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2020年10月の記事は以下のとおりです。

「豈若~哉」はどういう意味か?

(内容:柳宗元『捕蛇者説』に見られる「豈若吾郷隣之旦旦有是哉」は「あに~ごとくならんや」と読まれているが、「あに~しかんや」と読んではいけないのか?違いはあるのか考察する。)

柳宗元の『捕蛇者説』にある、一つの表現について同僚から質問を受けました。

・豈若吾郷隣之旦旦有是哉。

この文を教科書では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや。」と読んであるのですが、なぜ「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若(し)かんや。」ではないのかという問いかけです。
指導書にはどう説明してあるのかと思ってみると、数研出版の教科書だったので(本校では毎年教科書会社を変えています)、なんと書いたのは私でした。
もう随分前のことになるのですが、このように記しています。

どうして私の村の隣人たちが毎日この死の危険があるのと同じであろうか(いや、同じではない)。「豈若~哉」は意味的に「不若~」と同じになり、したがって本文は「不若吾郷隣之旦旦有是」(私の村の隣人が毎日これがあるのと同じではない)と内容的に同じになる。「若~」(~のようである)の形は、ここでは「~と同じである」と訳した。「是」の指示内容は、死の危険を冒すことを指す。蔣氏の場合は蛇捕りによる危険だが、ここでは村人の租税を納めるための過酷な労働と飢餓による死の危険を冒すことをいう。

古典中国語文法を本格的に学び始めた比較的初期の頃の記述ですが、あえてその立場を抑えて書いていた記憶があります。
しかし、「豈に~に若かんや」という読みについては言及していません。

この教科書では先行する『論語』教材に、微子篇の長沮と桀溺の話を取り上げていて、その中に、

・而与其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉。
(▼而(なんぢ)其の人を辟(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや。
 ▽お前も、つまらぬ人を避けて立派な人を選んで仕えようとする人に従うより、俗世を避けて隠棲する人に従う方がよい。)
 …読みと訳は数研出版『改訂版 古典B 漢文編』による

という文が出てきて、「与其A、豈若B哉」(其のA(せ)んよりは、豈にB(する)に若かんや)の形を、「A(する)よりも、B(する)方がよい。」と「句法」「選択」として取り上げているのですから、『捕蛇者説』で同じ「豈若~哉」の形が出てきて、違う訳をしているのを「あれ?」と思う先生方があったとして当然です。
それなのに、それについて何も触れないでいたというのは、書き手の私自身が大いに反省しなければならないことでした。

ただ、同僚の質問を受けながら、しかし「若」を「ごとシ」と読むか「しク」と読むかは、日本人がそう読み分けているだけで、それほど違いがあるだろうかという思いをもっていました。
また、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや。」ではないのかという同僚の疑問は、「豈若~哉」が「豈に~に若かんや」に傾く用法ではないのかという先入観があって、「豈に~のごとくならんや」の読みに違和感を感じられたものなのではという気もしました。

「若」は「如」と字義の通じる字で、「しなやかで、言いつけに従順である」が原義の字です。
言いつけ通りにすることから、「似る」という意味が生まれたものだと思います。
また、さらにその似た状態に及ぶという意味から、「及ぶ」という意味をもつものだと考えられます。
この「似る」の方を「ごとシ」、「及ぶ」の方を「しク」と訓読したわけです。
「A若B」(A Bのごとし)は、「AはBのようである」とか「AはBと同じである」とか訳しますが、「AがBの状態に及ぶ」と捉え直してみれば、「似る」と「及ぶ」が実は根を同じにしているのがわかると思うのです。
つまり、「AがBに似た状態に及ぶ」です。

ですから、これを打ち消した表現「A不若B」(A Bに若かず)は、「AはBに及ばない」と訳して、比較を表す形として教えますが、これとて、「AはBの状態に似ない」ことから、そこまで及ばないという意味を表すわけです。

また、「A不若B」のABが動詞の場合、「AするはBするに若かず」と読んで、「AするよりBする方がよい」とか「Bする方がましだ」とか訳して、選択の形として、これまた別扱いをしますが、本来はやはり「AすることはBすることに及ばない」で、Aする行為の妥当性がBする行為の妥当性に似た状態に至らないことを表す表現だと思います。

しかし、たとえば次の例、

・棄身不如棄酒。(説苑・敬慎)
(▼身を棄つるは酒を棄つるに如かず。)

を、「身を棄てるのは酒を棄てるのに及ばない」と訳すと、何だかよくわからない訳になります。
斉の桓公が、大臣管仲のために酒宴を用意し、正午を約束の時刻としたのに、管仲が遅刻しました。
桓公は杯を挙げて酒を飲ませましたが、管仲はそれを半分で棄ててしまう。
桓公が「約束して遅刻し、飲んで酒を棄てるというのは、礼において許されるのか」と詰問すると、管仲は「酒が入ればおしゃべりになり、おしゃべりになれば失言をし、失言すれば身は破滅です」とした上で、言った言葉がこの「棄身不如棄酒」です。

実は、この『説苑』の文章は、以前どこかの大学の入試に出題されていて、

[ A ]不如[ B ]。

と空欄になっていて、ABにあてはまる語句を選ばせる問題になっていました。
これをかつて200人ほどいた生徒たちに入れさせてみると、半分ほどの生徒が逆に答えてしまったのです。
つまり、「棄酒不如棄身」が正しいと思ったわけですね。
確かに、「A不如B」を「AすることはBすることに及ばない」と訳すと、酒を棄てることと身を棄てることを、重大性の観点から比較すれば、身を棄てることの方が上ですから、このように間違ってしまうわけです。
これを妥当性の観点から比較すれば、酒を棄てる方が妥当だとすぐわかるのですが、なかなかそういうふうには考えられないわけで、その意味で「AするよりBする方がよい」という訳は、意訳ではあるけれども、誤解を防ぐ効果はあるわけです。
どちらの方がよいかと考えれば、「身を棄てるより酒を棄てる方がよい」は簡単に導けますからね。

さて、本題に戻って、「豈若~(哉)」という表現は、「どうして~に及ぶだろうか」ではなく、「どうして~のようであろうか」としか訳しようがない例はあるか、探してみました。

1.予豈若是小丈夫然哉。(孟子・公孫丑下)
(▼予豈に是の小丈夫のごとく然らんや。
 ▽私はどうしてあの小人物のようにそうであろうか。)

2.微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之為諒也、自経於溝涜、而莫之知也。(論語・憲問)
(▼管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒(まこと)を為すや、自ら溝涜に経(くび)れて、之を知る莫きがごとくならんや。
 ▽管仲がいなかったら、(今頃)我らは髪を結わず着物を左前にしていただろう(=夷狄に征服されていただろう)。どうして男女が信義を立てて、自ら溝の中で首をくくって死に、誰もそれを知らないことのようであろうか。)

3.凡治身養性、節寝処、適飲食、和喜怒、便動静、使在己者得、而邪気因而不生、豈若憂瘕疵之与痤疽之発、而予備之哉。(淮南子・詮言訓)
(▼凡そ身を治め性を養ひ、寝処を節し、飲食を適にし、喜怒を和らげ、動静を便にし、己に在る者をして得しめば、邪気因りて生ぜず、豈に瘕疵と痤疽の発するを憂へて、予め之に備ふるがごとくならんや。
 ▽そもそも身体を整え本性を養い、寝起きを節制し、飲食を適切にし、喜怒の感情をやわらげ、動静を滞りなくさせ、自分に備わるものに適切を得させれば、邪気はそれにより生じないものだ、どうして傷やできものが発生するのを苦にして、あらかじめ備えるのと同じであろうか。)

やはり、「どうして~に及ぶだろうか」と訳した方がわかりやすい例が多いのですが、探せば上のように、そうは訳せない例は見つかります。

1の例は、孟子自身は小人物だとは思っていないのですから、「小人物に及ばない」方向では訳せません。

2の例は、管仲が桓公を覇たらしめ、そのおかげで夷狄から人々を守ったのであって、その功績ははかりしれない、そういう流れで、男と女が義理立てして心中するのとの比較で「及ばない」の方向では解し得ません。

3も、体や精神を涵養する本来のあり方が、傷やできものへの処し方に「及ばない」という解釈はできません。

要するに、「豈若B哉」は意味的に「不若B」と同じですが、そのBと比べられる内容をAとして、AがBより比較基準において下である場合は、「豈にBに若かんや」「Bに若かず」と読み、「及ばない」意に解することになります。
また、AがBより上である場合には、「豈にBのごとくならんや」「Bのごとくならず」と読むしかなく、「Bのようではない」とか「Bと同じではない」と訳すことになりますが、「Bどころではない」ぐらいの意味にとればわかりやすくなるわけです。

