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2021年09月の記事は以下のとおりです。

再考:「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?・2

(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その2。)

私がかつて『孟子』の「是亦羿有罪焉」の「亦」を、「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると誤った結論付けを下した材料として、当時、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を引用して次のように書いています。

「虚詞詞典を開いてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に、次のような記述がありました。

⑧副词 就,便。和“则”条⑳项差不多。
(副詞 就,便。“則”の条⑳項とほぼ同じ。)

として、3例が挙げられている中に、3例目に次のようなものがありました。

荘子儀曰:“吾君王殺我而不辜,死人毋知亦已,死人有知,不出三年,必使吾君知之。”(《墨子・明鬼》)…原文簡体字
   ――庄子仪说:“我的国君杀我,而我是没有有罪的,如果死人没有知觉就算了,死人如果有知觉,不出三年,一定要使我的国君知道这事(是要报应的)。”
(荘子儀が“わが君は私を殺すが、私は無実である、もし死人に知覚がないならそれまでのこと、死人にもし知覚があるなら、三年経たないうちに、きっとわが君にこのこと(が報いを受けなければならないということ)を思い知らせてやる”と言った。)

この例について、尹君が補足しています。

按:例3,就在同篇文中:“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”文意句式完全相同,而用“则”字,可见两字义通。
(按ずるに、例3は、同篇の文中に、“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”の例がある。文意も構文も完全に同じで、“則”の字が用いられている、二つの字義が通じることがわかる。)

つまり、尹君は『墨子』の用例を根拠に、「亦」の字が「則」に通じることを指摘しているのです。
ただこの説明は、前句に述べられた条件のもとに後句で結果を示す、いわば連詞の働きをする「則」とみるべきです。
しかし、『古今説海』本は、「是」の字を欠き「果如是、亦羿有罪焉。」に作るため、これに該当してしまうことになります。」

この尹君の説明について、『墨子』同篇に見られる2つの酷似した文の「文意も構文も完全に同じ」という説得力のある内容から、この「亦」が「則」の意味で用いられている可能性を認めたのでした。

しかし、この記述を鵜呑みにしての判断に、もう一度本当にそう言えるのかという検証の必要性を感じます。

『墨子』明鬼篇は、上中下の3篇からなるものの、現存しているのは下篇のみです。
そもそも「明鬼」とは「鬼を明らかにす」の意で、鬼の実在を明らかにすることを目的とした篇になります。
鬼とは、死霊、霊魂です。
「子墨子言曰」(墨先生がおっしゃるには)から始まり、鬼神の存在の是非は大多数の者が実際に耳や目でその存在を確認したことを基準としなければならぬと説き、実際に多くのものが共に見聞きした例が挙げられていきます。
その最初の例として、墨子は次のように述べています。

・若以衆之所同見、与衆之所同聞、則若昔者杜伯是也。周宣王殺其臣杜伯而不辜。杜伯曰、「吾君殺我而不辜。若以死者為無知止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。」其三年、周宣王合諸侯而田於圃、田車数百乗、従数千、人満野。日中、杜伯乗白馬素車、朱衣冠、執朱弓、挾朱矢、追周宣王、射之車上、中心折脊、殪車中、伏弢而死。当是之時、周人従者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼若し衆の同(とも)に見る所と、衆の同に聞く所を以てすれば、昔者の杜伯のごときは是れなり。周の宣王其の臣杜伯を殺すも辜(つみ)あらず。杜伯曰はく、「吾が君吾を殺すも辜あらず。若し死者を以て知無しと為せば則ち止まん、若し死して知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。其の三年、周の宣王諸侯を合して圃に田し、田車数百乗、従数千、人野に満つ。日中、杜伯白馬素車に乗り、朱衣冠にして、朱弓を執り、朱矢を挟み、周の宣王を追ひ、之を車上に射、心(むね)に中(あ)て脊を折り、車中に殪(たふ)れ、弢(ゆみぶくろ)に伏して死す。是の時に当たり、周人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
 ▽もし多くの人がともに見たこと、多くの人がともに聞いたことを例に挙げるなら、昔の杜伯のごときがそれだ。周の宣王がその家臣の杜伯を殺したが(杜伯に)罪はなかった。杜伯は「わが君は私を殺すが(私に)罪はない。もし死者を知がないとするならばそれまでだ、もし死んでも知があるなら、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。その後三年、周の宣王が諸侯を集めて圃田で狩りをし、狩りの車数百台、従者数千人で、人が野に満ちた。日中、杜伯が白い馬、白木の車に乗り、朱色の衣冠を身につけ、朱色の弓を手にとり、朱色の矢をはさんで(現れ)、周の宣王を追いかけ、これを車上に射て、(宣王の)心臓に当て背骨を折り、(宣王は)車中に絶命し、弓袋に伏して死んだ。この時、周のともに従う者は(杜伯を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)

