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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。

「何所補」の意味は?

(内容:「何所~」(何の~する所ぞ)の意味について考察する。)

『貞観政要』に見える「何所補」という一節をどう読み、どう訳すかについて、疑問をもちました。

名君の誉れ高い唐の太宗が、役人から「林邑は蛮国で、外交文書も従順ではありません。派兵して討伐してほしい」という上奏文を受けて、「兵は凶器である」と述べながら否定的な見解を示す部分です。

但経歴山険、土多瘴癘。若我兵士疾疫、雖尅翦此蛮、亦何所補。(貞観政要・征伐)
(▼但だ山険を経歴し、土に瘴癘多し。若(も)し我が兵士疾疫せば、此の蛮に尅翦すと雖も、[何所補]。)
(▽(しかも林邑を征伐するためには)ひたすら険しい山を経なければならず、土地には病気も多い。もし我が兵士たちが病気なれば、この蛮国を攻め滅ぼしたとしても、[亦何所補]。)

この「亦何所補」は、「亦(また)何の補ふ所ぞ」とか「亦何の補ふ所あらん」などと読まれますが、「亦何(いづ)れの所にか補はん」と読まれることもありそうです。
また、どういう意味でしょうか?

文脈からは、たとえば「いったいどのような利益があろうか」という意味があてはまりそうです。
しかし、それが妥当かどうかは文法的に検証しなければなりません。

しかし、「亦」は「やはり」でしょう。
「我が兵士たちが病気になったら、やはり」です。
やはりこうであると、いくつか考えられる自分の見解の中から一つ取りだして述べるものだと思います。

私は「何所補」は「何か補うソレか」という意味ではないかと考えます。
つまり、兵士に甚大な被害を与えて、それを補いようがない事態になると、太宗は述べているのではないでしょうか。
林邑を攻めることによる利益を述べるのではなく、「兵士に甚大な被害を与えて、どう補いようがあろうか」と、損失を述べているのだと思うのです。

この箇所に先立ち、太宗は兵力を極めて他国を侵略しようとして滅んだいくつもの国主の例を挙げています。
前秦の符堅しかり、隋の煬帝しかり、突厥の頡利しかりです。
だから、後漢の光武帝の「ひとたび兵を発するごとに覚えず頭髪白と為る」という言葉を引き、兵力の行使が一歩間違えば国の滅亡につながることを説くのです。
この箇所の「何所補」の意味は、やはりこの文脈から考えなければなりません。

「何所補」という表現は他にもありそうなので、検索をかけてみました。
いくつか例を挙げてみましょう。

・蕞爾之体、自貽茲患、天地神明、曷能済焉。其烹牲罄群、何所補焉。(抱朴子内篇・道意)
(▼蕞爾(さいじ)の体、自ら茲(こ)の患ひを貽(のこ)す、天地神明も、曷(なん)ぞ能く済はん。其の烹牲群を罄(つ)くすも、[何所補焉]。)
(▽(自分の不摂生ゆえに病気になって、)小さな体が、自分でこの災いをのこす、天地の神々もどうして救うことができようか。その煮たいけにえを供え尽くしても、[何所補焉]。

この「何所補焉」は、岩波文庫「抱朴子」(1942)では、「何ぞ補ふ所あらん」と読まれています。
読み方にも色々あるようですね。
しかし読み方はともかくとして、文法的には「何かこれに補うソレか」だと思います。
つまり、どれだけいけにえの数を尽くしても、何の足しにもならないということでしょう。

・京城之外非復朝廷之有、纂今還都、復何所補。(晋書・載記・呂光呂纂呂隆)
(▼京城の外は復た朝廷の有に非ず、簒今都に還るとも、復た[何所補]。)
(▽都の外はもはや朝廷の所有ではない、呂纂が今都に帰ってきても、さらに[何所補]。)

これも「何の補ふ所あらん」、あるいは「何の補ふ所ぞ」でしょうか。
都の外が朝廷の所有でない状況、呂纂が帰ってきても、「何か補うソレか」、つまり何の助力にもならないということでしょう。

・毒流赤県、絶吭仰薬、何所補焉。(旧唐書・盧携伝)
(▼毒赤県に流れ、吭(のど)を絶ち薬を仰ぐも、[何所補焉]。)
(▽(黄巣の乱により)毒が中国全土に流れてから、(盧携が)喉を断ち毒薬を仰いでも、[何所補焉]。)

これも、事態がのっぴきならない状態になってから、盧携がひとり自殺したところで、「何かこれに補うソレか」です。
つまり、何の足しにもならないです。


総じて「何所補」は、悪い状況を放置したり、よくないことを断行して、どうにもならなく行き詰まってから、何かをしようとしても、もう事態を打開したり好転させることはできない時に用いられています。
要するに、「何か補うソレか」であって、「補うソレ」は何もないのです。

したがって、『貞観政要』の「亦何所補」も、「やはり何か補うソレか」すなわち「やはり損失を補いようがない」と解釈するのが適切だと思います。
「何の救いにもならない」「何の足しにもならない」「もはや間に合わない」といってもいいでしょうか。

ところで、「何所―」の形式は「何の―する所ぞ」「何の―する所あらん」と読まれるのが一般的だと思いますが、「何(いづ)れの所にか―せん」と読まれることもあるようです。
私自身、「所」の用法について熟考する以前は、「何所」が「何処」と同じ意味で用いられることがあるなどと論じ、そのように書きもしたのですが、最近は本当だろうか?と疑うようになりました。
この「所」は「処」ではなく、「所」の用法そのままに用いられているのでは?と思うわけですが、いずれそのことについても考えてみたいと思います。

『為人』は性格の意か?

(内容:通常「性格・人柄」の意味とされる「為人」(ひととなり)について、別の意味があることを指摘する。)

『十八史略』を読んでいて、そこで用いられていた普通「性格」と訳される「為人」(ひととなり)の意味について疑問をもちました。

・越王為人長頸烏喙。可与共患難、不可与安楽。(十八史略・春秋戦国)
(▼越王の人と為り長頸烏喙(ちやうけいうかい)なり。与(とも)に患難を共にすべきも、与に安楽を共にすべからず。

この「為人」は、入試問題などでも読みや意味がよく問われる語句です。
すなわち「ひととなり」という読みか、あるいは語義として「性格・人柄」を答えさせることが多いと思います。
しかし、この例で用いられている「為人」は「性格」という意味でしょうか?

ここでの発言者である范蠡の意図は、「越王句践の性格は残忍である」と述べることにあります。
しかし、その越王の性格はあくまで「長頸烏喙」に喩えられたその容貌から見て取れるということであって、范蠡が口にした「為人」は、性格そのものではなく、あくまで容貌です。

気になったので、手許の漢和辞典を4つほど引いてみました。
すると、「ひとがら。人の性質」「人柄。人としてのふるまい」「人がもっている性質」「生まれつき。人柄」などとあり、辞書により記述は微妙に違いますが、だいたい同じ内容で、要するに「性質・人柄」の意としています。
ついでに、『大漢和辞典』も引いてみましたが、「人となり。うまれつき。性質。人柄。」とあるばかりです。
案外な気がしました。

中国ではどのように解されているのか興味がわき、『漢語大詞典』を引いてみました。

・指人在形貌或品性方面所表現的特徵。
(外見や性格など、その人の特徴を表すもの。)

この辞書の説明には、「品性」以外に「形貌」が含まれています。
私は、「越王為人長頸烏喙」の「為人」は、むしろ「形貌」を指しているのではないかと考えます。

ところで、同様の記述は、後漢の王充による『論衡』にも見えます。

・越王為人長頸鳥喙、可与共患難、不可与共栄楽。(論衡・骨相)
(▼越王の人と為りは、長頸鳥喙にして、与に患難を共にすべきも、与に栄楽を共にすべからず。)
(▽越王の人相は首が長く口が突き出ていて、患難を分かちあえるが、安楽を共にすることはできない。)
 …読みと訳は『新釈漢文大系68・論衡』(明治書院1976)による。

『論衡』では「烏喙」ではなく「鳥喙」に作るのですが、それはさておき、大事なのは、「骨相篇」の記述であるということです。
顔貌や体貌の異が人の性質や運命に深く関わることを述べた篇で、越王の容貌が取り上げられているわけです。
つまり、「長頸烏喙」は越王の人柄や性質そのものではなく、それを知らせる人相なのです。

ということは、ここでの「為人」はやはり「性格」というよりは「容貌」「人相」という意味だというべきです。
「為人」が「性格・人柄」を指す語句であるということは、よく出題されることであるがゆえに押さえておかなければならない知識ですが、いつも必ずそういう意味になるとは限らないということも、生徒達に伝えておく必要がありそうです。

さて、この「為人」という表現は、「ひととなり」と訓読してはいますが、古典中国語としては、「人である」「人であること」という意味です。
「人」は単独で「人である」という動詞的な意味をもち、それだけで名詞謂語になることができますが、これを「為人」(人たり)といえば、その「たり」(である)の意を、「為」が確認する働きをしているのです。
したがって、「為人」は「人である」ことそのものを表し、人を人たらしめているもの、たとえば性格や人柄を表すこともあれば、それをうかがわせる外貌や人相を指すこともあるのです。

また、「ひととなり」という日本語について、白川静の『字訓』を引いてみると、『類聚名義抄』を参照して、

・〔名義抄〕に「天性 ヒトヽナリ。性 人トナリ、人トナル」、また「長 ヒトヽナル、オトナツク。毓・長成 ヒトヽナル」とあり、「ひととなり」と「ひととなる」とは、もと異なる語である。それが同じ語のように扱われるのは「為人」という語を「人となる」と訓読したことから混乱したもので、「為人」とは「人たること」「その人としてのありかた」をいう。為(い)は漢文法では同一の関係を示して、下文に補語をとる同動詞といわれるものである。

つまり、白川氏は「ひととなり」に注して、

・人の生れつきのもの。のちの「人がら」などにあたる名詞である。「ひととなる」は生長する意の動詞に用いるが、もと訓読語のようである。

として、「ひととなり」と「ひととなる」は別の語であるとしています。
ただ、「性」の説明に「人トナリ」と「人トナル」が併記されているように、『名義抄』の時代にすでに混乱が生じているようです。

成長するの意で「為人」といえば、「為」は「なる」の意で、一人前の人という状態に「なる」ということ。
一方、性格の意で「為人」といえば、「為」は「である」の意で、人である状態「である」で、「人」のもつ動詞性を取り出して確かめる表現といえるのではないかと思います。
その性質を白川氏は同動詞という言い方をされているのでしょう。