いずれにしても、「若」や「如」は、「ごとシ」「しク」と読み分けはしても、根本は「似る」という近似の義で、「及ぶ」であっても「似た状態に及ぶ」だと考えれば、「豈若~哉」や「不若~」の読み分けは、それほど大きな意味をもたないことがわかるのではないでしょうか。

さて、『捕蛇者説』に戻って、該当箇所の前の部分は次の通り。

・悍吏之来吾郷、叫囂乎東西、隳突乎南北。譁然而駭者、雖鶏狗不得寧焉。吾恂恂而起、視其缶、而吾蛇尚存、則弛然而臥。謹食之、時而献焉。退而甘食其土之有、以尽吾歯。蓋一歳之犯死者二焉。其余則熙熙而楽、…
(▽荒々しい役人が私の村に来ると、四方にわたって喚きちらし暴れ回ります。がやがやと(騒いで村人が)驚き恐れることは、鶏や犬でさえ落ち着いていられないほどです。私はびくびくしながら起き上がり、その(=蛇の入った)かめの中を見て、私の蛇がまだいれば、ほっとして寝床に戻ります。慎重に(蛇の)世話をして、納入すべき時が来たら(役所に)献上するのです。(蛇を納入し終えて)役所から帰ってその土地の産物をおいしく食べ、そのようにして私の天寿をまっとうします。およそ一年のうち死の危険を冒すことは二回だけです。それ以外の時はゆったりと楽しみます、…)

この後に、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」と続くわけですが、「有是」とは、「死の危険がある」という意味です。
つまり単純には、蛇捕りの蔣氏は年に2回死の危険があるけれども、村人は毎日その危険があるという、2つのことを比較しているわけです。
普通、『捕蛇者説』のこの部分は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや」と読まれていますが、その意味では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや」と読んでもよいことになります。
それは死の危険の頻度を比較の基準において、村人の方が蔣氏よりもはるかに上回るからです。
ですが…

「豈」は、疑いを設けてみる副詞で、「どう?」とか「どうであろう?」と置き換えて読んでみると、意味がよくわかります。
「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのと同じか?」と「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのに及ぶか?」は、それほど違うでしょうか?
後に想起されることばは、「同じはずがない」「及ぶはずがない」ですが、要するに「到底及ばない」ということではありませんか。

結論として、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は、「豈に~に若かんや」とも読めるけれども、「豈に~ごとくならんや」と読んでも、別におかしくはない、ただ「ごとシ」「しク」と読み分けをしているから起こる混乱なのだと思います。

使役文は兼語文か?・4

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その4。)

松下大三郎氏が、「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠に挙げられた2件の事情を借りて、前エントリーまでに、いわゆる使役文を兼語文とする定説に疑問を呈してみました。
「使」は直後の名詞と強く結びつくが、その名詞が後の動詞の主語として機能しているという考え方への不審です。
主語であればその直後に「而」が置かれるのはなんだか不自然だし、「之」を主語と認めることも「之」本来の働きからすれば例外的な取り扱いになるからです。
使役文を兼語文として説明することは通説だし、確かにわかりやすいのですが、そういう問題をもっていることを示してみたのです。

ところで、松下氏は、さらに3つめの問題を提示しています。
断っておきますが、兼語文に対してではなく、あくまで「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠です。

3 漢王使酈食其已説下斉。(史記・淮陰侯列伝)

明治書院の『新釈漢文大系 史記』では、「漢王、酈食其をして已に説きて斉を下らしむ」と読み、「漢王が酈食其に交渉させて斉を降伏させた」と訳してあります。
この例文について、松下氏は次のように述べています。

又右の例の(3)は「已」を「使」の上に置かずに「説」の上に置いてある。「使」を「しむ」と解すれば「已に説いて斉を下さしめたり」といふことを酈食其にさせる意となる。「已」といふ字の性質上そんなことは言へない。「使」を「被」に換へて「人被盜賊已偸物」などと云ひ得るものではない。

もし「使」が「~させる」という意味であれば、「すでに完了したこと」をさせるというのは確かにおかしいわけです。

他にも似たような例があります、たとえば、

・遼使劉六符謂賈昌朝曰、~。(宋史・河渠志五)
(▼遼 劉六符をして嘗て賈昌朝に謂はしめて曰はく、~。
 ▽遼は劉六符にかつて賈昌朝に~と言わせたことがある。)

便宜的に上のように読んでみましたが、「賈昌朝に謂ひて曰はしめ、」と読むべきかもしれません。
この例も、「かつて賈昌朝に言ったことがある」ということを「させる」と解してはおかしくなってしまいます。

そもそも次の2文はどちらも成立します。

a.漢王使酈食其説下斉。

b.漢王使酈食其説下斉。

bは、漢王の酈食其への使役行為がすでに完了したことを表しますが、aは酈食其の交渉による斉の降伏が完了したことを表すことになります。

これは、この使役文を兼語文として説明する上では、もしかしたら問題ないのかもしれません。
つまり、「漢王が酈食其を使役し、使役される酈食其がすでに交渉して斉を降伏させた」という説明になるわけですね。
じゃっかん違和感を感じますが、そういう表現もありなのだということなら。

ところが、兼語文に反対の立場への検討には意味がありそうです。
呂冀平は、使役文を、「主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造」であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
しかし、これはもう松下氏が指摘している通りで、「使」の賓語が「酈食其已説下斉」になってしまい、すでに完了している行為を「させる」ことになってしまいます。
明らかにおかしいと言えるでしょう。

また、「主語+謂語+賓語+補語」の構造であるとする説の場合、「酈食其已説下斉」は補語とみなされ、謂語「使」を後置修飾することになるわけですが、さてどうでしょうか。
松下氏が言う修飾形式動詞は、「下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する」ものですから、「意義が実質化する」という表現を「補語」の働きと考えれば、一見似た説明のようにも見えます。
しかし、この補語とする考え方は、「使」を「使役する」と捉え、その具体的な行為内容を補うということですから、「酈食其 使(し)て」が方法を示し「説下斉」を修飾して使動態ならしめるという考え方とは大きく異なるものだと思います。
この「主語+謂語+賓語+補語」の構造とする説も、結局のところは完了した行為をもって謂語「使」を修飾するものと見るわけですから、やはりどこか不自然に感じます。

私的には、「A使BC」は、AがBシテ、その結果Cが使動態になるという考え方が一番しっくり来るような気がします。
「A使B而C」の構造は、「使B」が使役という方法を表して「而」と共にCを修飾して使動態たらしめるわけですから、「而」に不自然さはありません。
また、「A使B已C」も、Aにさせられて、BがすでにCさせたと動作を完了するわけですから、問題はありません。
そして、この考え方に従えば、「Cさせる」という動作も、実際行動CをするのはBであっても、本来の主語はAだと考えればよいのだろうと思います。
途中で主語が入れ替わると考える必要があるのでしょうか。

「A命BC」は、「ABに命じてCせしむ」と読み、よく「行為の結果使役に読む形」と説明されますが、AがBに命じるという方法の結果、Cが使動態になるという意味では、実はこちらの読み方の方がいいのかもしれません。
また、「命」が本動詞で形式的な意味のみを表す「使」と異なるだけですから、「A使BC」も「A Bし(使)てCせしむ」と読む方が実は妥当なのかもしれません。

使役文は兼語文という通説を、頭から否定するわけではありませんが、それを是として教えもし書きもしている立場にあるなら、通説が本当に正しいのだろうか?と疑ってみる視点はあってよいのだと思い、書いてみました。

使役文は兼語文か?・3

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その3。)

松下大三郎氏の『標準漢文法』において、「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠として、2つめに指摘されていることは、いわゆる兼語として用いられる字に、主語たりえない語があるということです。

「王使人学之。」(王が人にこれを学ばせる。)という文なら、前々エントリーでも示したように、

王使
  学之。
       兼語

と、前文の賓語にして後文の主語を兼ねる兼語「人」は、理屈の上で何ら矛盾なく説明できます。
しかし、これが「王使之学之。」という文であればどうなるでしょうか。
松下氏は次の文例を挙げて説明しています。

2 且天之生物也使一本。而夷子二本故也。(孟子・滕文公上)
(▽そもそも天が物を生じるにはこれに根本を一つにさせる。しかし、夷子は根本を二つにするから(間違うの)である。)

   故深折其少年剛鋭之気、使忍小忿而就大謀。(蘇軾「留侯論」)
(▽だからその若さ(ゆえ)の気性の激しさをくじき、これに小さな怒りを我慢させて(秦を倒す)大きな謀につかせたのである。)

参考のための口語訳は私がつけましたが、この2文について、氏は、

之を「天にして珠を雨せ使(シ)む」と解することの出来ない證據には(2)の例に「使」の下に「之」が有る。「之」は客格が有るだけで主格はない詞であるから「使之」は「之を使て」と解する以外には解し樣がない。

と述べています。

使役文の兼語が「之」、すなわち「A使之B」(Aが之にBさせる)の形をとる例は、上の2例に限ったことではなく、多くの用例があります。
いくつか取り上げてみましょう。

