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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。

「所~」を修飾する「尤」は何と読めばよいか?

(内容:「太宗尤所眷遇」の「尤」をどう解釈するか考察する。)

かなり以前に発行された漢文の受験対策問題集を見ていて、あれ?と思う一節に出会いました。
欧陽修の『帰田録』からの出題で、呂蒙正についての記述です。

・呂文穆公以寛厚為宰相、太宗尤所眷遇。有一朝士、家蔵古鑑、自言能照二百里、欲因公弟献以求知。其弟伺間従容言之、公笑曰、「吾面不過楪子大、安用照二百里。」其弟遂不復敢言。聞者歎服、以謂賢於李衛公遠矣。蓋寡好而不為物累者、昔賢之所難也。(帰田録・巻2)
(▼呂文穆公 寛厚を以て宰相と為り、[太宗尤所眷遇]。一朝士有り、家に古鑑を蔵し、自ら能く二百里を照らすと言ひ、公の弟に因り献じて以て知を求めんと欲す。其の弟 間を伺ひ、従容として之を言ふに、公笑ひて曰はく、「吾が面は楪子大を過ぎず、安くんぞ二百里を照らすを用ゐん。」と。其の弟遂に復た敢へて言はず。聞く者歎服し、以謂(おも)へらく李衛公より賢なること遠しと。蓋(けだ)し好むこと寡(すく)なくして物の累と為らざる者は、昔賢の難しとする所なり。)
(▽呂文穆公は寛大で穏やかであることから宰相となり、[太宗尤所眷遇]。一人の朝廷に仕える官吏が古い鏡を家蔵していて、自分で二百里を映すことができると言い、公の弟を通じて献上して知遇を得めようとした。その弟は機をうかがいおもむろにそのことを言うと、公が笑って言うには、「私の顔は楪子(=足台のある円形の漆器。皿)の大きさを上回らないのに、どうして二百里を映す必要があろうか。」と。その弟はそのままもう言おうとはしなかった。(その話を)聞く者は感じ入って、李衛公よりもはるかに賢明だと思った。思うに、寡欲にして物にわずらわされないことは、昔の賢者の難しいとしたことである。)

この「太宗尤所眷遇」は「尤(もつと)も眷遇する所なり」と読まれています。
調べてみると、20年以上も前に東京のとある国立大学の入試に出題されたもので、問題集の出版もその数年後ですから、この入試問題を採用したものだと思われます。

「眷遇」という語にはどちらも「重用する」という語注がついていました。
たまたま生徒にこの文はどういう意味だと思う?と問うてみると、「太宗がもっとも重く用いた人である」という答えが返ってきました。
「所」が後の動詞の不定の客体を表す名詞句をつくる語だという理解のきちんとできている生徒で、「ソレ」「ソコ」「ソノヒト」から、「ソノヒト」を選んで答えたわけです。
「所」が出てくるたびに、繰り返し繰り返しその働きを説明してきたおかげで、最近は彼らも「ソレを~するソレ」という理解がスムーズにできるようになってきました。

しかし、この生徒の答えに対して、「これ、そういう意味かな?」と言葉を濁しながら言うと、生徒の方も「違うんですか?」という顔をします。
私がひっかかったのは、「もっとも重用するひと」という意味の句がこの語順をとるか?ということでした。
この「太宗尤所眷遇」という句が、生徒の言うように「太宗がもっとも重く用いた人」という趣旨であることはほぼ間違いありません。
訓読というものは邦訳であって、必ずしも漢文の直訳でなければならないものではないと思うので、「尤も眷遇する所なり」と読んであるからといって、誤りというつもりはありません。
ただ、漢文の文法に照らした時、本当はどういう意味の句なのかと考えてみることは必要だと感じたのでした。

「眷遇」は、入試問題や問題集には「重用する」と注してありましたが、「眷」は「かへりみる」と訓じる語で「目をかける」の意ですから、「眷遇」とは「目をかけてもてなす」「手厚くもてなす」という意味です。
北宋の太宗が呂蒙正を手厚くもてなすから、重用するという意味になるわけです。
いずれにしても動詞です。
それは結構助詞「所」の後に置かれていることからも明らかです。
だから、「もっとも手厚くもてなす」なら「尤眷遇」(尤も眷遇す)となります。
この場合、「尤」は状語で「眷遇」を連用修飾する副詞です。

しかし、「所眷遇」は、「所」が「眷遇」の不定の客体を表すので、「ソノヒトを眷遇するソノヒト」の意の名詞句になります。
「尤」が「所」を飛び越えて「眷遇」を連用修飾することなどあるでしょうか?

『抱朴子』に次の文があります。

・世人以人所尤長、衆所不及者、便謂之聖。(抱朴子内篇・弁問)
(▼世人 人の尤も長ずる所、衆の及ばざる所の者を以て、便ち之を聖と謂ふ。)
(▽世の人は、人のもっともすぐれていること、衆人のおよばないことをもって、とりもなおさずそれを聖という。)

この「尤」は副詞として、動詞「長」を連用修飾しています。
したがって、「所」は、「尤」により修飾された「尤長」(もっともすぐれる)の依拠性に対する不定の客体を表す名詞句を作り、「ソレにもっともすぐれるソレ」という意味を表すことになります。

一方、『帰田録』の「所眷遇」は、「所」が「眷遇」の不定の客体を表す名詞句を作るので、「ソノヒトを厚くもてなすソノヒト」となります。
これは名詞なので、「尤所眷遇」の「尤」は副詞ではなく、連体修飾語になるはずです。

つまり、この問題は「所」の働きの問題ではありません。
「尤」という語の用いられ方というか、あるいは、日本語で「尤も重用する人」と表現する内容を、漢文では異なる表現のしかたをするのかもしれないということです。
あえて訳せば、「最大の重用する人」「最たる信頼者」とでもなるのでしょうか。

上最所信任、与図事帷幄之中、進退天下之士者、是矣。(漢書・京房伝)
(▼上の[最]信任する所にして、与(とも)に事を帷幄の中に図り、天下の士を進退する者、是れなり。)
(▽主上の[最]信任するひとで、そのひとと事を帷幄の中ではかり、天下の士を進めるも退けるもする者こそ、それです。)

今、国において乱をなしているものは誰かという元帝の問いに対して、京房が答えた言葉の一節です。
この「上最所信任」が、「主上が最も信任している人」という内容であることは明白ですが、前の「太宗尤所眷遇」と同じ構造をとっています。
これもあえて訳せば「主上の最大の信任する人」ということになるでしょうか。

考えてみれば、この構造というのは、何も「もっとも」と訓じる「尤」や「最」だけに限ったことではないと思います。
たとえば、

・時帝飲已酔、取常所佩刀擲之。(幽明録・巻2)
(▼時に帝飲みて已に酔ひ、[常]佩ぶる所の刀を取りて之を擲つ。)
(▽その時(晋の孝武)帝は酒を飲み酔っ払っていて、[常]帯びていた刀を取ってそれを投げつけた。)

この「常所佩刀」も、常に身につけていた刀を指していることは明白ですが、「所常佩刀」の語順をとっていません。
つまりは「常の佩ぶる所の刀」であって、あえて訳せば「いつもの身につけていた刀」となります。

他にも探せばいくらでもありそうです。

細かいことにこだわっているのかもしれませんが、「尤」や「最」は、我々が「もっとも」と副詞に読むのが普通であるために起こる違和感です。
「常所佩刀」などは「いつもの佩刀」とでも訳せば、多少は違和感が減るようです。

日本語と漢文の間にある、表現のしかたの異なりということになるでしょうか。
それがわかった上なら、「太宗尤所眷遇」を「太宗の尤も眷遇する所」と読んで「太宗が尤も重用する人」と訳す、「常所佩刀」を「常に佩ぶる所の刀」と読み「常に身につけている刀」と、日本語として自然に訓読したり訳したりするのは、それはそれでよいのかもしれません。
「太宗の尤なる眷遇する所」とか「常の佩ぶる所の刀」は、むしろ逆に不自然に感じる読みになってしまうからです。

細かいことにこだわったのかもしれません、しかし、「所」の働きを考えれば、こうなるだろうと思うし、またそうであれば、日本語と漢文の表現のしかたの異なり、あるいは漢文の中でも異なる表現があると、おもしろく感じました。

ただ、先に述べた東京のとある国立大学の入試問題では、「太宗尤所眷遇」の「尤」の読みを問うていました。
「所」の用法のわかった受験生は、「もつとも」と読むわけにいかず、困っただろうなと推察します。
私なら困っただろうし、「ゆうなる」「もつともなる」とでも答えて、誤答とされるでしょう。
もっとも、うちの生徒は「太宗がもっとも重く用いた人である」と訳したわけですから、困ることもなかったかもしれません

『臥薪嘗胆』の「出入」と「即」について

(内容:『十八史略』の「臥薪嘗胆」に見られる「出入」と「即」の意味について考察する。)

教育実習で学生さんに『十八史略』の「臥薪嘗胆」を授業してもらうことになりました。
指導案を見ながら気になるところを確認していくわけですが、本文の解釈でいくつか疑問が生じたところをただしてみました。

1.「出入」の動作主

・夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、…(十八史略・春秋戦国)
(▼夫差讎を復せんと志し、朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく、…)
 ▽夫差は復讐しようと誓い、朝夕薪の中に伏せて、出入りの際、人に大声で言わせることには、…)

この「出入」について、学生さんは夫差の出入りだといいます。
調べた資料には、「出入」の動作主は夫差の部下とも夫差自身とも解せるが、文脈としては夫差とするのが自然であると書いてあったそうです。
私は、その「文脈として自然に解する」というのがよくわかりませんでしたが、あるいは、この一文を連動文として、先頭の「夫差」が「志」「臥」「出入」「使」の動作主であると考えているのかもしれません。

