孟子「性善(湍水の説)」の「今夫」の意味は?
- 2021/05/06 07:45
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:孟子の湍水の説に見られる「今夫水搏而躍之」の「今夫」の意味について考察する。)
3年生の古典で思想を扱おうとして、まずは教科書の孟子を読んでいました。
その代表的な思想「性善説」がいわゆる「湍水の説」で、以前のエントリーにも述べたように、これは孟子の詭弁ですから、どうだかなあという思いは拭えません。
なぜ「四端の説」ではないのだろうと思うのですが。
そんなふうに思っていると、若い同僚から質問を受けました。
・今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
(▼今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍らさば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)らば、山に在らしむべし。
▽[今夫]水を手でたたいて跳ね上げれば、額(の高さ)を越えさせることができ、強い力を加えて逆流させれば、山(の頂)に登らせることもできる。)
この「今夫」はどういう意味なのですか?という質問です。
私は、これについて考えたことがなく、「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」だと思っていたのですが、同僚は自分なりに色々調べたものの考えあぐねて質問してこられたのでしょう。
調べたらどう書いてあったのか?と問うと、ある書に「今夫」は「今かりに」という意味だと書いてあったそうです。
「夫」は文頭に置く強意の助字だとのこと。
「今」が仮定を表すというのはともかくとして、「夫」についての記述は、なにかタネ本がありそうな気がします。
いつもなら、まずそれをつきとめることから始めるのですが、残念ながら本校はこの春から全面改築工事に突入し、ほとんどすべての書籍が段ボールの中で、参照することができません。
タネ本がつきとめられないのは残念ですが、要するにこの「今夫」を「今かりに」と解釈して、「夫」の働きは文意を強めるものとして、解釈には反映させていません。
しかし、これには私の方が首をかしげてしまいました。
そもそも「夫」という字は「大」に簪(かんざし)を意味する「一」を加えたもので、「成年男子・一人前の男子」を指すのが本義です。
この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「夫」が「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになったのだと思われます。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものでしょう。
ですから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思います。
私が「今夫」の意味を「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」の意だと考えていたと書いたのは、前者は「今夫(そ)レ」、後者は「今夫(か)ノ」と読み分けるにせよ、根は同じだと思っていたからです。
ところが、文頭に置いて文意を強める助字で済まされてしまうと、またぞろ怪しげに思えてくるのです。
何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられています。
语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用。表判断或议论的部分常有语气词“也”、“者也”(有时有“矣”、“乎”等)位于末尾,与句首的“夫”配合呼应,形成一个整体。不必具体译出。
(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。“夫”が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある。判断や議論を表す部分には多く語気詞“也”、“者也”(“矣”、“乎”の場合もある)が末尾に置かれ、文頭の“夫”と組み合わさり呼応して、一つの全体形式を構成する。具体的に訳出する必要はない。)
ここに確かに「強調」という文字は出てくるのですが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているとして、「文意を強める」と述べているわけではありません。
湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べているのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとはとても思えません。
ここで文法について考える時、最近必ず参照する松下大三郎氏の『標準漢文法』の記述を紹介します。
夫 「夫」は「それ」と読む。これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば「いや何だよ」位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で「夫」だけならば「いや何だよ」と解し、「且夫」は「其れに何だよ」と解すれば善い。日本語で「何だよ」と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである。
氏は語気という言い方はされていませんが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのです。
私も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思います。
そしてそれは前述したように、もともと指示代詞としての働きから転じたものでしょう。
さて、「今夫」の「今」については、虚詞詞典ではよく「今かりに」と仮定を表すとされるのですが、要するに仮定で用いられる連詞とみなす考え方です。
私などは、「今」はやはり今であって、働きに応じて副詞だとか連詞だとか品詞まで分けて考えることはないだろうと思うのですが。
いくつか参考書を見ると、「今」の意味として、「今~ならば」という仮定の用法や、「ところが今」などの現状が異なることを示す働きなどが紹介されています。
日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないでしょうか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものでしょうか。
ところで、同僚が調べた結果では、この「湍水の説」の「今」を「今かりに」と解していたということでは、私はどうだかなと思います。
「今かりに」ではなく、あえて言うなら「ところが今」でしょう。
孟子は、水の本来の性質として、上から下へと流れるものであるとして、次のように述べています。
・水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。
(▼水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざるもの有ること無く、水下らざるもの有ること無し。
通常、このように読まれていますが、私の読みと解釈なら、次のようになります。
▼水は信に東西に分かるること無きも、上下に分かるること無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。
▽水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることはないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下へと流れるのに似ているのだ。人は善でないということがあることなどなく、水は下へ流れないということがあることなどない。
いずれにしても、孟子はここで水の本来の性質を上から下へ流れるものと示したのです。
その直後に「今夫」が置かれ、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられるのです。
「今かりに」でしょうか?
