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2020年11月の記事は以下のとおりです。

「所謂」について

(内容:「所謂」について、結構助詞「所」の用法に基づき考察する。)

「所」字の用法について、以前のエントリーでかなり考えました。
それなりの理解はできたと思っていましたが、つい先日、この9月に改訂したばかりの拙著の記述を見ていて、あれ?と感じることがありました。
「いわゆる」(所謂)は、どんな意味?」と題した「所」字のコラムについてです。

「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、「世間で言われている」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、構造助詞「所」を前にとり「所謂」(謂フ所)の形で、「ソレをいうソレそのもの」から「いうこと」という意味の名詞句になる。これが「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になることは、前に述べた。

まずこのくだりです。
この説明はおかしいのではないか?と、感じたのです。
「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になるという部分が、現在の私の理解と異なるように思えたのです、自分で書いたものなのですが…

「A所謂B」を「Aの謂ふ所のB」と読めば、「所」字の働きからすれば、「Aの、ソレを言うソレであるB」と解することになりますが、「Aの言うことであるB」という意味で「所謂」は用いられているだろうか?と疑問に思ったのです。

実際、この「A所謂B」の形は多くの例が見られますが、普通は次のように読まれています。

・子曰、「何哉、爾所謂達者。」(論語・顔淵)
(▼子曰はく、「何ぞや、爾(なんぢ)の所謂(いはゆる)達なる者は。」)

「所謂」を「いはゆる」と熟して読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなるのですが、これを「いはゆる」と熟さずに読んであるものを探してみました。
すると、『新釈漢文大系 論語』(明治書院1960)では次のように読まれています。

子曰く、何ぞや爾が謂ふ所の達とはと。

「お前のいう達とは、一体どんなことを考えているのか」と訳されています。
つまり、この書は、「爾所謂達」を「爾が謂ふ所の達」と読み、「お前のいう達」と解しているわけです。
「爾が謂ふ所の達」とは「爾の謂ふ所の達」と同じと考えてよいでしょう。

同様の読み方をしたものを探してみると、『新編漢文選1 呂氏春秋 上』(明治書院1996)に次のような例がありました。

・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾が謂ふ所の道に非ざるなり。
 ▽これは我々の考える正道にはずれている。)

読みと訳は同書によりますが、これも「吾が謂ふ所の道」と読まれています。

我々の日常会話でも、ちょっと固い表現になると、「君が言うところの問題点というのは、一体何なんだ?」と言ったりします。

この「A所謂B」の形を違う読み方をしている例がないか調べると、『新釈漢文大系 史記8』(明治書院1990)に、次の例を見つけました。

・晏子伏荘公尸、哭之成礼、然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。(史記・管晏列伝)
(▼晏子、荘公の尸に伏し、之に哭し礼を成し、然る後に去るは、豈に義を見て為さざるは勇無しと謂ふ所の者か。
 ▽晏子が、荘公の殺されたときその屍に枕して、身の危険をも顧みず哭の礼をきちんとして、それから立ち去ったのは、丁度「義を見てなさざるは勇無し」という言葉通りのものではないか。)

また、『新編漢文選8 晏子春秋 下』(明治書院2001)には、次の例があります。

・君所謂可、而有否焉、臣献其否、以成其可。君所謂否、而有可焉、臣獻其可、以去其否。(晏子春秋・外篇七)
(▼君の可と謂ふ所にして、否なること有れば、臣其の否なることを献じて、以て其の可を成す。君の否と謂ふ所にして、可なること有れば、臣其の可を献じて、以て其の否を去る。
 ▽君主が可とすることでも、過ちがあれば、臣下はその過ちを指摘して、君主の可を実現するもの。君主が否とすることでも、よいところがあれば、臣下はそのよさを指摘して、君主の否とする考えを除くものです。)

いずれも、読みと訳はその書のものです。
「豈所謂見義不為無勇者邪」は、言葉を補えば、「豈孔子所謂見義不為無勇者邪」だと思いますが、これを「豈に(孔子の)所謂(いはゆる)『義を見て為さざるは勇無し』なる者なるか」と読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなります。
しかし、「豈に孔子の謂ふ所の『義を見て為さざるは勇無し』なる者か」と読むのと、「豈に孔子の『義を見て為さざるは勇無し』と謂ふ所の者か」では、随分違うように思います。
また、「君所謂可」も、「君の謂ふ所の可」と「君の可と謂ふ所」では全く違うようにも思えます。

