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2021年05月の記事は以下のとおりです。

「則」と「即」について・1

(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その1。)

ひとしく「すなはち」と読む「則」と「即」がどのように意味が異なるのか、最近なかなか解決のつかない問題として頭を悩ませています。

このブログのページエントリーで、「『鴻門の会』・語法注解」を公開していますが、その中の一節、

・范増起、出召項荘、謂曰、「君王為人不忍、若入前為寿、寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘入為寿、寿畢、曰、「君王与沛公飲、軍中無以為楽、請以剣舞。」
(▼范増起ち、出でて項荘を召し、謂ひて曰はく、「君王人と為り忍びず、若入り前(すす)みて寿を為し、寿畢(を)はらば、剣を以て舞はんことを請ひ、因りて沛公を坐に撃ち、之を殺せ。不(しから)ずんば、若が属皆且(まさ)に虜とする所と為らんとす」と。荘則ち入りて寿を為し、寿畢はりて、曰はく、「君王沛公と飲むも、軍中に以て楽を為す無し、請ふ剣を以て舞はん」と。
 ▽范増は立ち上がり、(宴会場を)出て項荘を呼び寄せ、(彼に)告げて、「君王(=項王)は人柄が無慈悲ではない、お前が(中に)入り進み出て長寿の祝いをし、長寿の祝いが終わったら、剣で舞うことを求め、その機に沛公を席上に斬りつけ、彼を殺せ。そうしなければ、お前たちはみな捕虜になるであろう」と言った。項荘はすぐに(会場に)入り長寿の祝いをし、祝いが終わると、「君王は沛公と飲んでいらっしゃるが、軍中には音楽をなす手立てがありませんので、どうか剣で舞わせてください」と言った。)

この場面で、「荘入為寿」の「則」について、

「則」は、即時を表す時間副詞。「即」に通じる。すぐに。

と注をつけました。
しかし、今読み返すと、不用意な注に思えます。

「則」が「即」に通じるというのは、各種虚詞詞典にも見られるものですが、しかし、ここの「則」は、本当に「すぐに」の意であったでしょうか。

たとえば、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「則」の副詞の用法として、次のように記載されています。

时间副词。用在后一动词谓语之前作状语,表示与前面的动作行为时间相距很近。可译为“就”、“便”等。
(時間副詞。後の動詞謂語の前で用いられて状語となり,前の動作行為と時間がとても接近していることを表す。“就”、“便”(すぐに・ただちに)などと訳せる。)

そしていくつか例が挙がっている中に、次の例がありました。

(1)於是至囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(史記・項羽本紀)
(▼是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九戦し、……大いに之を破る。
 ▽そこで(鉅鹿に)至るとすぐに王離の軍を包囲し,秦軍とあって,九回戦い,……大いにこれを打ち破った。)

(2)項王受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(史記・項羽本紀)
(▼項王則ち璧を受け,之を坐上に置く。亜父玉斗を受け,之を地に置き,剣を抜き撞きて之を破る。
 ▽項王はすぐに璧を受け,それを座のそばに置いた。亜父は玉斗を受け、それを地に置き、剣を抜き突いてそれを壊した。)

この(2)の「項王則受璧」についても、拙「語法注解」では、

「則」は、時間副詞。前に述べられたことと、動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。張良の話を聞き終わり、すぐに受け取ったということ。次の范増とは異なり、こだわりなくすぐに受け取ったわけである。

などと述べてしまったのですが…

しかし、この「項王則受璧」の「則」も、本当に「即」に通じて「すぐに」という意味を表しているのでしょうか。

参考書を開いてみると、「則」の働きとしてさまざまなものが挙げてあります。
「ただ」と範囲を限定する働きだとか、強意の用法だとか、「即」に通じて「すぐに」の意味を表すだとか。

中国の各種虚詞詞典にも同様の記述が見られます。
まず、最初の範囲副詞としての働きですが、

・口耳之間則四寸耳。(荀・勧学)
(▼口耳の間は則ち四寸のみ。)