私はやはり「ところが今」だと思います。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味だと思うのです。
今ひとつ、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)には、「今夫」の項目において、次のように述べられています。
句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。
(文頭の語気詞の連続して用いる形式。“今”はもともと時間名詞であり,“夫”はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。)
“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。
(“今夫”は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。)
如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。
(もしそのすぐ後が名詞であれば、“夫”字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。)
从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等。
(前後の文の関係から見ると,“今夫”が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々。)
概ね、私の考えと一致しています。
・もともとの成り立ちが時間名詞と指示代詞であったということ
・文頭で用いられて、議論を発表する語気を表すこと
・時として「夫」が直後の名詞に対して、指示代詞の働きを残しているということ
・前後の文脈からいくつかの性質を帯びること
ですから、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではないでしょう。
あくまで使い方の問題なのではないでしょうか。
また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもしますが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられます。
通常の場合、「水は下へ流れないということがあることなどない」と、強く言い切った後の文脈での「今夫水~」は、「今あの水は」と来る文の流れは、「今かりに水は」が自然でしょうか?
文脈からなら逆接で、「ところが今そもそもその水も」ぐらいの感じでしょうか。
私には、「湍水の説」の「今夫」は、「今かりに」の意で「夫」が文意を強めているというふうには思えません。
「今」はあくまで今であって、文脈から「ところが今」、「夫」は指示代詞の働きを残しつつ、これから議論を述べる語気を表しているものだと思います。
それこそ松下氏の表現を借りれば、「しかし今、何だよ、水は手で打って跳ね上がらせれば…」と、通常とは逆のことを言おうとした状況ではないでしょうか。
3年生の古典で思想を扱おうとして、まずは教科書の孟子を読んでいました。
その代表的な思想「性善説」がいわゆる「湍水の説」で、以前のエントリーにも述べたように、これは孟子の詭弁ですから、どうだかなあという思いは拭えません。
なぜ「四端の説」ではないのだろうと思うのですが。
そんなふうに思っていると、若い同僚から質問を受けました。
・今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
(▼今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍らさば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)らば、山に在らしむべし。
▽[今夫]水を手でたたいて跳ね上げれば、額(の高さ)を越えさせることができ、強い力を加えて逆流させれば、山(の頂)に登らせることもできる。)
この「今夫」はどういう意味なのですか?という質問です。
私は、これについて考えたことがなく、「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」だと思っていたのですが、同僚は自分なりに色々調べたものの考えあぐねて質問してこられたのでしょう。
調べたらどう書いてあったのか?と問うと、ある書に「今夫」は「今かりに」という意味だと書いてあったそうです。
「夫」は文頭に置く強意の助字だとのこと。
「今」が仮定を表すというのはともかくとして、「夫」についての記述は、なにかタネ本がありそうな気がします。
いつもなら、まずそれをつきとめることから始めるのですが、残念ながら本校はこの春から全面改築工事に突入し、ほとんどすべての書籍が段ボールの中で、参照することができません。
タネ本がつきとめられないのは残念ですが、要するにこの「今夫」を「今かりに」と解釈して、「夫」の働きは文意を強めるものとして、解釈には反映させていません。
しかし、これには私の方が首をかしげてしまいました。
そもそも「夫」という字は「大」に簪(かんざし)を意味する「一」を加えたもので、「成年男子・一人前の男子」を指すのが本義です。
この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「夫」が「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになったのだと思われます。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものでしょう。
ですから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思います。
私が「今夫」の意味を「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」の意だと考えていたと書いたのは、前者は「今夫(そ)レ」、後者は「今夫(か)ノ」と読み分けるにせよ、根は同じだと思っていたからです。
ところが、文頭に置いて文意を強める助字で済まされてしまうと、またぞろ怪しげに思えてくるのです。
何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられています。
语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用。表判断或议论的部分常有语气词“也”、“者也”(有时有“矣”、“乎”等)位于末尾,与句首的“夫”配合呼应,形成一个整体。不必具体译出。
(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。“夫”が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある。判断や議論を表す部分には多く語気詞“也”、“者也”(“矣”、“乎”の場合もある)が末尾に置かれ、文頭の“夫”と組み合わさり呼応して、一つの全体形式を構成する。具体的に訳出する必要はない。)
