「所」について・5 前エントリー撤回、仕切り直し
- 2020/10/14 16:45
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その5。)
西田太一郎氏が「所だけで所以の意味を有する例」として挙げられた諸例を、「所」だけで説明できないかと考え、その考えた結果を前エントリーに記しました。
一応自分なりに解決がついたとその時は思ったのですが、時間をおいて読み直してみると、いかにも怪しい世迷い言のように思えてきます。
「所」の用法を真に理解しておられる諸氏から見れば、何を馬鹿なことを書いているのかと呆れられてしまうような牽強付会の説なのではないでしょうか。
これらの用例の意味を突き止めるために、私は「所」の働きだけで考えようとしたのですが、文意から改めて見てみれば、やはりどうも不自然です。
文意から語の働きを考えるのは悪い意味での合理性を求めることに陥りがちですからなるべく避けていたのですが、しかし文意としても通じなければ、正しい語の働きを突き止めたことにはならないはずです。
世迷い言はご破算にして、もう一度、最初から考え直しです。
「A所B者、C也」(AのBする所の者は、Cなり)という文は、「Aの、ソレをBするソレは、Cである」という意味ですから、「所=ソレ」はCに相当します。
たとえば、「我所食者、桃也」(我の食らふ所の者は、桃なり)なら、「私の、ソレを食べるソレは、桃である」という意味なので、「所=ソレ」は「桃」に相当するわけです。
また、「A所以B者、C也」(AのBする所以の者は、Cすればなり)という文は、「AのソレでBするソレは、Cするからである」という意味ですから、「所=ソレ」は、やはりCに相当します。
これも例を挙げると、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」(臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり)なら、「私どもの、ソレを理由に親戚のもとを離れてわが君にお仕えするソレは、ただあなた様の高い御人徳をお慕いするからです」という意味なので、「所=ソレ」は「徒慕君之高義」に相当するわけです。
これは「所」や「所以」の働きと意味の代表ですが、なぜ今更こんなことを書いているかというと、私自身がこの根本的な部分から離れずにいるためとご理解ください。
つまり、「我所食者、桃也」の「所」は「桃」に相当しなければならず、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」の「所」は「徒慕君之高義」に相当しなければならないという確認です。
さて、まず次の文です。
1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。
▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)
「為~也」はここでは「~のためである」「~のせいである」という意味ですから、「所=ソレ」が相当するものは、「為其能浮而不能沈」(それが浮ぶことができて沈むことがありえないため)でなければなりません。
前エントリーでは、暴論を述べて、「人之所乗船者」を「人が乗る船は」などと解したのですが、文意から見ればやはり変です。
逆に、「所」を「為其能浮而不能沈」に相当させるためには、「人之所乗船者」を「人の、ソコに船に乗るソコは」とでも解さなければ、解釈に無理が生じます。
「ソコに」とは「ソノ事情で」とでも「ソノ理由で」とでも言い換えるとわかりやすいかもしれません。
このことに前エントリーですでに気づいていたのに、「人の乗る所の船なる者は」の方向に傾いてしまったために、文意からのチェックを怠ってしまいました。
前回も書いたように、それでは「乗船」という文に、「ソノ事情で」「ソノ理由で」という「ソコ」を介詞を用いずに依拠性の客体として置く形式の実例があるのかどうかはわかりません。
しかし、この文は、やはり「人がソコに船に乗るソコは」、→「人がソノ事情で(ソノ理由で)船に乗るソノ事情(ソノ理由)は」と解するのが、文意として一番自然であるように思えるのです。
その意味で、この「所」が「所以」の意味で用いられているとする方が確かにわかりやすいのですが、あくまで「以」の客体ではありません。
「所」は「ソコ」「ソノ事情」「ソノ理由」で「乗」の依拠性の客体だと思います。
次に、
2.所悪於智者、為其鑿也。
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。
▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
この例文も、「為其鑿也」とある以上、「所」は「為其鑿」(それが穿鑿するため)に相当しなければなりません。
となると、「ソコに智に憎むソコ」で、「所」は後句で「それが穿鑿するため」と示される「ソノ事情で」「ソノ理由で」になるのではないかと思います。
したがって、「所悪於智者」は、「ソノ事情(ソノ理由)で智に対して憎むソノ事情(ソノ理由)は」となります。
実例を示せませんが、「悪」はこの意味での依拠性客体をとれると思います。
次に、
3.所悪執一者、為其賊道也。
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。
▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)
これは2と同様に考えることができます。
「所」は「為其賊道」に相当しなければなりません。
したがって、「所悪執一者」は、「ソコに一を執るを憎むソコ」です。
すなわち、「ソノ事情で(その理由で)一つのことを固執するのを憎むソノ事情(ソノ理由)は」です。
前回2と3の例を、「~する相手の場合は」などと解釈しましたが、誤りだと思います。
そして、
4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。
▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
「事之」は「有若に仕える」ということですから、どのように仕えるかを示しているのが「以所事夫子」になるはずです。
文意から考えれば、「孔子に仕えるのと同じ態度で」とあるべきところです。
これを前回「仕えた先生待遇で」などと書きましたが、1~3の考察が、ここでも適用できそうです。
つまり、「所事夫子」は、「ソレで夫子に仕えるソレ」、すなわち前々回の推論の1です。
「欲以所事夫子事之」は、「ソレで先生に仕えるソレで仕えようとした」、わかりやすく言い換えれば、「ソノ態度で先生に仕えるソノ態度で→孔子に仕える態度で有若に仕えようとした」の意です。
最後に、
5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)
正直いって、この「所」については、まだ考えがまとまりません。
「幸矣」(僥倖である)という以上、「国之所存者」は、「国が存在すること」「国が存在していること自体」という意味でなければなりませんが、「国之存」(国の存すること)ならわかりますが、「所存」は「ソレを存するソレ」「ソコに存するソコ」の意で、存在自体を表し得ません。
あるいは、「所=ソレ」が存する国体を表すかとも考えたのですが、「国の国体が僥倖である」という文は「国の国体維持自体が」と言葉を補わないと、意味をなしません。
そもそも仮にこの文を「国之所以存者、幸矣」と「所以」に書き換えてみても、「国の、ソレによって存在するソレは、僥倖である」となり、ソレは一体なんだ?ということになってしまいます。
「者」を「場合」と捉えてみても、「国のソレによって存在するソレの場合は、僥倖である」となり、どうにも腑に落ちません。
だからでしょうか、小林勝人訳注の『孟子』(岩波文庫)には、「所、或と同じ。有りの意。」と注し、「それでもなお国家が滅亡せずにすむとすれば、それこそ全く僥倖といわねばならぬ。」と訳してあります。
この説についての検討は行っていませんが、「国之所存者」が「所」の用法として説明がつかないゆえに、このような解釈がなされているのだろうと思わずにはいられません。
しかし、えてしてこういう時に悪い意味での合理的解釈が起こりがちであることには、慎重でありたいところです。
昨日、いかにもわかったようなことを述べ、たった1日で説を翻す、実に無責任な態度だと申し訳なく、かつ恥ずかしくも思います。
そして、今日述べたことがまた誤りであるかもしれず、本当に世迷い言の連続です。
ですから「暴論かもしれない」と言い訳をしておいたのですが、どうも本当に暴論のようです。
このような確信のもてないようなことは言わないでおくのが誠実な態度なのかもしれませんが、「所」という字の働きや意味について、なんとか真実に迫りたいとあがいている姿勢を示すことは、嘲笑の対象ではあったとしても、誰かが真実にたどり着ける一助にはなるかもしれません。
そのように受け取っていただいて、ご寛恕くださるようお願いします。
そして、「所」の字の働きについて、よく見極めておられる方のご教示がいただければと心からお願いいたします。
