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「所」について・4

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その4。)

※下記エントリーで述べていることは、誤りであることがわかりました。このような内容を残しておくことは恥ずかしいことなのですが、誤ったものとはいえ、思考の過程を示すものですので、そのままにしておきます。


「所」が本来「所A」(Aする所)の形をとるのに、Aが示されず「所」だけで「所A」の意味を表し得るのは、Aが容易に類推出来る時に限られると思うのです。
前エントリーで松下大三郎氏の「所の単用」についての説を引用しましたが、「固守其所」(固く其の所を守る)も、「固守其所守」(固く其の守る所を守る)と表現しなくても、十分に意味はわかる、というよりもくどい表現になります。
また、「不爲之所」(之に所を為さず)も、「不為之所為」(之に為す所を為さず)ですが、やはりくどい。
これを松下氏は「自己の屬すべき動作の觀念を自己の内へ含んで仕舞ふ場合」と説明していますが、人によっては「文脈からわかりきっているので、所の後の動詞を省略したもの」と説明する場合もあるでしょう。
いずれにせよ、「所」の後の動詞がなくても済むのは、その動詞が何であるかが簡単に判断できる時でなければなりません。
それは「所」の後に置かれるのが介詞であったとしても同じことだと思うのです。

ところが、「所」の後の動詞や介詞を省略することで、他の動詞が「所」の後に置かれることになってしまえば、当然「所」はその動詞の他動性の客体か、依拠性の客体と判断されてしまいます。
たとえば、「所以食桃」(桃を食らふ所以)は「ソレを理由に桃を食べるソレそのもの」の意ですから「桃を食べる理由」と訳せるわけですが、この介詞「以」を省略してしまうと、「所食桃」となり、これを「桃を食べる理由」と解することは無理です。
なぜなら、「所食桃」は「ソレを食べるソレである桃」の意ですから、「食べる桃」という意味になってしまうからです。

そういうふうに考えてくると、「所」が単体で「所以」の意味を表すとするのは、かなり無理のある解釈だと言わねばなりません。

AとBが意味上「謂語と賓語」の関係の「所AB」は、やはり2つの構造しか取り得ないと思います。
たとえば、「所与桃」の場合。

 1.与ふる所の桃 → ソレを与えるソレである桃 → 与える桃
 2.桃を与ふる所 → ソレに桃を与えるソレそのもの → 桃を与える相手

このように考えて示したのが、前エントリーまでに書いた私の推論になります。

さて、そうなると、西田太一郎氏が『漢文法要説』に「所だけで所以の意味を有する例」として挙げられた諸例はどのように説明できるのでしょうか。
そして説明できなければ、私の推論はやはり誤っているということになるのですが。

西田氏が挙げた例は次の通りで、前々エントリーでは割愛したものを含めて再掲します。
読みと訳は西田氏のものです。

1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。(呂氏春秋・愼行論)
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。
 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)

2.所悪於智者、為其鑿也。(孟子・離婁下)
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。
 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)

3.所悪執一者、為其賊道也。(孟子・尽心上)
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。
 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)

4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。(孟子・滕文公上)
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。
 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
 ※『漢文法要説』は「所事孔子」を「所事夫子」に作る。

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。(孟子・離婁上)
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
 ▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)

まず、1の「人之所乗船者」は、先の私の考えによれば、「人の、ソレに乗るソレそのものである船は」か「人の、ソコに船に乗るソコは」の2つの解釈になります。
後者の「ソコ」は「乗船(どこで)」の場所を表すソコではなく、事情を指すソコのつもりですが、そのような表現があるのかどうかはわかりません。
もし後半の「為其能浮而不能沈也」がなければ、前者で解するのが普通ではないでしょうか。

「為」介詞句は、謂語の後に置かれることはなく、「〈為A〉B」(Aの為にBす)の形をとります。
しかし、謂語Bの内容がわかりきっている時には、「為」介詞句だけで謂語を構成します。
たとえば、

・古之学者、為己。(論語・憲問)
(▼古の学者は、己の為にす。
 ▽昔の学者は、自分のためにする。)

・凡吾所以求雨者、為吾民也。(新序・雑事二)
(▼凡そ吾の雨を求むる所以の者は、吾が民の為なり。
 ▽そもそも私が雨を求める理由は、わが民のためである。)

この2例は、いずれも本来、「為己学」(自分のために学ぶ)、「為吾民求雨也」(わが民のために雨を求める)の意味です。
そう考えて、「為其能浮而不能沈也」を見れば、この「為」介詞句の後にあるべき謂語は「乗」または「乗船」でなければなりません。
つまりくどい表現になりますが、1の例は次のようになります。

・人之所乗船者、為其能浮而不能沈(乗之)也。

これを次のように読み、解釈してはどうでしょうか。

▼人の乗る所の船なる者は、其の能く浮かびて沈む能はざるが為(に之に乗る)なり。
▽人が乗る船は、それが浮かぶことができて沈み得ないため(にこれに乗るの)である。

不自然な解釈でしょうか?