授業用の資料には大概タネ本がありますから、手許の参考書をいくつか見てみることにしました。

『漢詩・漢文解釈講座』(昌平社)は、この件についての言及はありませんでした。

『鑑賞 中国の古典⑧ 十八史略』(角川書店1989)には、注記はないものの、この箇所を「出入りの人にも『…(略)…』と言わせた。」と訳してありました。
これによれば、「出入」の動作主は夫差ではなく、部下だということになります。

私の恩師青木五郎先生が若い頃に高校生向きに書かれた『必修 史記・十八史略』(文研出版1976)を見ると、「側近の者が夫差の寝室に出入りすること。」と明記してあります。

また、タネ本の可能性が高い『研究資料漢文学8 歴史Ⅱ』(明治書院1993)には、「『出入』の主語は、(1)夫差、(2)人(家臣)、のどちらでも解釈できるが、ここでは(1)に解しておきたい。」と書かれています。

結論からいえば、本文だけでは『研究資料漢文学』にいうとおり、どちらとでも解釈できて、決め手にかけるわけです。
したがって、自由勝手に動作主を考えれば、色々と考えは生まれてきます。

もし「出入」の主語が夫差であったとしたら、夫差が寝室に出入りするごとに部下が大声で言うのですから、その部下は常に寝室、またはその入り口に待機することになります。
そんな役割に特化した部下を配置するでしょうか。
あるいは、夫差が寝室に出入りする時間帯に限定して夜間勤務になるのかもしれませんが。

また、「出入」の主語が部下であるとすれば、頻繁に出入りしてもらわないことには、大声で言わせる場面が生まれてこないことになりますが、部下というものは、王の寝室にそんなにちょくちょく出入りするものなのでしょうか。

結局のところ、どうとでも解釈できるというしかないのですが、しかし少なくとも作者は、どちらとでも解釈してくれという無責任な態度ではなかったはずです。

ご承知の通り、「臥薪嘗胆」の「臥薪」の部分については、呉王夫差が薪に臥したなどという記述は『史記』などの古典になく、「臥薪」という言葉自体が、いわゆる苦労を重ねることの意味で用いられたのは、北宋蘇軾の『擬孫権答曹操書』という文章が初見です。
ただ、「枕戈」(戈に枕す)という表現が杜甫の詩に越王句践に関連付けて用いられたり、宋代には「臥薪嘗胆」の四字句が用いられるようになったことも報告されています。(樋口敦士「故事成語「臥薪嘗胆」教材考―成立と受容の観点に照らして」)

しかし、夫差の「臥薪」の故事は見られなくても、作者が元としたであろう話は『春秋左氏伝』に見えます。

・夫差使人立於庭、苟出入、必謂己曰、「夫差、而忘越王之殺而父乎。」則対曰、「唯、不敢忘。」(春秋左氏伝・定公14年)
(▼夫差人をして庭に立たしめ、苟くも出入すれば、必ず己に謂はしめて曰はく、「夫差、而(なんぢ)は越王の而(なんぢ)の父を殺すを忘るるか。」と。則ち対へて曰はく、「唯(ゐ)、敢へて忘れず。」と。)
(▽夫差は人に庭に立たせ、かりにも出入りすれば、必ず自分に言わせることには、「夫差よ、お前は越王のお前の父を殺したことを忘れたか。」と。その際にきまってお答えすることには、「はい、忘れたりはいたしません。」と。

(この文、使役の兼語文と説明されるものとして見れば、なにやら怪しい構造をとっているように思えるのですが、それは今は措いておきます。)

『十八史略』のいわゆる十八の史書の中に『春秋左氏伝』は含まれていませんが、作者が見ていないはずはありません。
ここで用いられている「出入」が「人」(部下)の動作でなく、夫差の動作であることは、人が立たされていることから明らかです。

私が何を言いたいかというと、『十八史略』の「出入使人呼曰」という表現は、「臥薪」という新しい設定を用いてはいても、『左伝』の記述の延長上にある可能性が高いのではないかということです。
もし、そうだとすれば、部下を庭に立たせておいて、夫差が出入りするたびに、「越王がお前の父を殺したことを忘れたのか」と言わせたという『左伝』の記述から、『十八史略』の「出入」も夫差が動作主である可能性が高いのではないでしょうか。
わざわざ部下を庭に立たせておくことが設定としてあり得るなら、寝室の入り口に立たせておくことも、ない話ではなくなります。
夫差にとっては、それに人を割くほどに、重要事であったのかもしれません。

私は、文脈から「夫差」の動作だと読む方が自然だというのではなく、『左伝』の記事を背景にしている可能性から「夫差」の動作なのではないかと考えます。


2.「即」の意味

・句践反国、懸胆於坐臥、仰胆嘗之曰、「女忘会稽之恥邪。」(十八史略・春秋戦国)
(▼句践国に反(かへ)り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰はく、「女(なんぢ)会稽の恥を忘るるか。」と。)
(▽句践は国に帰り、(苦い)胆を座ったり寝たりするところにぶらさげ、[即ち]胆を仰いでそれをなめて言うことには、「お前は会稽の恥を忘れたのか。」と。

この「即」の意味も気になるところです。
学生さんに確認してみると、調べた資料には「すぐ」と書かれていたそうです。
どうあって「すぐ」なのか、わかりません。

『新釈漢文大系20 十八史略』(明治書院1967)には、語注はなく、訳も「苦い胆を寝起きする部屋に吊り下げておき、仰向いては胆を嘗め」とあり、「即」の直接的な訳はありません。

『鑑賞 中国の古典⑧ 十八史略』も語注なく、「(苦い)胆を寝起きする部屋にかけ、その胆をあおぎ見、これを嘗めては」と訳すばかりです。

『研究資料漢文学8 歴史Ⅱ』は、語注なく、「(苦い)胆を(自分の)寝起きするところにぶら下げておき、(いつも)仰ぎ見てはこれをなめて(自分を叱咤して)」と訳しています。
「いつも」というのは意味を補っただけで、「即」の訳ではないかもしれません。

恩師の『必修 史記・十八史略』には、「即」の注として、「上に『坐臥』が省略されていると考える。『起居するたびに、すぐに』の意。」と説明し、「寝起きする所に胆をつるし、(寝起きのたびに)すぐに胆を振り仰いでなめ、」と訳があります。

以前にも述べた通り、「即」という字は「食卓につく」が原義の字で、接着が基本義です。
時間的に接着すれば「すぐに」という意味になるし、事情が接着すれば「とりもなおさず」「つまり」などの意味になります。
あたかも多義語のように説明されることもありますが、基本はここから考えるべきでしょう。
しかし、「懸胆於坐臥、即仰胆嘗之」の場合、「胆を座ったり寝たりするところにぶらさげる」と「胆を仰いでそれをなめる」の2句をこれらの関係で説明することには無理があります。
だからなのか、訳本のどれもが「即」の訳を避けているのでしょうか。

ですが、恩師の「上に『坐臥』が省略されていると考える」には、理由があったのだと思います。

『史記』には、次のように書かれています。

・呉既赦越、越王句践反国。乃苦身焦思、置胆於坐、坐臥即仰胆、飲食亦嘗胆也。(史記・越王句践世家)
(▼呉既に越を赦し、越王句践国に反る。乃ち身を苦しめ思ひを焦がし、胆を坐に置き、坐臥する即ち胆を仰ぎ、飲食にも亦た胆を嘗むるなり。)
(▽呉がすでに越を許し、越王句践は国に帰った。そこで身を苦しめ思いを焦がし、胆を座右に置いて、坐臥するとすぐ胆を仰ぎ、飲食にも胆を嘗めた。)

『史記』には「坐臥即仰胆」という表現があり、その「即仰胆」を『十八史略』は取ったものとされたのでしょう。
『十八史略』の「即仰胆嘗之」が100%「坐臥即仰胆嘗之」の意であると断定することはもちろんできませんが、『史記』の表現を写し取っている可能性はかなり高いのではないかと思います。

そのように考えると、「懸胆於坐臥、即仰胆嘗之」の「即」をすんなり理解するのは難しいけれども、元にした文章からおそらく「すぐに」の意だと判断できることになり、独立した本文としてはどうなのだろうという気もします。
『四庫全書総目提要』が、諸本から史文を抄録しながらも、簡略に過ぎると評したのはこういうところを指摘したのかもしれません。


学生さんの実習指導のために「臥薪嘗胆」を見ていて、その過程で気になったことはまだほかにもあるのですが、それは別のエントリーで書いてみようと思います。

『孟子』注解 を公開しました

(内容:『孟子』の語法注解を「漢文教材・注解」のページにアップしたことの告知。)

この3月、勤務校である京都教育大学附属高等学校の研究紀要97号に『孟子』注解を投稿しました。

高等学校の現場の先生方や、もっと詳しく知りたい高校生のみなさんのお役に立てればと思います。

前稿の『史記』『論語』と同様、教科書によく載せられる題材を選び、主に語法の注を試みたものです。
ご参考にしていただければ、と思います。

相変わらず思考の過程を示しつつ書いたものですので、誤りもあろうかと思います。
ご教示を賜れば幸甚です。

右サイドのページエントリー「漢文教材(作品)・注解」、またはこちらからお入り下さい。

「為烏所盗肉」の意味は?

