四端の説:「治天下、可運之掌上」の「之」は「丸いもの」か?・2
- 2022/09/26 07:41
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:孟子の「不忍人之心」章に見られる「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかについて考察するとともに、「可」「可以」の用法について考える、その2。)
前エントリーで私は、『孟子・公孫丑上』「不忍人之心」章の「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかという問題提起をし、一般に「丸」とされることに疑問を呈し、寄生形式名詞「之」の働きから考えて、「治天下」であろうと結論づけました。
それについてもはや学友と呼びたいN氏がツイッターでさっそく意見付けをしてくださいました。
ツイッターを利用していないために、部分的にしか読めないのですが、まずかったなあ…という思いを禁じ得ませんでした。
というのは、私の本題は非寄生態の「之」が前後に何も述べられていない状態で「特定の何か」を指すことなどないのではないかというところにあったのですが、図らずも「可」の用法に踏み込んでいて、その部分についての不見識をさらすことになったからです。
「可」は中国の語法学では助動詞(能願動詞)とされ、本来は動詞であり、賓語として謂語構造、謂賓構造をとるとされます。
この考え方が無意識に頭の中で働いていました。
つまり、「可A」(Aすべし)を「Aすることを可能とする・許す」、「可AB」(BをAすべし)を「BをAすることを可能とする・許す」と考えていたということです。
まずかったなあ…と思ったのは、「可」が本当にそういう働きの語であるかどうかに最近引っかかっていたのに、不用意に述べたからです。
引っかかっていたというのは、「『可』は下の客語に対して『可』であるといふ意で依拠性である。」と松下大三郎氏が『標準漢文法』に述べられていたことが気になっていたのです。
松下氏はいわゆる形容詞を一品詞とすることを認めず、動詞としていることもあり、「可」についての記述を読み、前記のことが気になりながら、「可」を狭義の動詞と思い込んだ状態が解けないでいたというべきでしょうか。
しかし考えてみれば、「可」の字は「口でよろしいという」が原義で、転じて「よい・よろしい」の意の形容詞となったものでしょうから、虚化して助動詞になったとて、その働きが大幅に変わるものとは思えません。
つまり、「可A」(Aすべし)は、「べし」と訓じてはいるけれども、「Aすることに対して可である」の意であって、それが「Aしてよい・Aすることができる」と意訳されるわけです。
したがって、謂賓構造の「可AB」(BをAすべし)も、「BをAすることに対して可である」の意です。
この「可」の用法を不用意にいわゆる動詞として述べたために、前エントリーはおかしな内容になってしまいました。
「可」が依拠性の語であるということについて、松下氏は次の例を挙げています。
・知不可乎驟得託遺響於悲風。(蘇軾「赤壁賦」)
(▼驟(にわ)かに得べからざるを知り遺響を悲風に託す。)
(▽(仙人のように明月を抱いて永遠の時を生きたいが)急には得られないことであるので、消えることのない響きを悲しげに吹く風に託したのだ。)
氏は「『不可』の下に『乎』が有ることは『不可』の依拠性たることを示すものである」と述べます。
つまり、「『驟得』に対して可ではないことを知り」の意だということになります。
もっともよくこの例を挙げられたと驚くばかりで、私の手元のデータベースでは、「乎」や「於」の後に名詞が置かれた例は見つけられても、いわゆる動詞が置かれる例は見当たりませんでした。
ただ、名詞を伴う例を見ると、
・故譬三皇五帝之礼義法度、其猶柤梨橘柚邪。其味相反而皆可於口。
(▼故に三皇五帝の礼義法度を譬ふれば、其れ猶ほ柤梨橘柚のごときか。其の味は相反すれども皆口に可なり。)
(▽だから三皇五帝の礼義や法度をたとえれば、柤(さんざし)梨(なし)橘(たちばな)柚(ゆず)のようなものか。その味は互いに反するがみな口によろしい。)
「可於口」は、「口に対して可である」と、「可」が依拠性であることを示すし、これが助動詞として働く時にも同様の性質があるのではないかとも思えます。