「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・追記

(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その3。)

いつものように、拙稿を読んでいただいたN氏がツイッターで、前エントリーの次の箇所につき、説明不足を指摘してくださいました。(いつも本当にありがとうございます。)

「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。

確かにこれでは読んでいただいた方がどういうことなのか、あるいは中井が何を言いたいのかが伝わってきません。
私が何を考えたのかを補足しておこうと思います。

『史記・呉太伯世家』の次の文、

・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。

この「越在腹心疾」が「越は腹心に在るの疾なり」と読まれていることに違和感を感じ、本当にそのような意味であろうかと考えたのが、前2エントリーでした。
しかし、考えを進めた結果、文法的にこの読みを完全否定することはできないと判断しました。

その一方で、「越は腹心に在るの疾なり」という読みにはやはり違和感があり、もしそのような意味なら、もっと明確にそうであるとわかるような表現方法があるのではないかと思ったのです。
つまり「腹心に在る」が「疾」を修飾する形であると一目でわかるような表現形式です。
もしそれが可能なら、『史記』の本文がその形をとらずに「越在腹心疾」であることに、「越は腹心に在るの疾なり」ではなく「越は腹心の疾に在り」と読む可能性がある程度高まるかもしれないと考えたのです。
もちろん可能であったとしても、「越は腹心に在るの疾なり」という読みを否定することはできませんが。

そして「在腹心」が「疾」を修飾して「腹心にある病気」という名詞句を構成するには、「所」や「之」を用いる方法があると考えました。

ところが、「所」を用いて表現すれば、

・越所在腹心疾(越は腹心に在る所の疾なり)

となりますが、この句は少なくとも「越は腹心にある病気」という意味の句にはなりえないのではないでしょうか。

単に「所在」の場合なら、「所」は「在」の客体を表して、「ソコに在るソコ」という意味を表します。
だから「問先生之所在」(先生のソコにいるソコを問う→先生の居場所を問う)などの表現が可能になります。

別の動詞の場合、たとえば「与」(与える)などなら、

・所与桃

の形をとって、この句は2通りの意味を表し得ます。

・「与える桃」という意味の場合 → 与ふる所の桃

これは「所」が「与」という動詞の多動性に対する客体を表して、「ソレを与えるソレである桃」という意味です。
それに対して、

・「桃を与える人」という意味の場合 → 桃を与ふる所

これは「所」が「与」という動詞の依拠性に対する客体を表して、「ソノヒトに桃を与えるソノヒト」という意味になります。

同じ「所与桃」の形をとっても、「所」が「与」の多動性の客体なのか、依拠性の客体なのかによって、表す意味が異なるわけです。
これは文脈でどちらを表しているのか判断しなければならず、「所与桃」の句だけでどちらと決めつけることはできません。

話を「越所在腹心疾」に戻します。
「在」は「A在B」(ABに在り)という意味で用いられ、「在」の客体は場所を表します。
「在」が「与」のように別の客体、たとえば依拠性や生産性に対する客体をとりうる語であれば話は別なのですが、「~を在り」「~と在り」などの用法はないと思うのです。
したがって、「所在」なら「所」は依拠性に対する客体を表して「ソコにある(いる)ソコ」で「ある(いる)場所」という意味になりますが、「所在腹心」(腹心に在る所)となれば、すでに「在」が依拠性に対する客体「腹心」をとっているために、意味をなさなくなります。
だから前エントリーで、「所在腹心+疾」が「腹心にある+病気」という意味にはなり得ないと説明したわけです。

学校の漢文の授業では、「A所BC」(AのBする所のC)を、「AがBするC」、「所BC」(Bする所のC)を「BするC」という意味だと教えていると思います。
それだと「所在腹心+疾」が「所BC」の型にはまるように見えるため、「腹心にある+病気」と解せそうな気がしますが、私は以上の理由から、そのような意味にはならないと考えています。

次に、「越在腹心疾」を「之」を用いて「在腹心之疾」(腹心に在るの疾)とすることで、「腹心に在る病気」という意味を明確にできないかと考えました。
これはたとえば『史記』の「鴻門の会」に見られる「有功之人」(功績のある人)のような形です。
しかし、あらためて「在腹心之疾」を見てみると、「在腹心+之+疾」のつもりが、「在+腹心之疾」のようにも見えてしまうことに気づきました。
これでは「之」を用いても、「越在腹心疾」を「越は腹心の疾に在り」ではなく「越は腹心に在るの疾」だと明確にすることはできません。

結局のところ、「越在腹心疾」を誰が読んでも「越は腹心にある病気である」としか読めない形にはできそうにないというのが私の見解でした。

ただし、私は『史記・呉太伯世家』の「越在腹心疾」自体は、「越は腹心の疾に在り」の意ではないかと思っています。

「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・2

(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その2。)

手元の『史記』の注釈書を色々見ていると、韓兆琦による訳注『史記』(中華経典名著 全本全注全訳叢書,中華書局2010)に、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の箇所について、次のような注釈がついていました。

通行本“犹”字原作“在”。泷川曰:“枫山、三条本,‘在’作‘犹’,与《吴语》合。”按,泷川说是,今据改。
(通行本では「猶」の字はもと「在」に作る。瀧川が(『史記会注考証』に)言うには、「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」と。考えるに、瀧川の説は正しい、今それにもとづき改める。)

驚いて本文を見ると、「今越腹心疾而王不先」(原文簡体字)になっています。
本文まで改めたわけですね。
韓兆琦はこれに先立つ2009年刊の『史記箋証』(江西人民出版社2009)でも同様のことを述べ、本文を改訂しています。
王叔岷が『史記斠證』を刊行したのは1983年ですから、韓兆琦もあるいはそれを参照したかもしれません。

韓兆琦がなにをもって瀧川資言の説を是としたのか、私が前回のエントリーで考えたことと照らし合わせると、どうにも腑に落ちませんが、まずは王叔岷の注釈をもう少し検討したいと思います。
前エントリーで紹介した王叔岷の注釈の後半部分を再引用します。

左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)

まずは『春秋左氏伝・哀公11年』の文から。

・越在我心腹之疾也。

『十三経注疏・春秋左伝正義』(北京大学出版社2000)では、「越在我,心腹之疾也。」と句読が切ってあります。
これだと「越の我に在るは,心腹の疾なり。」と読むことになりますが、王叔岷が「旧読『越在我』句,非。」と言ったのは、この読み方のことです。
何事も否定する以上は根拠を示さなければなりませんが、読む限りこの「在」が「猶」と同義だからという根拠以外はなく、それは『考証』に示された「楓山、三條本は、『在』を『猶』に作る、『呉語』と合致する。」というものでしかありません。
ひとたび楓山、三條本の方が誤っている、もしくは誤らないまでも「在」を「猶」と同義として改めたものでないとなれば、たちまちにして崩れてしまうものだと危ぶみます。

「越在我心腹之疾也」の句読について、気になるのが『国語 公序本』の次の1文です。

・越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。

『国語』や『左伝』の作者、成立年代については諸説があり、私にはとうてい突き止められないものです。
しかし、かりに成立年代を語法上から類推した言語学者カールグレンの説に従えば、『国語』の成立は『左伝』とともにそうとうに古く、「戦国時代の初めごろに同一人または同系統の人によって編集されたことを暗示する。」(『新釈漢文大系 国語上』明治書院1975)というのが大野峻の見解です。
そうだとすれば、この『国語』の1文は、「越之在呉也」で1つの句をなすことは明らかで、『左伝』の1文も「越在我,心腹之疾也」と「越在我」が1つの句をなす可能性は高まります。
そして内容としては同じはずの『国語』の文が、「在」を「猶」に置き換えて、「越之猶呉也、猶人之有腹心之疾也」という文にはなしえないことも明らかです。

しかし、私はだから『左伝』の文をやはり「越在我,心腹之疾也」と区切って読むべきだと主張するわけではありません。
回りくどい述べ方をして申し訳ありませんが、まずは王叔岷の注釈が当を得ないことを押さえておきたかったのです。

ここで仕切り直して、それでは『左伝』『史記 呉太伯世家』の文をどう解釈するか、考えてみたいと思います。

実は『史記 呉太伯世家』には、「越在腹心」の記述が2箇所あります。

・今越在腹心疾。而王不先、而務斉。不亦謬乎。
(▼今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや)
(▽越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか)

・越在腹心。今得志於斉、猶石田無所用。
(▼越は腹心に在り。今志を齊に得とも、猶ほ石田の用ふる所無きがごとし。)
(▽越はわが腹心に在る疾病のようなものであります。今、わが君が志を斉に得られたところで、それは石ばかりの瘠地が役立たないように、呉の利益にはなりません。)
  …2例とも、句読、読み、訳は『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)による

『新釈漢文大系』が1つめの例を「越は腹心に在るの疾なり」としながら、2つめの例を「越は腹心に在り」と読んでいるのは一貫していないと言わざるを得ませんが、そう読むしかしかたがなかったのは興味深いことです。
また、水沢利忠が『史記会注考証附校補』で、1例目の「在」が楓山本、三條本ほか2書で「猶」に作られていることを指摘しながら、2例目にはその指摘がないことも興味深いことです。
できれば、2例目の本文がこれらの書で「越猶腹心」ではなく「越在腹心」に作られていることを確認したいものですが、それはできず残念です。

「越在腹心」を認めれば、これは「越が腹心にある」です。
「在」は場所を表しますから、越の在りかは「腹心」です。
それはつまり越が「腹心(の病)」そのものであることを示すことではありませんか。

そう考えれば、問題となった「今越在腹心疾」という文も、「今越は我らの腹心の病という場所にある」の意に解せそうです。

ところが、「越在腹心疾」という文は「越は腹の中にある病気です」という意味を表すことがあり得ないかといえば、そんなことはないと思います。
しかし、非常に不安定で不確かな表現になります。
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。

とすれば、「之」を用いて、「在腹心+之+疾」の形をとり、「越在腹心之疾」(越は腹心に在るの疾なり)が考えられますが、それはとりもなおさず『左伝』の「越在我心腹之疾也」に酷似することになります。

つまり、考えの道筋に従えば、『左伝』の文は、次の2通りの読み方が可能になります。

1.越は我が心腹の疾に在るなり。
(越は我が国の心腹の病にある。=越は我が国の心腹の病の位置にある)