この例は何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に示されているものですが、範囲を限定しているのは、語気詞「耳」の働きではないでしょうか。
このような語気詞が伴わず、「則」だけで範囲を表す例を示さない限り、「則」が範囲副詞として機能していることを証明し得ないでしょう。

さて、最近は中国の虚詞詞典に書かれているからといって、それを鵜呑みにはできないという思いを強くしています。
前後の文脈からそのように解釈すれば、合理的に説明できるわけですが、それはその字の真の働きとは限らないでしょう。
そういうふうに自分を戒め、安易な判断はしないでおこうと心していたのですが、拙「『鴻門の会』・語法注解」では、うっかりそれをやってしまったわけです。
もう一度考え直しです。

「則」と「即」が相通じるという話でよく例に出されるのが、次の文です。

・先制人、後為人所制。(史記・項羽本紀)

普通は「先んずれば即ち人を制し、後(おく)るれば則ち人の制する所と為る。」と読まれています。
「後為人所制」は、「人より遅れれば人に支配される」の意で、「則」は本来の働き「その場合は」という意味を表しています。
それの対になっているから「先制人」は「人より先に動けば人を支配する」と解して、この「即」は「則」と同義で用いられているとされるわけです。
また、同じ字を重ねて用いることを避けるために、「即」と「則」を用いたとも説明されることがあります。

そのように説明されれば、なるほどと思ってしまうわけですが…

しかし、たとえば「すぐに」の意味で本来「即」を用いるべき箇所で、あえて「則」を用いる理由はなぜでしょうか。
「荘入為寿」や「項王受璧、置之坐上」の「則」は、「即」との重複を避けるために用いられているわけではありません。
前後の文脈上、もし「則」を「即」の意に解すれば、「すぐに」という解釈が可能になりますが、「則」の字そのものの機能として検討するという過程が必要なのではないでしょうか。

「則」の字は、その成り立ちが、「刀で傷つける」意とも「基準に照らして器の肉を切り分ける」意とも「器に刀を添える」意ともいわれます。
転じて「法則」「規則」の意に用いられます。
その原義が、虚詞「則」の働きに通じているはずです。
「A則B」(AすればBする)は、「Aする場合はBする」との法則に基づくもので、「則」本来の機能として納得いくものです。
「後為人所制」は、「遅れる場合→人に支配される」の構造になっているわけで、「則」の機能からずれるものではありません。

一方、「即」の字は、「食卓につく」が原義の字で、接着が基本義です。
時間的な接着を表せば、「すぐに」という意味になるわけです。
Aは接着してB、つまり「A即B」(A即ちBなり)の形で判断を表して「AはつまりBである」「AはとりもなおさずBである」という意味を表すこともあります。
また、Aすることに接着してBすることが起きる場合なら、前に述べた条件で必ず次の事が起きる必定を表すことになります。
これらはいずれも接着を基本義とする「即」の字本来の機能です。

この最後の用法が、「法則」を原義とする「則」に似ているわけです。
しかし、同じでしょうか?
つまり、「先制人」と「後為人所制」は、同じ関係なのでしょうか?
私には、「先んずる」ことがそのまま「人を支配する」ことに接着するのであって、「先んずる」場合は「人を支配する」というのとは違うように思えるのです。

このことについて、松下大三郎氏は『標準漢文法』で次にように述べています。

「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。
   先ンズル即制人、後ルレバ則為人所制。
   (2例省略)
これらの「即」は「則」を代入することが出來るから「即」と「則」が相通ずる樣だが、併し「即」には「は」の意義がない。「則」と「即」とを區別して讀めば
   先則制人……先んずれば則ち人を制す
   先即制人……先んずる即ち人を制す
   (2例省略)
の如くいふべきである。

氏の「先んずる即ち人を制す」をきちんと理解できているかどうか自信はありませんが、少なくとも私も「先則制人」と「先即制人」は違うように思えるのです。

直接読んだわけではないので不適切かもしれませんが、古人が同じ字を重ねて用いることを避けるということについて、鮑善淳氏の『漢文をどう読みこなすか』(日中出版1986)に、そのような記述があるそうです。
しかし、私がつくったデータベースで検索をかけると、同じ「則」を連続して用いる例は山のようにヒットします。
たとえば、