・故聖人為法、必使明白易知。(商君書・定分)
(▼故に聖人法を為るに、必ず之をして明白にして知り易からしむ。
 ▽だから聖人が法を制定する時は、必ずこれ(→法)に明白でわかりやすくさせる。)

・遂使行成於呉。(国語・越語上)
(▼遂に之をして成(たひらぎ)を呉に行わしむ。
 ▽こうしてこれ(→大夫種)に講和を呉に行わせた。

・子謂薛居州善士也、使居於王所。(孟子・滕文公下)
(▼子は薛居州は善士なりと謂ひて、之をして王の所に居らしむ。
 ▽あなたは薛居州は善良な士だと言って、これに王の居られるところにいさせた。)

・孺悲欲見孔子。孔子辞以疾。将命者出戸。取瑟而歌、使聞之。(論語・陽貨)
(▼孺悲孔子を見んと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将(おこな)ふ者戸を出づ。瑟を取りて歌ひ、之をして之を聞かしむ。
 ▽孺悲が孔子に会おうとした。孔子は病気を理由に断った。口上を伝える使者が戸口を出た。(孔子は)瑟をとって歌い、これ(→使者)にこれを聞かせた。)

探せばいくらでも例は見つかります。
これらはすべて兼語が「之」で、「使之」の形をとるものです。
たとえば最後の例を兼語文として説明すると、「(孔子)使之聞之」は、「孔子が之を使役し、之がこれを聞く」となり、つまり、この文は「孔子使之」(孔子が之を使役する)と「之聞之」(之がこれを聞く)の2文を認めることになります。

孔子使
   聞之。
           兼語
しかし、「之聞」(之が聞く)などという主述文はあり得るでしょうか。

「之」は代詞とされ、「これ」と読みますが、同じ「これ」と読む「此」とはずいぶん違います。
「此」は近称の代詞として、主語にも謂語にも賓語にも用いられ、事態を直接指示する、いわゆる直指の語です。
だから、たとえばすぐそばにあるものを指して、「此が~」と主語として示すことができます。

一方、「之」は間接指示とされ、常に前もしくは後に述べられるものと併用されることによって、初めて機能します。
ちなみに松下氏は「之」を寄生形式名詞として、「自己の補充語としてでない他語に寄生して自己の形式的意義を実質化する形式名詞である」と述べています。
形式的な語であるから、動詞の後に、他動詞であることを示すべく、具体的な指示内容をもたない賓語として穴埋めに置けるわけです。
そして「之」は「之を」とか「之に」など賓語として用いられることはあっても、「之が」という主語になることはないはずの語です。

「之」が主語として用いられている例を探すなどというのはもう大変な作業になるので、さすがに行う気にはなれません。
牛島徳次氏の『漢語文法論(古代編)』(大修館書店1967)には、『史記』の次の例を示しています。

・左師触龍言願見太后、太后盛気而胥入。(史記・趙世家)
(▼左師の触龍太后に見えんことを願ふ、太后気を盛んにして之が入るを胥(ま)つ。
 ▽左師の触龍が太后にお目通りすることを願った、太后は興奮してこれが入るのを待った。)

これについて、牛島氏は、「次の用例は極めて特殊なものである。」とした上で、

この文中の「之」は,「主述句」の主語に該当するもので,原則的には当然「胥其入」となるべきものである。

として、『史記』の中で「之」と「其」が混同して用いられたものと解しています。
しかし、氏が引用したこの例はおそらく「太后盛気而胥之。入。」と区切るべきもので、『史記会注考証』ではそのように考察されています。
つまり、「太后は興奮してこれを待った。(左師は)入った。」ではないかというわけです。
瀧川資言がこのように考証したのも、「之」がこのような用いられ方をする語ではないからだと思います。

一方で、「A使之B」の例は非常に多く見られます。
屁理屈をこねることになるかもしれませんが、「之」は主語としては用いられないが、兼語文における後文の主語にはなり得ると言ってしまえばそれまでのことです。
実際、虚詞詞典を見ていると、そういう記述も見られます。
たとえば、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、次のように述べられています。

在句中只限于做动词或介词的宾语,可以在兼语式中作兼语(既做前面动词的宾语,又作后面动词的主语),但极难见到它作主语。
(文中で動詞や介詞の賓語となるに限られ、兼語式の中で兼語(前の動詞の賓語となり、かつ後の動詞の主語となる)になることができる、ただそれが主語となるのは極めて見つけることが困難である。)

つまりは主語としては用いられないが、兼語文の後の主語にはなり得るというわけです。
そういう語だと定義してしまえば、そういう語ということになってしまいます。

兼語文という考え方は後付けのものです。
「前の文の賓語が同時に後の文の主語となり、その語を介して1文化する」という考え方を提示したがために、「之」の主語にはなり得ない性質をも、兼語だからそれはいいのだという説明をしたことにはならないでしょうか。
兼語文という考え方が登場するはるか大昔から、文は文としてあり、「之」は「之」として働いていたと思うのです。

疑問と違和感はいっそう深まります。

使役文は兼語文か?・2

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その2。)

兼語文という文の構造を最初に指摘したのは王力だといいます。
鳥井克之氏の『中国語教学(教育・学習)文法辞典』によれば、

 1940年代初めに王力(1943)は

およそ文中に(一部が重なりあった)二つの〈連繋(主述句など)〉を含み、その最初の主述句の一部分あるいは全部が次の主述句の主語となりたるものは〈逓繋式〉という。

と説明して「兼語句」の原型を初めて提起した。

とあります。
続いて、

 1950年直前に高名凱(1949)は

若干の動詞文において、最初の動詞的機能を具えた単語の後の名詞的機能を具えた単語が、動詞的機能を具えた単語の目的語であり、また次の動詞的機能を具えた単語の主語である。このような動詞文は〈兼語式動句〉という。

と王力の説を支持した説明を行った。

と記されています。
「兼語」ということばを最初につかったのは、高名凱だということですね。

さらに、張志公等の説を紹介した上で、

 その後に丁声樹等(1960)は

〈兼語式〉の特徴は二つの主述句が相互に一部が重なって一体化していることである。…… このように目的語と主語を兼ねたものを〈兼語〉という。〈兼語〉を含んだ〈句法( 構文・シンタックス・統語法)〉を〈兼語式〉という。

と現在の定義の枠組みを築いた。

とあります。

これ以降、今に至るまで、使役文に見られるような形式を兼語文として取り扱うのが普通になっているわけです。

これに対して、異論がないわけではなく、たとえば史存直は、このような兼語文という考え方を科学的ではないとして、主語+謂語+賓語+補語の構造であるとし、また、呂冀平は、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
他にもいくつか異論があるようです。

なるほど、次のような例の場合、いろいろな見方ができるわけです。

・王使人学之。(韓非子・外儲説左上)
(▼王人をして之を学ばしむ。
 ▽王が人にこれを学ばせる。)

これを兼語文と説明するしくみについては、前エントリーで述べました。
しかし、「王が人を使役し、使役される人がこれを学ぶ」のように、「王」が主語である一文の中で、突然主語が「人」に変わるというのは、私が当初感じていたように違和感のある説明になります。

史存直は「学之」を動賓構造「使人」に対して補語として位置づけ、人をどのようにさせるのかという内容を補う語句として説明したわけです。

また、呂冀平は「王使」が主語+謂語で、「人学之」をその賓語とみなしたことになります。
しかし、主謂賓語なら、その賓語をより名詞句として明示するために「人之学之」の形をとれるはずですが、普通はそういう形をとりません。
これは、主謂間に「之」が置かれることで、文の独立性が取り消され、名詞句という強い結びつきを作ってしまうからです。
つまり、「人之学之」は「人がこれを学ぶこと」という意味になってしまうわけです。
一方、「使」は直後の名詞と強く結びついているために、「A使BC」は、「使B+C」であって、「使+BC」ではありません。
先に引用した『中国語教学(教育・学習)文法辞典』には、「発音上の停頓は兼語文では最初の述語動詞の直後、すなわち述目句の中間に置くことができ」ないと述べられています。
したがって、もし「王が人にこれを学ばせる」という意味の文なら、「王使人之学之」という構造はとれないことになります、理屈の上では。

ところが、実際の用例を見てみると、次のようなものが見つかります。

・不能使人不加諸我、此古人所難。(晋書・裴秀列伝)
(▽人にそれを自分に加えないようにさせられないのは、これは古人の難しいとしたことである。)

・蓋尊其君父、亦将使人尊己也。(明史・薛蕙列伝)
(▽およそ自分の主君や父を尊ぶものは、また人に自分を尊ばせるだろう。)