私は拙著でうかつにも「『A所謂B』(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、『AがいうB』という意味になる」などと述べてしまったのですが、前の例の「君所謂可」は「君がいう可」ではまさかないでしょう。
これは、「君の、ソレを可というソレ」のはずで、『新編漢文選8 晏子春秋 下』が「君主が可とすること」と訳しているのが、まさに正しい解釈のはずです。
また、「豈所謂見義不為無勇者邪」も、「どうであろう、(孔子の)ソレを『義を見て為さざる者は勇無し』というソレであろうか。」が、本来の意味ではないでしょうか。

先の『新編漢文選1 呂氏春秋 上』の例も、次のように読み、解釈するべきだと思います。

・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾の道と謂ふ所に非ざるなり。
 ▽これは我々が道とするものではないのだ。)

つまり、「これは、我々の、ソレを道というソレではないのだ」です。

また、先の『論語』の例も、

・子曰、「何哉、爾所謂達者。」
(▼子曰はく、「何ぞや、爾の達と謂ふ所の者は。」と。
 ▽先生が「何か、お前が達というものは」とおっしゃった。)

と読み、解するべきでは?
「お前の、ソレを達というソレ」で、厳密には「お前のいう達」ではない。

してみると、拙著のコラムで述べたことは、松下氏の用語を用いて説明するなら、次のように訂正しなければなりません。

「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、語法的には少し違い、「世間が~と言うこと」の意味になる。また、「世間が」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、「~を言う」という他動性の客体をとる性質と、「~と言う」という生産性の客体をとる性質がある。したがって、構造助詞「所」を用いて、「A所謂B」(AノBと謂フ所)の形をとれば、「所」は生産性の客体を表して「Aの、ソレをBというソレ」から、「AがBと言う(評する)こと」という意味になる。

さらに拙著ではいくつか例を挙げて説明しているのですが、たとえば、

吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の謂ふ所の時は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
 ▽私がいう時とは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)

この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がいうB」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前述したB」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私がいう『時』とは」と述べた形。

という記述は、次のように訂正しなければなりません。

吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の時と謂ふ所の者は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
 ▽私が時というものは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)

この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がBというもの」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前にBと述べたこと」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私が『時』といったものは」と述べた形。「吾の所謂(いはゆる)時とは」と読まれることも多い。

さらに、次の例、

管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の謂ふ所の賢臣なり、然るに孔子は之を小とす。
 ▽管仲は世がいう賢臣である、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)

日本で用いられる「いわゆる」(所謂)は、この例のように「世がいう」→「世間で言われている」の意味で用いている。漢文でもこの意味で用いられることはあるのだ。

このように、漢文で用いられる「所謂」は、「世間で言われている」より、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。

上記は次のように改めなければなりません。

管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の賢臣と謂ふ所なり、然るに孔子は之を小とす。
 ▽管仲は世が賢臣というものである、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)

日本で用いられる「いわゆる」(所謂)に近い用法。「世間が~ということ・もの」の意だ。

このように、漢文で用いられる「所謂」は、日本の「いわゆる」よりも、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。


この「A所謂B」(AのBと謂ふ所)は、「A謂之B」(A之をBと謂ふ)の「之」が「所」で表現されたものだと思います。
つまり、「Aが之をBという」の場合、「之」は直接賓語、「B」は間接賓語になりますが、先の説明で言い換えれば、「之」は他動性の客体、「B」は生産性の客体です。
「所」は他動性の客体を表し、名詞性連語を構成して、文の主語や述語、目的語という成分を受け持つことになるのです。

拙著の誤りは、近日中に訂正したいと思います。

『馬童面之』は顔を背けたのか?

(内容:『史記』項羽本紀のいわゆる「項王の最期」で「馬童面之」とあり、呂馬童は「顔をそむけた」と解されているが、これは反訓で解するべきか考察する。)

『史記・項羽本紀』のいわゆる「項王の最期」は、「鴻門の会」や「四面楚歌」と並んで、必ず教科書にもとられている定番教材です。
ですから、2年生の古典を受け持てば、必ず扱うことになるのですが、依然としてまだよくわからないことはたくさんあります。
その中で、今年気になったことの一つ、「馬童面之」を取り上げてみましょう。
調べていてわかったことを述べるだけで、自分が何か発見したり解明できたわけではありません。
それでも、何かの参考になればと思って書いてみます。