2.越は我が心腹に在るの疾なり。
(越は我が国の心腹にある病である。)

このどちらが是なのか、あるいは「越は我に在りて心腹の疾なり」が正しいのか、断じ得ません。

結論として、『新釈漢文大系』が「越在腹心疾」を「越は腹心に在るの疾なり」と読んでいることを誤りとすることはできません。
そして、これが果たして文法の力で断じることができるのか、今のところ私にはわかりません。
ただ、「越在腹心疾」とだけある表現を、「在腹心」と「疾」に分けて読むのはどこか不自然に感じるし、やはり「越は腹心の疾に在り」と読まれてしまう(あるいはそう読む方が自然な)構造になっていると思います。

ちなみに、『史記国字解』(桂湖村 等,早稲田大学出版部1919)、『漢文叢書 史記』(塚本哲三,有朋堂書店1925)を、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができますが、いずれも「越は腹心の疾に在り」と読まれています。

「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・1

(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その1。)

最近授業研究熱心な若い同僚がよく質問に来ます。
あれ?と思ったことをそのままにせず、納得がいくまで考えようという姿勢は、なにも生徒に限らず、教員である我々にこそ必要な態度だと常々思っているので、問われたことにはきちんと考えようと自身に言い聞かせているのですが…

つい先日の質問に、私もあれ?と思いました。
今回の質問は、『史記・呉太伯世家』の文章の一節についてでした。
いわゆる呉越の抗争にかかわる内容です。

呉王の夫差が、斉を攻めようとした場面。
斉の景公が亡くなり、新君も幼年、攻めるなら今がチャンスだというわけです。
それに対して、伍子胥が呉王夫差を諫めた言葉が問題です。
「越王句践は、食事は味を重ねず、衣服は采色を重ねず、死者を弔問し、病人を慰問し、いずれその民衆を用いようとしています。この人が死ななければ、きっと呉の憂いとなるでしょう…」
越こそ真の敵で、斉の国を攻めてる場合じゃないというわけですね。
そして、その後に続く言葉が、次の一文です。

・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。(史記・呉太伯世家)
(▼今越腹心に在るの疾なり。而るに王先にせずして斉を務む。亦謬(あやま)たずや。 )
(▽今、越は[在腹心疾]。ところが王は(その問題を)先にせずに斉に務めています。間違っているのではありませんか。)

同僚はこの「越在腹心疾」の部分が引っかかったようです。
確かに普通に見れば、「越腹心の疾に在り」と読む構造に見えます。
書物に「越腹心に在るの疾なり」と読まれていて、何も考えずにそう読めば何の疑問もわいてこないのですが、きちんと構造を理解しようという姿勢があれば、なぜ「越腹心の疾に在り」ではないのか、気になって当然の箇所で、同僚の態度を頼もしく思ったのですが…

まず『新釈漢文大系 史記5(世家上)』(吉田賢抗 明治書院1977)を確認してみました。

読み:今、越は腹心に在るの疾なり。而るに王、先にせずして、齊を務む。亦謬らずや、
通釈:越は呉にとっては、腹心に在る疾病のようなものです。しかも王は越の事を先にせずして斉に力を務めようとしておられます。なんと誤りではありますまいか

現行の『史記』の注釈書で簡単に閲覧できるのはこの書だと思うのですが、通釈はともかくとして、読みは同僚が目にしたものとほぼ同じです。

その場では、確かにひっかかる変な読みだねとだけ答えておいたのですが、気になるので、ちょっと手元の資料をいくつか調べてみることにしました。
すると、王叔岷の『史記斠證 世家(一)』(中央研究院歴史語言研究所1983)に、おもしろいことが書いてありました。

考證:楓山、三條本在作猶,與呉語合。
案楓、三本在作猶,在與猶同義。伍子胥傳作『今呉之有越,猶人之有腹心疾也。』亦其證。左哀十一年傳作『越在我心腹之疾也。』(舊讀『越在我』句,非。)呉越春秋作『越在心腹之病。』在並與猶同義。
(▼考證に、楓山、三條本は「在」を「猶」に作る、呉語と合すと。
  案ずるに、楓、三本「在」を「猶」に作るは、「在」「猶」と義を同じくすればなり。伍子胥伝に『今呉の越有るは、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。』に作る、亦た其の證なり。左哀十一年伝に『越在我心腹之疾也。』に作り(旧は『越我に在り』の句に読むは、非なり。)呉越春秋に『越在心腹之病。』に作る、「在」並びに「猶」と義を同じくするなり。)
(▽『史記会注考証』に、「楓山本と三條本では『在』が『猶』になっていて、『国語・呉語』の記述と合致する。」とある。
  私が考えるに、楓山本と三條本で「在」が「猶」になっているのは、「在」が「猶」と同義だからである。『史記・伍子胥列伝』は「今、呉に越があるのは、人に腹心の病気があるようなものである」とあるのも、その証である。『春秋左氏伝・哀公十一年』の伝は「越在我心腹之疾也。」とあり(古く「越我に在り」の句として読んでいるのは誤りである。)、『呉越春秋』は「越在心腹之病。」とあるが、「在」はどちらも「猶」と同義である。)

なかなかおもしろい説なので、こんなふうに説かれているのがあるよと、同僚に渡しておいたのですが、私的にはどこか釈然としないものを感じました。

まず瀧川資言の『史記会注考証』に直接あたってみると、確かに王叔岷の引用通り「楓山、三條本在作猶、與呉語合」という注がついていました。
そこで『考証』が合致すると指摘する『国語・呉語』を見てみると、

・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。
(▼越の呉に在るは、猶(なほ人の腹心の疾(やまひ)有るがごとし。)
(▽越は呉にとっては、人の腹や心の病気のようなものです。)
  …読みと訳は、大野峻『新釈漢文大系 国語 下』(明治書院1978)による。

この書は2系統ある『国語』の伝本のうち、明道本が底本ですが、公序本にあたってみると、

・譬越之在呉也、猶人之有腹心之疾也。
(▼譬ふれば越の呉に在るや、猶ほ人の腹心の疾有るがごときなり。)
(▽喩えると、越が呉に在るのは、人に腹心の病気があるようなものである。)

となっていて、文字の異同があります。

これらを見るかぎり、『考証』が「楓山、三條本は『在』を『猶』に作るのは、呉語と合致する」とするのは、どういうことなのだろうと思えてきます。
残念ながら『史記』の楓山、三條本を直接見ることはできないのですが、「在」を「猶」に置き換えたものと『国語』の記述を比べてみると、次のようになります。

・越腹心疾。(史記 楓山、三條本)
・越之呉、人之有腹心之疾也。(国語 明道本)
・越之呉也、人之有腹心之疾也。(国語 公序本)

語義「似る」に近い「猶」による対応は次のようになっていて、

「越」=「腹心疾」(史記)
「越之在呉」=「人之有腹心之疾」(国語)

『国語』が「在」を「猶」に置き換えた表現になっていないことは明らかです。
だとすれば、『考証』が「呉語と合す」と述べているのは、語義的な説明ではなく、「猶」が削られた状態で「在」のみを残している『史記』の諸本とは違い、楓山、三條本が内容的に『国語』の記述と合致していることを指摘したものと考えるべきでしょう。

それを「楓、三本『在』作『猶』,『在』与『猶』同義」(楓山本と三條本が「在」を「猶」に作るのは、「在」が「猶」と同義だからである)と解したのは、『考証』ではなく、王叔岷によるものというべきです。
つまり、王叔岷は語義的にこの二字が同じであると断じたわけです。

次に王叔岷が引用した『伍子胥列伝』を確認しました。

・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。

これが「在」が「猶」と同義であることの「亦其證」であるというのですが、どうでしょうか。
確かに司馬遷は、この例に限らず、同じ内容や発言を本紀や世家、列伝で述べることが多いのですが、その箇所ごとに微妙に表現を変えています。
たとえば、有名な「鴻門の会」の樊噌の発言は、教科書によくとられている『項羽本紀』では、

・臣死且不避、卮酒安足辞。
(▼臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辞するに足らん。)
(▽私は死ぬことすら避けない、卮酒はどうして断るほどのものであろうか。)

となっていますが、樊噌の列伝である『樊酈滕灌列伝』では、

・臣死且不辞、豈特卮酒乎。
(▼臣死すら且つ辞せず、豈に特(た)だに卮酒をや。)
(▽私は死ぬことすら辞さない、どうであろうただ卮酒のみ(辞したりするであろう)か。)

このように、表現を変えています。
どちらかの表現が間違っているわけでは、もちろんありません。

そういう目で今一度『呉太伯世家』『国語』『伍子胥列伝』の表現を見比べてみましょう。

・今越在腹心疾。(呉太伯世家)
・越之在呉、猶人之有腹心之疾也。(国語)
・今呉之有越、猶人之有腹心疾也。(伍子胥列伝)

すぐに気がつくのは、『国語』と『伍子胥列伝』の前半部が、表現を異にしている点です。
「越之在呉」と「呉之有越」、これは「之」の働きによって、「在呉」「有越」がそれぞれ「越」「呉」のそれに限定される形で名詞句になっていますが、これは文の主語にしやすくするためのものであって、独立した文であれば「越在呉」(越呉に在り)と「呉有越」(呉に越有り)です。

「在」と「有」の違いは周知のことで、以前に別のエントリーで荻生徂徠の『訓訳示蒙』の記述を紹介しましたから、再掲します。

有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)

「人在市」(人が市にいる)=「越在呉」(越が呉にある)
「市有人」(市に人がいる)=「呉有越」(呉に越がある)

この違いです。
「有」は存在を表し「在」は場所を表しますから、もちろん文意は異なりますが、表される事実は同じです。
つまり、「越之在呉」(国語)と「呉之有越」(伍子胥列伝)は、事実としては同じことを言っているのであり、司馬遷が表現を変えただけのことです。
したがって、『伍子胥列伝』に「今呉之有越、猶人之有腹心疾也」とあるからといって、『呉太伯世家』の「今越在腹心疾」の「在」が「猶」と同義であることの証にはなり得ません。
「在」は「有」となり、別の表現形式で『伍子胥列伝』の中に生きているからです。

王叔岷の説も、なにやら怪しくなってきました。
同氏はさらに『春秋左氏伝』と『呉越春秋』の記述を引き合いに出しています。
これらをどう説明していくかで、『呉太伯世家』の文をどう解釈するかが導かれそうですが、今回はまずここでお休みをいただきます。