さて、「可」の働きを以上のように理解した上で、前エントリーを振り返ってみると、なんともすっきりするというか、逆にややこしいというか、わかるようなわからないようなことになりました。
①胡可伐。(韓非子・説難)
②可伐胡。
③胡可伐之。
この3つの表現、特に②と③の漢文があり得るとすればという仮定になりますが。
①は、胡は「伐つ」に可なりで、「胡」は「可伐」の主語です。
②は、「胡を伐つ」に可なりで、主語は明示されていませんが、誰か「伐つ」人などがそれにあたるでしょうか。
ところが、③は、胡は「之を伐つ」に可なりですが、この「之」は何を指すのでしょうか。
つまりは「治天下、可運之掌上」の構造に迫ることになります。
「胡はそれを攻めてよい」と訳せば、「それ」を「胡」を指すとして通るような気もしますが、あえて「胡は胡を攻めてよい」と「之」の指示内容を置き換えて訳すとおかしな訳になることに気づきます。
N氏がこのことをおっしゃっていたのかどうかは、よくわからないのですが、もし③のような表現が成立するとすれば、「之」が「胡」を指すとは思えなくなります。
「胡は之を伐つべし」を「胡は之を伐つに可なり」と読みかえて、その意味するところを考えてみれば、「之」は「胡」に限定されるものではなく、「伐」の対象、すなわち攻める国一般を指すのではないかと思えてきます。
つまり、「胡は、国を攻めるその国として可なり」です。
あくまで③のような表現があるとすればの話ですが。
この場合の「之」の用法は非寄生態の「之」になるのかもしれません。
これを「治天下、可運之掌上」の文で考えてみることにします。
「天下を治むること、之を掌上に運らすに可なり」となります。
つまり、「天下を治めることは、之を手のひらの上でめぐらすことに対して可なり」です。
「之を手のひらの上でめぐらす」が思い通りであること、容易であることの喩えなら、「天下を治めること」は、それに対して可、つまり該当することを指す表現といえるでしょう。
ということはつまり?
「之」の指す内容は「治天下」ではなく容易に手のひらの上で転がせるものなら何でもよく、その代表格は丸いものとなるとなるのでは?
ただし、「之」は非寄生態の「之」だと思え、「丸」に限定されるものではありません。
N氏の呟きから、もう一度「之」と「可」について考えてみました。
これは以前の「所」と同じで、頭の中でああでもない、こうでもないと思考の堂々巡りをしています。
前エントリーに挙げたその他の例も検討し直さなければなりません。
私の思考の過程を示していますので、またぞろ考えが変わってしまうかもしれませんが。
前エントリーで私は、『孟子・公孫丑上』「不忍人之心」章の「治天下、可運之掌上」の「之」が何を指すかという問題提起をし、一般に「丸」とされることに疑問を呈し、寄生形式名詞「之」の働きから考えて、「治天下」であろうと結論づけました。
それについてもはや学友と呼びたいN氏がツイッターでさっそく意見付けをしてくださいました。
ツイッターを利用していないために、部分的にしか読めないのですが、まずかったなあ…という思いを禁じ得ませんでした。
というのは、私の本題は非寄生態の「之」が前後に何も述べられていない状態で「特定の何か」を指すことなどないのではないかというところにあったのですが、図らずも「可」の用法に踏み込んでいて、その部分についての不見識をさらすことになったからです。
「可」は中国の語法学では助動詞(能願動詞)とされ、本来は動詞であり、賓語として謂語構造、謂賓構造をとるとされます。
この考え方が無意識に頭の中で働いていました。
つまり、「可A」(Aすべし)を「Aすることを可能とする・許す」、「可AB」(BをAすべし)を「BをAすることを可能とする・許す」と考えていたということです。
まずかったなあ…と思ったのは、「可」が本当にそういう働きの語であるかどうかに最近引っかかっていたのに、不用意に述べたからです。
引っかかっていたというのは、「『可』は下の客語に対して『可』であるといふ意で依拠性である。」と松下大三郎氏が『標準漢文法』に述べられていたことが気になっていたのです。
松下氏はいわゆる形容詞を一品詞とすることを認めず、動詞としていることもあり、「可」についての記述を読み、前記のことが気になりながら、「可」を狭義の動詞と思い込んだ状態が解けないでいたというべきでしょうか。
しかし考えてみれば、「可」の字は「口でよろしいという」が原義で、転じて「よい・よろしい」の意の形容詞となったものでしょうから、虚化して助動詞になったとて、その働きが大幅に変わるものとは思えません。