(内容:「為烏所盗肉」の「所」の働きを考える。)

料理の味付け、調味料の使用順として、「さしすせそ」という言葉が用いられます。
砂糖→塩→酢→醤油→味噌の順に味付けはするものだというのを語呂合わせで覚えるわけです。
「味付けの順とはそういうものなのだ」で終わってしまえば、それがなぜなのかを考えることはありません。
(とはいえ、料理の場合は、うまく味付けできたか、できなかったかを経験で学ぶことができるし、失敗を繰り返すうちに、なぜその順なのかが何となくわかってくるものではありますが…)

なぜかを考えずにそうだと思い込んだり、そう言い切ったりするということは、なにもこれに限ったことではなく、日常の色々な場面で見られることで、学校の授業でもあるだろうし、自分自身の中にもたくさんありそうな気がします。
「さしすせそ」の順が正しい、もしくは妥当な場合は、考えなくてもそれが正しい、妥当なわけですから、より考える方向に進まないかもしれません。

何が言いたいかというと、かつて自分が説明したことについて、それがたまたま妥当であったとしても、それを本当にわかって説明したのかという自分自身への問いかけが、最近多くなってきたということです。
わかっていなければ、ただの受け売りであったり、思いつきがたまたま当を得ていたということでしかありません。

かつて受身とされる「A為B所C」(A BのCする所と為る)の形について、このように説明したことがあります。

「A為B所C」の動詞「C」が、さらに目的語Dをとることがある。

A為B所CD。
 ▼ABのDをCする所と為る。
 ▽AがBにDをCされる。

・為烏所盗肉。(漢書・循吏伝)
  ▼烏の肉を盗む所と為る。
  ▽からすに肉を盗まれる。

「所盗肉」は「肉を盗む対象」の意だから、「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。主語は省略されているが、構造的には、「私は『からすが肉を盗む対象』になった」という意味だから、「私はからすに肉を盗まれた」という受身になるわけだ。

自分が書いたこの説明を見ているうちに、この説明は本当にわかってしたものだろうかという疑問がわいてきました。
もしわかっていたなら、「『所盗肉』は『肉を盗む対象』の意」で済ましてはいなかったろうという気がしました。

これはやはり「所」が何を指すかという問題でしょう。
それを考えずに、ただ「からすに肉を盗まれる」という受身だというのなら、

・肉為烏所盗。
(▼肉烏の盗む所と為る。)
(▽肉が烏に盗まれる。)

の文の方が、自然な表現のように思えてしまいます。
「肉が烏の(ソレを)盗むソレになる」の意です。

しかし例文は「為烏所盗肉」であって、「肉為烏所盗」ではありません。
しかもこの例文には「A為B所CD」の主語Aが伴っていません。
重大な説明の誤りがありそうです。
かつてこれを書いた時、私はきちんと原典にあたっていたのか?

・吏出、不敢舎郵亭、食於道旁。烏攫其肉。民有欲詣府口言事者適見之。霸与語道此。後日吏還謁霸。霸見迎労之曰、「甚苦。食於道旁、乃為烏所盗肉。」吏大驚、以霸具知其起居、所問豪氂不敢有所隠。(漢書・循吏伝)
(▼吏出で、敢へて郵亭に舎(やど)らず、道の旁(かたは)らに食らふ。烏其の肉を攫(つか)む。民に府に詣(いた)り事を口言せんと欲する者有り適(たまたま)之を見る。霸与(とも)に語り此を道(みちび)く。後日吏還りて霸に謁す。霸見て迎へ之を労(ねぎら)ひて曰はく、「甚だ苦なり。道の旁らに食らひて、乃ち烏の肉を盗む所と為る。」と。吏大いに驚き、霸具(つぶ)さに其の起居を知ると以(おも)ひて、問ふ所は豪氂(がうり)も敢へて隠す所有らず。)
(▽役人は出発しても、郵亭に宿ろうとはせずに、道ばたで食事をした。からすがその肉をつかみさらった。役所に行って口頭でもの申そうとした民がいて、たまたまそれを見ていた。(潁川郡太守の)黄霸はこの者と語りこの事実を導き出した。後日、役人が戻り黄霸に謁見した。黄霸は引見して迎え彼をねぎらっていうことには、「たいへんご苦労であった。道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれるとは。」と。役人はおおいに驚いて、黄霸がつぶさに自分の行動を知っていると思い、(黄霸が)問うことについては、いささかも隠そうとすることがなかった。)

潁川郡太守の黄霸に派遣された役人が、自分の動静を黄霸に把握されているのを驚く場面からの引用文でした。
これで明らかなように、先の説明の「私は『からすが肉を盗む対象』になった」は誤りで、主語Aは「私」ではなく「お前」すなわち吏(役人)です。
使用する例文は、必ず原典にあたるという、基本的な姿勢を、この時どうやら私は怠ったようです。

黄霸は「肉がからすに盗まれた」ということを主に述べているのではなく、役人が落ち着いて郵亭に宿ろうともせずに「道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれる」ような目にあった苦労をねぎらっているのです。
だから「肉がからすに盗まれた」ではなく「お前はからすに肉を盗まれた」と言ったわけです。

私は、この例文が、

・若属皆且為所虜。(史記・項羽本紀)
(▼若(なんぢ)が属皆且に虜とする所と為らんとす。)

と基本的に同じ構造の文だと思います。
わかりやすくするために、

・若属為沛公所虜。
(▼若が属沛公の虜とする所と為る。)

と書き改めてみますが、これは「お前たち一族が沛公の(ソレを)生け捕るソレになる」の意です。
ソレをソノヒトと言ってもいいでしょう。
だから「(沛公に)捕虜にされる」という受身の意味になるのです。
「為烏所盗肉。」も「(お前は)烏の肉を盗むソレになる」「(お前は)烏の肉を盗むソノヒトになる」の意ではないでしょうか。

しかし、問題は「盗」という動詞の性質です。
私の仮説は「盗」が双賓結構をとる動詞ではないのか?です。
「盗AB」の形で「AよりBを盗む」、すなわち「盗+間接賓語(誰から)+直接賓語(何を)」の構造をとるのでは?と考えます。
したがって、「所盗B」(盗む所のB)なら、「盗むソレであるB」から「盗んだB」になり、「所盗B」(Bを盗む所)なら、「ソノヒトからBを盗むソノヒト」から「Bを盗まれる人」になります。
これが成り立てば、「為烏所盗肉」(烏の肉を盗む所と為る)は、「烏のソノヒトから肉を盗むソノヒト」となって、要するに「烏に肉を盗まれる人」という意味だと説明することができます。
というより、そうだと私は思うのですが、これの証明ができないでいるというのが本当のところです。

手元に用意できるだけの「盗」という字の用例を一つひとつ確認したのですが、そもそも「~を盗む」という用例は無数にあるのですが、「~から~を盗む」の意だと断定できる用例が見つかりません。
考えてみればそれもそのはずで、私が「AよりBを盗む」の構造だと仮定する「盗AB」は、「AのBを盗む」でも普通に解釈できてしまうからです。
「与若芧」(お前たちにトチの実を与える)という双賓文は、「若に芧を与ふ」としか読みようがなく、「若の芧を与ふ」と読むことはできませんが、「盗AB」は仮に双賓文だったとしても、「AのBを盗む」と読めてしまいます。

「蛇足」で有名な『戦国策・斉二』の一節、「吾能為之足」も「吾能く之に足を為る」という双賓文ですが、一般には「吾能く之が足を為る」と読まれています。
「之」は通常連体格には用いられない語で、「為」の依拠性に対する賓語として用いられているので、「之が」と読むのは少なくとも文法的にはよろしくありません。
ですがそのように読めてしまうように、「盗AB」が双賓文であると証明するのは「盗之B」という例でもない限り、無理ではないかと思います。

・丁零蘇武牛羊。(後漢書・孔融伝)
(▼丁零蘇武より牛羊を盗む。)
(▽丁零(北方民族の名)が蘇武から牛や羊を盗んだ。)

これも「蘇武の牛羊を盗む」と読めてしまいます。

・司徒期聘於越。公攻而之幣。(春秋左氏伝・哀公26年)
(▼司徒期越に聘す。公攻めて之より幣を奪ふ。)
(▽司徒期が越の国に使者として訪れた。公は攻めてこれから礼物を奪った。)

これは「盗」ではなく「奪」の例です。
文法的には「之が」とか「之の」と読むべきではないのは前述しましたが、実際手元の解説書では「之が幣を奪ふ」と読んであります。
「奪」と「盗」を同一視するわけにはいきませんが、「盗」も双賓結構をとる動詞の可能性はあると思います。

結局のところ、証拠を示すことはできませんでしたが、「為烏所盗肉」という文は、「烏の盗む所の肉と為る」と強引に読んで「烏の盗んだ肉になる」と解する以外には、「所」を「盗」の他動性に対するとは異なる不定の客体を想定するしかありません。
そう考えた時、「烏のソノヒトより肉を盗むソノヒトと為る」と解するのが一番自然ではないでしょうか。
つまり、「烏に肉を盗まれた人になる」です。

その意味で、昔私が書いた、

「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。

は、必ずしもはずれた解説にはなっていないとはいえるかもしれません。
しかし、それはここまで考えた結果として示したものではなかった。
そして、なぜそうなるのかを示さないものであった。

そう思います。
料理の「さしすせそ」が、なぜなのか?
それを考えようとしなければ、少なくとも自分自身が納得のいく美味い料理は作れないのではないでしょうか。

拙著の誤りと説明不足は、すぐにも訂正したいと思います。

「豪毛不敢有所近」の「所近」の意味は?

『史記』項羽列伝のいわゆる「鴻門の会」で、樊噲が項王に対して持論を展開する場面があります。
そこで樊噲は、主である沛公を弁護して、次のように言います。

・今沛公先破秦入咸陽、豪毛不敢有所近、封閉宮室、還軍覇上、以待大王来。
(▼今沛公先づ秦を破りて咸陽に入るに、豪毛も敢へて近づくる所有らず、宮室を封閉し、軍を覇上に還して、以て大王の来たるを待つ。)
(▽今沛公は真っ先に秦を破って咸陽に入りましたのに、いささかも私物化したものをもとうとせず、宮殿を閉鎖し、軍を覇上に戻して、大王のいらっしゃるのを待っていました。)

この「豪毛」は宋版や元版、明版の中には「毫毛」に作るものも見られます。
さて、通常この「豪毛不敢有所近」は上記のごとく「豪毛も敢へて近づくる所有らず」と読み、「ほんのわずかも近づけるものをもとうとしなかった」の意で解釈されています。

ところが、この読みと解釈に対して疑義を呈している主張を目にしました。
これに限らず他にも、いわゆる教科書の読みと解釈の問題点を複数にわたって指摘し、誤りを正そうという内容でした。
その姿勢自体は素晴らしいと思います。
ただ、そこに指摘されていることのいくつかが、???と首を傾げてしまうものであるというのも、正直な感想です。

このエントリーは、それらを問題とするものではありません。
これまで何度か考えてきた「所」の用法について、最近またぞろ疑問が生まれてきていて、それが私に「あれ?」と思わせたのです。

話が少し横道にそれますが、いわゆる「A為B所C。」(▼ABのCする所と為る。 ▽AがBにCされる。)の受身の形式において、Cが「CD」(DをCする)の形をとる場合があります。
すなわち「A為B所CD。」(ABのDをCする所と為る。)の形式の文において、「所」が何を指すかという問題です。
たとえば、「為烏所盗肉。」(▼烏の肉を盗む所と為る。)という文は、一体どういう意味でしょうか?
そして「所」は何を指すのでしょうか?

