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新年のご挨拶

  • 2025/01/03 14:20
  • カテゴリー:その他
(内容:2025年新年のご挨拶。)

注連縄の画像

みなさま、新年おめでとうございます。
漢文や漢文教育に興味をおもちの皆様に、少しでもお役に立ちたいとの思いで、このブログを公開しております。

ところが、旧年は再雇用でありながら、とても再雇用とは思えないほど公務が忙しく、まともに情報発信もできない体たらくでございました。
あるいは、寄る年波にこれまでのような気力が満ちてこないという現実もあるかもしれません。

しかしながら、そのようなことでは駄目で、まともな探究活動とは、無理に疑問をこさえて、ネットで情報を集めて貼り合わせることではなく、ちょっとした身近な「なぜだろう?」の思いをもって、調べに調べ、考えに考え抜く作業なのだという姿を、若い学生たちに見せていきたいものだと思っています。
再雇用もあと1年、気力をふりしぼって、頑張っていきたいと思います。

たいした目新しい情報もないブログではございますが、今年もよろしくお願い致します。

『臥薪嘗胆』の「出入」と「即」について

(内容:『十八史略』の「臥薪嘗胆」に見られる「出入」と「即」の意味について考察する。)

教育実習で学生さんに『十八史略』の「臥薪嘗胆」を授業してもらうことになりました。
指導案を見ながら気になるところを確認していくわけですが、本文の解釈でいくつか疑問が生じたところをただしてみました。

1.「出入」の動作主

・夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、…(十八史略・春秋戦国)
(▼夫差讎を復せんと志し、朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく、…)
 ▽夫差は復讐しようと誓い、朝夕薪の中に伏せて、出入りの際、人に大声で言わせることには、…)

この「出入」について、学生さんは夫差の出入りだといいます。
調べた資料には、「出入」の動作主は夫差の部下とも夫差自身とも解せるが、文脈としては夫差とするのが自然であると書いてあったそうです。
私は、その「文脈として自然に解する」というのがよくわかりませんでしたが、あるいは、この一文を連動文として、先頭の「夫差」が「志」「臥」「出入」「使」の動作主であると考えているのかもしれません。

授業用の資料には大概タネ本がありますから、手許の参考書をいくつか見てみることにしました。

『漢詩・漢文解釈講座』(昌平社)は、この件についての言及はありませんでした。

『鑑賞 中国の古典⑧ 十八史略』(角川書店1989)には、注記はないものの、この箇所を「出入りの人にも『…(略)…』と言わせた。」と訳してありました。
これによれば、「出入」の動作主は夫差ではなく、部下だということになります。

私の恩師青木五郎先生が若い頃に高校生向きに書かれた『必修 史記・十八史略』(文研出版1976)を見ると、「側近の者が夫差の寝室に出入りすること。」と明記してあります。

また、タネ本の可能性が高い『研究資料漢文学8 歴史Ⅱ』(明治書院1993)には、「『出入』の主語は、(1)夫差、(2)人(家臣)、のどちらでも解釈できるが、ここでは(1)に解しておきたい。」と書かれています。

結論からいえば、本文だけでは『研究資料漢文学』にいうとおり、どちらとでも解釈できて、決め手にかけるわけです。
したがって、自由勝手に動作主を考えれば、色々と考えは生まれてきます。

もし「出入」の主語が夫差であったとしたら、夫差が寝室に出入りするごとに部下が大声で言うのですから、その部下は常に寝室、またはその入り口に待機することになります。
そんな役割に特化した部下を配置するでしょうか。
あるいは、夫差が寝室に出入りする時間帯に限定して夜間勤務になるのかもしれませんが。

また、「出入」の主語が部下であるとすれば、頻繁に出入りしてもらわないことには、大声で言わせる場面が生まれてこないことになりますが、部下というものは、王の寝室にそんなにちょくちょく出入りするものなのでしょうか。

結局のところ、どうとでも解釈できるというしかないのですが、しかし少なくとも作者は、どちらとでも解釈してくれという無責任な態度ではなかったはずです。

ご承知の通り、「臥薪嘗胆」の「臥薪」の部分については、呉王夫差が薪に臥したなどという記述は『史記』などの古典になく、「臥薪」という言葉自体が、いわゆる苦労を重ねることの意味で用いられたのは、北宋蘇軾の『擬孫権答曹操書』という文章が初見です。
ただ、「枕戈」(戈に枕す)という表現が杜甫の詩に越王句践に関連付けて用いられたり、宋代には「臥薪嘗胆」の四字句が用いられるようになったことも報告されています。(樋口敦士「故事成語「臥薪嘗胆」教材考―成立と受容の観点に照らして」)