「可」と「可以」についてさらに

(内容:「可」と「可以」の用法についてさらに考察する。)

「A可以B」(A以てBすべし)の形式が、もともと「以」がAもしくはAの性質や事情を賓語とするために、以降「以」の賓語が何であるか明瞭に示し得ない場合も含めて、一般にAはBの主体を表す文として用いられるようになったというのが、私の推論でした。
それは、「A可B」(ABすべし)が、用例として圧倒的にAがBの客体を表す中にあって、主体を表す例外を引き受けていったのではないかということです。

「A可B」は、「可」が依拠性の語であるために、「AはBするに可である」という意味を表しますが、それは必ずしもAがBの客体でなくても成り立つ表現だと思います。
たとえば、「太郎可愛」(太郎愛すべし)は、普通「太郎は(→太郎を)愛してよい」など、愛する客体が太郎であることを表しますが、「太郎可学」(太郎学ぶべし)は、「太郎は(→太郎を)学ぶのがよい」という意味を表すとは限らず、太郎は学ぶ主体の場合もあるだろうということです。
ただ用例の数として、比較的少ないものです。
そもそも「A可B」が通常はBの主体を問題にしない表現であったのに、AがBの主体を表してしまう用い方もされることがあったというのが実情なのかもしれません。

本来はBの客体として用いられるのが普通の「(A)可B」において、Bが賓語として客体を後に伴う例をいくつか調べてみました。

・其下駢石、不可得泉。(管子・地員)
(▼其の下駢石にして、泉を得べからず。)
(▽その下は一枚岩で、地下水を得られない。)

この例の場合、「泉不可得」(泉得べからず)といえば、通常の形になりますが、例文とは表す意味が異なるように思います。
「泉は」ではなく「其の下は」が主体になるはずだからです。
(あるいは「A可BC」のうち、B(得)の他動性に対する客体「泉」をCにとって、依拠性に対する客体「其下」をAとした構造か?とも思ったのですが、この後の例を見ると、そうではないような気がします。)
したがって、「其下可以得泉」(其の下以て泉を得べからず)とするのが普通の表現なのでしょうが、ここでは「以」は用いられていません。

・孔丘知礼而怯、請令莱人為楽、因執魯君、可得志。(史記・斉太公世家)
(▼孔丘は礼を知るも怯なり、請ふ莱人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得べし。)
(▽孔丘は礼を知っていますが臆病です、どうか莱人に音楽をさせて、その機に魯君を捕らえれば、志を得ることができます。)

この例の場合、「志」が「可」の前に置かれて「志可得」(志は得られる)の形をとっていない以上、主体になる語はあえていうなら「吾君」とか「吾国」になるでしょう。
「志可得」ではなく「可得志」と表現しているところに、書かれていなくても表現者の意図が「我が君は得られる」「我が国は得られる」というところにあるのだという気がします。
これも、「可以得志」(以て志を得べし)とするのが普通の表現でしょう。

・徐偃王之状、目可瞻馬。(荀子・非相)
(▼徐偃王の状、目は馬を瞻(み)るべし。)
(▽徐の国の偃王の形状は、目がやっと馬が見えるほどであった。)

これも「目可以瞻馬」(目以て馬を瞻るべし)とするのが本来でしょうか。

・夫人先誡御者曰、王適有言、必可従命。(韓非子・内儲説下)
(▼夫人先づ御者を誡めて曰はく、「王適(も)し言ふ有らば、必ず命に従ふべし」と。)
(▽夫人はまず侍臣を戒めて言った、「王がもし何か言われたら、必ず命令にしたがうがよい。」)

この例の場合、「命可従」(命は従ふべし)という表現が可能かどうかはわかりませんが、そう表現するのでなく、「おまえは」という「若」(なんぢ)などの代詞が主体になるものだと思います。

「胡可伐」(胡伐つべし)などの表現に見られるように、「A可B」は多くAがBの客体を表すわけですが、その場合、誰がということは問題になっていないということは前に述べました。
しかし、「王可伐胡」(王胡を伐つべし)という表現が可能であることは、ここまでの例を見ても明らかです。
そしてその場合、誰が「胡を攻めてよい」のかを明示しているのであって、その必要性がある場合には決して破格でなく成り立つ表現だったのではないかと思います。
しかし、それを「王可伐」(王伐つべし)と「伐」の賓語を示さず表現してしまうと、用いられた環境によっては「王が攻める」のか「王を攻める」のかが、わからなくなってしまいます。
それを、「王可以伐」(王以て伐つべし)として、たとえば「王はその立場で攻めてよい」などの意味で、「王」が「伐」の主体であることを示せば、誤解が生じにくくなるのではないでしょうか。
私が、「A可以B」の形式が、「A可B」のAがBの主体を表す表現を引き受けていったのではないかと述べたのは、そういうことです。

本来「学不可已」(学は已(や)むべからず)と表現するのが普通である中で、荀子が「学不可以已」(学は以て已むべからず)としたことについて。
まず、「(人)不可以已学」((人)以て学を已むべからず)とするのが本来でしょうが、それでは「人というものは」という表現になってしまいます。
「人」が隠れた大主語であるにせよ、荀子は「学問というものは」と表現したのではないでしょうか。
また、「学不可已」は「学問はやめてはいけない」という意味ですが、「学不可以已」は「学問というものはその性質ゆえにやめてはならない」という本来の「以」の働きを残した表現なのではないでしょうか。
客体にあたる「学」を「可以~」の前に出すという、破格に見える表現が生まれたところにはそんな表現者の意図があるのかもしれません。
表現者の意図を勝手に類推して、そこから文法を考えるというのは、矢印の方向が逆で、誤った態度だとは思うのですが、私にはなんとなくそんな気がするのです。

「可以」について

(内容:「可以」の用法について考察する。)

高等学校2学期お決まりの定期試験と処理、その繁忙さに加えて、同時多発的な突発的公務の発生、思わず笑い出したくなるほどの慌ただしさなのですが、そこへさらに土日返上の活動なんぞが加わってくると、じっくりものを考えられる時間に飢えてきます。
「可」がなんとなく曖昧さをもっているように思えて、難しいなあと思ったっきり、思考がストップした状態がいつまでも続いていましたが、いくら忙しくても自分なりのペースでいいので少しずつでも考えを進めなければと思えてきます。
「学は以て已むべからず」ですからね。

して、その「学不可以已」にも用いられている「可以」ですが、この例はともかくとして、一般に「A可以B」の場合、AがBの客体ではなく、Bという動作の主体であるとされます。
なぜそうなるのか、文法的に知りたいところながら、よくわかりません。

中国の古い文献は『書経』だと思いますが、古文尚書の中には次の1例が見えるばかりです。

・二公曰、「我其為王穆卜。」周公曰、「未可以戚我先王。」(尚書・金縢)
(▼二公曰はく、「我其(ねがは)くは王の為に穆卜せん」と。周公曰はく、「未だ以て我が先王を戚(うごか)すべからず」と。)
(▽太公と召公の二公が(周公に)言うことには、「我々は武王の(病平癒の)ためにつつしんで占いをしたいものです」と。周公が言うことには、「それで我が先王を感動させることはできまい」と。)

この例は「未可以戚我先王」の主体が明示されていませんが、占いを行う「二公」とも、占い自体ともとることができそうです。
いずれにしても、「戚」という行為の客体ではありません。

次に『詩経』の例を探してみました。

・我心匪鑒、不可以茹。亦有兄弟、不可以拠。(邶風・柏舟)
(▼我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず、以て茹(はか)るべからず。亦兄弟有れども、以て拠るべからず。)
(▽わが心は鏡ではないから、それで(人の心を)はかることはできない。私にも兄弟はあるが、それで頼ることはできない。)

この例も「我心」は「茹」の客体ではないし、「不可以拠」の主体は我だと思いますが、やはり「拠」の対象ではありません。
なお、この詩はこの後に、次の一節があります。

・我心匪石、不転也。我心匪席、不巻也。
(▼我が心は石に匪ず、転ずべからざるなり。我が心は席(むしろ)に匪ず、巻くべからざるなり。)
(▽私の心は石ではないから、転がすことはできない。私の心はむしろではないから、巻くことはできない。)

堅く結ばれた心は変えることはできないことを言うのですが、「我心」は、「転」「巻」の客体を表しており、つまりこの詩において「可」と「可以」はきちんと使い分けられているのがわかります。

・衡門之下、可以棲遅。泌之洋洋、可以楽饑。(陳風・衡門)
(▼衡門の下、以て棲遅すべし。泌の洋洋たる、以て楽饑すべし。)
(▽一本木のそまつな家、そこでのどかに暮らせる。泉のさかんに流れるところ、そこで飢えても楽しんで暮らせる。)

この例は、「以」が「そんな状態で」「そんなところで」と前句を踏まえているのだと思います。
表現されていない「我」が主体のようにも思えますが、そのまま「衡門之下」は、「泌之洋洋」たるはと、それを主体とみることもできそうに思います。

・東門之池、可以漚麻。彼美淑姫、可与晤歌。(陳風・東門之池)
(▼東門の池、以て麻を漚(ひた)すべし。彼の美なる淑姫、与に晤歌(ごか)すべし。)
(▽東門の池は、それで麻を浸してやわらかくするによい。あの美しい娘は、その子と向かい合って歌うによい。)

この例も前例と同じく、表現されていない「我」が主体とも見えますが、そのまま「東門之池」「彼美淑姫」を見ることもできそうです。
そして、「可与晤歌」が「可与彼美淑姫晤歌」(あの美しい娘と向かい合って歌うによい)の意であることは明らかで、「与」の賓語が「彼美淑姫」であるように、「以」の賓語も「東門之池」だと言えるでしょう。

・糾糾葛屨、可以履霜。摻摻女手、可以縫裳。(魏風・葛屨)
(▼糾糾(きうきう)たる葛屨(かつく)、以て霜を履(ふ)むべし。摻摻(さんさん)たる女手、以て裳(しやう)を縫ふべし。)
(▽ぼろぼろの葛の靴、それで霜を踏める。かよわい娘の手、それでもすそが縫える。)

この例は、「摻摻女手」が「縫」の主体であることは明らかで、表現されていない何かではありません。
してみると、「履」の主体も「糾糾葛屨」とみるべきでしょうか。
なお、「糾糾葛屨、可以履霜」の句は、「小雅・大東」にも見えます。

