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使役は兼語文か?(「隗より始めよ」から)

(内容:かつて論じた「使役文は兼語文か?」について、「隗より始めよ」の例文から再論する。)

昨秋、「使役文は兼語文か?」というエントリーを4回にわたって書きました。
「A使BC」(A BをしてCせしむ)という使役文が、「ABを使す」と「BCす」の2文が1文化したものとする通説に、疑問を呈したものです。
とはいえ、その後も疑問を感じるものの授業では通説に従い、この形式を兼語文として教えてきました。
しかし、どこかで「使」は「して」(~に)であって「しむ」(~させる)ではないのではないか?という意識が働いていました。

そしてこの夏、教職大学院実習で1年生の漢文の授業を担当してもらうことにし、いわゆる『十八史略』の「先づ隗より始めよ」を教材としました。
この作品は抑揚の形を学ぶ教材として強く意識されていたのですが、実習生の指導案を見ながら、おや?と思いました。

・古之君有以千金使涓人求千里馬者。
(▼古の君に千金を以つて涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。
 ▽昔の君主に、涓人に千金で千里の馬を買いに行かせた者がいた。)

この文が、いわゆる存在文と使役文からなるものなので、実習生はそれを理解しやすくなるようにそれぞれ分けて説明しようとしていたのですが、使役文として取り出した文が次の形になっていることに、ちょっと衝撃を受けました。

・以千金使涓人求千里馬。
(▼千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむ。)

これが、あれ?と思わせたのです。

『十八史略』のこの文は、その元になった『戦国策』では、次のようになっています。

・古之君人、有以千金求千里馬者、三年不能得。涓人言於君曰、「請求之。」(戦国策・燕一)
(▼古の君人に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず。涓人君に言ひて曰はく、「請ふ之を求めん。」と。
 ▽昔の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった。涓人が君に「どうかこれを探させて下さい。」と。)

同じ劉向の『新序』では、

・古人之君、有以千金求千里馬者、三年不能得、馬已死、買其骨五百金、反以報君。(新序・雑事三)
(▼古人の君に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず、馬已に死し、其の骨を五百金に買ひ、反りて以て君に報ず。
 ▽昔の人の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった、馬はすでに死んでいたが、その骨を五百金で買い、戻ってそれを君に報告した。)

となっており、話の設定が『戦国策』とは少し異なります。
あるいは、三年得られなかった段階で、涓人が「私が探します」と申し出た話が割愛されているのかもしれません。

ともあれ、『戦国策』も『新序』も、この箇所は使役の形をとっていません。
おかしいので、もしやと思い、『資治通鑑』を開いてみると、次のようになっています。

・古之人君有以千金使涓人求千里馬者、馬已死、買其首五百金而返。(資治通鑑・周紀三)
(▼古の人君に千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り、馬已に死し、其の首を五百金に買ひて返る。
 ▽昔の君主に千金で涓人に千里の馬を求めさせるものがいた、馬はすでに死んでいて、その首を五百金で買って帰ってきた。)

曾先之が何をもとにしてこの話を書いたのかは判然としませんが、『資治通鑑』が明確に使役の形をとっているところを見ると、あるいはこれが元だったのかもしれません。

私が何に驚いたのかというと、もしもこの使役文が兼語文だとすると、次の2文から構成されることになることです。

・(古之君)以千金使涓人。
・涓人求千里馬。

後文は「涓人が千里の馬を求める」で、何ら問題はありません。
しかし、前文は構造的に「(昔の君主が)千金で涓人を使役する」になってしまいます。
千金は涓人を使役するために用いたのではなく、あくまで千里の馬を購入するための資金です。
おかしいのではありませんか?

「千金で千里の馬を求めさせる」なら、次のようにならなければなりません。

・(古之君)使涓人。(昔の君主が涓人を使役する。)
・涓人以千金求千里馬。(涓人が千金で千里の馬を求める。)

この2文が兼語「涓人」を介して1文化し、

・(古之君)使涓人以千金求千里馬。
(▼(古の君)涓人をして千金を以て千里の馬を求めしむ。
 ▽(昔の君主が)涓人に千金で千里の馬を求めさせた。)

となる。
これが、兼語文の構造のはずではないでしょうか。

それなのに、「以千金」が「使」の前に置かれていることをどう説明すればよいのでしょう。
「使」を飛び越えて、「求」を修飾しているのだというのは、構造的に説明がつかないと、私には思えるのです。

北宋の司馬光が「以千金使涓人求千里馬」と書き、宋末元初の曾先之がそのままその表現を受け継いだ。
少なくともこの時代、この使役構造を兼語文のようには理解していなかったのかもしれません。

1例をもって決めつける愚は避けねばなりませんが、私にはやはり「使」は「して」であって、「使涓人」(涓人に)によって、後の「求」が使動態になっているのではないかと思えてきます。

使役文を兼語文とみなしておられる方々は、これをどのように説明されるのでしょうか。

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