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再考:「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?・1

(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その1。)

3年前のエントリーになりますが、「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という記事を書きました。
今、「亦」の字の働きを考えていくことを通して、明らかにその当時の記事に考察の誤りや不備があることに気づきましたので、改めて書き直してみたいと思います。

問題の論点は、『東田文集』所載の『中山狼伝』の最終場面で、東郭先生に助けを求められた老人が、狼の言い分も聞いた上で、

・果如是、是羿亦有罪焉。

と明言しますが、この表現が、もとになった『孟子』の文と「亦」の字の位置が異なるところにあります。
老人の言葉は「果たして是(か)くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読み、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」という意味になります。

ところが、もとになった『孟子』には、

・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(▽逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)

とあり、『中山狼伝』の「羿亦」が、『孟子』では「亦羿」になっています。

羿亦有罪焉。(東田文集)
亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)

この異同がなぜ起こったのかと、「亦」の字の位置により、どのように意味が異なるのかについて考察したのが前エントリーでした。

その折、次のように書きました。

「そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。」

これは、「則」の「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)、「AはBする・AはBである」という分説の対極にある、「亦」の合説の用法になります。
つまり、「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)、「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表します。
すなわち、

・狼有罪、東郭先生有罪。
(狼に罪があり、東郭先生にも罪がある。)

です。
この東郭先生を孟子の言葉を借りて「羿」に置き換えているわけです。

さて、おかしくなってくるのが、次のくだりからです。

「しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。」

当時私は、「亦」の働きを「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」とのみ考えていたために、このようなおかしなことを書くことになったわけですが、孟子の言葉は、もちろん「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味ではありません。

この後、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を手がかりに、「亦」が「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると結論付け、「教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪がある」と述べたのが孟子の趣旨だとしました。

しかし、孟子の言葉はそのような意味ではなく、教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をもった羿について色々と評価の考えられる中で、孟子がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものでしょう。
つまり、「是亦羿有罪焉。」とは、「これはやはり羿に罪があるのだ」です
明治書院『新釈漢文大系4 孟子』は「これは羿にもやはり罪がある。」と訳していますが、「羿にも」の意味ではないと思います。

さらに私は次のように述べています。

「「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、

亦有仁義而已矣。

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。」

これがもはや私の中で否定されていることは、前エントリーで述べました。
中国の虚詞詞典や、岩波文庫『孟子』の記述を鵜呑みにして自分で検証しようともせず、そういう働きがあるのだと思い込んだ「極めて危険な判断」だったかもしれません。
我ながら情けない恥ずかしい判断だったと今は思います。

前エントリーで私が最終的な判断を下した材料として、尹君『文言虚词通释』の説明を採用したのですが、そのことについても今はどうだろうか…と思えてきます。
それについては、項を改めて書いてみたいと思います。

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