西田太一郎氏が「所だけで所以の意味を有する例」として挙げられた諸例を、「所」だけで説明できないかと考え、その考えた結果を前エントリーに記しました。
一応自分なりに解決がついたとその時は思ったのですが、時間をおいて読み直してみると、いかにも怪しい世迷い言のように思えてきます。
「所」の用法を真に理解しておられる諸氏から見れば、何を馬鹿なことを書いているのかと呆れられてしまうような牽強付会の説なのではないでしょうか。
これらの用例の意味を突き止めるために、私は「所」の働きだけで考えようとしたのですが、文意から改めて見てみれば、やはりどうも不自然です。
文意から語の働きを考えるのは悪い意味での合理性を求めることに陥りがちですからなるべく避けていたのですが、しかし文意としても通じなければ、正しい語の働きを突き止めたことにはならないはずです。
世迷い言はご破算にして、もう一度、最初から考え直しです。
「A所B者、C也」(AのBする所の者は、Cなり)という文は、「Aの、ソレをBするソレは、Cである」という意味ですから、「所=ソレ」はCに相当します。
たとえば、「我所食者、桃也」(我の食らふ所の者は、桃なり)なら、「私の、ソレを食べるソレは、桃である」という意味なので、「所=ソレ」は「桃」に相当するわけです。
また、「A所以B者、C也」(AのBする所以の者は、Cすればなり)という文は、「AのソレでBするソレは、Cするからである」という意味ですから、「所=ソレ」は、やはりCに相当します。
これも例を挙げると、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」(臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり)なら、「私どもの、ソレを理由に親戚のもとを離れてわが君にお仕えするソレは、ただあなた様の高い御人徳をお慕いするからです」という意味なので、「所=ソレ」は「徒慕君之高義」に相当するわけです。
これは「所」や「所以」の働きと意味の代表ですが、なぜ今更こんなことを書いているかというと、私自身がこの根本的な部分から離れずにいるためとご理解ください。
つまり、「我所食者、桃也」の「所」は「桃」に相当しなければならず、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也」の「所」は「徒慕君之高義」に相当しなければならないという確認です。
さて、まず次の文です。
1.人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。
▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)
「為~也」はここでは「~のためである」「~のせいである」という意味ですから、「所=ソレ」が相当するものは、「為其能浮而不能沈」(それが浮ぶことができて沈むことがありえないため)でなければなりません。
前エントリーでは、暴論を述べて、「人之所乗船者」を「人が乗る船は」などと解したのですが、文意から見ればやはり変です。
逆に、「所」を「為其能浮而不能沈」に相当させるためには、「人之所乗船者」を「人の、ソコに船に乗るソコは」とでも解さなければ、解釈に無理が生じます。
「ソコに」とは「ソノ事情で」とでも「ソノ理由で」とでも言い換えるとわかりやすいかもしれません。
このことに前エントリーですでに気づいていたのに、「人の乗る所の船なる者は」の方向に傾いてしまったために、文意からのチェックを怠ってしまいました。
前回も書いたように、それでは「乗船」という文に、「ソノ事情で」「ソノ理由で」という「ソコ」を介詞を用いずに依拠性の客体として置く形式の実例があるのかどうかはわかりません。
しかし、この文は、やはり「人がソコに船に乗るソコは」、→「人がソノ事情で(ソノ理由で)船に乗るソノ事情(ソノ理由)は」と解するのが、文意として一番自然であるように思えるのです。
その意味で、この「所」が「所以」の意味で用いられているとする方が確かにわかりやすいのですが、あくまで「以」の客体ではありません。
「所」は「ソコ」「ソノ事情」「ソノ理由」で「乗」の依拠性の客体だと思います。
次に、
2.所悪於智者、為其鑿也。
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。
▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