・維南有箕、不可以簸揚。維北有斗、不可以挹酒漿。(小雅・大東)
(▼維南に箕(き)有り、以て簸揚(はやう)すべからず。
(▽南の空に箕星がある、それで糠を払い去ることはできない。北の空には北斗星がある、それで酒や水を酌むことはできない。)

「箕」が糠を取り去る農具、「斗」が飲料を酌む道具の名で、星の名に通じることからの趣向ですが、これも「箕」「斗」が主体と考えるべきでしょう。

・牂羊墳首、三星在罶。人可以食、鮮可以飽。(小雅・苕之華)
(▼牂羊(さうやう)墳首(ふんしゆ)、三星罶(りう)に在り。人以て食らふべし、以て飽くべき鮮(すく)なし。)
(▽牝羊は痩せて頭ばかりが大きく見え、三星は魚をとる仕掛けに映って輝く。人は食べることができるが、腹一杯になることはできない。)

極貧の民の生活を歌ったものですが、「食」の主体は「人」です。
この「可以」の「以」は、「そんな貧しさで」と、前に述べられた状況を指しているのでしょうか。

・他山之石、可以為錯。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て錯(さく)と為すべし。)
(▽よその山の石は、それを砥石にすることができる。)

・他山之石、可以攻玉。(小雅・鶴鳴)
(▼他山の石、以て玉を攻(をさ)むべし。)
(▽よその山の石は、それで玉を磨くことができる。)

この2句、後者は人口に膾炙するものです。
いずれも「他山の石」は「為」「攻」の主体となりますが、特に前者「可以為錯」は、「以」が用いられ方によっては「それを」という意味を表しうることがわかります。

・泂酌彼行潦、挹彼注茲、可以餴饎。(大雅・泂酌)
(▼泂(とほ)く彼の行潦(かうらう)を酌み、彼に挹(く)みて茲(これ)に注ぐ、以て饎(し)を餴(ほん)すべし。)
(▽遠くからあの道にたまった水を汲み、大器に入れてまた小器に注ぐ、それで一度蒸した食べ物を水を加えてさらに蒸すことができる。)

この最後の部分は、繰り返して

・…、可以濯罍。
(▼…、以て罍(らい)を濯ぐべし。)
(▽…、それで祭事に酒を入れておく器を洗うことができる。)

・…、可以濯漑。
(▼…、以て濯漑すべし。)
(▽…、それで色々な祭器を洗うことができる。)

と歌われていますが、「餴」「濯」「濯漑」の主体は、汲んだ水でしょう。

こうして『詩経』の例を見ていくと、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)は、Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけでなく、むしろA、または前句を踏まえたAにあたる内容が、そのまま「以B」「以BC」に可であるという意味を表していることがわかります。

ちなみに、「A可以B」の形は、授業なんぞでは「可以」を1つの塊のようにとりあげて説明しがちで、「A+可以+B」の構造のように思っている先生も多いのではないかと思います。
しかし、少なくとも古代漢語においてはそうではなくて、これは「A+可+以B」と捉えなければなりません。
だから、Aは「以てBする」に可と言ったわけです。

Aが必ずしも動作行為を行う主体に限るわけではないと述べたのは、たとえば、

・滄浪之水清兮、可以濯吾纓。(楚辞・漁父)
(▼滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。)
(▽滄浪の川の水が清らかであれば、私の冠のひもを洗うことができる。)

この「可以濯吾纓」は、清らかな滄浪の川の水が、「以濯吾纓」に可であるという意味です。
その「清らかな滄浪の川の水」がAですが、「濯吾纓」という実際の行為を行うのは洗う人です。
ですから、少なくとも「A可以B」の比較的古い用法においては、AはBの主体とはいっても、必ずしも動作行為を行う直接の主体であるとは限らないというわけです。
ここまで私があえて主語という言葉を避けてきたのは、主語とは何ぞやという部分での定義のズレが学者の中にあるためです。
今、一般に文頭に置かれた名詞成分が主語と言われますが、その意味ではAは主語といってもいいのかもしれません。

『詩経』の例を見ていて、さらに気づくことは、「A可以B」(A以てBすべし)や「A可以BC」(A以てCをBすべし)の「以」の賓語が何であるかが、ほぼ明瞭にわかるということです。
Aを受けて、「それを用いて」「それを理由に」「それを」「その状態で」など、AそのものやAの性質や事情が賓語の内容になっています。
その意味で、たとえば、「A可以B」が「Aは+『Aを用いて+Bする』に可である」という構造で、Bの客体がAになるということは、まず普通はないのではないでしょうか。

それゆえに、後の時代はともかくも、「A可以B」において、AがBの主体になるのが、もともとの用いられ方だったのではないかと思います。

ここで、前エントリーで紹介した『孟子』の例をもう一度見てみましょう。

・斉人伐燕。或問曰、勧斉伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕伐与、吾応之曰、可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之、則将応之曰、為天吏則可以伐之。……
(▼斉人燕を伐つ。或ひと問ひて曰く、斉に勧めて燕を伐たしむること、諸(これ)有りやと。曰く、未だしきなり。沈同問ふ、燕伐つべきかと、吾之に応へて曰く、可なりと。彼然うして之を伐つなり。彼如(も)し孰(たれ)か以て之を伐つべきと曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、天吏たらば則ち以て之を伐つべしと。…)
(▽斉国が燕国を討伐した。ある人が孟子に尋ねて、「あなたは斉に勧めて燕を討伐させたそうだが、そういうことがありましたか」。孟子「そうとはいえないのである。沈同が『燕は伐ってもよろしいか』と問うたので、わたしはそれに答えて『よろしい』と言った。彼はかくして燕を伐ったのである。彼がもし『だれが燕を伐ってもよろしいか』といったならば、これに答えて『天命を受けた役人すなわち天子であったならば、これを伐ってもよろしい』と言ったであろう。……」。)

孟子が沈同の問いかけとして示した言葉は「燕可伐与」ですが、それに孟子は「可」と答えています。
読みようによっては孟子の言い訳にも見える部分ですが、孟子は「燕の国は伐つ(こと)について可であるか?」という問いかけに対して「可」であると答えたのです。
つまり、誰が伐つかについてはもともと問題にされない問いかけへの回答でした。
しかし「孰可以伐之」と問われていれば、これは、「誰が『その立場で』これを攻めるに可であるか」となりますから、沈同でも斉王でもなく天吏と答えていたろうという理屈です。

・有献不死之薬於荊王者。謁者操以入。中射之士問曰、食乎。曰、可。因奪而食之。王怒、使人殺中射之士。中射之士使人説王曰、臣問謁者、謁者曰、食。臣故食之。是臣無罪、而罪在謁者也。……(戦国策・楚四)
(▼不死の薬を荊王に献ずる者有り。謁者操(と)りて以て入る。中射の士問ひて曰はく、「食らふべきか。」と。曰はく、「可なり。」と。因りて奪ひて之を食らふ。王怒り、人をして中射の士を殺さしむ。中射の士人をして王に説かしめて曰はく、「臣謁者に問ふに、謁者曰はく、「食らふべし。」と。臣故に之を食らふ。是れ臣に罪無くして、罪は謁者に在るなり。……」と。)
(▽不死の薬を荊王に献上する者がいた。取り次ぎの役人が手に取って入った。中射の士が問うた、「食べられるか。」(取り次ぎの役人が)言った、「食べられる。」そこで(中射の士は)奪ってそれを食べた。王が怒り、人に中射の士を殺させようとした。中射の士は人に王に説かせて言った、「私が取り次ぎの者に問うと、取り次ぎの者は「食べてよい」と言いました。私はだからそれを食べました。これは私に罪はなく、罪は取り次ぎの者にあるのです。…)

「不死の薬」の逸話として有名な話で、『韓非子・説林上』にも同じ話が見える例です。
この話は、一般に中射の士の「可食乎」は「食べることができるか」という意味、謁者の「可食」は「食べてよい」の意に解釈されていて、「可」が可能と許可の意味をもつがゆえに成立する話になっています。
しかし、「食」の主体、すなわち「誰が食べるか」を問題にしない表現であったために成立するとも言えます。
中射の士はこの不死の薬が「食べる」に可であるかと問いかけ、「食べる」に可であると回答を得たと主張したのであって、「誰が」は問題にされていなかったからです。
もし中射の士が「可以食乎」と問いかけていたら、謁者はその主体が中射の士であると認識して、「不可」と答えていたはずです。

さて、ここからはあくまで私の推論になりますが、「A可B」のAがBの主体を表さず客体を表すのが本来であったとして、しかし実際に主体を表す例が見られるわけですが、Aが主体なのか客体なのかを明確にするには、「A可以B」の形式で表現するという方法があったのではないかと思うのです。
つまり、「A可B」の曖昧さを回避する表現として「A可以B」が用いられるようになった。
「A可以B」は、後に述べるように、「以」の賓語が何であるか特定しにくい例も見られるようになるのですが、それでも「可以」の形をとることで、Aが主体であることを明確にすべく機能したのではないかと思うのです。

一般に「可以」の「以」は虚化されて具体的な意味がないことが多いと説明されます。
太田辰夫『中国語歴史文法』(朋友書店2013)にも「しかしながら《以》の意味のほとんどみとめられないものも古代にある。」と述べられています。
岩波文庫の『荀子』(金谷治,岩波文庫1961)の「勧学篇」冒頭が、「君子曰わく、学は已むべからず。」と「以」を不読にしているのも、そうした判断に基づくものでしょうか。

・弱固不可以敵強。(孟子・梁恵王上)
(▼弱きは固より以て強きに敵すべからず。)
(▽弱いものはもちろん強いものに敵対できない。)

この例なんかは、拙著では「『以』の前置詞としての働きは明らかにすでに虚化されていて、『可』単独と同じ意味を表していると考えたほうがよい」などと不用意に述べているのですが、「弱いものは、もともと『その弱さゆえに』強いものに敵対できない」と解することができなくもありません。

しかし、確かにこの「以」の意味をこれと特定しにくい例はたくさんあります。

・二三子可以賀我矣。(国語・晋語五)
(▼二三子以て我を賀すべし。)
(▽あなた方は私を祝ってくれるがよい。)

たとえばこの例の場合は、「以」の意味をあえて入れれば、「あなた方は『その立場で』私を祝ってくれるがよい」とでも補うしかないでしょうか。
しかし、それはかなり無理があります。
そもそもこのような場合に「以」を用いる意味はどこにあるかと考えてみれば、あるいは先に述べたように「A可以B」のAがBの主体を表すという本来の働きを利用したものではないでしょうか。

ここまでの推論をまとめると、「A可B」は原則としてAがBの客体を表す表現であるが、主体と解さざるを得ない実例が見られる。
それは、「A可B」のAが必ずしもBの客体を表すと限定されないものとしての用法もあったことを示す。
一方、「A可以B」はもともと「以」がAもしくはAの性質や事情を賓語とするために、一般にAはBの主体を表す表現であった。
「A可B」がもともと主体が何かを示す表現ではないためにもつ曖昧さを回避するために、主体がAである時は「A可以B」の表現をするようになった。

これはあくまで推論に過ぎないし、そしてそう言い切ってしまえるなら楽なのですが、実はまだよくわからないのです。

そもそもこのエントリーの初めに触れた次の言葉、

・学不可以已。(荀子・勧学)
(▼学は以て已(や)むべからず。)
(▽学ぶことはやめてはいけない。)

「学」は「已」の対象ではないでしょうか?