・利進、不利退。(史記・匈奴列伝)
(▼利なれば則ち進み、利ならざれば則ち退く。
 ▽有利であれば進み、不利であれば退却する。)

・諸侯而驕人失其国、大夫而驕人失其家。(史記・魏世家)
(▼諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。
 ▽諸侯で人に傲慢であればその国を失い、大夫で人に傲慢であればその家を失う。)

・富貴親戚畏懼之、貧賤軽易之。(史記・蘇秦列伝)
(▼富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賤なれば則ち之を軽易す。
 ▽富貴であれば親戚もこれを恐れ、貧賤であればこれを侮る。)

『史記』だけでも多く見られる用例の中から3例ほど示しました。
まして他の文献の用例となると膨大な量になります。
同じ字を重ねて用いることを避けるということはあるかもしれませんが、必ずしもそうとも限らないのはこれで明らかです。
つまり、「先制人、後為人所制」を、「先制人、後為人所制」と表現することは十分可能だったはずですが、会稽守の殷通は俚諺として「先制人、後為人所制」と聞き伝え、司馬遷も「先制人、後為人所制」と表現したのです。

私は「先即制人、後則為人所制」は、「人より先に動くことがとりもなおさず人を支配する、(ところが)人より遅れれば人に支配される」という意味ではないかと思います。

いったんここでお時間をいただいて、次は「項王則受璧」などについて考察してみたいと思います。

孟子「性善(湍水の説)」の「今夫」の意味は?

(内容:孟子の湍水の説に見られる「今夫水搏而躍之」の「今夫」の意味について考察する。)

3年生の古典で思想を扱おうとして、まずは教科書の孟子を読んでいました。
その代表的な思想「性善説」がいわゆる「湍水の説」で、以前のエントリーにも述べたように、これは孟子の詭弁ですから、どうだかなあという思いは拭えません。
なぜ「四端の説」ではないのだろうと思うのですが。

そんなふうに思っていると、若い同僚から質問を受けました。

今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
(▼今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍らさば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)らば、山に在らしむべし。
 ▽[今夫]水を手でたたいて跳ね上げれば、額(の高さ)を越えさせることができ、強い力を加えて逆流させれば、山(の頂)に登らせることもできる。)

この「今夫」はどういう意味なのですか?という質問です。
私は、これについて考えたことがなく、「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」だと思っていたのですが、同僚は自分なりに色々調べたものの考えあぐねて質問してこられたのでしょう。

調べたらどう書いてあったのか?と問うと、ある書に「今夫」は「今かりに」という意味だと書いてあったそうです。
「夫」は文頭に置く強意の助字だとのこと。

「今」が仮定を表すというのはともかくとして、「夫」についての記述は、なにかタネ本がありそうな気がします。
いつもなら、まずそれをつきとめることから始めるのですが、残念ながら本校はこの春から全面改築工事に突入し、ほとんどすべての書籍が段ボールの中で、参照することができません。

タネ本がつきとめられないのは残念ですが、要するにこの「今夫」を「今かりに」と解釈して、「夫」の働きは文意を強めるものとして、解釈には反映させていません。
しかし、これには私の方が首をかしげてしまいました。

そもそも「夫」という字は「大」に簪(かんざし)を意味する「一」を加えたもので、「成年男子・一人前の男子」を指すのが本義です。
この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「夫」が「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになったのだと思われます。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものでしょう。
ですから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思います。
私が「今夫」の意味を「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」の意だと考えていたと書いたのは、前者は「今夫(そ)レ」、後者は「今夫(か)ノ」と読み分けるにせよ、根は同じだと思っていたからです。
ところが、文頭に置いて文意を強める助字で済まされてしまうと、またぞろ怪しげに思えてくるのです。

