを探してみました。
すると、『新釈漢文大系 論語』(明治書院1960)では次のように読まれています。
子曰く、何ぞや爾が謂ふ所の達とはと。
「お前のいう達とは、一体どんなことを考えているのか」と訳されています。
つまり、この書は、「爾所謂達」を「爾が謂ふ所の達」と読み、「お前のいう達」と解しているわけです。
「爾が謂ふ所の達」とは「爾の謂ふ所の達」と同じと考えてよいでしょう。
同様の読み方をしたものを探してみると、『新編漢文選1 呂氏春秋 上』(明治書院1996)に次のような例がありました。
・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾が謂ふ所の道に非ざるなり。
▽これは我々の考える正道にはずれている。)
読みと訳は同書によりますが、これも「吾が謂ふ所の道」と読まれています。
我々の日常会話でも、ちょっと固い表現になると、「君が言うところの問題点というのは、一体何なんだ?」と言ったりします。
この「A所謂B」の形を違う読み方をしている例がないか調べると、『新釈漢文大系 史記8』(明治書院1990)に、次の例を見つけました。
・晏子伏荘公尸、哭之成礼、然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。(史記・管晏列伝)
(▼晏子、荘公の尸に伏し、之に哭し礼を成し、然る後に去るは、豈に義を見て為さざるは勇無しと謂ふ所の者か。
▽晏子が、荘公の殺されたときその屍に枕して、身の危険をも顧みず哭の礼をきちんとして、それから立ち去ったのは、丁度「義を見てなさざるは勇無し」という言葉通りのものではないか。)
また、『新編漢文選8 晏子春秋 下』(明治書院2001)には、次の例があります。
・君所謂可、而有否焉、臣献其否、以成其可。君所謂否、而有可焉、臣獻其可、以去其否。(晏子春秋・外篇七)
(▼君の可と謂ふ所にして、否なること有れば、臣其の否なることを献じて、以て其の可を成す。君の否と謂ふ所にして、可なること有れば、臣其の可を献じて、以て其の否を去る。
▽君主が可とすることでも、過ちがあれば、臣下はその過ちを指摘して、君主の可を実現するもの。君主が否とすることでも、よいところがあれば、臣下はそのよさを指摘して、君主の否とする考えを除くものです。)
いずれも、読みと訳はその書のものです。
「豈所謂見義不為無勇者邪」は、言葉を補えば、「豈孔子所謂見義不為無勇者邪」だと思いますが、これを「豈に(孔子の)所謂(いはゆる)『義を見て為さざるは勇無し』なる者なるか」と読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなります。
しかし、「豈に孔子の謂ふ所の『義を見て為さざるは勇無し』なる者か」と読むのと、「豈に孔子の『義を見て為さざるは勇無し』と謂ふ所の者か」では、随分違うように思います。
また、「君所謂可」も、「君の謂ふ所の可」と「君の可と謂ふ所」では全く違うようにも思えます。
私は拙著でうかつにも「『A所謂B』(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、『AがいうB』という意味になる」などと述べてしまったのですが、前の例の「君所謂可」は「君がいう可」ではまさかないでしょう。
これは、「君の、ソレを可というソレ」のはずで、『新編漢文選8 晏子春秋 下』が「君主が可とすること」と訳しているのが、まさに正しい解釈のはずです。
また、「豈所謂見義不為無勇者邪」も、「どうであろう、(孔子の)ソレを『義を見て為さざる者は勇無し』というソレであろうか。」が、本来の意味ではないでしょうか。
先の『新編漢文選1 呂氏春秋 上』の例も、次のように読み、解釈するべきだと思います。
・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾の道と謂ふ所に非ざるなり。
▽これは我々が道とするものではないのだ。)
つまり、「これは、我々の、ソレを道というソレではないのだ」です。
また、先の『論語』の例も、
・子曰、「何哉、爾所謂達者。」
(▼子曰はく、「何ぞや、爾の達と謂ふ所の者は。」と。
▽先生が「何か、お前が達というものは」とおっしゃった。)
と読み、解するべきでは?