そのこと自体は、いずれエントリーを改めて書くつもりですが、そんなこともあって、「所」にはまたぞろ敏感になっていました。

話を元に戻し、疑義が呈されていた内容を要約すると、

「豪毛不敢有所近」の「近」は他動「近づける」の意で従来解釈されているが、「近」に他動詞としての働きはなく、自動詞「近づく」の意味でしか用いられない。
したがって、「敢へて近づく所有らず」と読んで、「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」とするのがよい。

となります。
これが私に「あれ?」と思わせたわけです。

「所」は、後の動詞の不定の客体を表す名詞句を作ります。
それを単に「後の動詞を名詞句にする働き」などと捉えて、「~するもの・~すること」と訳せばよいなどと思い込むと、誤った解釈を生み出してしまいます。

「食桃」(桃を食べる)に対して、「桃」を「所」に置き換えると「所食」となりますが、これは「(ソレを)食べるソレ」の意ですから、「食べるもの」という意味になります。
不定の客体なので、栗でも梨でも「食べるもの」なら何でもいいわけです。

「在京都」(京都にいる)に対して、「京都」を「所」に置き換えると「所在」となりますが、これは「(ソコに)在るソコ」という意味で、「在る場所」という意味になります。
これも不定ですから、「問所在」(在る所を問ふ)という問いが成立します。
不定だから問えるわけです。

「待人」(人を待つ)の場合も、「待」が誰かを待つという意味で用いられているなら「所待」は「(ソノヒトを)待つソノヒト」であって、不定の「待つ人」という意味の名詞句になります。

そう確認したところで、改めて「不敢有所近」を見てみましょう。
従来の読み通り「近づくる所」と読めば、「所近」は「(ソレを)近づけるソレ」で「近づけるもの」という意味で通ります。
しかし、「近づく所」と読んだ場合、指摘のような「近づくこと」という意味を表し得るでしょうか?
「近づく」は、「どこそこに近づく」または「何それに近づく」であって、客体は動詞の依拠性に対するものになるはずです。
つまり、もし「所近」を、「近」は自動詞だとして「近づく所」と読むなら、前者なら「(ソコに)近づくソコ」、後者なら「(ソレに)近づくソレ」とならざるを得ません。
つまり「近づく場所」または「近づくもの」です。
「不敢有所近」は、さすがに「近づく場所をもとうとしなかった」の意味ではないでしょう。
百歩譲って、それでも「近」を自動詞として「沛公はほんのわずかも近づく場所をもとうとはしなかった」と解するならまだしも、あるいは近づく対象をソレとみなして「近づくものをもとうとはしなかった」と解するならまだしも、よもや「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」と言う意味にはならないと思います。
「所近」は「近」の不定の客体であって、行為ではないからです。

・於是遂誅高漸離、終身不復諸侯之人(史記・刺客列伝)
(▼是に於て遂に高漸離を誅し、終身復た諸侯の人を近づけず。)
(▽そこでそのまま高漸離を誅殺し、(始皇帝は)死ぬまで諸侯に仕えたものを近づけなかった。)

目をつぶされた高漸離が、鉛の塊を筑にしこみ、始皇帝に投げつけたが当たらなかった、その後の記述です。
「近諸侯之人」は「諸侯の人に近づかず」とも読めないことはありませんが、行為の主体は始皇帝であって、始皇帝が諸侯の人に消極的に「近づかない」のではなく、このような事態を二度と招かぬよう、諸侯の人をそばには置かない、すなわち積極的に「近づけない」ではありませんか?

「近」は本来「近い」の意の形容詞だと思いますが、後に客体をとることによって、動詞のように働くことがあります。
その場合、「近づく」と「近づける」の2義が生じます。
確かに「近づく」という自動としての働きで多く用いられるとは思いますが、「近くに置いて親しむ」の意、すなわち「近づける」の意味でも用いられると思います。
探せば刺客列伝以外にも例は見つかるでしょう。


「所」に敏感になっているせいで、余計なことを書いたかもしれません。
「為烏所盗肉。」も見えてきた気がしますが、いずれまた項を改めて書いてみようかと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・5

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その5)

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が挙げている「既」の用法として、最後に次のものを見てみましょう。

五、表示动作行为不久就发生、出现。可译为“不久”。
(動作行為がまもなく発生、出現することを表す。「まもなく」と訳せる。)

前の「四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。」(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)とどう異なるのだろう?時間の短長だろうか?と思ったのですが。

、夫人将使公田孟諸而殺之。(春秋左氏伝・文公16年)
――不久,襄夫人准备让宋昭公去孟诸打猎而杀掉他。
(まもなく、襄夫人は宋昭公を孟諸に狩猟に行かせて彼を殺してしまおうとした。)

どうもこの例は、これまでの「既」の例とは違います。
これまでは、主語の動作行為の完了・終結を示す形で用いられていたのに対して、この例の「既」は「夫人」の動作行為「使公田孟諸而殺之」の完了・終結を表していません。
例文の前を補ってみます。

・宋公子鮑礼於国人。宋飢、竭其粟而貸之。年自七十以上、無不饋詒也、時加羞珍異。無日不数於六卿之門、国之才人無不事也、親自桓以下、無不恤也。公子鮑美而艶。襄夫人欲通之、而不可。乃夫人助之施。昭公無道、国人奉公子鮑以因夫人。於是華元為右師、公孫友為左師、華耦為司馬、鱗驩為司徒、蕩意諸為司城、公子朝為司寇。
初、司城蕩卒。公孫寿辞司城、請使意諸為之。既而告人曰、「君無道、吾官近、懼及焉。棄官則族無所庇。子身之弐也。姑紓死焉。雖亡子、猶不亡族。」
、夫人将使公田孟諸而殺之。
(▼宋の公子鮑(はう)国人に礼あり。宋飢うるに、其の粟を竭(つ)くして之に貸す。年七十より以上、饋詒せざるは無く、時に珍異を加へ羞(すす)む。日として六卿の門を数(しばしば)せざるは無く、国の才人には事(つか)へざるは無く、親は桓より以下、恤(あはれ)まざるは無きなり。公子鮑は美にして艶なり。襄夫人之に通ぜんと欲すれども、可(き)かず。乃ち夫人之に施を助く。昭公は無道にして、国人公子鮑を奉じて以て夫人に因る。是に於て華元右師たり、公孫友左師たり、華耦(くわぐう)司馬たり、鱗驩(りんくわん)司徒たり、蕩意諸(たういしよ)司城たり、公子朝司寇たり。
 初め、司城蕩卒す。公孫寿司城を辞し、意諸をして之たらしめんと請ふ。既にして人に告げて曰はく、「君は無道にして、吾が官近く、焉(これ)に及ばんことを懼(おそ)る。官を棄つれば則ち族庇(おほ)ふ所無し。子は身の弐なり。姑(しばら)く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はざらん。」と。
 既にして、夫人将に公をして孟諸に田(かり)せしめて之を殺さんとす。)
(▽宋の公子鮑は国の人々に対して礼があった。宋の国が飢饉の際には、その穀物を出し尽くしてかれらに貸し、七十歳以上の老人にはすべて食べ物を贈り、時には珍しいものを加えてすすめた。六卿の門をしばしば訪問しない日はなく、国の賢者には仕えないことはなく、親族は桓公の代以下、情けをかけぬものはなかった。公子鮑は美男子で華やかであった。襄公の夫人は彼に言い寄ろうとしたが、受け付けなかった。そこで夫人は彼に施す面で助けた。昭公は無道であったから、国の人々は公子鮑を奉じて夫人に頼った。この時、華元は右師であり、公孫友は左師であり、華耦は司馬であり、鱗驩は司徒であり、蕩意諸は司城であり、公子朝は司寇であった。
 (これより)初め、司城蕩が亡くなった。公孫寿は(その後任の)司城となることを辞退して、(子の)意諸に司城とならせることを求めた。[既而]、人に告げたことには、「わが君は無道であり、私の官位は(君に)近く(高いから)、(災いが)私に及ぶことが心配だ。(かといって)官を捨てれば一族をまもるものがない。子は親の身がわりだ。(わが子を司城にすることで)しばらく死を伸ばせるだろう。子を失っても、(私がいれば)なお一族を失いはすまい。」と。
 [既]、襄公の夫人は昭公に孟諸で狩猟させてこれを殺そうとした。)

長い引用になりましたが、例文の中に「既而」と「既」が出てきます。
私は、この2つは同じ意味、同じ用法として用いられていると思います。

まず最初の「既而」は、公孫寿が自ら司城となることを辞退し、我が子の意諸を司城に推薦したという事実が述べられ、いわば「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既而」が用いられ、裏話が述べられます。

次に2つめ、すなわちもとの例文の「既」は、前段で、公子鮑が国人に奉じられ、無道の昭公を排し、襄公の夫人に頼って次の君主にしようという動きがあること、その時点での昭公の家臣達の位置づけが述べられ、意諸が司城になったいきさつには裏話があることが述べられ、やはり「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既」が用いられ、襄公の夫人が昭公暗殺を企んだことが述べられます。