おそらく( )内のような意味だと思いますが、これらの文の構造をどのように考えればいいのかは、まだ先の検討課題です。
現時点では、「之」を特殊な用法とみなすべきではなく、また兼語文で説明できる構造でもないと思っていますし、「使」自体がその語以上に意味を含んでいるのではないかと考えていますが。
ただ、こういう例があるというのは、一般に兼語文とされる使役構文を、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造だと説明するには一つの論拠になるのかもしれません。
しかし例はあるものの、やはり「使」は直後の名詞と強く結びつくのが普通だと思います。
ですから、この使役文をいわゆる主謂賓語の構文とする考え方には抵抗を感じてしまいます。

さて、話を最初に戻して、使役文を一般に兼語文とする考え方は、異論はあるものの、ほぼ定説と考えてよいと思います。
ですから違和感を感じながらも、私もそのように教え、そのように説明してきたわけです。
ところが、この春、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んでいた時、「使」の働きについて述べてある項にさしかかり、冷や汗が出る思いをしたのです。
氏は、「使」を修飾形式動詞として説明しています。

修飾形式動詞は終止独立して斷句の代表部となることが無く、必ず他語に對して修飾語となり、修飾される詞に由つて實質的意義を得る形式動詞である。

と定義した上で、「使」については次のように述べられています。

使は矢張修飾形式動詞で下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する。

楚數使奇兵渡河撃趙
  ●○○   史記淮陰侯列傳
漢王使酈食其已説下齊
  ●○○○  同
楚亦使龍且、號稱二十萬救齊。
  ●○○    同

の「使」の類だ。下の――を修飾して之にそうさせる意味を帶びしめる。「使」は實質動詞では人を使(つか)ふ意味だが形式動詞では使(つか)ふといふ樣な実質的意味はないから日本讀では之を「して」と讀む。その實質的意義は下の動詞に由つて補はれる。下の動詞はそうさせる意味を帶びるから日本讀では之へ「しむ」を附けて「何々せしむ」と讀む。
「使」には他動性がある。他動性に對する客語は名詞を用ゐる。右の例の○○がそれだ。「使」はその客語と共に連詞的形式動詞となるのである。

つまり、氏によれば、「使奇兵」は「奇兵を使う」あるいは「奇兵に~させる」ではなくて、「奇兵して」になります。
この「使奇兵」が後の「渡河撃趙」を修飾して実質的な意味が補われ、下の動詞「渡」「撃」は使役の意味を帯びることになるわけです。
ですから、この「渡河撃趙」の「渡」「撃」が使動態になっているわけで、これが「渡らせる」「攻撃させる」という意味をもっていることになります。

読みながら、なるほどと思うと同時に、しかしそれは兼語文の説明とそれほど大きく異なるだろうかと思っていたのです。
「奇兵を使役し、その使役される奇兵が河を渡り趙を攻撃する」わけだから、文意としては「奇兵に河を渡り趙を攻撃させる」になる、そのように。
ですが、文意から「渡」「撃」を使役の意に解するのと、「渡」「撃」そのものが使動態になることとは大きな違いがあります。

そこまでは思いを致さずに読み進めていて、次のくだりに出あいました。

「使」を「して」の意とすれば修飾形式動詞だといふことになり、「しむ」の意だとすれば歸著形式動詞だといふことになる。併しそれが前者であることは次の樣な例に由つて證明される。

これは「A使BC」の形をとる使役文を兼語文とはみなせないと言い切ったと同じことになります。
『標準漢文法』が著されたのは昭和2年(1927)で、王力が兼語文の原型を提起する16年前になります。
兼語文という考え方の定着からさかのぼれば50年も前になるわけです。
そんなにも前に、すでに兼語文たり得ない反例を用意していたことになります。

松下氏が挙げた根拠は3つあります。
今回はその1つめを取り上げてみましょう。

1 使天雨珠、寒者不得以為襦。使天而雨玉、饑者不得以為粟。(蘇東坡「喜雨亭記」原文は旧字体、便宜上新字体に改める)

これは「天に珠を降らせても、凍えるものはそれを肌着にすることはできない。天に玉を降らせても、飢えるものはそれを食糧にすることはできない。」という意味です。
これについて、松下氏は、

右の例の(1)は「使」の客語の下に「而」が有る。「使」が「しむ」であつて意味が終止するならば「而」は有り得ない。「而」が有るのは「使」が「して」である證據である。「使天而雨珠」は「天を使而(シテ)珠を雨せしむ」である。

と述べています。
同様の例として、

・秦人不暇自哀而後人哀之。後人哀而不鑑之、亦使後人復哀後人也。(杜牧「阿房宮賦」)

これは「秦の人は自分で哀れむ余裕がなく、後の人がこれを哀れんだ。後の人が哀れんでも、これを手本として反省しなければ、また(さらに)後の人に(この)後の人をまた哀れませることになるのだ」という意味です。

この例も同様に「使」の客語「後人」の後に「而」を伴っています。
他にも例がないかどうか、私もちょっと調べてみました。

・且欲使人避鬼、是即道路不可行、而室廬不復居也。(潜夫論・卜列)
(▼且つ人をして鬼を避けしめば、是れ即ち道路は行くべからずして、室廬は居るべからざるなり。
 ▽その上、人に鬼を避けさせようとすれば、(鬼はどこにでもいるから)道路は歩けないし、部屋はもういることはできない。)

・使宋王寤、子為齏粉夫。(荘子・列禦寇)
(▼宋王をして寤めしめば、子齏粉と為らんかな。
 ▽宋王に目覚めさせたら、あなたは粉々になっていたであろうなあ。)

・不知事者、時未至而逆之、時既往而慕之、当時而薄之、使其民郄之。(呂氏春秋・士容論)
(▼事を知らざる者は、時未だ至らずして之に逆らひ、時既に往きて之を慕ひ、時に当たりて之を薄(かろ)んじ、其の民をして之に郄(おく)らしむ。
 ▽農事を知らないもの(=君主)は、時節がまだ来ないのにこれに逆らい(耕作させ)、時節がすでに過ぎてからこれを後悔し、ちょうどよい時期にこれを軽視し(労役させ)、その民にこれ(=時節)に遅らせる。)

これらの例は、すべて「使」の客語の後に「而」が置かれたもの。
兼語文という考え方自体がまだ存在しなかった時代の話ですから、もちろん松下氏は兼語文を否定したわけではありません。
ですが、「使」が「シテ」であって「シム」ではないという見解は、そのまま「前文の賓語が後文の主語になる」という兼語のしくみを否定することになります。

もし「使天雨珠」であれば、「天を使役し、その使役される天が珠を降らす」と説明することができます。
ですが、「使天而雨珠」は、兼語文の理屈では「使天」と「天而雨珠」の2文を認めることになります。
しかし、「天而雨珠」を「天が珠を降らす」という主語+謂語+賓語の構造とするのは、大変苦しい説明になってしまいます。
同様に、「後人而復哀後人」も、「宋王而寤」も、そのまま「後の人がまた後の人を哀れむ」、「荘王が目覚める」と解するのは、「而」の働きからして苦しいでしょう。

「而」は連詞とされ、通常は句と句、文と文をつなぐ働きをします。
前の内容を受けて、「で」どうであるかを示すのが一般的です。
確かに「而」が、意味上の主語と謂語の間に置かれることもあります。

・管氏知礼、孰不知礼。(論語・八佾)
(▼管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。
 ▽管氏で礼を理解しているなら、誰が礼を理解していないだろう。)

これは一般に「管氏が礼を知るなら」と普通に主述文として訳されたり、「而」に仮定の働きがあるとして「管氏がもし礼を知るなら」と訳されたりもするわけですが、本来は、「管氏」自体に「管氏である」という叙述的な意味が含まれていて、それを「而」が「で」と受けている文だと思います。
つまり、「管氏であって、で、礼を知るなら」という感じでしょうか。

なんにせよ、このような「而」が兼語文の後の主述文に入り得るでしょうか。
「天であって、で、珠をふらす」「荘王であって、で、目覚める」、まあ訳が妙だからわかりにくいのですが、「而」の必要性はないのではありませんか。

その意味で、「天を使而(して)珠を雨せしむ」という考え方は、とても筋が通っている気がするのです。
「使宋王而寤」も「宋王を使而(して)寤めしむ」と考えれば、自然に解することができるように思います。

使役文を兼語文ではないかもしれないという論拠を、松下氏の「使」は「シテ」であり「シム」ではないに求めると、他にも説明すべきことがあるのですが、それは次回に譲りたいと思います。

使役文は兼語文か?・1

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その1。)

前回、「所」が不思議な働きをもつようになった経緯について、参考として太田辰夫氏の説を紹介しました。
その際、「兼語文」という用語が使われていましたが、実はこの兼語文、特に使役の兼語文という形式が、最近ずっと気になっていることの1つなのです。
古典中国語文法によって漢文を見直すようになった最初の時期に、一番驚いたというか違和感を感じたのがこの兼語文でした。