・由此観之、学不已、明矣。(淮南子・脩務訓)
(▼此に由りて之を観れば、学の已むべからざること、明らかなり。)
(▽このことから考えると、学問のやめてはいけないことは、明らかである。)

この例にも見られるように、「学問はやめてはならない」なら、「学不可已」となるべきはずではないでしょうか。
「学、人不可以已」(学問については、人はやめてはいけない)の「人」が省略されたものだと説明することもできないわけではないようにも思えますが。
しかし、そのような曖昧なことでは、先の推論は根底から崩れてしまうことになります。

「可」と「可以」… いよいよもってわからない、それが正直な気持ちです。

四端の説:「治天下、可運之掌上」の「之」は「丸いもの」か?・3

(内容:孟子の「不忍人之心」章に見られる「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかについて考察するとともに、「可」「可以」の用法について考える、その3。)

『孟子・公孫丑上』「不忍人之心」章の「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかという問題を考えていく過程で、はからずも「可」の用法の方にシフトしております。
正直いってわからない、難しいが本音の状態なのですが、これについて考察されたものはないか探してみることにしました。

すると、西田太一郎の『漢文の語法』に次の『孟子・公孫丑下』の文が引用され、説明がありました。

・斉人伐燕。或問曰、勧斉伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕可伐与、吾応之曰、可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之、則将応之曰、為天吏則可以伐之。……
(▼斉人燕を伐つ。或ひと問ひて曰く、斉に勧めて燕を伐たしむること、諸(これ)有りやと。曰く、未だしきなり。沈同問ふ、燕伐つべきかと、吾之に応へて曰く、可なりと。彼然うして之を伐つなり。彼如(も)し孰(たれ)か以て之を伐つべきと曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、天吏たらば則ち以て之を伐つべしと。…)
(▽斉国が燕国を討伐した。ある人が孟子に尋ねて、「あなたは斉に勧めて燕を討伐させたそうだが、そういうことがありましたか」。孟子「そうとはいえないのである。沈同が『燕は伐ってもよろしいか』と問うたので、わたしはそれに答えて『よろしい』と言った。彼はかくして燕を伐ったのである。彼がもし『だれが燕を伐ってもよろしいか』といったならば、これに答えて『天命を受けた役人すなわち天子であったならば、これを伐ってもよろしい』と言ったであろう。……」。)…読みと訳は西田氏による

この例文について、次のように西田氏は述べています。

さて可と可以との区別であるが、右の文に見えるように、天吏が燕国を伐つとして、伐つ側の天吏を主語とするときは「天吏可以伐之」となり、伐たれる側の燕を主語とするときは「燕可伐」(「燕可伐与」はその疑問形)となる。
「爵禄可辞也、白刃可踏也」(爵禄も辞退することができるのである。白刃も踏むことができるのである。中庸)、「事未可知」(事態はどうなるかまだわからない。史記、陸賈伝)、「狼子不可養、後必為害」(狼の子は養ってはいけない、のちに必ず害を起こすであろう。蜀志、関羽伝注引蜀記)、「天下可運於掌」(天下は掌上で物をころがすように容易に治めることができる。孟子、梁恵王上)、「秦虎狼之国、不可親也」(秦は虎や狼のような国で、親しむことはできないのである。史記、蘇秦列伝)などは、すべて行為の対象となるものを主語とした場合で、この場合は「可」だけである。
ところが「五十者可以衣帛矣」(五十歳の者は絹の着物を着ることができる。孟子、梁恵王上)、「徳何如則可以王矣」(徳がどのようであれば王者になることができるか。同)、「如此然後可以為民父母」(このようであって始めて民の父母たる天子となることができる。同下)など
(中略)の「可以」は行為者を主語として書いた場合である。…読みやすくするために文ごとに改行しました。

要するに、

・「可」は行為の対象となるものを主語とする。
・「可以」は行為者を主語とする。

に尽きる説明です。
しかし、なにゆえそのような別があるのかについては説明されていません。
そしてなにより私が気になったのは、上記の説明に続く、次の部分です。

「汝可疾去」と「君可以去矣」とはどう異なるか。
この場合は異ならない。
つまり「可以」は省略されて「可」だけになることがあるのである。
「及平長、可娶妻。富人莫肯与者」(陳平が一人前になって、妻をめとってよい年ごろになったが、金持ちには、娘をやることを承知する者はいなかった。史記、陳丞相世家)も「可以娶妻」とあってもよいのが「可娶妻」となっているのである。
それに反して「可」だけでよいものは原則として「可以」となることはない。


つまり行為者を主語として「可以」が用いられる文も、「以」を省略して「可」のみの場合もあるというのです。
これではもう「可」と「可以」の別は半分なくなったようなものです。
そもそも「汝可疾去」という文が「汝可以疾去」の省略形というのも、あくまで西田氏個人の判断で何だか怪しいような気がします。

しかしここで考えあぐねてしまいました。
事実として「汝可疾去」(あなたは逃げるがよい)という文があり、「汝」は行為の対象ではなく、行為者です。
念のため、本文にあたってみることにしました。
なぜなら、一見行為者が主語のように見えても、実はそうともいえない文例に出会っていたからです。

・夫人有徳於公子、公子不可忘也。公子有徳於人、願公子忘之也。(史記・魏公子列伝)
(▼夫れ人公子に徳有れば、公子忘るべからざるなり。公子人に徳有らば、公子の之を忘るるを願ふなり。)
(▽そもそも人があなたに対して恩義を与えてくれることがあれば、あなたは忘れてはいけません。あなたが人に対して恩義を与えることがあれば、あなたがそれを忘れることを願います。)

この例の場合、一見すれば「不可忘」の主語は行為者の「公子」に見えます。
しかし、よく読めば、前句を受けて、「『人から受けた恩義は』公子不可忘也」であって、いわば「徳」が大主語にあたることがわかります。
これは西田氏の言葉を借りれば「行為の対象」にあたります。
このような場合の「公子」を小「主語」と捉えてよいのかどうかはまた解釈の分かれるところかも知れませんが、少なくとも「忘」の客体「徳」が主語とみなすことはできそうです。

さて、「汝可疾去」の本文にあたってみましょう。

・公叔座召鞅謝曰、「今者王問可以為相者。我言若。王色不許我。我方先君後臣。因謂、王即弗用鞅、当殺之。王許我。汝可疾去矣、且見禽。」(史記・商君列伝)
(▼公叔座鞅を召し謝して曰はく、「今者(いま)王以て相たるべき者を問ふ。我若(なんぢ)を言ふ。王色我に許さず。我方(まさ)に君を先にし臣を後にす。因りて王に謂ふ、王即(も)し鞅を用ゐずんば、当に之を殺すべしと。王我に許す。汝疾(と)く去るべし、且(まさ)に禽(と)らへられんとす」と。)
(▽公叔座は商鞅を呼び謝って言うことには、「今、王は宰相に相応しい者を問われた。私はお前(の名)を言った。王の様子は私(の言)を許されなかった。私はまさしく主君を先にし臣下を後にする。そこで言った、王がもし商鞅を用いられないのでしたら、これを殺すべきですと。お前は早く逃げるがよい、捕らえられるだろう。)

この「汝可疾去」の文について、隠された「可疾去」の大主語がありはしないかと考えてみました。
これはかなり強引なのですが、「王がおまえを殺すつもりである国」とはいえないでしょうか。
そんな国は「疾く去る」に対して可であると解するわけですが。

しかし見ため上はあくまで「汝可疾去」であって、これを「行為の対象」が主語とするにはこのような無理な説明が必要になります。

ちなみに、西田氏が引いた「君可以去矣」の例は、同じ『史記』にあり、

・及袁盎使呉見守、従史適為守盎校尉司馬。乃悉以其装齎置二石醇醪。会天寒、士卒飢渇。飲酒酔、西南陬卒皆臥。司馬夜引袁盎起曰、「君可以去矣。呉王期旦日斬君。」(史記・袁盎晁錯列伝)
(▼袁盎(ゑんあう)の呉に使ひして守せらるるに及び、従史適(たまたま)盎を守する校尉司馬たり。乃ち悉く其の装齎(さうし)を以て二石の醇醪(じゆんらう)を置く。会(たまたま)天寒く、士卒飢渇す。酒を飲みて酔ひ、西南陬の卒皆臥す。司馬夜袁盎を引き起こして曰はく、「君以て去るべし。呉王旦日君を斬るを期す」と。)
(▽袁盎が呉に使いして監禁された時、従史(=もと袁盎のお付きの下級役人)はたまたま袁盎を監視する校尉の司馬となっていた。そこで従史は身のまわりの品を売り払って二石(=約40リットル)の上等の濁り酒を買い込んだ。ちょうど寒い季節で、士卒たちは飢え渇いていた。酒を飲んで酔っ払い、西南の隅にいた兵卒もみな寝てしまった。司馬(=もとお付きの下級役人)は夜袁盎を引き起こして言うことには、「君はお逃げになった方がよい。呉王は明日あなたを斬るご予定です」と。)

この従史は、袁盎が呉の丞相であった頃に袁盎の妾と密通していたけれども、袁盎はそれを知りながら見て見ぬふりをしていました。
そればかりか、ある者がすでに袁盎がそのことを知っていると従史に告げ、従史が故郷に逃げ帰ろうとした時も、袁盎が自ら追いかけていって連れ戻し、一切咎めなかったという過去があります。
その恩義ゆえに袁盎を助けたわけです。