ここで、意諸が司城になったいきさつが挟まっているのは、実はこの後、昭公は結果的に殺されますが、意諸は父の予想通り死んでしまうことになるからです。

私は、これらの「既」は、「既有之、」(既に之有りて~、)そんな漢文があるかどうかわかりませんが、それぐらいの意味で用いられているのではないかと思うのです。
もっというなら、「既」は単独でそれだけの意味をもたされているとも。
「既而」は、「そんなことがすでにあって、して」です。
「既而」の形をとってその意味を表すのではない、「既」がすでにその働きをしているのではないでしょうか。

この場合の「既」が、前段で述べられた内容の完了・終結を表す以上、その後どれぐらいの時間で次の事件が起こるかについては、定まりません。
すぐに起こることもあるでしょうし、それよりはもう少し時間を要して「やがて」ぐらいの感じで発生することもあるでしょう。
つまり、「既」が「すぐに」「まもなく」という意味を表すのではなく、完了・終結した事件と、新たに起こる事件との間に要する時間に委ねられるのではないでしょうか。


『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』には、この用法として、もう1つ例文が挙げられています。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律。(楊万里・誠斎荊渓集自序)
――我的诗,起初学江西诗派各位名家,不久又学陈师道的五言律诗。
(私の詩は、初め江西詩派の名家たちに学び、まもなくさらに陳師道の五言律詩に学んだ。)

この例文は、続きがあります。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律、又学半山老人七字絶句、晩乃学絶句於唐人。
(▼予の詩は、始め江西の諸君子に学び、既に又後山の五字律に学び、既に又半山老人の七字絶句に学び、晩く乃ち絶句を唐人に学ぶ。)
(▽私の詩は、最初江西の諸君子に学び、[既]さらに後山の五言律詩に学び、[既]半山老人の七言絶句に学び、最後は絶句を唐人に学んだ。)

楊万里が自らの詩作の修行を振り返って述べたものです。
確かに2つの「既」を「まもなく」とか「しばらくして」と訳せば、文意は自然に通ります。
しかし、これは楊万里の修行の段階を示していて、江西の諸君子に学ぶという段階を完了し「そのことが済んで」、次に後山の五言律詩を学んだ。
そしてそれが完了して「そのことが済んで」、さらに半山老人の七言絶句に学んだということではないでしょうか。
前の修得の後、どれぐらいの時間が経過したかまでは「既」は請け負わない、「すぐ」の場合もあるでしょうし、「しばらく経って」からの場合もあるでしょう。

「既」や「既而」が、「すぐに」「まもなく」「やがて」と時間に幅をもたせた形で訳されるのは、実はそもそも「既」が完了・終結を意味して、その後の経過時間を請け負わないからなのではないでしょうか。


さて、検証にあるいは誤りがあるかもしれませんが、私は「既」は色々に訳され、あたかも多義語のように見えるけれども、実は根は1つで、完了・終結で説明ができる語だと思います。
その上で、一番最初の疑問、『史記』刺客列伝の2つの「既」の意味を考えてみましょう。

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

これが「荊軻はすぐに地図を取って(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのですが、果たして本当にそういう意味でしょうか。

暴論かもしれませんが、それなら「軻即取図奏之。」と「即」を用いて表現すればよいことです。
司馬遷はそれを「既」を用いて表現した。
この文は実は、

・軻取図、奏之。

のように見るべきではないでしょうか。

荊軻は趙人徐夫人の匕首を地図の中にしこんでいました。
今、その地図は震えて使い物にならない秦舞陽のもつ柙(箱)の中にあります。
その地図の入った箱をそのまま秦王に献上してしまうのではなく、地図を秦王の目の前で広げる、あるいは広げさせる必要があった。
そのためには、荊軻は地図そのものを手にとって、その上で秦王に献上する必要があった。
ここまでは私の想像ですが、何にせよ、荊軻は「地図を手に取ってから」すなわち、手にとるという動作行為を完了した上で、それを秦王に献上した。
私はこの「既」をそのように解釈します。


次に、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

この文も、教科書各社ともこのように句読されていますが、実は、

・於是左右既前殺軻、秦王不怡者良久。

のように、2句を続けて、前の動作の完了を受けて、秦王の状況が述べられる。
つまり、「そこで左右がすでに進み出て荊軻を殺してしまってからも、秦王の不機嫌はしばらく続いた」と見てはいかがでしょう。
側近の荊軻殺害が完了しての、秦王の状況が述べられている、私にはそう思えるのです。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・4

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その4)

引き続いて中国の虚詞理解を代表するものとして、「既」のさまざまな働きが紹介されている『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の記述について考えてみたいと思います。

「既」が“不久”(まもなく)の意味を表すとした、次の五の項目は最後に回すことにして、六として示されているのが次の内容です。

六、表示动作行为仍然保持原状,没有发生变化。可译为“依然”。
(動作行為がなおももとの状態を保持して、変化しないことを表す。「依然として」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の1例のみです。

・兵革未息、児童尽東征。(杜甫・羌村三首)
――战争依然不止,孩子们都东征去了。
(戦争は依然として終わらず,子ども達はみな東へ出征した。)

確かに「戦争はすでにまだ終わらない」と訳すと変な訳になり、「依然としてまだ終わらない」の訳の方が明らかに自然です。
ただ、漢詩の用字上の問題があるのかもしれませんが、「依然としてまだ終わらない」なら、「尚未息」あるいは「猶未息」と表現すればよいところなのに、あえて「既未息」であることが引っかかります。
たとえば、

・及上寝疾、承璀謀尚未息。太子聞而憂之、密遣人問計於司農卿郭釗。(資治通鑑・唐紀57)
(▼上(しやう)寝疾するに及び、承璀(しようさい)の謀尚ほ未だ息まず。太子聞きて之を憂ひ、密かに人を遣はして計を司農卿の郭釗(くわくせふ)に問はしむ。)
(▽主上が重病となった時も、承璀の策謀はなおもまだやまなかった。太子は聞いてこのことを心配し、ひそかに人を派遣して対策を司農卿の郭釗に問わせた。)

・蜀中群盗猶未息(資治通鑑・後唐紀3)
(▼蜀中の群盗猶ほ未だ息まず。)
(▽蜀中の盗賊達はまだおさまらなかった。)

「尚未息」「猶未息」で絞り込んで検索すると、「息」まで含まれているのでさすがに多くはヒットしないのですが、やはり例はあります。
私的には、「まだやまない」はこちらの方が自然な気がします。

例として挙げられた杜甫の五言古詩を前後も補って見てみましょう。

・群雞正乱叫、客至雞闘争。
 驅雞上樹木、始聞叩柴荊。
 父老四五人、問我久遠行。
 手中各有携、傾榼濁復清。
 莫辞酒味薄、黍地無人耕。
 兵革未息、児童尽東征。
 請為父老歌、艱難愧深情。
 歌罷仰天歎、四座涕縦横。
(▼群雞正(まさ)に乱叫す、客至るに雞闘争す。雞を駆りて樹木に上らしめ、始めて柴荊を叩くを聞く。父老四五人、我の久しく遠行するを問ふ。手中に各携ふる有り、榼を傾くれば濁復た清。辞する莫かれ酒味の薄きを、黍地人の耕す無し。兵革既に未だ息まず、児童尽(ことごと)く東征す。請ふ父老の為に歌はん、艱難深情に愧(は)づ。歌罷み天を仰ぎて歎けば、四座涕縦横たり。)
(▽群れなす鶏がちょうど乱れ叫ぶ、客人が来た時鶏は争っていたのだ。(私は)鶏を駆って木の上にのぼらせて、始めて我が家の門を叩く音を聞いた。年寄りたち四五人が、私が遠い旅から戻ってきたのを見舞ってくれたのだ。(彼らの)手の中にはそれぞれ携えてきたものがある。酒だるを傾けると濁り酒にさらに清酒が流れ出る。(年寄りたちは言う)「ご辞退めさるな酒の味が薄いと、黍畑には耕す人がいないのです。戦乱は[既に]やまず、子どもらはみな東へ出征しています。」(私は言う)「お年寄りのみなさまのために歌を歌いましょう、この難儀な世の中に深いお気持ちをかたじけなく思います。」歌い終わって天を仰いで歎くと、皆さまもはらはら涙を流すのであった。)

わかりやすくするためにかなり意訳しましたが、「兵革既未息、児童尽東征。」の一節は、作者の家に訪問した父老たちの言葉なのですね。
そして、この2句で本来似た義の「既」と「尽」が対になっているのがわかります。

さて、この「兵革既未息」は「戦乱は依然としてまだ終わらない」という意味でしょうか。
私は「兵革」が「未息」という状態を完結していると見ます。
なおも継続しているというよりも、「終わらない」ということに決まってしまっているとでも言いましょうか。
つまり「戦乱はまだ終わらないということで完結し、子ども達は東征し尽くしている」で、「既」と「尽」という似た意味の語を用いているのではないかと思うのです。
黒川洋一氏の『中国詩人選集・杜甫』(岩波書店1959)が、この箇所を「たたかいはあくまでもまだやもうとせず、こどもらはことごとく東方の征伐にでかけているのです」と「既」をあえて「あくまでも」と訳しておられるのは、あるいはこの「既」をやはり本来の義に受け取ってのことなのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが。

「依然として」の意味の「既」の例がこの1例しか示されていないので、他の虚詞詞典にはないものかと手許のいくつかを探してみましたが、見つかりませんでした。


続いて、「既」の用法としてあげられているのは次の項目です。

七、强调某种状况原先就是这样。可译为“原来”或“本来”。
(ある状況がもともとはそのようであったことを強調する。「もともと」や「本来」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の文です。

・淵既神姿峰穎、雖処鄙事、神気猶異。(世説新語・自新)
――戴渊本来神情姿态就出类拔萃,即使对待鄙贱的事情,神气也不同于常人。
(戴淵はもともと表情や姿勢が際立っており、卑しいことをしていても、態度は常人と異なっていた。)