兼語文というのは、たとえば、

・王使人学之。(韓非子・外儲説左上)
(▼王人をして之を学ばしむ。
 ▽王が人にこれを学ばせる。)

のような形式の文で、いわゆる使役の形とされるものがその代表格です。

王使
  学之。
       兼語

前文は、主語「王」+謂語「使」+賓語「人」、後文は、主語「人」+謂語「学」+賓語「之」の構造です。
このように、本来2つの文で、前文の賓語「人」が後文の主語を兼ねるので兼語といいます。
つまり、兼語文とは、2つの文がこの兼語を介して1文になったものになります。
この時、「使人」と「人学之」とは緊密な関係がなければならず、たとえば「我願人知之」(私は人がこれを知ることを願う)などの文は、「私が人に願う」ことと「人がこれを知る」ことには直接的な関係がないので、つまり、たとえば「私が願った」ことで「人が知る」わけではないので、兼語文とはいいません。

概ね、現代中国語でも、古典中国語でも、使役の形は兼語文であると説明されるのが普通で、これを知っていれば、漢文の使役の形はもっとわかりやすく教えられると言われたり、使役の形を構造的に理解できたと生徒を納得させられたりするわけです。
ですから、ある意味、古典中国語文法で漢文を教える道に足を踏み入れると、この兼語文の形式は授業の「花」であったりもします。
最初の違和感は、古典中国語文法に慣れていくにつれて、気にならなくなり、当たり前のように説き、それこそが本当の漢文の構造だと言わんばかりに授業でも説明するようになりました。

その最初の違和感とは何かというと、文の途中で主語が入れ替わることでした。
「王が人を使役し、使役される人がこれを学ぶ」、だから「王が人に学ばせる」という意味になるのだと説明するわけですが、なにゆえそんな妙な構造をとるのか、また言葉としてそういうのは変なのではないのか?と感じたのです。
「王が人に学ばせる」というのは、あくまで王が主語で統一感が感じられますが、兼語文はその持って回った表現が、どうにも違和感を感じて仕方がなかったのです。
しかし、その後、たくさんの中国の語法書を読みましたが、概ねそれが定説です。
ですから、しだいにそういうものだと思うようになりました。

この春、松下大三郎氏の『標準漢文法』に触れる機会があったことは、すでに何度も書いていますが、この時、冷や汗が流れるように感じたのを鮮明に覚えています。

使役の形は兼語文の形式、それを「兼語文」という概念自体がまだなかったはるか昔に、これを兼語文とは認め得ない根拠がすでに示されていたように思えたからです。

テストの採点や校務等があり、なかなか時間はとれなくなるのですが、使役文をこのように捉えるという別の視点を、松下氏の説をご紹介することを通して、みなさまの参考にお示ししてみようかなと思っています。

「所」について・6

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その6。)

長く「所」の用法について考察したことを書いてきました。
途中とんでもない不見識をさらして恥もかいたわけですが、ほとんど四六時中考えていまして、定期試験の監督中にも、食事の際にも、頭の中は「所」字で埋め尽くされていて、本業のテストの採点や生徒指導が思考を中断させるので、イライラさせられたりもしました。
しかし、ようやく恐らく妥当ではないかというところまで来て、ずっと胸につかえていたものが取れた気がして、ほっとしています。

それにしても、ずっと気になっていたのが、そもそも「所」の字が、なにゆえこのような不思議な働きをするのかということでした。

かつて入試問題に次の文が出題されたことがあります。

・思慮無所不至。

これを「しりよのところとしていたらざるはなし。」という訓読にしたがって訓点をつけさせる問題でした。
私なら、「思慮に至らざる所無し」と読みます。
思慮が「所不至」をもたない、から、存在文として、「所不至」が「思慮」に存在しないことを表す形式だからです。
そして「所不至」は、「ソコに至らないソコ」ですから、「至らない場所」です。
「思慮が至らない」のではなくて、「至らない場所が思慮にない」のです。

さて、なぜこんなことを思い出したというか、書いたのかというと、「所」字の用法を調べていて、とても興味深いものを見つけたからです。
太田辰夫氏の『古典中国語文法(改訂版)』(汲古書院1964)所載「論語文法研究」に、次のように述べられています。

「所」字連語の成立について詳細は不明であるが,その発生は「有」「無」を第一動詞とする兼語文を仲介としているらしい。古く「有女懐春」「無草不死」(ともに詩経)のごとき兼語文があるが,この「懐春」「不死」は「女」「草」の修飾語であるようにも感じられる。このような第二動詞が述語と考えられず,修飾語と意識されるばあい,兼語の位置に名詞「所」が用いられることが生じた。論語の用例でも「所」のまえに「有」「無」を用いることがきわめて多く,詩経でも「靡所」(靡=無)という用法が目立っているのはこの発生の経過を示すものであろう。「所」のまえに一般の動詞を用いることは「有」「無」などを用いることの類推により生じたものらしい。また「所」は名詞として修飾語をとることができるが,このような用法が生じてのちは修飾語一般がこれにつくことは意味を不明確にする。そこで,あとの動詞の主体であるもの,すなわち「所」の修飾語として領属関係をあらわす体詞のみが「所」のまえに来ることになったものであろう。

「無A不B」(AとしてBせざるは無し)の形は、高等学校でもちょっと危ない否定の形式として注意喚起します。

・無書不読。(韓愈「登封県尉盧殷墓誌」)
(▼書として読まざるは無し。
 ▽書物で読まないものはない。)

・無草不死。(詩経・小雅「谷風」)
(▼草として死(か)れざるは無し。
 ▽草で枯れないものはない。)

これらは、古典中国語文法では、2つの文が兼語を介して1つになった兼語文とみなしています。
「無書」(書物がない)と「書不読」(書物は読まない)という2つの文が兼語「書」を介して1つになり、「書物は存在せず」、その存在しない「書物」は「読まない」となるので、「読まない書物が存在しない」、つまり「すべての書物を読んだ」という意味になる。
また、「無草」(草がない)と「草不死」(草が枯れない)という2つの文が兼語「草」を介して1つになり、「草が存在せず」、その存在しない「草」が「枯れない」となるので、「枯れない草が存在しない」、つまり「すべての草が枯れる」という意味になるわけです。

ここで確かに「不読」「不死」は、それぞれ意味的に「書」「草」を修飾して、「読まない書」「枯れない草」という意味を表すようにも思えます。

・狂者進取、狷者有所不為也。(論語・子路)
(▼狂者は進取し、狷者は為さざる所有るなり。
 ▽情熱のある者は進んで行動するし、へんくつ者は(自分の嫌なことは)しないことがある。)

・君子無所争。(論語・八佾)
(▼君子は争ふ所無し。
 ▽君子は争うことがない。)

・刑罰不中、則民無所措手足。(論語・子路)
(▼刑罰中(あ)たらざれば、則ち民手足を措く所無し。
 ▽刑罰が適正でなければ、民は手足を置くところがない。)

太田氏が指摘しているように、『論語』には「有所~」の例が4、「無所~」の例は11見られます。
もちろん太田氏はこれらの例を兼語文だと言っているのではありません。
「有所不為」は、「ソレをしないソレがある→しないことがある」。
「無所争」は、「ソレを争うソレがない→争うことがない」。
「無所措手足」は、「ソコに手足を置くソコがない→手足を置く場所がない」という意味です。
これらはいずれも「所」が後の「不為」「争」「措」の客体を表していますが、確かに「しないソレ」「争うソレ」「手足を置くソコ」のように、「不為」「争」「措」が「所」を意味的に修飾しているようにも思えます。
もともと兼語の位置に「所」が置かれた文は、代詞として置かれたものであったかと思いますが、それが意味的に後続する述部の修飾を受けているような印象を与えたのでしょうか。

そういう意味では、「思慮無所不至」を「思慮の所として至らざるは無し」と読んだのは、「所」が動詞の他動性の客体か、依拠性の客体を表す働きをもつ以前の、原初の形を表した読みともいえますが、まさかそういうつもりではなかったのでは?と思います。

5 追記 もしや場所か?

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その5の追記。)

ついさっきのことです。
「所」の最後の例、

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
 ▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)

この「国之所存」の説明がつかず、弱り果てて、また明日考えようと思いながら、手がかりを求めて、この春ご教示を受けたN氏のブログを拝見しました。
この方は松下文法に精通しておられるので、松下文法でわからない時に、時々何か書かれていないかと、ブログを拝見します。
すると、ツイッターで、N氏が私の試論にご教示をくださっていました。
失礼ながら、松下大三郎氏と同様、なかなか難解な説明なので、初めのうち、ボーっとながめているだけだったのですが…

それを見ていて、あっと気づきました。
もしや場所ですか?

西田太一郎氏が「所以」で用いられている「所」として説明されていた例なので、頭から「理由」「事情」「手段」…という方向で考えていたのですが、この例文、もしやもっとも簡単に説明できる例なのではなかったでしょうか。

すなわち、「国之所存者」とは、「国の、ソコに存在するソコは」という意味で、つまり「国が存在する場所は、僥倖という場所しかない」という意味なのでは!