この例文も、「為其鑿也」とある以上、「所」は「為其鑿」(それが穿鑿するため)に相当しなければなりません。
となると、「ソコに智に憎むソコ」で、「所」は後句で「それが穿鑿するため」と示される「ソノ事情で」「ソノ理由で」になるのではないかと思います。
したがって、「所悪於智者」は、「ソノ事情(ソノ理由)で智に対して憎むソノ事情(ソノ理由)は」となります。
実例を示せませんが、「悪」はこの意味での依拠性客体をとれると思います。
次に、
3.所悪執一者、為其賊道也。
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。
▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)
これは2と同様に考えることができます。
「所」は「為其賊道」に相当しなければなりません。
したがって、「所悪執一者」は、「ソコに一を執るを憎むソコ」です。
すなわち、「ソノ事情で(その理由で)一つのことを固執するのを憎むソノ事情(ソノ理由)は」です。
前回2と3の例を、「~する相手の場合は」などと解釈しましたが、誤りだと思います。
そして、
4.以有若似聖人、欲以所事夫子事之。
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。
▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
「事之」は「有若に仕える」ということですから、どのように仕えるかを示しているのが「以所事夫子」になるはずです。
文意から考えれば、「孔子に仕えるのと同じ態度で」とあるべきところです。
これを前回「仕えた先生待遇で」などと書きましたが、1~3の考察が、ここでも適用できそうです。
つまり、「所事夫子」は、「ソレで夫子に仕えるソレ」、すなわち前々回の推論の1です。
「欲以所事夫子事之」は、「ソレで先生に仕えるソレで仕えようとした」、わかりやすく言い換えれば、「ソノ態度で先生に仕えるソノ態度で→孔子に仕える態度で有若に仕えようとした」の意です。
最後に、
5.君子犯義、小人犯刑、国之所存者幸矣。
(▼君子義を犯し、小人刑を犯せば、国の存する所の者は幸なり。
▽君子が義を犯し、小人が刑を犯す場合、国の存立するのは僥倖にちがいない。)
正直いって、この「所」については、まだ考えがまとまりません。
「幸矣」(僥倖である)という以上、「国之所存者」は、「国が存在すること」「国が存在していること自体」という意味でなければなりませんが、「国之存」(国の存すること)ならわかりますが、「所存」は「ソレを存するソレ」「ソコに存するソコ」の意で、存在自体を表し得ません。
あるいは、「所=ソレ」が存する国体を表すかとも考えたのですが、「国の国体が僥倖である」という文は「国の国体維持自体が」と言葉を補わないと、意味をなしません。
そもそも仮にこの文を「国之所以存者、幸矣」と「所以」に書き換えてみても、「国の、ソレによって存在するソレは、僥倖である」となり、ソレは一体なんだ?ということになってしまいます。
「者」を「場合」と捉えてみても、「国のソレによって存在するソレの場合は、僥倖である」となり、どうにも腑に落ちません。
だからでしょうか、小林勝人訳注の『孟子』(岩波文庫)には、「所、或と同じ。有りの意。」と注し、「それでもなお国家が滅亡せずにすむとすれば、それこそ全く僥倖といわねばならぬ。」と訳してあります。
この説についての検討は行っていませんが、「国之所存者」が「所」の用法として説明がつかないゆえに、このような解釈がなされているのだろうと思わずにはいられません。
しかし、えてしてこういう時に悪い意味での合理的解釈が起こりがちであることには、慎重でありたいところです。
昨日、いかにもわかったようなことを述べ、たった1日で説を翻す、実に無責任な態度だと申し訳なく、かつ恥ずかしくも思います。
そして、今日述べたことがまた誤りであるかもしれず、本当に世迷い言の連続です。
ですから「暴論かもしれない」と言い訳をしておいたのですが、どうも本当に暴論のようです。
このような確信のもてないようなことは言わないでおくのが誠実な態度なのかもしれませんが、「所」という字の働きや意味について、なんとか真実に迫りたいとあがいている姿勢を示すことは、嘲笑の対象ではあったとしても、誰かが真実にたどり着ける一助にはなるかもしれません。
そのように受け取っていただいて、ご寛恕くださるようお願いします。
そして、「所」の字の働きについて、よく見極めておられる方のご教示がいただければと心からお願いいたします。