「お前の、ソレを達というソレ」で、厳密には「お前のいう達」ではない。
してみると、拙著のコラムで述べたことは、松下氏の用語を用いて説明するなら、次のように訂正しなければなりません。
「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、語法的には少し違い、「世間が~と言うこと」の意味になる。また、「世間が」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、「~を言う」という他動性の客体をとる性質と、「~と言う」という生産性の客体をとる性質がある。したがって、構造助詞「所」を用いて、「A所謂B」(AノBと謂フ所)の形をとれば、「所」は生産性の客体を表して「Aの、ソレをBというソレ」から、「AがBと言う(評する)こと」という意味になる。
さらに拙著ではいくつか例を挙げて説明しているのですが、たとえば、
吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の謂ふ所の時は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
▽私がいう時とは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)
この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がいうB」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前述したB」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私がいう『時』とは」と述べた形。
という記述は、次のように訂正しなければなりません。
吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の時と謂ふ所の者は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
▽私が時というものは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)
この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がBというもの」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前にBと述べたこと」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私が『時』といったものは」と述べた形。「吾の所謂(いはゆる)時とは」と読まれることも多い。
さらに、次の例、
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の謂ふ所の賢臣なり、然るに孔子は之を小とす。
▽管仲は世がいう賢臣である、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)
日本で用いられる「いわゆる」(所謂)は、この例のように「世がいう」→「世間で言われている」の意味で用いている。漢文でもこの意味で用いられることはあるのだ。
このように、漢文で用いられる「所謂」は、「世間で言われている」より、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。
上記は次のように改めなければなりません。
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の賢臣と謂ふ所なり、然るに孔子は之を小とす。
▽管仲は世が賢臣というものである、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)
日本で用いられる「いわゆる」(所謂)に近い用法。「世間が~ということ・もの」の意だ。
このように、漢文で用いられる「所謂」は、日本の「いわゆる」よりも、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。
この「A所謂B」(AのBと謂ふ所)は、「A謂之B」(A之をBと謂ふ)の「之」が「所」で表現されたものだと思います。
つまり、「Aが之をBという」の場合、「之」は直接賓語、「B」は間接賓語になりますが、先の説明で言い換えれば、「之」は他動性の客体、「B」は生産性の客体です。
「所」は他動性の客体を表し、名詞性連語を構成して、文の主語や述語、目的語という成分を受け持つことになるのです。
拙著の誤りは、近日中に訂正したいと思います。
「所」字の用法について、以前のエントリーでかなり考えました。
それなりの理解はできたと思っていましたが、つい先日、この9月に改訂したばかりの拙著の記述を見ていて、あれ?と感じることがありました。
「いわゆる」(所謂)は、どんな意味?」と題した「所」字のコラムについてです。
「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、「世間で言われている」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、構造助詞「所」を前にとり「所謂」(謂フ所)の形で、「ソレをいうソレそのもの」から「いうこと」という意味の名詞句になる。これが「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になることは、前に述べた。
まずこのくだりです。
この説明はおかしいのではないか?と、感じたのです。
「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になるという部分が、現在の私の理解と異なるように思えたのです、自分で書いたものなのですが…
「A所謂B」を「Aの謂ふ所のB」と読めば、「所」字の働きからすれば、「Aの、ソレを言うソレであるB」と解することになりますが、「Aの言うことであるB」という意味で「所謂」は用いられているだろうか?と疑問に思ったのです。
実際、この「A所謂B」の形は多くの例が見られますが、普通は次のように読まれています。
・子曰、「何哉、爾所謂達者。」(論語・顔淵)
(▼子曰はく、「何ぞや、爾(なんぢ)の所謂(いはゆる)達なる者は。」)
「所謂」を「いはゆる」と熟して読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなるのですが、これを「いはゆる」と熟さずに読んであるものを探してみました。
すると、『新釈漢文大系 論語』(明治書院1960)では次のように読まれています。
子曰く、何ぞや爾が謂ふ所の達とはと。
「お前のいう達とは、一体どんなことを考えているのか」と訳されています。
つまり、この書は、「爾所謂達」を「爾が謂ふ所の達」と読み、「お前のいう達」と解しているわけです。
「爾が謂ふ所の達」とは「爾の謂ふ所の達」と同じと考えてよいでしょう。
同様の読み方をしたものを探してみると、『新編漢文選1 呂氏春秋 上』(明治書院1996)に次のような例がありました。
・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾が謂ふ所の道に非ざるなり。
▽これは我々の考える正道にはずれている。)
読みと訳は同書によりますが、これも「吾が謂ふ所の道」と読まれています。
我々の日常会話でも、ちょっと固い表現になると、「君が言うところの問題点というのは、一体何なんだ?」と言ったりします。
この「A所謂B」の形を違う読み方をしている例がないか調べると、『新釈漢文大系 史記8』(明治書院1990)に、次の例を見つけました。