・顧見漢騎司馬呂馬童曰、「若非吾故人乎。」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。」
(▼顧みて漢の騎司馬呂馬童を見て曰はく、「若(なんぢ)は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳に指(さ)して曰はく、「此れ項王なり。」と。
 ▽振り返って漢の騎兵部隊の長・呂馬童を見て言うことには、「お前は私の旧友ではないか。」と。呂馬童はこれに[面]し、(味方の)王翳に指さして言うことには、「これが項王だ」と。)

この「馬童面之」が問題で、どの会社の教科書も「馬童は顔を背け」と訳しています。
ある指導書に丁寧に説明してありました。

「面」はここでは、顔を背けるの意。「顔」「向かう」の意の「面」を「そむく」と読むのは反訓による。反訓とは「乱」を「治」、「廃」を「置」、「離」を「着」のように、文字を本義とは正反対の意味に用いる漢文のレトリックの一つ。項羽から「お前は昔なじみじゃないか」と言われて、漢の追っ手であった呂馬童もさすがに恥じ、顔を背けたのであろうと解釈するわけである。しかしこれには異説もあり、人情の自然から言えば顔を背けてしかるべきところを、そうしないで向かっていった呂馬童の厚顔ぶりを皮肉ろうとしている表現とも読める。会注考証には、集解に「面、不正視」とあるほかは、全て「面と向かう」意味の用例をあげている。

「面」を「背く」とするのは反訓だと、きちんと説明されています。

別の指導書には、「異説」として、

「顔を背ける」と注したのは伝統的な注の一つである『史記集解』の説による。「若は吾が故人に非ずや」と項羽が思わず言ったように、呂馬童は項羽と旧知の関係であるがゆえに正視して斬りかかることができず、顔をそむけたととる。一方、『史記会注考証』に引く劉攽(りゅうはん)洪頤煊(こういけん)の説では「向かう」の意とし、顔をそむけず直視する解をとる。洪頤煊は直視して項羽だと知ったがゆえに王翳に指さして項羽だと知らせたのだという。伝統的解釈に従ったが、最近では後者の説も有力である。

と説明されています。
「面」をなぜ「背く」の意に解するのかは直接的に述べられていませんが、「伝統的な注」の説によったとしたわけです。

先の指導書にある「反訓」は、別に創案ではなく、『史記』の参考書に書かれていることです。
ですが、「面」を反訓と片付けるのは、本当にそれでいいのだろうかという気がしてきます。

そもそも1つの言葉が、どんな事情があるにせよ、その正反対の意味を表したのでは、明らかに困る事態だと思うのです。
それがコミュニケーション上のことならなおさらです。
「私は桃を食べる」と言ったのに、実は「私は桃を食べない」という意味なのだとなれば、もう大混乱です。
まあ、確かに、「私はまだまだ何もわかっていない」というのは、わかっていると思い込んでいる人よりも「わかっている」という自負を背景にすることもあるので、人の感覚としてはあるかもしれない表現ではあるのですが。
嫌い嫌いも好きのうちなんてのもありますね。
しかし、感覚としてそのように受け取ることもできることでも、客観的に書かれた文章に、そのような正反対の意味で表現することはやはり不適切であろうと思うのです。

反訓の代表例として挙げられる「乱」は、「乱れる・乱す」という意味と、その真逆の「治まる・治める」という意味の2つをもっています。

・武王曰、「予有乱臣十人。」(論語・泰伯)
(▼武王曰はく、「予に乱臣十人有り。」と。
 ▽武王が「私には治めてくれる十人の家臣がいる。」と言った。

この例は、前後の文意から功臣を指しており、いわゆる「乱臣」の意味では解し得ませえん。
武王の言葉は『尚書・泰誓中』にある同文を引用したもので、そうでなければ『論語』に「治めてくれる家臣」の意味で「乱臣」は用いられなかったはずです。
というのは、「乱」が「治」の意味で用いられるのは、西周時代に多く見られる用法だからです。

この反訓については、樋口靖氏の論文『いわゆる“反訓”について』(駒澤大学紀要)に分析されているので、詳しくはそちらを参照していただくとして、その由来を大雑把にいえば、原義と派生義の関係から反訓が起こるという説や、本来別の語が仮借によってたまたま同じ文字で表記されたとするもの、字義の相反する二字からなる語句があるが、そうなり得なかったものが一字で相反する意味をもつようになったとする説など、歴史的にさまざまな考え方があったことが紹介されています。
そして東晋の郭璞に始まる反訓説について、反訓と認められた例が、本当に反訓といえるものであるかどうかは疑わしいとしています。