ここに確かに「強調」という文字は出てくるのですが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているとして、「文意を強める」と述べているわけではありません。
湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べているのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとはとても思えません。
ここで文法について考える時、最近必ず参照する松下大三郎氏の『標準漢文法』の記述を紹介します。
夫 「夫」は「それ」と読む。これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば「いや何だよ」位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で「夫」だけならば「いや何だよ」と解し、「且夫」は「其れに何だよ」と解すれば善い。日本語で「何だよ」と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである。
氏は語気という言い方はされていませんが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのです。
私も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思います。
そしてそれは前述したように、もともと指示代詞としての働きから転じたものでしょう。
さて、「今夫」の「今」については、虚詞詞典ではよく「今かりに」と仮定を表すとされるのですが、要するに仮定で用いられる連詞とみなす考え方です。
私などは、「今」はやはり今であって、働きに応じて副詞だとか連詞だとか品詞まで分けて考えることはないだろうと思うのですが。
いくつか参考書を見ると、「今」の意味として、「今~ならば」という仮定の用法や、「ところが今」などの現状が異なることを示す働きなどが紹介されています。
日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないでしょうか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものでしょうか。
ところで、同僚が調べた結果では、この「湍水の説」の「今」を「今かりに」と解していたということでは、私はどうだかなと思います。
「今かりに」ではなく、あえて言うなら「ところが今」でしょう。
孟子は、水の本来の性質として、上から下へと流れるものであるとして、次のように述べています。
・水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。
(▼水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざるもの有ること無く、水下らざるもの有ること無し。
通常、このように読まれていますが、私の読みと解釈なら、次のようになります。
▼水は信に東西に分かるること無きも、上下に分かるること無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。
▽水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることはないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下へと流れるのに似ているのだ。人は善でないということがあることなどなく、水は下へ流れないということがあることなどない。
いずれにしても、孟子はここで水の本来の性質を上から下へ流れるものと示したのです。
その直後に「今夫」が置かれ、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられるのです。
「今かりに」でしょうか?
私はやはり「ところが今」だと思います。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味だと思うのです。
今ひとつ、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)には、「今夫」の項目において、次のように述べられています。
句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。
(文頭の語気詞の連続して用いる形式。“今”はもともと時間名詞であり,“夫”はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。)
“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。
(“今夫”は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。)
如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。
(もしそのすぐ後が名詞であれば、“夫”字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。)
从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等。
(前後の文の関係から見ると,“今夫”が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々。)
概ね、私の考えと一致しています。
・もともとの成り立ちが時間名詞と指示代詞であったということ
・文頭で用いられて、議論を発表する語気を表すこと
・時として「夫」が直後の名詞に対して、指示代詞の働きを残しているということ
・前後の文脈からいくつかの性質を帯びること
ですから、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではないでしょう。
あくまで使い方の問題なのではないでしょうか。
また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもしますが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられます。
通常の場合、「水は下へ流れないということがあることなどない」と、強く言い切った後の文脈での「今夫水~」は、「今あの水は」と来る文の流れは、「今かりに水は」が自然でしょうか?
文脈からなら逆接で、「ところが今そもそもその水も」ぐらいの感じでしょうか。
私には、「湍水の説」の「今夫」は、「今かりに」の意で「夫」が文意を強めているというふうには思えません。
「今」はあくまで今であって、文脈から「ところが今」、「夫」は指示代詞の働きを残しつつ、これから議論を述べる語気を表しているものだと思います。
それこそ松下氏の表現を借りれば、「しかし今、何だよ、水は手で打って跳ね上がらせれば…」と、通常とは逆のことを言おうとした状況ではないでしょうか。