この無実にして殺された杜伯の話の次に、100字余りの鄭の穆公(秦の穆公の誤りとされる)の短いエピソードを挟んで、次に燕の簡公がやはり無実の臣である荘子儀を殺した話が入ります。
これが尹君が引用した例になります。

・昔者、燕簡公殺其臣荘子儀而不辜。荘子儀曰、「吾君王殺我而不辜。死人毋知已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。」期年、燕将馳祖。燕之有祖、当斉之有社稷、宋之有桑林、楚之有雲夢也。此男女之所属而観也。日中、燕簡公方将馳於祖塗。荘子儀荷朱杖而撃之、殪之車上。当是時、燕人從者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼昔者、燕の簡公其の臣荘子儀を殺すも辜(つみ)あらず。荘子儀曰はく、「吾が君王我を殺すも辜あらず。死人知毋ければ[亦]已まん、死人知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。期年にして、燕将に祖に馳せんとす。燕の祖有るは、斉の社稷有り、宋の桑林有る、楚の雲夢有るに当たる。此れ男女の属して観る所なり。日中、燕の簡公方に将に祖の塗(みち)に馳せんとす。荘子儀朱杖を荷(ふる)ひて之を撃ち、之を車上に殪(たふ)す。是の時に当たり、燕人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
 ▽昔、燕の簡公がその家臣の荘子儀を殺したが、(荘子儀に)罪はなかった。荘子儀は「わが君王は私を殺すが、(私に)罪はない。死人に知がなければ[亦]それまでだ、死人に知があれば、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。一年経って、燕(公)は祖の祭りに行こうと車を馳せていた。燕国に祖の祭りがあるのは、斉国に社稷の祭りがあり、宋国に桑林の祭りがあり、楚国に雲夢の祭りがあるのと同じである。これは男女が連なり出かけ観るものである。真昼に、燕の簡公がちょうど祖の祭りへの道に車を走らせていた。荘子儀が朱杖をふるってこれを撃ち、簡公を車上で殺した。この時、燕のともに従う者は(荘子儀を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)

この文を先の杜伯の例と見比べれば一目瞭然ですが、ほとんど同じ構成になっています。
これが尹君が「文意も構文も完全に同じ」として、荘子儀の例の「亦」の位置に、杜伯の例では「則」が置かれ、「二つの字義が通じることがわかる」と指摘した事情になります。
すなわち、

・若以死者為無知止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。(杜伯の例)
・死人毋知已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。(荘子儀の例)

です。
表現は微妙に異なりますが、尹君が指摘しているように、文意は同じと考えてよいでしょう。
したがって、同じ位置に「則」と「亦」が置かれているのだから、「則」と「亦」の字義は通じるという判断がなされたのです。
しかし、それは本当に妥当でしょうか。

ここからは臆断になりますが…
この2つの話は、同じ語り手である墨子による表現です。
しかも極めて近接した位置にあり、杜伯の事件を述べた後、わずか100字余りで荘子儀の事件を述べ始めています。
これが地の文であれば、墨子の意識として、「前の杜伯と同じように荘子儀もまた」あるいは、「荘子儀もやはり」と解してよいと思います。
ですが、「死人毋知亦已」は荘子儀の言葉そのものです。
常識的には、以前の別の例を念頭に置いて「やはり」とは表現できないところです。
また、色々と評価の考えられる中で、荘子儀がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものとも考えにくいでしょう。