解けたのかもしれません。
ご教示ありがとうございました。

「所」について・5 前エントリー撤回、仕切り直し

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その5。)

西田太一郎氏が「所だけで所以の意味を有する例」として挙げられた諸例を、「所」だけで説明できないかと考え、その考えた結果を前エントリーに記しました。
一応自分なりに解決がついたとその時は思ったのですが、時間をおいて読み直してみると、いかにも怪しい世迷い言のように思えてきます。
「所」の用法を真に理解しておられる諸氏から見れば、何を馬鹿なことを書いているのかと呆れられてしまうような牽強付会の説なのではないでしょうか。

これらの用例の意味を突き止めるために、私は「所」の働きだけで考えようとしたのですが、文意から改めて見てみれば、やはりどうも不自然です。
文意から語の働きを考えるのは悪い意味での合理性を求めることに陥りがちですからなるべく避けていたのですが、しかし文意としても通じなければ、正しい語の働きを突き止めたことにはならないはずです。

世迷い言はご破算にして、もう一度、最初から考え直しです。

「A所B者、C也」(AのBする所の者は、Cなり)という文は、「Aの、ソレをBするソレは、Cである」という意味ですから、「所=ソレ」はCに相当します。
たとえば、「我所食者、桃也」(我の食らふ所の者は、桃なり)なら、「私の、ソレを食べるソレは、桃である」という意味なので、「所=ソレ」は「桃」に相当するわけです。

また、「A所以B者、C也」(AのBする所以の者は、Cすればなり)という文は、「AのソレでBするソレは、Cするからである」という意味ですから、「所=ソレ」は、やはりCに相当します。
これも例を挙げると、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」(臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり)なら、「私どもの、ソレを理由に親戚のもとを離れてわが君にお仕えするソレは、ただあなた様の高い御人徳をお慕いするからです」という意味なので、「所=ソレ」は「徒慕君之高義」に相当するわけです。

これは「所」や「所以」の働きと意味の代表ですが、なぜ今更こんなことを書いているかというと、私自身がこの根本的な部分から離れずにいるためとご理解ください。
つまり、「我所食者、桃也」の「所」は「桃」に相当しなければならず、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」の「所」は「徒慕君之高義」に相当しなければならないという確認です。

さて、まず次の文です。

1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。
 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)

「為~也」はここでは「~のためである」「~のせいである」という意味ですから、「所=ソレ」が相当するものは、「為其能浮而不能沈」(それが浮ぶことができて沈むことがありえないため)でなければなりません。
前エントリーでは、暴論を述べて、「人之所乗船者」を「人が乗る船は」などと解したのですが、文意から見ればやはり変です。
逆に、「所」を「為其能浮而不能沈」に相当させるためには、「人之所乗船者」を「人の、ソコに船に乗るソコは」とでも解さなければ、解釈に無理が生じます。
「ソコに」とは「ソノ事情で」とでも「ソノ理由で」とでも言い換えるとわかりやすいかもしれません。
このことに前エントリーですでに気づいていたのに、「人の乗る所の船なる者は」の方向に傾いてしまったために、文意からのチェックを怠ってしまいました。
前回も書いたように、それでは「乗船」という文に、「ソノ事情で」「ソノ理由で」という「ソコ」を介詞を用いずに依拠性の客体として置く形式の実例があるのかどうかはわかりません。
しかし、この文は、やはり「人がソコに船に乗るソコは」、→「人がソノ事情で(ソノ理由で)船に乗るソノ事情(ソノ理由)は」と解するのが、文意として一番自然であるように思えるのです。
その意味で、この「所」が「所以」の意味で用いられているとする方が確かにわかりやすいのですが、あくまで「以」の客体ではありません。
「所」は「ソコ」「ソノ事情」「ソノ理由」で「乗」の依拠性の客体だと思います。


次に、

2.所悪於智者、為其鑿也。
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。
 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)

この例文も、「為其鑿也」とある以上、「所」は「為其鑿」(それが穿鑿するため)に相当しなければなりません。
となると、「ソコに智に憎むソコ」で、「所」は後句で「それが穿鑿するため」と示される「ソノ事情で」「ソノ理由で」になるのではないかと思います。
したがって、「所悪於智者」は、「ソノ事情(ソノ理由)で智に対して憎むソノ事情(ソノ理由)は」となります。
実例を示せませんが、「悪」はこの意味での依拠性客体をとれると思います。


次に、

3.所悪執一者、為其賊道也。
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。
 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)

これは2と同様に考えることができます。
「所」は「為其賊道」に相当しなければなりません。
したがって、「所悪執一者」は、「ソコに一を執るを憎むソコ」です。
すなわち、「ソノ事情で(その理由で)一つのことを固執するのを憎むソノ事情(ソノ理由)は」です。
前回2と3の例を、「~する相手の場合は」などと解釈しましたが、誤りだと思います。


そして、

4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。
 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)

「事之」は「有若に仕える」ということですから、どのように仕えるかを示しているのが「以所事夫子」になるはずです。
文意から考えれば、「孔子に仕えるのと同じ態度で」とあるべきところです。
これを前回「仕えた先生待遇で」などと書きましたが、1~3の考察が、ここでも適用できそうです。
つまり、「所事夫子」は、「ソレで夫子に仕えるソレ」、すなわち前々回の推論の1です。
「欲以所事夫子事之」は、「ソレで先生に仕えるソレで仕えようとした」、わかりやすく言い換えれば、「ソノ態度で先生に仕えるソノ態度で→孔子に仕える態度で有若に仕えようとした」の意です。


最後に、

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
 ▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)

正直いって、この「所」については、まだ考えがまとまりません。
「幸矣」(僥倖である)という以上、「国之所存者」は、「国が存在すること」「国が存在していること自体」という意味でなければなりませんが、「国之存」(国の存すること)ならわかりますが、「所存」は「ソレを存するソレ」「ソコに存するソコ」の意で、存在自体を表し得ません。
あるいは、「所=ソレ」が存する国体を表すかとも考えたのですが、「国の国体が僥倖である」という文は「国の国体維持自体が」と言葉を補わないと、意味をなしません。
そもそも仮にこの文を「国之所以存者、幸矣」と「所以」に書き換えてみても、「国の、ソレによって存在するソレは、僥倖である」となり、ソレは一体なんだ?ということになってしまいます。
「者」を「場合」と捉えてみても、「国のソレによって存在するソレの場合は、僥倖である」となり、どうにも腑に落ちません。

だからでしょうか、小林勝人訳注の『孟子』(岩波文庫)には、「所、或と同じ。有りの意。」と注し、「それでもなお国家が滅亡せずにすむとすれば、それこそ全く僥倖といわねばならぬ。」と訳してあります。
この説についての検討は行っていませんが、「国之所存者」が「所」の用法として説明がつかないゆえに、このような解釈がなされているのだろうと思わずにはいられません。
しかし、えてしてこういう時に悪い意味での合理的解釈が起こりがちであることには、慎重でありたいところです。


昨日、いかにもわかったようなことを述べ、たった1日で説を翻す、実に無責任な態度だと申し訳なく、かつ恥ずかしくも思います。
そして、今日述べたことがまた誤りであるかもしれず、本当に世迷い言の連続です。
ですから「暴論かもしれない」と言い訳をしておいたのですが、どうも本当に暴論のようです。
このような確信のもてないようなことは言わないでおくのが誠実な態度なのかもしれませんが、「所」という字の働きや意味について、なんとか真実に迫りたいとあがいている姿勢を示すことは、嘲笑の対象ではあったとしても、誰かが真実にたどり着ける一助にはなるかもしれません。
そのように受け取っていただいて、ご寛恕くださるようお願いします。
そして、「所」の字の働きについて、よく見極めておられる方のご教示がいただければと心からお願いいたします。

「所」について・4

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その4。)

※下記エントリーで述べていることは、誤りであることがわかりました。このような内容を残しておくことは恥ずかしいことなのですが、誤ったものとはいえ、思考の過程を示すものですので、そのままにしておきます。


「所」が本来「所A」(Aする所)の形をとるのに、Aが示されず「所」だけで「所A」の意味を表し得るのは、Aが容易に類推出来る時に限られると思うのです。
前エントリーで松下大三郎氏の「所の単用」についての説を引用しましたが、「固守其所」(固く其の所を守る)も、「固守其所守」(固く其の守る所を守る)と表現しなくても、十分に意味はわかる、というよりもくどい表現になります。
また、「不爲之所」(之に所を為さず)も、「不為之所為」(之に為す所を為さず)ですが、やはりくどい。
これを松下氏は「自己の屬すべき動作の觀念を自己の内へ含んで仕舞ふ場合」と説明していますが、人によっては「文脈からわかりきっているので、所の後の動詞を省略したもの」と説明する場合もあるでしょう。
いずれにせよ、「所」の後の動詞がなくても済むのは、その動詞が何であるかが簡単に判断できる時でなければなりません。
それは「所」の後に置かれるのが介詞であったとしても同じことだと思うのです。