つまり、「可A」(Aすべし)は、「べし」と訓じてはいるけれども、「Aすることに対して可である」の意であって、それが「Aしてよい・Aすることができる」と意訳されるわけです。
したがって、謂賓構造の「可AB」(BをAすべし)も、「BをAすることに対して可である」の意です。
この「可」の用法を不用意にいわゆる動詞として述べたために、前エントリーはおかしな内容になってしまいました。
「可」が依拠性の語であるということについて、松下氏は次の例を挙げています。
・知不可乎驟得託遺響於悲風。(蘇軾「赤壁賦」)
(▼驟(にわ)かに得べからざるを知り遺響を悲風に託す。)
(▽(仙人のように明月を抱いて永遠の時を生きたいが)急には得られないことであるので、消えることのない響きを悲しげに吹く風に託したのだ。)
氏は「『不可』の下に『乎』が有ることは『不可』の依拠性たることを示すものである」と述べます。
つまり、「『驟得』に対して可ではないことを知り」の意だということになります。
もっともよくこの例を挙げられたと驚くばかりで、私の手元のデータベースでは、「乎」や「於」の後に名詞が置かれた例は見つけられても、いわゆる動詞が置かれる例は見当たりませんでした。
ただ、名詞を伴う例を見ると、
・故譬三皇五帝之礼義法度、其猶柤梨橘柚邪。其味相反而皆可於口。
(▼故に三皇五帝の礼義法度を譬ふれば、其れ猶ほ柤梨橘柚のごときか。其の味は相反すれども皆口に可なり。)
(▽だから三皇五帝の礼義や法度をたとえれば、柤(さんざし)梨(なし)橘(たちばな)柚(ゆず)のようなものか。その味は互いに反するがみな口によろしい。)
「可於口」は、「口に対して可である」と、「可」が依拠性であることを示すし、これが助動詞として働く時にも同様の性質があるのではないかとも思えます。
さて、「可」の働きを以上のように理解した上で、前エントリーを振り返ってみると、なんともすっきりするというか、逆にややこしいというか、わかるようなわからないようなことになりました。
①胡可伐。(韓非子・説難)
②可伐胡。
③胡可伐之。
この3つの表現、特に②と③の漢文があり得るとすればという仮定になりますが。
①は、胡は「伐つ」に可なりで、「胡」は「可伐」の主語です。
②は、「胡を伐つ」に可なりで、主語は明示されていませんが、誰か「伐つ」人などがそれにあたるでしょうか。
ところが、③は、胡は「之を伐つ」に可なりですが、この「之」は何を指すのでしょうか。
つまりは「治天下、可運之掌上」の構造に迫ることになります。
「胡はそれを攻めてよい」と訳せば、「それ」を「胡」を指すとして通るような気もしますが、あえて「胡は胡を攻めてよい」と「之」の指示内容を置き換えて訳すとおかしな訳になることに気づきます。
N氏がこのことをおっしゃっていたのかどうかは、よくわからないのですが、もし③のような表現が成立するとすれば、「之」が「胡」を指すとは思えなくなります。
「胡は之を伐つべし」を「胡は之を伐つに可なり」と読みかえて、その意味するところを考えてみれば、「之」は「胡」に限定されるものではなく、「伐」の対象、すなわち攻める国一般を指すのではないかと思えてきます。
つまり、「胡は、国を攻めるその国として可なり」です。
あくまで③のような表現があるとすればの話ですが。
この場合の「之」の用法は非寄生態の「之」になるのかもしれません。
これを「治天下、可運之掌上」の文で考えてみることにします。
「天下を治むること、之を掌上に運らすに可なり」となります。
つまり、「天下を治めることは、之を手のひらの上でめぐらすことに対して可なり」です。
「之を手のひらの上でめぐらす」が思い通りであること、容易であることの喩えなら、「天下を治めること」は、それに対して可、つまり該当することを指す表現といえるでしょう。
ということはつまり?
「之」の指す内容は「治天下」ではなく容易に手のひらの上で転がせるものなら何でもよく、その代表格は丸いものとなるとなるのでは?
ただし、「之」は非寄生態の「之」だと思え、「丸」に限定されるものではありません。
N氏の呟きから、もう一度「之」と「可」について考えてみました。
これは以前の「所」と同じで、頭の中でああでもない、こうでもないと思考の堂々巡りをしています。
前エントリーに挙げたその他の例も検討し直さなければなりません。
私の思考の過程を示していますので、またぞろ考えが変わってしまうかもしれませんが。