これは戴淵がすでに「神姿峰穎」を十分に備えていたことを表していて、「十分にしつくす」という「既」の本来の義で説明できます。
「本来」「もともと」と訳すと、より自然な訳になりはしますが。


こうして多義語とされる「既」の用法を見てくると、確かに日本での読みである「すでに」と訳すと違和感のあるものが多いのですが、それは「すでに」と訳すからで、「既」の字の本来の義である「し終える」「十分にしてしまう・しつくす」から終了・完了に照らして用例を見れば、やはりその義で説明がつくものだと思います。
それを文脈に合うように適宜訳を工夫することはあっても、だから工夫された訳が「既」に本来的に備わっているものと考えるのはどうであろうかと私は思うのです。

エントリーを改め、さらに考察を進めたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・3

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その3)

前エントリーの最後に紹介した『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の説明を再掲します。(同様の記述は他の虚詞詞典にも見られます。)

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

この例として挙げられているのが次の文です。

・当遂枚木,不能尽内,焼之。(遂:道。枚:树干。内:用同“纳”。)(墨子・号令)
――挡着道路的树木,不能全部弄到〔城里的〕,就烧掉它。
(道路を遮っている樹木は、すべて城内に入れられず、すぐそれを焼いた。)

実はこの文、学者により文字の誤りが指摘されているものです。
清の孫詒譲の『墨子間詁』では、王念孫の指摘に基づき、本文を次のように改訂しています。

・吏為之券、書其枚数。当遂材木不能尽内、即焼之、無令客得而用之。
(▼吏之に券を為り、其の枚数を書す。遂に当たる材木の尽(ことごと)く内(い)るる能はざるは、即ち之を焼き、客をして得て之を用ゐしむる無し。)
(▽役人はこれに証書を作り、その枚数を書き留めておく。道路にあたる材木の城内に入れ尽くせないものは、すぐにこれを焼き、敵に得てそれを用いさせることがない。)

「枚」を「材」、「既」を「即」の誤りとするのですが、これは清の王念孫が『読書雑志』の中に同時代の王引之の説を引用したのを、孫詒譲が引いて是と判断したものです。

・引之曰、「『枚木』文不成義。『枚』当為『材』、『既焼之』当為『即焼之』。言当道之材木、不能尽納城中者即焼之、無令寇得而用之也。雑守篇云、『材木不能尽入者燔之、無令寇得用之。』是其證。今本『材』作『枚』、渉上文『枚数』而誤、『即』字誤作『既』、則義不可通。」(読書雑志・墨子第6)
(王引之が言う、「『枚木』の文は意味をなさない。『枚』は『材』とし、『既焼之』は『即焼之』とするべきである。道に当たる材木のすべて城中に入れ尽くせないものはすぐに焼き、敵に得て用いさせることがないというのである。雑守篇にいう、『材木の入れ尽くせないものはこれを焼き、敵に得て用いさせることがない」がその証拠である。今本が『材』を『枚』とするのは、上文の『枚数』にわたって誤ったのであり、『即』の字は『既』と誤るが、それでは意味が通じない。)

これがその王引之の説ですが、「枚」についてはおそらく指摘通りでしょう。
「即」については、同じ『墨子』の雑守篇にその文字が見えないからといって、号令篇にある「既」を「即」の誤りとするのは、もう少し慎重でありたいところです。
確かに字形は似ており、「即」の誤りである可能性もなくはありませんが、もともとの本文が「既」であった可能性も皆無とは言い切れないからです。
号令篇の「既焼之」の「既」を衍字とみなすか、文意から考えて「即」の誤りとするか、どちらにせよ推測の域を越えません。
「其證」とまでは言えないのではないでしょうか。

ただここで私が言いたいことは、『墨子・号令篇』のこの例文をもって、「既」を「すぐに」という意味だと断ずるのは、どうだろうか?ということです。
本文の誤りが指摘されている箇所である上に、王念孫や王引之が「既」を「即」の誤りだとしているからといって、別に彼らは「既」が「即」の意味だと言っているわけではありません。

私見を述べるなら、雑守篇に「即」が用いられていない以上、号令篇の文もまずは原文の「既」で本当に解釈ができないか検討すべきだと思います。
もし本当はこの文が、やはり、

・当遂材木不能尽内、焼之、無令客得而用之。

であったとします。
「道路にあたる材木ですべて(城中に)入れることができないものは、すでにこれを焼いて、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳せば、確かに少し違和感があるかもしれませんが、「道路にあたる材木で(城中に)入れ尽くせないものは、それを焼いてしまい、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳してみれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
「既」が「し終える」「十分にしてしまう」から「つきる・つくす」という引申義をもつに至るごく初期の働きで十分説明がつく文だと思います。

ただ私が解せないのは、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』をはじめとして、各種虚詞詞典がなぜこの例を、“全部”“都”(全部、みな)の意味で解釈しなかったのかということです。
それでも通るはずでしょうに。
「既焼之」を「すべてこれを焼いた」と解釈せずに「すぐにこれを焼いた」と解するその基準というか、どういう場合に「すべて」であって、どういう場合に「すぐに」なのか、意味の違いの判別はいったい何に基づくのでしょうか。
王引之がこの文の「既」を「即」の誤りとするその主張が、よもや根拠になっているはずはあるまいと思いはしますが、先ほども述べたように王引之は「既」が「即」の義であると主張しているわけではありません。

もちろん王引之の主張通り、この文が「即焼之」の誤りであったならば、「すぐにこれを焼いた」と解することに対しては何の異論もありません。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』で、「すぐに」の意味の2例目に挙げているのが次の例です。

当遠別、遂停三日共語。(世説新語・雅量)
――马上该远别了,于是停留三天一块说说话。
(まもなく遠く別れねばならなくなって、そこで三日とどまり共に語った。)

例文の前を補って、読んでみます。

・謝安南免吏部尚書還東、謝太傅赴桓公司馬出西、相遇破岡。当遠別、遂停三日共語。
(▼謝安南 吏部尚書を免ぜられ東に還り、謝太傅 桓公の司馬に赴き西に出で、破岡に相遇ふ。既に当に遠別すべく、遂に停まること三日共に語る。)
(▽謝安南は吏部尚書を罷免されて東に帰り、謝太傅は桓公の司馬に赴任するため、西に
向かい、破岡で出会った。[既]遠く別れなければならず、そのまま三日間とどまって語りあった。)

「既当遠別」の「当」は古くより上記のように読まれていますが、あるいは「既に遠別するに当たり」と読むべきなのかもしれません。
例文の前の部分で明らかなように、謝安南(謝奉)と謝太傅(謝安)はそれぞれ東に、西に向かって移動していたわけです。
それが破岡で出くわした。
当然それぞれの向かう方角が逆であることを確認した上で、だからこそ「遠別」すなわち遠く別れることになるのがわかったから、三日とどまってでも語り合ったのです。

さて、この「既当遠別」を『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「马上」(すぐに・まもなく)と解しているのですが、それは文意からの判断でしょうか。
しかし、この「既」も、「当遠別」遠く別れなければならないという事実が「すでに確定した」という意味を表しているのではないでしょうか。
つまり、「遠く別れなければならないということになって→遠く別れなければならないということがわかって」です。
これを「既」の基本義から離れてあえて「まもなく・すぐに」と解釈する必要があるでしょうか。

以上、2例、いずれも「既」を「まもなく・やがて・すぐに」の意である証左とするには、根拠不足であると思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は、「既」にはまだいくつか異なる義があると述べているのですが、それは次のエントリーで検証してみたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・2

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その2)

前エントリーに引き続き、「既」の語義や用法を多岐にわたるとする説に対して、検討を加えていきたいと思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)には、「既」の副詞の用法について、続いて「二、表示统括。」(統括を表す)として、次のように記されています。

1.表示主语所指的人或事物都具有或承受某一动作行为。可译为“全部”“都” 等。
(主語が指す人や事物がある動作行為をすべてそなえる、または引き受けることを表す。「全部」「すべて」などと訳せる。)

この例として示されているのは、次の文です。(これも各種の虚詞詞典に同様の記述が見られます。)

・宋人成列,楚人未済。(春秋左氏伝・僖公22年)…原文は簡体字
――宋军已经摆好了作战的阵势,楚军还没有全部渡过泓水。
(宋軍はすでに戦闘の陣容をなしていたが、楚軍はまだ全部泓水を渡り終えていなかった。)

2つある「既」を訳し分けているのがおもしろいところです。
「既成列」の方は「已经」として「すでに列をなしていた」、「未既済」の方は「全部」として「まだ全部渡っていない」あるいは「まだ全部渡り終えていない」と訳しています。
うまい訳だなと思う一方で、前者だって「すっかり列を整えていた」と訳せるではないかと思ったりもします。
これは、「既」という漢字の原義、「し終える・十分にし尽くす」からの引申義です。
「すでに」という日本語にこだわらずに、「既」の基本義、終了・完了に照らしてみれば、「未既済」はその基本義のままに適用できる用法ではないでしょうか。
これはやはり「済」という動作の完了を示しているのだと思います。

例文にはもう1つあります。

・専任刑法,而儒墨喪焉。(遠鉄論・論誹)…原文は簡体字
――〔李斯、赵高〕专门使用刑罚,而儒家墨家的主张都被抛掉了。
(〔李斯や趙高は〕もっぱら刑罰を用いて、儒家や墨家の主張はすべて捨て去られた。)

前文を補って訓読してみます。

・昔、秦以武力呑天下、而斯高以妖孽累其禍。廃古術、隳旧礼、専任刑法、而儒墨喪焉。
(▼昔、秦武力を以て天下を呑みて、斯高妖孽を以て其の禍を累(かさ)ぬ。古術を廃し、旧礼を隳(やぶ)り、専ら刑法に任じて、儒墨既に喪はる。)
(▽昔、秦の国が武力によって天下を併呑して、李斯や趙高が邪悪な行いによってその災いを重ねた。古い伝統を捨て、古いしきたりを破り、もっぱら刑法にまかせて、儒家や墨家は失われてしまった。)