「乱」の話に戻れば、これがなにゆえ「治」の意味を表すのかについては諸説があります。
たとえば、白川静氏は、旧字「亂」は、その左側の部分「𤔔」(らん)と右側の部分「乙」(いつ)から成り、

旧字は亂に作り、𤔔(らん)+乙(いつ)。𤔔は糸かせの上下に手を加えている形で、もつれた糸、すなわち乱れる意。乙は骨べら。これでもつれを解くので、亂はおさめる意。「亂(をさ)む」とよむべき字である。〔説文〕十四下に「治むるなり。乙に從ふ。乙は之れを治むるなり」という。〔段注〕にその文を誤りとし、紊乱の字であるから「治まらざるなり」と改むべしとする。字形からいえば、𤔔が乱れる、亂が治める意の字。のち亂に𤔔の訓を加え、「乱る」「治む」の両義があり、反訓の字とする説を生じたが、一つの文字が、同時に正反の二訓をもつということはない。(『字通』平凡社)

と述べています。
これによれば「乱」の2義を反訓とすること自体おかしいということになります。

また、藤堂明保氏も、𤔔を「もつれる」の意と解し、

乱の字は,右側に乙印をそえているが,これは軋アツと同義で,上からジッと抑える意味を表す。つまり,もつれをおさえて解決する意を加えたもので、<説文>がこの字を「治なり」と解したのは正しい。(『漢字語源辞典』學燈社)

と説明して、基本的には白川氏と同様の解釈です。

一方、黄生の『義府』巻下・面縛の条では、「古治字本作乿」(古は「治」の字はもと「乿」に作った)として、いわゆる反訓による解釈を「此蓋昧於字義之俗説」(これは思うに字義に暗い俗説である)としています。
そもそも字が違うというわけです。

このように諸説あり、反訓の代表例とされる「乱(亂)」自体が、果たして本当に反訓なのか疑わしくなります。

さて、本題に戻って、項羽本紀の「馬童面之」について考えてみましょう。
そもそも「面」を「顔を背ける」と解するのは、『史記集解』に引用する次の説によります。

・張晏曰、「以故人故、難視斫之、故背之。」如淳曰、「面、不正視也。」
(▼張晏曰はく、「故人の故を以て、之を視斫し難く、故に之に背く。」と。
 ▽張晏は「旧友であるために、見て斬りにくい、ゆえにこれに背を向けた。」という。如淳は「面とは、正視しないのである」という。)

この張晏の説が「背く」の根拠となるわけですが、「面」を「背く」と解する根拠は示されてはいません。
ちなみに、王叔岷は『史記斠證』で、この張晏の注が、『太平御覧』巻87で「難親斫之」(みずからこれを斬りにくく)になっていることを指摘し、字形が似ているために、後の如淳の注の「視」につられて誤ったものと解しています。
『漢書』注に顔師古が引用した張晏の注も「親」に作っています。
「見て斬る」ではなく、「自分で斬る」の意だったというわけですね。

顔師古は、張晏と如淳の注に対して、次のように評しています。

・如説非也、面謂背之、不面向也。面縛亦謂反偝而縛之。杜元凱以為但見其面、非也。
(▼如の説は非なり、面とは之に背くを謂ひ、面向せざるなり。面縛も亦た反偝して之を縛る。杜元凱以て但だ其の面を見ると為す、非なり。
 ▽如淳の説は誤っている、面とはこれに背くことをいい、面と向かわないのである。面縛も背いて縛る。杜元凱はただその顔を見るとするが、誤っている。)

面縛というのは投降儀礼で、勝利者に降伏して、後ろ手に縛って顔だけを見せる行為ですから、この顔師古の注は誤っていると思います。
この「面」は顔の意で、背くの意ではないでしょう。