しかし、荘子儀の言葉は、彼が自ら語ったものではなく、墨子の口を借りて表現された、あるいはこの『明鬼下』を記録した記録者の筆を借りて表現されたものです。
杜伯の事件を述べた後、ほとんど離れぬ位置にあって、さらにほぼ同じ内容の荘子儀の事件を表現するにあたり、前項の内容が念頭に残っていて、「前に述べたのと同じようにやはり」と表現した可能性はないでしょうか。
つまり、「死人に知がなければ、杜伯がそう言ったのと同様、これもまたそれまでのこと」です。

尹君が「文意も構文も完全に同じ」ことを理由に「則」と「亦」の字義が通じると論じた、まったく同じ事情から、2つの文が「文意も構文も完全に同じ」で近接した位置で述べられているからこそ、前者でなく後者の方で「亦」が用いられているのではないだろうかと、私には思えるのです。
まさに臆説というべきかもしれませんが。

再考:「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?・1

(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その1。)

3年前のエントリーになりますが、「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という記事を書きました。
今、「亦」の字の働きを考えていくことを通して、明らかにその当時の記事に考察の誤りや不備があることに気づきましたので、改めて書き直してみたいと思います。

問題の論点は、『東田文集』所載の『中山狼伝』の最終場面で、東郭先生に助けを求められた老人が、狼の言い分も聞いた上で、

・果如是、是羿亦有罪焉。

と明言しますが、この表現が、もとになった『孟子』の文と「亦」の字の位置が異なるところにあります。
老人の言葉は「果たして是(か)くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読み、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」という意味になります。

ところが、もとになった『孟子』には、

・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(▽逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)

とあり、『中山狼伝』の「羿亦」が、『孟子』では「亦羿」になっています。

羿亦有罪焉。(東田文集)
亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)

この異同がなぜ起こったのかと、「亦」の字の位置により、どのように意味が異なるのかについて考察したのが前エントリーでした。

その折、次のように書きました。

「そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。」

これは、「則」の「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)、「AはBする・AはBである」という分説の対極にある、「亦」の合説の用法になります。
つまり、「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)、「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表します。
すなわち、

・狼有罪、東郭先生有罪。
(狼に罪があり、東郭先生にも罪がある。)

です。
この東郭先生を孟子の言葉を借りて「羿」に置き換えているわけです。

さて、おかしくなってくるのが、次のくだりからです。

「しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。」

当時私は、「亦」の働きを「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」とのみ考えていたために、このようなおかしなことを書くことになったわけですが、孟子の言葉は、もちろん「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味ではありません。

この後、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を手がかりに、「亦」が「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると結論付け、「教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪がある」と述べたのが孟子の趣旨だとしました。

しかし、孟子の言葉はそのような意味ではなく、教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をもった羿について色々と評価の考えられる中で、孟子がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものでしょう。
つまり、「是亦羿有罪焉。」とは、「これはやはり羿に罪があるのだ」です
明治書院『新釈漢文大系4 孟子』は「これは羿にもやはり罪がある。」と訳していますが、「羿にも」の意味ではないと思います。

さらに私は次のように述べています。

「「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、

亦有仁義而已矣。

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。」

これがもはや私の中で否定されていることは、前エントリーで述べました。
中国の虚詞詞典や、岩波文庫『孟子』の記述を鵜呑みにして自分で検証しようともせず、そういう働きがあるのだと思い込んだ「極めて危険な判断」だったかもしれません。
我ながら情けない恥ずかしい判断だったと今は思います。

前エントリーで私が最終的な判断を下した材料として、尹君『文言虚词通释』の説明を採用したのですが、そのことについても今はどうだろうか…と思えてきます。
それについては、項を改めて書いてみたいと思います。

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