何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられています。

语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用。表判断或议论的部分常有语气词“也”、“者也”(有时有“矣”、“乎”等)位于末尾,与句首的“夫”配合呼应,形成一个整体。不必具体译出。
(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。“夫”が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある。判断や議論を表す部分には多く語気詞“也”、“者也”(“矣”、“乎”の場合もある)が末尾に置かれ、文頭の“夫”と組み合わさり呼応して、一つの全体形式を構成する。具体的に訳出する必要はない。)

ここに確かに「強調」という文字は出てくるのですが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているとして、「文意を強める」と述べているわけではありません。
湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べているのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとはとても思えません。

ここで文法について考える時、最近必ず参照する松下大三郎氏の『標準漢文法』の記述を紹介します。

夫 「夫」は「それ」と読む。これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば「いや何だよ」位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で「夫」だけならば「いや何だよ」と解し、「且夫」は「其れに何だよ」と解すれば善い。日本語で「何だよ」と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである。

氏は語気という言い方はされていませんが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのです。

私も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思います。
そしてそれは前述したように、もともと指示代詞としての働きから転じたものでしょう。

さて、「今夫」の「今」については、虚詞詞典ではよく「今かりに」と仮定を表すとされるのですが、要するに仮定で用いられる連詞とみなす考え方です。
私などは、「今」はやはり今であって、働きに応じて副詞だとか連詞だとか品詞まで分けて考えることはないだろうと思うのですが。
いくつか参考書を見ると、「今」の意味として、「今~ならば」という仮定の用法や、「ところが今」などの現状が異なることを示す働きなどが紹介されています。

日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないでしょうか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものでしょうか。

ところで、同僚が調べた結果では、この「湍水の説」の「今」を「今かりに」と解していたということでは、私はどうだかなと思います。
「今かりに」ではなく、あえて言うなら「ところが今」でしょう。
孟子は、水の本来の性質として、上から下へと流れるものであるとして、次のように述べています。

・水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。
(▼水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざるもの有ること無く、水下らざるもの有ること無し。

通常、このように読まれていますが、私の読みと解釈なら、次のようになります。

▼水は信に東西に分かるること無きも、上下に分かるること無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。
▽水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることはないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下へと流れるのに似ているのだ。人は善でないということがあることなどなく、水は下へ流れないということがあることなどない。

いずれにしても、孟子はここで水の本来の性質を上から下へ流れるものと示したのです。
その直後に「今夫」が置かれ、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられるのです。

「今かりに」でしょうか?
私はやはり「ところが今」だと思います。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味だと思うのです。

今ひとつ、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)には、「今夫」の項目において、次のように述べられています。

句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。
(文頭の語気詞の連続して用いる形式。“今”はもともと時間名詞であり,“夫”はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。)
“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。
(“今夫”は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。)
如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。
(もしそのすぐ後が名詞であれば、“夫”字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。)
从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等。
(前後の文の関係から見ると,“今夫”が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々。)

概ね、私の考えと一致しています。
・もともとの成り立ちが時間名詞と指示代詞であったということ
・文頭で用いられて、議論を発表する語気を表すこと
・時として「夫」が直後の名詞に対して、指示代詞の働きを残しているということ
・前後の文脈からいくつかの性質を帯びること

ですから、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではないでしょう。
あくまで使い方の問題なのではないでしょうか。

また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもしますが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられます。

通常の場合、「水は下へ流れないということがあることなどない」と、強く言い切った後の文脈での「今夫水~」は、「今あの水は」と来る文の流れは、「今かりに水は」が自然でしょうか?
文脈からなら逆接で、「ところが今そもそもその水も」ぐらいの感じでしょうか。

私には、「湍水の説」の「今夫」は、「今かりに」の意で「夫」が文意を強めているというふうには思えません。
「今」はあくまで今であって、文脈から「ところが今」、「夫」は指示代詞の働きを残しつつ、これから議論を述べる語気を表しているものだと思います。

それこそ松下氏の表現を借りれば、「しかし今、何だよ、水は手で打って跳ね上がらせれば…」と、通常とは逆のことを言おうとした状況ではないでしょうか。

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