しかしそうなると、「馬童面之」の「面」を「背く」と解するのは根拠の示されない張晏の説だけとなってしまいます。

事実として、王先謙は『漢書補注』で次のように注しています。

・劉攽曰、「面之、直面向之耳。」沈欽韓曰、「劉説是。少儀云『遇於道、見則面』。鄭注『可以隠則隠』、則謂面為向也、亦作偭。説文『偭、郷也』。少儀『尊壺者偭其鼻』。」
(▼劉攽曰はく、「之に面すとは、直だ之に向かふのみ。」と。沈欽韓曰はく、「劉の説は是なり。少儀に『道に遇ひ、見れば則ち面す』と云ふ。鄭注の『以て隠るべければ隠る』は、則ち面を謂ひて向かふと為すなり、亦た偭に作る。説文に『偭は、郷かふなり』と。少儀に『尊壺は其の鼻を面にす』と。」
(▽劉攽は、「これに面すとは、ただこれに向かうである。」という。沈欽韓は、「劉攽の説は正しい。礼記・少儀に『道で(尊長に)会い、(尊長が自分を)見れば面とむかって挨拶をする』といい、鄭玄が『隠れることができるなら隠れる』と注しているのは、面を向かうとするのである、また偭にも作る。説文解字に『偭は、郷(む)かうである』とある。礼記・少儀に『酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける」』とある。」という。)

劉攽は北宋、沈欽韓は清の人です。
また、瀧川資言の『史記会注考証』は、清の洪頤煊の説を引用しています。

・洪頤煊曰、「面、向也。謂向視之、審知為項王、因以指王翳。礼記玉藻『唯君面尊』、鄭注『面猶郷也』。田完世家『淳于髠説畢、趨出至門、而面其僕』、面即郷也。」
(▼洪頤煊曰はく、「面とは、向かふなり。向かひて之を視て、審らかに項王たるを知り、因りて以て王翳に指すを謂ふ。礼記玉藻に『唯だ君のみ尊に面す』と、鄭注『面とは猶ほ郷かふがごときなり』と。田完世家に、『淳于髠説き畢はり、趨り出で門に至りて、其の僕に面す』と、面とは即ち郷かふなり。」と。
 ▽洪頤煊は「面とは、向かうである。向かってこれを見て、はっきり項王であることを知り、そこで王翳に指さしたというのである。礼記・玉藻に『ただ君だけが酒樽に面と向かう』とあり、鄭玄は『面は郷と同じである』と注している。史記・田完世家に「淳于髠は説き終わり、走り出て門に至って、その僕に向かった」とある。面とはつまり郷(む)かうである。)

これらの説はみな「面」を反訓とせず、「向かう」の意としています。
王叔岷は『史記斠證』で、「面」を「向かう」の意とする諸説を紹介し、最後に歴史学者の陳槃(槃庵)の説を引用しています。

・槃庵兄云:『黄生義府:「詳上下文語意,項王此時雖在囲中,然去馬童尚遠,故曰『顧見』云云。時項王一行,尚有二十余騎,先尚未弁孰為項王,因其呼而諦視之,然後指示王翳云云。『面之,』即諦視之謂。
(槃庵氏はいう、『黄生の義府:「上下の文の語意を詳らかにするに、項王はこの時、包囲の中にいたが、馬童からまだ遠く離れていたので、『顧見(振り返り見る)』云々という。時に項王たちは、なお二十数騎おり、まだどれが項王であるかは見分けられず、その呼ぶ声によってはっきりこれを見て、その後王翳に指示する云々である。『面之』とは諦視する(はっきり見る)ことをいう。

これは、陳槃が『義府』を引用したもので、馬童が離れた項王から呼びかけられ、間違いなく項王だと確認するために、直視したと解したものです。
さらに『義府』の説明は続きます。

或謂古人多反語,故謂背為面,如治之為乱,馴之為擾,香之為臭,其例可見。此蓋昧於字義之俗説。古治字本作乿,馴擾之字本作㹛,臭為香気之総名,其臭腐之字本作殠。後人伝写訛謬如此,豈古人之意哉!若面之訓背,乃偭耳。且此時漢視羽如几肉矣,尚何所諱而背之言乎?」(巻下面縛條。)
あるいは、古人は反訓が多いので、背を面というのは、治を乱とし、馴を擾とし、香を臭というように、その例は見られるともいう。これはおそらく字義に暗い俗説である。古は治の字はもと乿に作り、馴擾の字はもと㹛に作り、臭は香気の総称であり、その腐った臭いは殠に作る。後の人がこのように誤って書き伝えたが、どうして古人の意図であったろうか。もし面を背と読むなら、偭である。さらにこの時漢は項羽を台の上の肉のように見ていた,なおどこにはばかって背くなどと言おうか。」(義府・巻下・面縛の條)

これは『義府』による反訓そのものの否定です。
背くの意は「偭」であって、「面」ではないという指摘がありますが、これについては、後で触れたいと思います。
これらについて、陳槃は次のように述べています。