従史はいきなり袁盎を起こして、その第一声が「君可以去矣」です。
その事情である呉王が明日殺すつもりであることは、その後に述べています。
この状況では、『商君列伝』の際のような解釈はできません、すなわち「君」が紛れもない主語であり、「可以」の用いられ方として順当な用法ということになります。

もし、この例文が「呉王期旦日斬君」を先にとっていたら、「君可以去矣」は「君可去矣」と表現できるのか?
それとも、西田氏の言うように、仮にそう表現されても「以」が省略されているだけなのか。

私的にはどうも「以」が省略されているだけというのはストンと落ちず、そもそも「可~」と「可以~」については、「可」のもつ主語の曖昧さが問題になっているような気がしてなりません。

まだまだ謎はつきません。

四端の説:「治天下、可運之掌上」の「之」は「丸いもの」か?・2

(内容:孟子の「不忍人之心」章に見られる「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかについて考察するとともに、「可」「可以」の用法について考える、その2。)

前エントリーで私は、『孟子・公孫丑上』「不忍人之心」章の「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかという問題提起をし、一般に「丸」とされることに疑問を呈し、寄生形式名詞「之」の働きから考えて、「治天下」であろうと結論づけました。
それについてもはや学友と呼びたいN氏がツイッターでさっそく意見付けをしてくださいました。
ツイッターを利用していないために、部分的にしか読めないのですが、まずかったなあ…という思いを禁じ得ませんでした。

というのは、私の本題は非寄生態の「之」が前後に何も述べられていない状態で「特定の何か」を指すことなどないのではないかというところにあったのですが、図らずも「可」の用法に踏み込んでいて、その部分についての不見識をさらすことになったからです。

「可」は中国の語法学では助動詞(能願動詞)とされ、本来は動詞であり、賓語として謂語構造、謂賓構造をとるとされます。
この考え方が無意識に頭の中で働いていました。
つまり、「可A」(Aすべし)を「Aすることを可能とする・許す」、「可AB」(BをAすべし)を「BをAすることを可能とする・許す」と考えていたということです。
まずかったなあ…と思ったのは、「可」が本当にそういう働きの語であるかどうかに最近引っかかっていたのに、不用意に述べたからです。

引っかかっていたというのは、「『可』は下の客語に対して『可』であるといふ意で依拠性である。」と松下大三郎氏が『標準漢文法』に述べられていたことが気になっていたのです。
松下氏はいわゆる形容詞を一品詞とすることを認めず、動詞としていることもあり、「可」についての記述を読み、前記のことが気になりながら、「可」を狭義の動詞と思い込んだ状態が解けないでいたというべきでしょうか。

しかし考えてみれば、「可」の字は「口でよろしいという」が原義で、転じて「よい・よろしい」の意の形容詞となったものでしょうから、虚化して助動詞になったとて、その働きが大幅に変わるものとは思えません。
つまり、「可A」(Aすべし)は、「べし」と訓じてはいるけれども、「Aすることに対して可である」の意であって、それが「Aしてよい・Aすることができる」と意訳されるわけです。
したがって、謂賓構造の「可AB」(BをAすべし)も、「BをAすることに対して可である」の意です。

この「可」の用法を不用意にいわゆる動詞として述べたために、前エントリーはおかしな内容になってしまいました。

「可」が依拠性の語であるということについて、松下氏は次の例を挙げています。

・知不可乎驟得託遺響於悲風。(蘇軾「赤壁賦」)
(▼驟(にわ)かに得べからざるを知り遺響を悲風に託す。)
(▽(仙人のように明月を抱いて永遠の時を生きたいが)急には得られないことであるので、消えることのない響きを悲しげに吹く風に託したのだ。)

氏は「『不可』の下に『乎』が有ることは『不可』の依拠性たることを示すものである」と述べます。
つまり、「『驟得』に対して可ではないことを知り」の意だということになります。
もっともよくこの例を挙げられたと驚くばかりで、私の手元のデータベースでは、「乎」や「於」の後に名詞が置かれた例は見つけられても、いわゆる動詞が置かれる例は見当たりませんでした。

ただ、名詞を伴う例を見ると、

・故譬三皇五帝之礼義法度、其猶柤梨橘柚邪。其味相反而皆可於口
(▼故に三皇五帝の礼義法度を譬ふれば、其れ猶ほ柤梨橘柚のごときか。其の味は相反すれども皆口に可なり。)
(▽だから三皇五帝の礼義や法度をたとえれば、柤(さんざし)(なし)(たちばな)(ゆず)のようなものか。その味は互いに反するがみな口によろしい。)

「可於口」は、「口に対して可である」と、「可」が依拠性であることを示すし、これが助動詞として働く時にも同様の性質があるのではないかとも思えます。

さて、「可」の働きを以上のように理解した上で、前エントリーを振り返ってみると、なんともすっきりするというか、逆にややこしいというか、わかるようなわからないようなことになりました。

①胡可伐。(韓非子・説難)
②可伐胡。
③胡可伐之。

この3つの表現、特に②と③の漢文があり得るとすればという仮定になりますが。
①は、胡は「伐つ」に可なりで、「胡」は「可伐」の主語です。
②は、「胡を伐つ」に可なりで、主語は明示されていませんが、誰か「伐つ」人などがそれにあたるでしょうか。

ところが、③は、胡は「之を伐つ」に可なりですが、この「之」は何を指すのでしょうか。
つまりは「治天下、可運之掌上」の構造に迫ることになります。
「胡はそれを攻めてよい」と訳せば、「それ」を「胡」を指すとして通るような気もしますが、あえて「胡は胡を攻めてよい」と「之」の指示内容を置き換えて訳すとおかしな訳になることに気づきます。
N氏がこのことをおっしゃっていたのかどうかは、よくわからないのですが、もし③のような表現が成立するとすれば、「之」が「胡」を指すとは思えなくなります。

「胡は之を伐つべし」を「胡は之を伐つに可なり」と読みかえて、その意味するところを考えてみれば、「之」は「胡」に限定されるものではなく、「伐」の対象、すなわち攻める国一般を指すのではないかと思えてきます。
つまり、「胡は、国を攻めるその国として可なり」です。
あくまで③のような表現があるとすればの話ですが。
この場合の「之」の用法は非寄生態の「之」になるのかもしれません。

これを「治天下、可運之掌上」の文で考えてみることにします。
「天下を治むること、之を掌上に運らすに可なり」となります。
つまり、「天下を治めることは、之を手のひらの上でめぐらすことに対して可なり」です。
「之を手のひらの上でめぐらす」が思い通りであること、容易であることの喩えなら、「天下を治めること」は、それに対して可、つまり該当することを指す表現といえるでしょう。
ということはつまり?
「之」の指す内容は「治天下」ではなく容易に手のひらの上で転がせるものなら何でもよく、その代表格は丸いものとなるとなるのでは?
ただし、「之」は非寄生態の「之」だと思え、「丸」に限定されるものではありません。

N氏の呟きから、もう一度「之」と「可」について考えてみました。
これは以前の「所」と同じで、頭の中でああでもない、こうでもないと思考の堂々巡りをしています。
前エントリーに挙げたその他の例も検討し直さなければなりません。

私の思考の過程を示していますので、またぞろ考えが変わってしまうかもしれませんが。

四端の説:「治天下、可運之掌上」の「之」は「丸いもの」か?・1

(内容:孟子の「不忍人之心」章に見られる「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかについて考察するとともに、「可」「可以」の用法について考える、その1。)

久しぶりに『孟子・公孫丑上』の「不忍人之心」章を授業で扱うことになりました。
あらためて教科書の文章をながめていると、色々と疑問に思うことがあります。
これからそれについて考えてみたいと思います。

今回は疑問点の1つめです。

・以不忍人之心、行不忍人之政、治天下、可運掌上。
(▼人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之を掌上に運(めぐ)らすべし。)
(▽他人の不幸を見過ごしにできない心によって、人民の不幸を見過ごしにできない政治を行えば、天下を治めることは、これを手のひらの上でめぐらすことができる。)

この「可運之掌上」の「之」は何を指すのでしょうか。

もう何十年も前に、高等学校の先生方の前で、この「不忍人之心」章の公開授業を行ったことがありますが、その後の研究会で、授業中に私が「之」の指示内容を「治天下」であると生徒に答えさせ、その通りであると説明したことに対して、誤りであると指摘された先生がありました。
では何を指すのかと私が問い返すと、その先生は「丸いもの」だと答えられました。
つまり、丸いものを手のひらの上で転がすように容易という意味なのだと。
その先生がなぜ「丸いもの」とおっしゃったのかは私にはわかっていて、その意味で他の先生とは異なり、教養があり研究熱心な先生なのだろうと思いはしたのですが、この指摘は私にはどうしても飲み込めませんでした。

その先生が「可運之掌上」の「之」を「丸いもの」とおっしゃったのには、学術的な裏付けがあります。
後漢の趙岐がこの箇所につけた注は、次のようになっています。

・先聖王推不忍害人之心、以行不忍傷民之政、以是治天下、易於転丸於掌上也(十三経注疏・孟子)
(▼先の聖王人を害ふに忍びざるの心を推して、以て民を傷つくるに忍びざるの政を行ふ、是を以て天下を治むれば、丸を掌上に転がすより易きなり。)
(▽先代の聖王は人をそこなうに忍びない心を押し広めて、人民を傷つけるに忍びない政治を行った、これで天下を治めれば、丸いものを手のひらの上で転がすより易しいのである。)

ここで趙岐は「可運之掌上」を「転丸於掌上」と説明しています。
高等学校の先生が「之」を「丸いもの」とおっしゃったのは、それをご存じだったからでしょう。
その意味で教養があり研究熱心な先生だと前述したわけです。
しかし、そう認めることと「之」が「丸」であるとすることとは別の問題です。

今あらためてこれについて考えてみようと、手元の参考書を見てみました。

『新釈漢文大系4 孟子』(明治書院1962)は、「天下を治めることなどの容易さは、あたかも手のひらに丸い物をのせてころがすほどに、たやすいことである。」と訳し、「丸いものを、てのひらに載せて、ころがすということで、物事をなすのがきわめて容易なことを形容した言い方である。」と注します。
この注は、孟子の本文の「之」が「丸いもの」を指すと解釈されてもしかたのない説明かなと思います。