「儒墨既喪焉」を「儒墨はすでに失われた」と訳すと、やや不自然な感じになりますが、「儒墨は失われてしまった」と訳せば、自然になります。
「儒墨が失われてしまった」というのは、事実としては確かに「儒墨はすべて失われた」ということですが、あえて「既」を「すべて」という意味だと考える必要はないのではないでしょうか。
「喪」という事象が完了したということでしょう。

しかし、この「既」を「すべて」「全部」と解するのは、動作行為の完了・終了を意味する「既」の延長上にあり、「し終える・十分にし尽くす」と、ほぼ同じ事象を表すとは思います。
「ことごとク」と読む「尽(盡)」が、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義であり、引申義として「すべて」という意味をもつように、食事をし終えて満腹の状態を表す「既」が「すべて」の意を引申義としてもつのはあり得ることでしょう。


続いて、「二、表示统括。」の2つめに、次のように記されています。

2.表示宾语所指的事物都是某一动作行为直接涉及的对象。可译为“全都”。
(賓語が指す事物がすべてある動作行為の直接関わる対象であることを表す。「すべて」と訳せる。)

これの例が次の文です。

以与人己愈多。(老子・81章)…原文は簡体字
――〔圣人〕把〔一切〕全都给了别人,自己反而更富有。
(〔聖人は〕〔すべてのものを〕全部別の人に与え、自分はかえってさらに豊かになる。)

この文も前の部分を補った上で、訓読してみます。

・聖人不積、以為人己愈有、以与人己愈多。
(▼聖人は積まず、既(ことごと)く以て人の為にして愈(いよいよ)有り、既く以て人に与へて己愈多し。)
(▽聖人はためこまない、ことごとく人のためにして(自分は)いよいよ有り、すべて人に与えて(自分は)いよいよ多い。)

「為人」は、古来「人の為にして」と読まれていますが、蜂屋邦夫氏訳注の『老子』(岩波文庫2008)は、「為」は「施」の意味として、「人に為(ほどこ)して」と読み、「なにもかも人々に施しつくしながら」と訳しています。
「既以与人」との対になるので、「為」を動詞とするべきだという判断かもしれません。
さて、「既以為人」や「既以与人」の「既」を「すでに」と読むと、確かに違和感があり、「ことごとく」と読む方が自然です。
しかしこれとて「人のためにし切る」「人に与え切る」のであって、終了・完了の基本義から解釈できそうです。
その結果が「すべて人のためにし」「すべて人に与える」と同現象になるのでしょう。


『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が「既」の副詞としての用法の3つめに挙げているのが次です。

三、表示动作行为或状况已经发生、出现或存在。可译为“已经”。
(動作行為や状況がすでに発生、出現または存在することを表す。「すでに」と訳せる。)

その例文は次の通り。

克,公問其故。(春秋左氏伝・荘公10年)
――已经得胜,鲁庄公问曹刿得胜的原因。
(すでに勝利を得て、魯の荘公は曹劌(さうけい)に勝利を得た原因を問うた。)

これに先立つ内容は長くなるので引用しませんが、斉の軍が魯を攻めてきた時、曹劌という男が魯の荘公に目通りして、荘公を戦いに勝つ見込みがある人物と見て、共を願い出ます。
荘公が攻め太鼓を打とうとすると、曹劌は「まだだめです」と制し、斉軍が三度目の太鼓を打ち終えると、今ならよいと荘公に太鼓を打たせます。
さらに、斉軍が逃げ出し、荘公が追撃しようとすると、また「まだだめです」と制し、敵の戦車の轍を確認し、敵の逃げていく様子を確認してから、今ならよいと追撃させました。
その後に先の例文が来ます。
荘公は曹劌の指示と行動に疑問をもっていたわけです。

「既克」は「既に克(か)ちて」とよみます。
この例文が先のいくつかの例文と決定的に異なるのは、時間的な前後に従った2句からなる文の前句で「既」が用いられている点です。
つまり、前句に述べられる事象がすでに完結した後で、後句の事象が発生します。
「すでに(戦いに)勝つ」→「荘公がその理由を問う」
この関係になっています。
私的には、「既」があたかも連詞のように2句の前句で用いられる時、基本的には「~してから、~する」という関係でほとんど説明ができるように思います。
この例の場合は、「(戦いに)勝ってから、荘公はその理由を問うた」です。
実は、一番最初の疑問となった『史記・刺客列伝』の2例もその例外ではないと思っているのですが、それは『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の挙げる例文を検証してから述べたいと思います。

・余幼好此奇服兮,年老而不衰。(楚辞・九章・渉江)
――我年幼时就爱好这奇特的服饰啊,〔现在〕年纪已经老了仍没有衰退。
(私は幼い時この珍しい服装を好み、〔現在〕年齢はすでに老いたが衰えない。)

これは先のいくつかの例と同様、「老」という現象の「十分にし尽くす」に該当して、「老いてしまったが」という完了を「既」が表しています。

平天下,不懈于治。(史記・秦始皇本紀)…「于」は『史記』原典では「於」に作る
――已经平定了天下,〔始皇帝〕对治理国家仍不懈怠。
(すでに天下を平定しても、〔始皇帝は〕国家を治めることに対して依然として怠らなかった。)

これは「既克,公問其故。」の例と同じく、2句の前句で「既」が用いられています。
「すでに天下を平定してしまってからも」の意でしょう。

・噲飲酒,抜剣切肉食,尽之。(史記・樊酈滕灌列伝)
――樊哙已经喝干了酒,又抽出剑切肉吃,全都吃完了。
(樊噲は酒を飲みほすと、さらに剣を抜き、肉を切って食べ尽くした。)

これは「飲酒」という動作を「し終える」に該当して、やはり完了を表しています。

・相持久、日晷漸移。(晷:日影。)(馬中錫「中山狼」)
――〔双方〕相持已经很久了,太阳的影子渐渐移动。
(〔双方は〕すでに長い間互いに譲らず、太陽による影は次第に移動した。)

これは「久」という時間の経過が「十分にし尽くす」という状態になったことを示しています。

ここまでの『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の解釈は、すべて「既」の基本的な字義に基づいて説明することができますが、それぞれの文脈の中で、適切な説明と訳を選んでいるという印象があります。
その意味で、遅鐸氏の解釈が特に不適切だとは思いません。


次に『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が示しているのが、本エントリーの問題とする解釈です。

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

これが日本でも「既」を「すぐに・まもなく」などと訳すと説明される、中国の虚詞研究による説明なのですが、さて、次のエントリーではその例文を見てみることにしましょう。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・1

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その1)

高校3年生の古典の授業で『史記・刺客列伝』荊軻を扱っていた時のことです。
始皇帝暗殺をはかった荊軻も万策尽き果てて死を迎える場面、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

こういう箇所を生徒に日本語訳させると必ずつまります。
それは「既」が訳しにくいからです。
「既」が単独で用いられる場合、通常は「すでに」と訓読しますが、そのまま「すでに」をあてはめて訳すと、おかしな感じがするからでしょうか。
私はそうでもないのですが、生徒が必ずつまるのはそういった事情があるからでしょう。

ところで、このような「既」を、いわゆる「すでに」という意味ではなく、「まもなく・やがて・すぐに」の意味であると説かれることがあります。
たとえば、本文に先行する次の箇所、

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

この「既」を「すぐに」と解して、「荊軻はすぐに地図を受け取り(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのです。

「既而」を「既」とは区別して「すぐに・まもなく・そのまま」などと訳すというのは書籍にも書かれているものがありますが、それが妥当であるかどうかについてもまた別の検討が必要として、そもそも刺客列伝のこの2例は「すぐに」または「まもなく」、あるいは「やがて」などという意味を表しているのでしょうか。

参考書ではどうなっているのだろうと思い、『新釈漢文大系・史記9(列伝2)』水沢利忠、明治書院1993)を確認してみると、

ここにおいて廷臣たちはむらがって荊軻を斬り殺した。秦王はその後しばらくの間不機嫌であった。

とあり、「既」の訳はありませんが、語釈に、

既 「既は猶ほ即ちのごときなり」(『斠証』)。

とあります。
この「斠証」とは、王叔岷の『史記斠証』のことですから、さっそく原典にあたってみました。

案既猶即也。(『史記斠証・列伝2』王叔岷、中央研究院歴史語言研究所1983)
(▼案ずるに既は猶ほ即のごときなり。)
(▽考えるに、「既」は「即」と同じである。)

つまり、王叔岷は「すぐに進み出て荊軻を殺した」と解していることになりますが、水沢利忠氏が訳に用いていないのは、参考までに紹介したということでしょうか。

次に、中国ではどのように訳されているかを見てみました。

於是左右便上前殺死荊軻,秦王不高興了很久。(『二十四史全訳 史記2』許嘉璐/安平秋、漢語大詞典出版社2004)
(そこで側近たちは[便]前へ出て荊軻を殺し、秦王はしばらく不機嫌であった。)

この「便」は「就」と同じと考え、「すぐに」と解しているようにも思えるし、「そこで」と解しているようにも思えます。

这时秦王左右的人上前杀死了荆轲。秦王很久里都不高兴。(『史記選訳』李国祥/李長弓/張三夕 訳注、巴蜀書社1990)
(この時秦王の左右の人は前へ出て荊軻を殺してしまった。秦王は長い間不機嫌であった。)

この訳では「既」は「了」で訳されているようですね。

这时侍卫们已经上前杀死了荆轲,秦王有好长时间心里不畅快。(『中国歴代名著全訳叢書・史記全訳』楊燕起 訳注、貴州人民出版社2001)
(この時衛兵達はすでに荊軻を殺してしまった,秦王は長い間心の中で不機嫌であった。)