槃案礼少儀:「尊壺者面其鼻。」鄭注:「鼻在面中,言郷人也。」正義:「尊与壺悉有面,面有鼻,鼻宜嚮於尊者,故言面其鼻也。」面之訓嚮,此類亦是也。又通作偭,則段氏説文注亦詳之矣。至羽紀此文,則訓嚮似于義較長。
私が礼記・少儀を案ずるに、「酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける」とあり、鄭玄の注に「鼻は面の中にあり、人に向かうをいうのだ」とあり、正義に「酒樽と酒壺にはみな面があり、面には鼻がある、鼻は尊者に向けるのがよく、ゆえにその鼻を前に向けるというのだ」とある。面を向かうと読むのは、これらもそれである。また通じて偭に作るのは、段氏の説文注にも詳しく述べられている。項羽本紀のこの文については、向かうと読むのはより適切な解釈である。』)

『礼記』の例を引いて、「面」はやはり「背く」の意ではなく、「向かう」の意であろうと結論づけています。

このように「面之」を「これに向かう」と解する方がよいとする説を見てくると、「背く」の意の反訓で済ませることには問題を感じてきます。

ところで、『義府』に指摘されていた「偭」の字について、加藤常賢氏の『漢字の起源』(角川書店)で、興味深いことが述べられています。
「面」の字が「背」の意に使われるのは「偭」がその意の本字であると言われているのを踏まえ、『説文解字』に「偭、郷也」とあるのに対して、次のように述べています。

根本的に言って、説文の「郷」(嚮)の上に脱字があると思う。私は「面の声」は「臱(へん)」の意を表わしていると思う。「臱」の音は「傍」あるいは「左右両側」の意を表すと思う。

とした上で、「偭」の字義を次のように述べています。

「人」の意符と「面」の音の表わす「旁」あるいは「左右両側」の意味を加えると、「人体の旁」、あるいは「人体の両側」の意味である。これを項羽列伝の「馬童面之」と言うことばに当てはめると、「馬童が体を傍に向けた」という意味になり、「面縛」と言うことばに当てはめると、「体の両側に手を縛してぐるぐる巻きにする」という意味になる。手を両側で縛れば、璧を手に持って献ずることができないから「面縛銜璧(面縛セラレテ璧ヲ銜ム)」と言うことになるのである。
「偭」字の意味が以上誤りないとすれば、前に挙げた史記・漢書の「偭」字の解釈のうち、如淳の
  面謂不正視也。(面ハ正視セザルヲ謂フなり。)
と言うのが正しく、「背」と解する張晏・顔師古説は、体を傍に向けた意味を強く解釈して「背を向けた」と解釈したにすぎない。
以上の考察に誤りがなければ、説文の解釈は「傍郷(嚮)」とあるべきであると思う。「旁」音と「面」音は声転にすぎない。

これは「面」は「偭」であるという条件と、「偭、郷也」という説文の説明を「偭、傍郷也」の脱字であるという条件の2つをクリアしない限り、あくまで仮説の域を出ないものだと思いますが、興味深いものではあります。

そもそも、「馬童面之」を、「馬童は顔を背け」と解するのは、先の指導書にもあるように、「項羽から『お前は昔なじみじゃないか』と言われて、漢の追っ手であった呂馬童もさすがに恥じ、顔を背けたのであろうと解釈」したものでしょう。
集解が引く張晏や如淳の解釈は、その延長上にあり、いわば馬童の気持ちを推し量ったものです。
つまり、文脈上、あるいは場面の状況から、そう解釈した方が自然に思われるからです。
しかし、実際馬童がそんな気持ちを抱いた証拠はどこにもありません。
司馬遷は「面之」と表現したのです。
「面」は対面する、向かうという意味なのに、馬童の気持ちを忖度して、それをわざわざ真逆の意味で解した張晏の説を根拠づけるために、反訓という根拠の疑わしいレトリックを持ち出した。
しかも、私の知る限り、「面」を明確に背くの意で解する例はないのにです。
顔師古の注も加藤常賢氏の仮説が成立しない以上は、有効な説明にはなっていません。

私としては、今のところ、この「馬童面之」の「面」は、文字通り「向かう」の意だと思います。
文脈から強引に字義を論じたり、文法を論じるのは、やはり危険なことではないでしょうか。

(記事削除・10)

  • 2020/11/10 15:41
  • カテゴリー:その他
(内容:記事削除の連絡。No.10)

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