『岩波文庫 孟子』(小林勝人,岩波書店1968)は、「天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。」と訳しています。

『全釈漢文大系2 孟子』(集英社1973)は、「天下を治めることなど、手のひらで物を転がすように容易である。」と訳し、「手のひらで転がすことができる。つまり容易なこと。」と注しています。

『漢詩・漢文解釈講座7 思想Ⅲ 諸子』(昌平社1995)は、「天下を治めることは、手のひらの上で物をころがすように容易である。」と訳し、「つまり容易なこと、物事を自由にできることのたとえ。『掌』は、手のひら。」と注し、この句とほぼ同じ表現が『孟子』に見えることを指摘しています。

『研究資料漢文学1 思想1』(明治書院2003)は、「天下(人民)を治めること(など)、物を手のひらの上で転がすように極めてたやすいことである。」と訳し、「物を手のひらの上で転がすように極めてたやすいことである。極めて容易にできることのたとえとして、常套的な表現。」と注し、同様の例が他に『孟子』『論語』に見られることを述べています。

私が見られる限りの現行の書籍では、「之」の指示内容を明確に述べたものはなく、訳や注からは「丸いもの」を指すかのような記述になっています。

古い参考書もいくつか目を通しましたが、概ね同様の記述です。
唯一、簡野道明『孟子通解』(明治書院1925)のみが、「天下なりと雖も、之を治むることの極めて容易なることは、猶ほ之を掌の上に自由に運転せるが如きを得ん。」と述べていて、丸いものなど何か別のものを指すかのような記述ではありませんでした。
文脈的には「之」の指示内容は「之を治むることの極めて容易なること」になるかと思いますが、明確にそう述べられているわけではありません。

江戸以前の書も一応見てみましたが、これについて触れてあるものは見つかりませんでした。
また、中国の諸注釈も目を通しましたが、「之」が何を指すかについてはっきり述べてあるものはなく、概ね何かものを手のひらの上で転がすように容易だという説明ばかりでした。
高等学校の教科書指導書にはどう説明されているか引用したいところですが、検索エンジンのペナルティを考えると、やめておいた方がよいように思われます。
おそらく大丈夫だろうと思う一社のみ紹介すると、「世の中を統治することは、手のひらの上で物を転がすように容易である。」と訳し、「『運』はころがすという意味。『掌』はてのひらのこと。物をてのひらで転がすようにたやすいという意味。『不忍人之心』による政治を行うと、なぜ天下を容易に治められるかは書かれていないが、『不忍人之心』によって、人々の心も自然と政治を信頼するようになるのである。」と注されていて、やはり「之」が直接なにを指すかについては触れてありません。

いったい「之」という語が、前にも後にも述べられていない「特定のもの」(ここでは「丸」)を指すということなどあるのでしょうか。
中国の語法学では一般に「之」は人や事物を指す代詞とみなされ、日本の辞書の中にもそう述べられているものがいくつかあります。

しかし、「之」の働きは「是」や「此」などの代詞とは明確に異なり、それ自体に実質的な意味はなく、前後に述べられた語や語句、あるいは文を指してそれ自体に実質的な意味を補います。
たとえば、

・范増数目項王、挙所佩玉玦、以示者三。(史記・項羽本紀)
(▼范増数(しばしば)項王に目し、佩ぶる所の玉玦を挙げて、以て之に示す者三たびす。)
(▽范増は何度も項王に目配せし、腰につけた玉玦を持ち上げて、これに示すことが三度であった。)

の場合、「示之」の「之」は「これ」と訓じてはいますが、それ自体には実質的な意味はなく、前の「項王」によって意味が補われて実質化しています。
これがもし「示此」や「示是」であれば、すでに示す対象が「項王」であることは明らかなのに、「項王に目配せし、…この人に示す」と表現することになり、不可能ではないものの極めて不自然でくどい表現になってしまいます。
「此」「是」がもつ近称の代詞としての実質的な意味が邪魔をするからです。
本邦の辞書にも、「之」を人称代詞、指示代詞と説明してあるものが複数ありますが、本来そのような語ではないと思います。
この例は「項王に目配せし、…示すことが三度であった」と訳す方がむしろ文意に近いでしょう。

このような「之」の働きを松下大三郎は「寄生」といい、「之」を寄生形式名詞として、代名詞「此」「是」と明確に区別しています。

一方、松下氏は寄生形式名詞「之」の2つめの用法として、「非寄生態」を指摘しています。

・知者不如好者。好者不如楽者。(論語・雍也)
(▼之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。)
(▽知るは好むに及ばない。好むは楽しむに及ばない。)

この例の場合、「これを知る」「これを好む」「これを楽しむ」と読んではいますが、「之」は前後のなにものにも寄生していません。
いわば「知る」もの、「好む」もの、「楽しむ」ものなら何でもいいわけです。
これが「之」の非寄生態です。
しかし、非寄生態の「之」が前後に何も述べられていない状態で「特定の何か」を指すことなどあり得ないでしょう。

「治天下、可運之掌上。」は、先に引用した参考書にも指摘してあるように、同様の表現が同じ『孟子』の中に見えます。

・老吾老、以及人之老、幼吾幼、以及人之幼、天下可運於掌(孟子・梁恵王上)
(▼吾が老を老として、以て人の老に及ぼし、吾が幼を幼として、以て人の幼に及ぼさば、天下掌に運らすべし。)
(▽自分の老者(=たとえば父母)を老いたるものとして(敬し)、他人の老者に(その心を)及ぼし、自分の幼者(=たとえば子供)を幼いものとして(慈しみ)、他人の幼者に(その心を)及ぼせば、天下は手のひらでめぐらすことができる。)

この例とても「物を掌上にのせてころがすようなものだ」(『新釈漢文大系4 孟子』)と訳してあったりするのですが…
しかし、この文をわかりやすく理解するために「物を掌上にのせて」と喩えて説明することはあっても、さすがに「物」にあたる語が文中にあるとは言えないでしょう。
そして、この例は「手のひらでめぐらす」という表現に「之」が必ずしも要らないことを示してもいます。

「天下可運於掌」という文において、「天下」は「可運」の客体、すなわち「めぐらされるもの」に相当します。
この「天下」のような語を現在の語法学では一般に受事主語といいますが、本来客体として「運」の後に置かれる語が、作用の客体の提示として前に置かれたものです。
謂語が「可A」(Aすべし)である時、Aの客体をBとすると、一般に「可AB」(BをAすべし」という形はあまりとらず、「B可A」(BはAすべし)という形をとります。
たとえば、

・敗不可処、時不可失、忠不可棄、懐不可従。(国語・晋語4)
(▼敗は処(を)るべからず、時は失ふべからず、忠は棄つべからず、懐は従ふべからず。)
(▽敗れた国はいてはいけないし、時機は失ってはいけないし、忠義は捨ててはいけないし、私欲は従ってはいけない。)

この「敗」「時」「忠」「懐」はみな謂語の客体ですが、提示語として句頭に置かれています。
「時機を失ってはいけない」というのはよくある表現ですから、「不可失時」を検索にかけてみると、私のデータベースではわずか2例がヒットしました。
1例を挙げると、

・君急使使載幣陰迎孟嘗君、不可失時也。(史記・孟嘗君列伝)
(▼君急ぎ使ひをして幣を載せて陰(ひそ)かに孟嘗君を迎へしめよ、時を失ふべからざるなり。)
(君は急ぎ使者に贈り物を積んで孟嘗君を迎えさせませ、時機を失ってはいけません。)

一方、「時不可失」は50例以上がヒットし、この表現の方がよく用いられることがわかります。
だから謂語が「可A」(Aすべし)である時は、Aの客体Bは「B可A」(BはAすべし)の形をとるのだと言われるのですが、私はその傾向はあるにせよ、「不可失時」と「時不可失」は、そもそも意味するところが異なるのではないかと思っています。

「不可忘初心」(初心を忘るべからず)は語法的におかしい、それは「初心不可忘」というべきだと説かれているのを見たことがありますが、「不可忘初心」という表現が決して無理ではないことは、先の『史記・孟嘗君列伝』の例がはっきり示しています。
これは表現意図が異なるのであって、「不可忘初心」は単純に「初心」が「初めの心」という意味をもつと同時に、「忘」の後に置かれることで客体としての働きを示しています。
しかし、「初心不可忘」の場合は、その本来賓語として「忘」の後に置かれる「初心」が、謂語の前に提示され「『初めの心を』について」と、「不可忘」を修飾する形で用いられているものだと思います。

教科書によく取られている次の文も、

・胡可伐。(韓非子・説難)
(▼胡伐つべし。)

「可伐胡。」(胡を攻めるのがよい。)と表現できないわけではないけれども、「胡可伐。」と賓語「胡」を提示して、「『胡を』について攻めてよい。」という意味を表すのが本来だろうと思います。
「胡をば」と訳す方が自然かもしれませんが。

その意味で、このような「胡」は受事主語とされるけれども、本当のところは賓語を述語の前に提示したものでしょう。

さらに、「可A」からなる謂語の前にAの賓語Bを提示する時、謂語の後にBに寄生する「之」を置くこともあります。

・大木不可加薄牆之上。(管子・八観)
(▼大木は之を薄牆の上に加ふべからず。)
(▽大木はそれを薄い土塀に加えることはできない。)

・青荓予譲可謂友也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼青荓予譲は之を友と謂ふべきなり。)
(▽青荓と予譲はこれを友といえるのだ。)

これらの例の場合、「加」「謂」の賓語「大木」「青荓予譲」が謂語の前に提示されていますが、謂語の後の「之」は明らかに「大木」「青荓予譲」を指しています。
「治天下、可運之掌上。」の例も含めて、謂語の依拠性、生産性に対する客体を別にとっているもので、あるいはそういう場合の表現方法なのかもしれません。
ですが、「之」は、もちろん、前にも後にも述べられていない「特定のもの」を指してなどはいませんし、「丸」を指すなどということがあろうはずもありません。

「天下可運於掌」と表現することも可能なことについて、「治天下、可運之掌上」と表現した場合、「之」が前にも後にも述べられていない「特定のもの」、すなわち「丸」を指すというのは、どう考えてもおかしい。
私は「之」は、「治天下」を指しているのだと思います。

あるいは、あまりにも自明であるがゆえに、誰も述べていないだけなのかも知れませんが。


(※例によって、上記の思考および結論はいったん取り下げ、次エントリーで新たな見解を述べています。)

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