この訳では「既」は「已经…了」と訳されています。

こうして諸本の訳を見てくると、必ずしもこの箇所の「既」の訳は1つに定まっていないことがわかります。


さて、虚詞詞典にはどう書かれているのか見てみると、どれもだいたい同じようなことが書かれていますが、中には程度が甚だしいことを表すとか、多くの意味があるように説明されているものもあります。

そもそも1つの語が、あまりに多きにわたる意味を表すなら、文意を限定する上で不便きわまりないわけで、下手をするとたくさんあるその語の意味を文脈から選ぶことになりかねません。
もちろん、ある程度はそういうこともあるとは思いますが…
しかし、本当は字本来の意味なのに、文脈からこう訳すと自然なので、別の訳をして、それがあたかも多義語というものを作り出しているのではないでしょうか。
それが個人的な感想ですが、中国の語法学における虚詞の解釈によく見られる傾向だというのは、これまでのエントリーでも述べてきたことです。

少し考えてみたいと思うようになりました。

そもそも「既」の字のもともとの意味を調べてみると、「⺛」をさらに丁寧にした形で、

食し終えて満腹の意である。(『漢字の起源』加藤常賢、角川書店1970)

字形D既は, さらに具体的であって,左側は容器にうず高くごちそうを盛った形, そのそばには人間がたらふく食べて,のけぞった姿を加えている。(中略)既が「スデニ……」という意味の副詞に転じるのは,「充分にしてしまい, これ以上はやれない」状態を表わすことからの,派生的な用法である。漢語の副詞は,ほとんどすべて,こうした具体的な実義をもつコトバから転じてきたものである。(『漢字語源辞典』藤堂明保、学燈社1965)

像人虽坐于盛满食物的簋旁,但已转头向后,以表现用食完毕之意。(『字源』李学勤、天津古籍出版社2012)
(人が食べ物で一杯の食器の横にいるのに、後ろを向いて食べ終わったことを示している。)

諸本だいたい一致していて、食事をし終えて満腹の状態を表しています。
つまり、「既」は、「し終える」「十分にしてしまう」という意味だということになります。
そうだとすれば、「つきる・つくす」という意味の動詞として用いられるのが最初かもしれません。
日食、月食の「皆既」などがそれでしょうか。
それが、副詞に転じたのでしょう。

したがって、「既」を考える場合、終了・完了を基本におかなければなりません。
それで説明ができるものを、あえて文脈から違う意味をあてはめてその方が自然だと、あたかもその意味があるように考えることには慎重であるべきです。


さて、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)という虚詞詞典があります。
陝西師範大学文学院教授で、遅鐸(迟铎)という辞書の編纂や研究に大きな功績のある学者による書籍です。
同じ大学の白玉林との共著『古汉语虚词词典』(中華書局2004)もあり、著者が共通することから、同内容の記述や典拠がよく見られます。
この2書に共通するのは、他の虚詞詞典にはあまり見られない虚詞の用法や語義について触れてあることです。
いえ、各種の虚詞詞典ごとに他書には触れられていない用法や語義はあるものですが、この2書は、ある意味それらを網羅的に載せて紹介してくれているという感もあり、中国のさまざまな虚詞理解を知る上で親切な書ということもできます。

中国の古典中国語文法で漢文を理解していこうと志した当時、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』や、中国社会科学院語言研究所古代漢語研究室編の『古代汉语虚词词典』(商務印書館2012)に書かれていることには驚きの連続で、いわばそれを鵜呑みにしていたのですが、今はそういう立ち位置とは違います。
特に他の書には書かれていない内容に対しては、本当にそうだろうか?と疑い、それを自分で検証してみる姿勢を大事にしています。

決して『古代汉语虚词词典(最新修订版)』を槍玉にあげるというのでなく、現在の中国の虚詞理解を代表して紹介してくれているものと捉えた上で、多く挙げられている「既」の意味について、考えてみたい。
学ぶ者として、それが本当に妥当であるかどうか、検討して確かめずにはいられません。

同書には、「既」の副詞の用法の一番目として、次のように書かれています。

一、表示事物性状的程度很高。可译为“非常”“很”等。
(事物の性状の程度がとても高いことを表す。「非常に」「とても」などと訳せる。)

その例文として引かれているのが次の文です。

・天立厥配、受命固。(命: 指帝位。)(詩経・大雅・皇矣)
――上天安排了他的配偶,〔因此〕他承受的帝位就非常巩固了。
(天帝がその配偶を手配し、(これにより)彼が受けた帝位はとても強固になった。)

文王が天により帝位に選ばれたことを述べたものです。
「既固」を「とても堅固である」と解するわけですが、これは「すでに十分に堅固である」という意味でしょう。

次に、

・今女衣服盛,顔色充盈。天下且孰肯諫女矣! (充盈:骄傲自满的样子。)(荀子・子道)…原文は簡体字
――今天你的衣着很整齐,满面骄气。天下人谁还愿意给你进忠言呢!
(今日あなたの衣服はとても整っていて、満面におごった気持ちがあらわれている。天下の人々は誰が忠言をしようとしてくれるだろうか。)

「衣服がとても整っている」と解するのですが、この例文の前の部分も含めて見てみましょう。

・子路盛服見孔子。孔子曰、「由、是裾裾何也。昔者江出於㟭山、其始出也、其源可以濫觴。及其至江之津也、不放舟不避風、則不可渉也。非唯下流水多邪。今汝衣服盛、顔色充盈、天下且孰肯諫汝矣、由。」
(▼子路盛服して孔子に見(まみ)ゆ。孔子曰はく、「由、是の裾裾たるは何ぞや。昔者江は㟭山より出で、其の始めて出づるや、其の源以て觴(さかづき)を濫(うか)ぶべし。其の江の津に至るに及べば、舟を放(なら)べず風を避けざれば、則ち渉(わた)るべからず。唯だ下流の水多きに非ずや。今汝衣服既に盛んにして、顔色充盈すれば、天下且(は)た孰(たれ)か肯(あ)へて汝を諫めん、由や。」と。)
(▽子路が着飾った服装で孔子にお目にかかった。孔子がいうことには、「由よ、そのきらびやかなさまは何だ。昔長江は㟭山から流れ出すが、その最初流れ出した時は、その源は杯を浮かべることができる(程度の水量であった)。(しかし)それが長江の渡し場に至る頃になると、舟を並べ風を避けなければ、渡ることはできない。(それは)ただ下流の水が多いからだけではないか。今お前は衣服がすでに立派であり、顔色も得意げである、(そんなことで)世の中にいったい誰がお前を諫めようとするであろうか、由よ。)

この章、諸本によって文字の異同が多い上に、「不放舟」「非唯下流水多邪」「天下且孰肯諫汝矣」の読みが揺れています。
今、古くからの読みに従って読んでおきましたが、『新釈漢文大系・荀子』(明治書院1969)では「舟に放(よ)らず」「下流水多きを唯(もつ)てに非ずや」「天下且(まさ)に孰か肯て汝を諫めん」と読まれていることを記しておきます。

そして「非唯下流水多邪」を中心にこの章をどう解釈するかが、少々解釈が分かれています。

『漢籍国字解全書・荀子』(早稲田大学出版部1927)は、

此れはたゞ下流になると水が聚まりて多くなりし故に、人をして此の如く畏れ憚らしむるに至りしに非ずや、今汝の服は既に立派に、汝の顔色は得意に充ち、猛厲の氣溢れたり、猶江の下流に水の横溢するが如し、此の如くんば、天下の人、皆汝を憚りて、孰れか肯て汝の過を諫むるものあらんや、由よ少しく悟る所あれと、

と解しています。

岩波文庫『荀子』(金谷治 訳注、岩波書店1962)も、

これは下流の水が多いために〔人々が恐怖するから〕ではないか。いまお前にしても、そのように衣服が立派で容貌も満足げにしておれば、もはや世界中だれがお前にすすんで諫めてくれようか。

と解しています。
つまり、これも衣服が立派で容貌も満足げな子路を人々は恐怖し憚るから、だれも諫めてくれないとなるわけです。
長江の水自体はその水源近くではわずかであるのに、それが下流になると人を畏怖させるのは、「非唯下流水多邪」(ただ下流の水が多いだけではないのか)。
水の実態としては杯を浮かべる程度のものでしかないのに、量が多くなると人を畏怖させるほどになる。
要するに、子路はまだ「濫觴」、すなわち杯を浮かべる程度の実態でしかないということだと思います。

また、長江が支流の水を受け入れて下流では大河になると解する説もあります。(確認していませんが、円満字二郎『故事成語を知る辞典』に記載があるそうです。)
わずかの水が周囲の川の水を受け入れて大河となっていくように、人々の忠告を受け入れて大人物となっていくという解釈ですね。
その場合でも、人々の忠告を受け入れる以前、すなわち今の子路はやはり杯を浮かべる程度の器量ということになります。

さて、その上で、「今汝衣服既盛、顔色充盈」の「既」の働きを見てみましょう。
これを『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「非常」「很」と解しています。(他のいくつかの虚詞詞典にも同様の記述が見られます。)
しかし子路の状況としては「とても立派」であっても、「既」の字自体は本当に「とても」という意味でしょうか?
本来「濫觴」の段階であるはずの子路が、「すでに」衣服は立派、顔色は得意げ、すなわち大河のごとく振る舞っている。
そういうことではありませんか。
実態としては「とても」立派で「とても」得意げであったかもしれませんが、そのことが「既」を「很」と解釈する根拠にはなり得ないと思います。

「すでに十分」ということが、動作でなく状態や形容を表す場合、結果的に程度が甚だしい状況と一致することはあるかもしれませんが、そのことと「既」の字義が程度の甚だしいことを表して「とても・非常に」と直接的に訳すべきとすることとは別のような気がします。


中国の虚詞詞典の記述に対して、またぞろ検討を加えているのですが、もう少し自分なりに考えた上で、最初の疑問「既」が「まもなく・やがて・すぐに」という意味を表すのかについて考えてみたいと思います。

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