ところが、「所」の後の動詞や介詞を省略することで、他の動詞が「所」の後に置かれることになってしまえば、当然「所」はその動詞の他動性の客体か、依拠性の客体と判断されてしまいます。
たとえば、「所以食桃」(桃を食らふ所以)は「ソレを理由に桃を食べるソレそのもの」の意ですから「桃を食べる理由」と訳せるわけですが、この介詞「以」を省略してしまうと、「所食桃」となり、これを「桃を食べる理由」と解することは無理です。
なぜなら、「所食桃」は「ソレを食べるソレである桃」の意ですから、「食べる桃」という意味になってしまうからです。

そういうふうに考えてくると、「所」が単体で「所以」の意味を表すとするのは、かなり無理のある解釈だと言わねばなりません。

AとBが意味上「謂語と賓語」の関係の「所AB」は、やはり2つの構造しか取り得ないと思います。
たとえば、「所与桃」の場合。

 1.与ふる所の桃 → ソレを与えるソレである桃 → 与える桃
 2.桃を与ふる所 → ソレに桃を与えるソレそのもの → 桃を与える相手

このように考えて示したのが、前エントリーまでに書いた私の推論になります。

さて、そうなると、西田太一郎氏が『漢文法要説』に「所だけで所以の意味を有する例」として挙げられた諸例はどのように説明できるのでしょうか。
そして説明できなければ、私の推論はやはり誤っているということになるのですが。

西田氏が挙げた例は次の通りで、前々エントリーでは割愛したものを含めて再掲します。
読みと訳は西田氏のものです。

1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。(呂氏春秋・愼行論)
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。
 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)

2.所悪於智者、為其鑿也。(孟子・離婁下)
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。
 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)

3.所悪執一者、為其賊道也。(孟子・尽心上)
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。
 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)

4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。(孟子・滕文公上)
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。
 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
 ※『漢文法要説』は「所事孔子」を「所事夫子」に作る。

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。(孟子・離婁上)
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
 ▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)

まず、1の「人之所乗船者」は、先の私の考えによれば、「人の、ソレに乗るソレそのものである船は」か「人の、ソコに船に乗るソコは」の2つの解釈になります。
後者の「ソコ」は「乗船(どこで)」の場所を表すソコではなく、事情を指すソコのつもりですが、そのような表現があるのかどうかはわかりません。
もし後半の「為其能浮而不能沈也」がなければ、前者で解するのが普通ではないでしょうか。

「為」介詞句は、謂語の後に置かれることはなく、「〈為A〉B」(Aの為にBす)の形をとります。
しかし、謂語Bの内容がわかりきっている時には、「為」介詞句だけで謂語を構成します。
たとえば、

・古之学者、為己。(論語・憲問)
(▼古の学者は、己の為にす。
 ▽昔の学者は、自分のためにする。)

・凡吾所以求雨者、為吾民也。(新序・雑事二)
(▼凡そ吾の雨を求むる所以の者は、吾が民の為なり。
 ▽そもそも私が雨を求める理由は、わが民のためである。)

この2例は、いずれも本来、「為己学」(自分のために学ぶ)、「為吾民求雨也」(わが民のために雨を求める)の意味です。
そう考えて、「為其能浮而不能沈也」を見れば、この「為」介詞句の後にあるべき謂語は「乗」または「乗船」でなければなりません。
つまりくどい表現になりますが、1の例は次のようになります。

・人之所乗船者、為其能浮而不能沈(乗之)也。

これを次のように読み、解釈してはどうでしょうか。

▼人の乗る所の船なる者は、其の能く浮かびて沈む能はざるが為(に之に乗る)なり。
▽人が乗る船は、それが浮かぶことができて沈み得ないため(にこれに乗るの)である。

不自然な解釈でしょうか?


次に、2の「所悪於智者、為其鑿也。」です。
これは「所悪智者」でもよいのですが、「於」を置くことで、「智」が「悪」の依拠性の客語であることが明確になっています。
ということは、「悪」(にくむ)の他動性の客語が別にあることになり、それが「所」であるとしたら?
つまり、「ソレを智に憎むソレ」、「智について憎む相手・対象」です。
この文も、

・所悪於智者、為其鑿(悪之)也。

となるわけですが、

▼智に悪む所の者は、其の鑿つが為(に之を悪む)なり。
▽智に対して悪む相手は、その穿鑿するため(に悪むの)である。

これでどうでしょうか?


次に、3の「所悪執一者、為其賊道也。」です。
これは2の例のおかげで、「執一」(一つのことに固執すること)が「悪」の依拠性の客語であると説明できます。
「ソレを一を執ることに悪むソレ」、つまり「一つのことに固執することに対して悪む相手・対象」です。
この文も、次のようになります。

・所悪執一者、為其賊道(悪之)也。

つまり、これも次のように解釈できます。

▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊する為(に之を悪む)なり。
▽一つのことに固執することに対して憎む相手は、その人が正しい道をそこなうため(に悪むの)である。

この2と3の例は、「所悪於智者」「所悪執一者」が主題主語として文頭に置かれているものだと思います。
あるいは、「智に対して悪む相手の場合は」「一つのことに固執することに対して悪む相手の場合は」と解する方がよいかもしれません。
その意味で、この2例に「者」が置かれているのには意味があると思います。


4については前エントリーで述べました。


最後に、5の「君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。」について。
「国之所存」は、「国の、ソレを存するソレ」か「国の、ソコに存在するソコ」になりますが、後者だと「国の存在する場所が僥倖である」になり、意味をなしません。
となれば、前者になるわけですが、「国の、ソレを存する(→保つ)ソレ」の「ソレ」とはもちろん「国」ですから、一見するとあれ?ということになります。
しかし、そもそも西田氏がこの例の「所」を「所以の意味を有する」としたのは、「国之所以存者幸矣」(国の、ソレによって存するソレそのものが、僥倖である)から、たとえば「国家の存在する根拠自体が」と解されたのだと思います。

一方、「国之所存者幸矣」の「所」を「所以」とせずに解釈すれば、「国の、ソレを存するソレそのものである国が、僥倖である」となります。
変な感じはしますが、煎じ詰めれば「国の国が僥倖である」となり、それは「国の国とあること」、すなわち「国の、存在する国であること自体」と解せるのではないでしょうか。

したがって、この例文を次のように解釈します。

▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
▽君子が義を犯し、小人が刑を犯せば、国が存在する国としてあること自体が、僥倖である。


さて、以上の解釈を「所」を「所以」とする解釈と比較してみましょう。

1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。
▽所以…(人がソレを理由に船に乗るソレ)→人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。
 所…(人の、ソレに乗るソレそのものである船)→人が乗る船は、それが浮かぶことができて沈み得ないため(にこれに乗るの)である。

2.所悪於智者、為其鑿也。
▽所以…(ソレを理由に智識を悪むソレ)→智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
 所…(ソレを智について悪むソレ)→智に対して悪む相手の場合は、その人が穿鑿するため(にこれを憎むの)である。

3.所悪執一者、為其賊道也。
▽所以…(ソレを理由に一つのことに固執することを憎むソレ)→一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。
 所…(ソレを一つのことに固執することに対して憎むソレ)→一つのことに固執することに対して憎む相手の場合は、それが正しい道をそこなうため(にこれを憎むの)である。

4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。
▽所以…有若が聖人に似ているので、(ソレによって先生に仕えるソレで)→先生に事えた態度でこれに事えようと思った。
 所…有若が聖人に似ているので、(ソレに仕えるソレである先生待遇で)→仕えた先生待遇でこれに仕えようとした。

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
▽所以…君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、(国のソレによって存在するソレ)→国の存立するのは僥倖にちがいない。
 所…君子が義を犯し、小人が刑を犯せば、(国の、ソレを存するソレ)→国が存在する国としてあること自体が、僥倖である。

もちろん、西田氏の解釈の方がわかりやすいのですが、私の解釈は成立し得ないでしょうか。
そして、もし成立するとすれば、これらの例文の意味は、「所以」で解すると少しずつ違っているのに気づいていただけるでしょうか。

昨日に続いて、暴論かも知れぬことを述べてみました。
これらの例文をこのように説明したり解していたりする書籍はないと思うので、暴論か否かを確かめる術もないのですが…

今しばらく考えて続けてみたいと思います。

「所」について・3

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その3。)