・晏子伏荘公尸、哭之成礼、然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。(史記・管晏列伝)
(▼晏子、荘公の尸に伏し、之に哭し礼を成し、然る後に去るは、豈に義を見て為さざるは勇無しと謂ふ所の者か。
▽晏子が、荘公の殺されたときその屍に枕して、身の危険をも顧みず哭の礼をきちんとして、それから立ち去ったのは、丁度「義を見てなさざるは勇無し」という言葉通りのものではないか。)
また、『新編漢文選8 晏子春秋 下』(明治書院2001)には、次の例があります。
・君所謂可、而有否焉、臣献其否、以成其可。君所謂否、而有可焉、臣獻其可、以去其否。(晏子春秋・外篇七)
(▼君の可と謂ふ所にして、否なること有れば、臣其の否なることを献じて、以て其の可を成す。君の否と謂ふ所にして、可なること有れば、臣其の可を献じて、以て其の否を去る。
▽君主が可とすることでも、過ちがあれば、臣下はその過ちを指摘して、君主の可を実現するもの。君主が否とすることでも、よいところがあれば、臣下はそのよさを指摘して、君主の否とする考えを除くものです。)
いずれも、読みと訳はその書のものです。
「豈所謂見義不為無勇者邪」は、言葉を補えば、「豈孔子所謂見義不為無勇者邪」だと思いますが、これを「豈に(孔子の)所謂(いはゆる)『義を見て為さざるは勇無し』なる者なるか」と読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなります。
しかし、「豈に孔子の謂ふ所の『義を見て為さざるは勇無し』なる者か」と読むのと、「豈に孔子の『義を見て為さざるは勇無し』と謂ふ所の者か」では、随分違うように思います。
また、「君所謂可」も、「君の謂ふ所の可」と「君の可と謂ふ所」では全く違うようにも思えます。
私は拙著でうかつにも「『A所謂B』(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、『AがいうB』という意味になる」などと述べてしまったのですが、前の例の「君所謂可」は「君がいう可」ではまさかないでしょう。
これは、「君の、ソレを可というソレ」のはずで、『新編漢文選8 晏子春秋 下』が「君主が可とすること」と訳しているのが、まさに正しい解釈のはずです。
また、「豈所謂見義不為無勇者邪」も、「どうであろう、(孔子の)ソレを『義を見て為さざる者は勇無し』というソレであろうか。」が、本来の意味ではないでしょうか。
先の『新編漢文選1 呂氏春秋 上』の例も、次のように読み、解釈するべきだと思います。
・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾の道と謂ふ所に非ざるなり。
▽これは我々が道とするものではないのだ。)
つまり、「これは、我々の、ソレを道というソレではないのだ」です。
また、先の『論語』の例も、
・子曰、「何哉、爾所謂達者。」
(▼子曰はく、「何ぞや、爾の達と謂ふ所の者は。」と。
▽先生が「何か、お前が達というものは」とおっしゃった。)
と読み、解するべきでは?
「お前の、ソレを達というソレ」で、厳密には「お前のいう達」ではない。
してみると、拙著のコラムで述べたことは、松下氏の用語を用いて説明するなら、次のように訂正しなければなりません。
「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、語法的には少し違い、「世間が~と言うこと」の意味になる。また、「世間が」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、「~を言う」という他動性の客体をとる性質と、「~と言う」という生産性の客体をとる性質がある。したがって、構造助詞「所」を用いて、「A所謂B」(AノBと謂フ所)の形をとれば、「所」は生産性の客体を表して「Aの、ソレをBというソレ」から、「AがBと言う(評する)こと」という意味になる。
さらに拙著ではいくつか例を挙げて説明しているのですが、たとえば、
吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の謂ふ所の時は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
▽私がいう時とは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)
この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がいうB」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前述したB」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私がいう『時』とは」と述べた形。
という記述は、次のように訂正しなければなりません。
吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の時と謂ふ所の者は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
▽私が時というものは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)
この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がBというもの」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前にBと述べたこと」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私が『時』といったものは」と述べた形。「吾の所謂(いはゆる)時とは」と読まれることも多い。
さらに、次の例、
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の謂ふ所の賢臣なり、然るに孔子は之を小とす。
▽管仲は世がいう賢臣である、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)
日本で用いられる「いわゆる」(所謂)は、この例のように「世がいう」→「世間で言われている」の意味で用いている。漢文でもこの意味で用いられることはあるのだ。
このように、漢文で用いられる「所謂」は、「世間で言われている」より、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。
上記は次のように改めなければなりません。
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の賢臣と謂ふ所なり、然るに孔子は之を小とす。
▽管仲は世が賢臣というものである、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)
日本で用いられる「いわゆる」(所謂)に近い用法。「世間が~ということ・もの」の意だ。
このように、漢文で用いられる「所謂」は、日本の「いわゆる」よりも、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。
この「A所謂B」(AのBと謂ふ所)は、「A謂之B」(A之をBと謂ふ)の「之」が「所」で表現されたものだと思います。
つまり、「Aが之をBという」の場合、「之」は直接賓語、「B」は間接賓語になりますが、先の説明で言い換えれば、「之」は他動性の客体、「B」は生産性の客体です。
「所」は他動性の客体を表し、名詞性連語を構成して、文の主語や述語、目的語という成分を受け持つことになるのです。
拙著の誤りは、近日中に訂正したいと思います。