次に、2の「所悪於智者、為其鑿也。」です。
これは「所悪智者」でもよいのですが、「於」を置くことで、「智」が「悪」の依拠性の客語であることが明確になっています。
ということは、「悪」(にくむ)の他動性の客語が別にあることになり、それが「所」であるとしたら?
つまり、「ソレを智に憎むソレ」、「智について憎む相手・対象」です。
この文も、

・所悪於智者、為其鑿(悪之)也。

となるわけですが、

▼智に悪む所の者は、其の鑿つが為(に之を悪む)なり。
▽智に対して悪む相手は、その穿鑿するため(に悪むの)である。

これでどうでしょうか?


次に、3の「所悪執一者、為其賊道也。」です。
これは2の例のおかげで、「執一」(一つのことに固執すること)が「悪」の依拠性の客語であると説明できます。
「ソレを一を執ることに悪むソレ」、つまり「一つのことに固執することに対して悪む相手・対象」です。
この文も、次のようになります。

・所悪執一者、為其賊道(悪之)也。

つまり、これも次のように解釈できます。

▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊する為(に之を悪む)なり。
▽一つのことに固執することに対して憎む相手は、その人が正しい道をそこなうため(に悪むの)である。

この2と3の例は、「所悪於智者」「所悪執一者」が主題主語として文頭に置かれているものだと思います。
あるいは、「智に対して悪む相手の場合は」「一つのことに固執することに対して悪む相手の場合は」と解する方がよいかもしれません。
その意味で、この2例に「者」が置かれているのには意味があると思います。


4については前エントリーで述べました。


最後に、5の「君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。」について。
「国之所存」は、「国の、ソレを存するソレ」か「国の、ソコに存在するソコ」になりますが、後者だと「国の存在する場所が僥倖である」になり、意味をなしません。
となれば、前者になるわけですが、「国の、ソレを存する(→保つ)ソレ」の「ソレ」とはもちろん「国」ですから、一見するとあれ?ということになります。
しかし、そもそも西田氏がこの例の「所」を「所以の意味を有する」としたのは、「国之所以存者幸矣」(国の、ソレによって存するソレそのものが、僥倖である)から、たとえば「国家の存在する根拠自体が」と解されたのだと思います。

一方、「国之所存者幸矣」の「所」を「所以」とせずに解釈すれば、「国の、ソレを存するソレそのものである国が、僥倖である」となります。
変な感じはしますが、煎じ詰めれば「国の国が僥倖である」となり、それは「国の国とあること」、すなわち「国の、存在する国であること自体」と解せるのではないでしょうか。

したがって、この例文を次のように解釈します。

▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
▽君子が義を犯し、小人が刑を犯せば、国が存在する国としてあること自体が、僥倖である。


さて、以上の解釈を「所」を「所以」とする解釈と比較してみましょう。

1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。
▽所以…(人がソレを理由に船に乗るソレ)→人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。
 所…(人の、ソレに乗るソレそのものである船)→人が乗る船は、それが浮かぶことができて沈み得ないため(にこれに乗るの)である。

2.所悪於智者、為其鑿也。
▽所以…(ソレを理由に智識を悪むソレ)→智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
 所…(ソレを智について悪むソレ)→智に対して悪む相手の場合は、その人が穿鑿するため(にこれを憎むの)である。

3.所悪執一者、為其賊道也。
▽所以…(ソレを理由に一つのことに固執することを憎むソレ)→一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。
 所…(ソレを一つのことに固執することに対して憎むソレ)→一つのことに固執することに対して憎む相手の場合は、それが正しい道をそこなうため(にこれを憎むの)である。

4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。
▽所以…有若が聖人に似ているので、(ソレによって先生に仕えるソレで)→先生に事えた態度でこれに事えようと思った。
 所…有若が聖人に似ているので、(ソレに仕えるソレである先生待遇で)→仕えた先生待遇でこれに仕えようとした。

5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
▽所以…君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、(国のソレによって存在するソレ)→国の存立するのは僥倖にちがいない。
 所…君子が義を犯し、小人が刑を犯せば、(国の、ソレを存するソレ)→国が存在する国としてあること自体が、僥倖である。

もちろん、西田氏の解釈の方がわかりやすいのですが、私の解釈は成立し得ないでしょうか。
そして、もし成立するとすれば、これらの例文の意味は、「所以」で解すると少しずつ違っているのに気づいていただけるでしょうか。

昨日に続いて、暴論かも知れぬことを述べてみました。
これらの例文をこのように説明したり解していたりする書籍はないと思うので、暴論か否かを確かめる術もないのですが…

今しばらく考えて続けてみたいと思います。

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