依然として「所」の字を眺めています。
前エントリー、「所」が「所以」の意味で用いられている例を取り上げました。
しかし、これはそう解釈すれば都合がよいというだけであって、「以」が用いられていないことは事実です。
西田太一郎氏が、「所」を「所以」の意で用いている例があると指摘されていることを紹介しただけで、それが本当に正しいかどうかはまだわからないとも思えてきます。
私が近年中国の語法学に対して、少し距離を置いて考え直してみるようになったのも、悪い意味での合理的な解釈が、本当に真実かどうかは自分できちんと考えるべきだと思えてきたからです。
読者のみなさん(があるとすればの話ですが…)を迷わせ混乱させるかもしれず、恐縮なのですが、もう少し考えさせていただきます。

こういう時の手がかりにと、最近手に取るようになった松下大三郎氏の『標準漢文法』を開いてみると、気になる記述が見つかりました。
「所」の単用について述べたものです。

「所」には副詞部があるから下に動詞が有るべき筈である。然るに、

上曰、「何謂上計。」令尹對曰、「東取呉西取楚、并齊取魯、傳檄燕趙、固守其所、山東非漢之有也。」(史記・黥布列傳)

坐觀其變、而不爲之所、則恐至於不可救。(蘇東坡・晁錯論)

の「所」の様に自己の屬すべき動作の觀念を自己の内へ含んで仕舞ふ場合が有る。即ち「其所」は「其所守」の意、「其所可為」の意である。

最後の一文は、「即ち『其所』は『其所守』の意、(不為之所の「所」は)『其所可為』の意である。」を端折った書き方だと思います。

ちなみに私的に読みと訳をつけておきます。

▼上曰はく、「何をか上計と謂ふ。」と。令尹対へて曰はく、「東のかた呉を取り西のかた楚を取り、斉を并(あは)せ魯を取り、檄を燕趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり。」と。
▽主上(=高祖)は「何を(黥布の)上策というのか」と言った。令尹が「東は呉を攻め取り西は楚を攻め取り、斉を併合し魯を攻め取り、檄文を燕と趙に伝え、しっかりその守るものを守れば、山東は漢のものではありません。」とお答えした。)

▼坐して其の変を観て、之に所を為さずんば、則ち恐るらくは救ふべからざるに至らん。
▽坐してその変化を見るだけで、これになすべきことをしなければ、恐らく救いようのない状況に至るだろう。

松下氏は、さらに続く「所と處」の項で、一見場所を表す「処」と同じように見える「所」についても述べています。
長くなるので用例は割愛しますが、次の通り。

「處」は本名詞で場所の意である。又動詞としては「をる」又は「處置」の意である。然るに「所」を次のように使ふのはどういふ譯であらうか。

……樂土樂土爰得我所。(毛詩魏風碩鼠) 他2例あり。

一見「處」と通ずる様に見える。併しその用法を見ると必ず名詞の下に用ゐてある。「無處而不適」などの「處」に「所」を用ゐた様な例はない。これは矢張前項の「所」と同じ用法で「君所」は「君所居」などいふべき「居」の意味を「所」の内部へ含ませたものであらうと思ふ。そうすれば「所」は動詞性名詞である。

つまり、たとえば「得我所」は「得我所居」(我の居る所を得)、「適君所」は「適君所居」(君の居る所に適く」の意です。

こういう記述を見ると、「所」が動作の概念を内に含むことがあり、「所」単体で「所A」(Aする所)という意味を表すことがあると考えられていることになります。

しかし、このように緻密に分析されている一方で、「所」が「所以」の意味で用いられている例についての記述は見られません。
これはあくまで想像ですが、松下氏は私が前エントリーで考え、西田太一郎氏の説として述べた内容について、考察をしていないか、またはあくまで「所」は「所」であるとして例外ではないと考えているかのどちらかかも知れないと思うのです。

もし「所」が「所以」の意味で用いられるとすれば、氏は「所」が「以」の概念を含むことがあるとして指摘されたはずではないでしょうか。
しかも、動作の概念を内に含むとされた「所」は、氏のいう「動詞性名詞」であって、副詞的に後の動詞を修飾する例ではありません。

西田太一郎氏の説を今さら否定するのでなく、しかし今一度、きちんと考え直しておく必要はあると思えてきました。

まず、推論の1つめです。

前エントリーで取り上げた例を再掲します。

・欲以所事孔子事之。
(▼孔子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。)

前エントリーで私が「所」の解釈を「所以」に走らせたのは、「所事孔子」を「ソレで孔子に仕えるソレ」と説明しきれないからでした。

「事」という字は、「公用の旗を定まった位置に立てて守る」が本義とも、「目印の旗の示す仕事や商売の内容」の意ともいいますが、そこから「仕事」を表すようになったものだと思います。
「事君」や「事父」は、君に仕える、父に仕える仕事をするの意でしょう。
それを介詞「以」などを用いずに、どのように行うのかを示す表現があれば、「所」を依拠性の客体として説明することができるはずです。
つまり、「君に仕えることをどのように仕事とする」です。

膨大な「事」の用例ではどうにもなりませんから、少しでも可能性のある表現を探そうと検索対象を絞り込んでいると、次の例が見つかりました。

・事親孝、無悔往行、事君忠、無悔往辞、~ (晏子春秋・内篇問下)
(▼親に事ふること孝、往行を悔ゆる無く、君に事ふること忠、往辞を悔ゆる無く、~
 ▽親に仕えて孝で、これまでしたことを悔いることなく、君に仕えて忠で、これまでした進言を悔いることなく、~)

・人臣孝、則事君忠、~ (呂氏春秋・孝行覧)
(▼人臣孝なれば、則ち君に事へて忠、~
 ▽人臣が孝であれば、君に仕えて忠義を尽くし、~)

これらの例は、本来語法的には主謂構造で「親に仕えることが孝である」、「君に仕えることが忠である」とみなすべきだと思います。
しかし、暴論になるかもしれませんが、「事親孝」は「親に孝に事ふ」(親に仕えることを孝で仕事とする)、「事君忠」は「君に忠に事ふ」(君に仕えることを忠で仕事とする)と解せないでしょうか?
もしこの暴論が許されるなら、少なくとも見かけ上は「事親[ソレで]」「事君[ソレで]」の形を取り得るのでは?と思います。
このソレが「所」であれば、「所事親」(ソレで親に仕えるソレ)、「所事君」(ソレで君に仕えるソレ)になる。

以上が1つめの推論です。

次に考えたのが、「欲以所事孔子事之」を「欲以所以孔子事之」と同義とみなさずに解せないか?です。
「孔子に事ふる所を以て」と読んでいるために、「所」の処置に困ってしまうのですが、この形は見かけ上は、前々エントリーの「無所請事」と同じく「所+動詞+名詞」の形をとっています。
これを「事を請ふ所無し」ではなく「請ふ所の事無し」と読むべきだと論じました。

・和氏璧、天下所共伝宝也。(史記・廉頗藺相如列伝)
(▼和氏の璧は、天下の共に伝ふる所の宝なり。
 ▽和氏の璧は、天下が共に伝える宝である。)

この文をかつて「天下の共に伝へて宝とする所なり」と読んであった教科書があり、驚いたことがありますが、「我所食桃也」と同じ構造で、「天下のソレをともに伝えるソレである宝だ」という意味です。

構造的には「所+動詞+名詞」の構造をとる「所事孔子」を、「事ふる所の孔子」と読むことはできないでしょうか。
つまり、「欲以所事孔子事之」を「事ふる所の孔子を以て之に事へんと欲す」と読み、「(彼らが)仕えていた孔子待遇で彼(=有若)に仕えようとした」と解釈する。

・臣事范中行氏、范中行氏以衆人遇臣、臣故衆人報之。知伯以国士遇臣、臣故国士報之。(戦国策・趙一)
(▼臣范中行氏に事ふるに、范中行氏は衆人を以て臣を遇し、臣故に衆人もて之に報ゆ。知伯は国士を以て臣を遇し、臣故に国士もて之に報ゆ。
 ▽私は范氏や中行氏に仕えた時、范氏中行氏は並の人で私を扱い、私はだから並の人として彼らに報いた。知伯は国士(=第1級の人物)で私を扱ってくれ、私はだから国士として彼に報いた。)

この「以衆人」「以国士」の「以」を、「以孔子」と同様の用法とみなせないでしょうか。
つまり「以孔子」を「孔子の待遇で」と解するわけです。

これも暴論になるかもしれません。
しかし、検討の余地はないでしょうか。
2つの推論(暴論?)、今のところ、迷いますが、後者の方がうまく説明できるような気がしています。

これらは、到底そうだと明言出来るものではありません…と弱腰なのですが、この「所以」に解すると都合のよい「所」を、果たしてどのように説明するか、十分に考察が必要で、西田氏の著書にそうあるからと論じてしまっては、結局自分で十分考察したことにはならないと思うのです。

さらに、西田氏の挙げておられる他の諸例についても、それぞれにきちんと説明できなければ、この試論とて不十分なものになってしまうのですが、これはかなり厄介な問題です。

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