しかし、夫差の「臥薪」の故事は見られなくても、作者が元としたであろう話は『春秋左氏伝』に見えます。

・夫差使人立於庭、苟出入、必謂己曰、「夫差、而忘越王之殺而父乎。」則対曰、「唯、不敢忘。」(春秋左氏伝・定公14年)
(▼夫差人をして庭に立たしめ、苟くも出入すれば、必ず己に謂はしめて曰はく、「夫差、而(なんぢ)は越王の而(なんぢ)の父を殺すを忘るるか。」と。則ち対へて曰はく、「唯(ゐ)、敢へて忘れず。」と。)
(▽夫差は人に庭に立たせ、かりにも出入りすれば、必ず自分に言わせることには、「夫差よ、お前は越王のお前の父を殺したことを忘れたか。」と。その際にきまってお答えすることには、「はい、忘れたりはいたしません。」と。

(この文、使役の兼語文と説明されるものとして見れば、なにやら怪しい構造をとっているように思えるのですが、それは今は措いておきます。)

『十八史略』のいわゆる十八の史書の中に『春秋左氏伝』は含まれていませんが、作者が見ていないはずはありません。
ここで用いられている「出入」が「人」(部下)の動作でなく、夫差の動作であることは、人が立たされていることから明らかです。

私が何を言いたいかというと、『十八史略』の「出入使人呼曰」という表現は、「臥薪」という新しい設定を用いてはいても、『左伝』の記述の延長上にある可能性が高いのではないかということです。
もし、そうだとすれば、部下を庭に立たせておいて、夫差が出入りするたびに、「越王がお前の父を殺したことを忘れたのか」と言わせたという『左伝』の記述から、『十八史略』の「出入」も夫差が動作主である可能性が高いのではないでしょうか。
わざわざ部下を庭に立たせておくことが設定としてあり得るなら、寝室の入り口に立たせておくことも、ない話ではなくなります。
夫差にとっては、それに人を割くほどに、重要事であったのかもしれません。

私は、文脈から「夫差」の動作だと読む方が自然だというのではなく、『左伝』の記事を背景にしている可能性から「夫差」の動作なのではないかと考えます。


2.「即」の意味

・句践反国、懸胆於坐臥、仰胆嘗之曰、「女忘会稽之恥邪。」(十八史略・春秋戦国)
(▼句践国に反(かへ)り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰はく、「女(なんぢ)会稽の恥を忘るるか。」と。)
(▽句践は国に帰り、(苦い)胆を座ったり寝たりするところにぶらさげ、[即ち]胆を仰いでそれをなめて言うことには、「お前は会稽の恥を忘れたのか。」と。

この「即」の意味も気になるところです。
学生さんに確認してみると、調べた資料には「すぐ」と書かれていたそうです。
どうあって「すぐ」なのか、わかりません。

『新釈漢文大系20 十八史略』(明治書院1967)には、語注はなく、訳も「苦い胆を寝起きする部屋に吊り下げておき、仰向いては胆を嘗め」とあり、「即」の直接的な訳はありません。

『鑑賞 中国の古典⑧ 十八史略』も語注なく、「(苦い)胆を寝起きする部屋にかけ、その胆をあおぎ見、これを嘗めては」と訳すばかりです。

『研究資料漢文学8 歴史Ⅱ』は、語注なく、「(苦い)胆を(自分の)寝起きするところにぶら下げておき、(いつも)仰ぎ見てはこれをなめて(自分を叱咤して)」と訳しています。
「いつも」というのは意味を補っただけで、「即」の訳ではないかもしれません。

恩師の『必修 史記・十八史略』には、「即」の注として、「上に『坐臥』が省略されていると考える。『起居するたびに、すぐに』の意。」と説明し、「寝起きする所に胆をつるし、(寝起きのたびに)すぐに胆を振り仰いでなめ、」と訳があります。

以前にも述べた通り、「即」という字は「食卓につく」が原義の字で、接着が基本義です。
時間的に接着すれば「すぐに」という意味になるし、事情が接着すれば「とりもなおさず」「つまり」などの意味になります。
あたかも多義語のように説明されることもありますが、基本はここから考えるべきでしょう。
しかし、「懸胆於坐臥、即仰胆嘗之」の場合、「胆を座ったり寝たりするところにぶらさげる」と「胆を仰いでそれをなめる」の2句をこれらの関係で説明することには無理があります。
だからなのか、訳本のどれもが「即」の訳を避けているのでしょうか。

ですが、恩師の「上に『坐臥』が省略されていると考える」には、理由があったのだと思います。

『史記』には、次のように書かれています。

・呉既赦越、越王句践反国。乃苦身焦思、置胆於坐、坐臥即仰胆、飲食亦嘗胆也。(史記・越王句践世家)
(▼呉既に越を赦し、越王句践国に反る。乃ち身を苦しめ思ひを焦がし、胆を坐に置き、坐臥する即ち胆を仰ぎ、飲食にも亦た胆を嘗むるなり。)
(▽呉がすでに越を許し、越王句践は国に帰った。そこで身を苦しめ思いを焦がし、胆を座右に置いて、坐臥するとすぐ胆を仰ぎ、飲食にも胆を嘗めた。)

『史記』には「坐臥即仰胆」という表現があり、その「即仰胆」を『十八史略』は取ったものとされたのでしょう。
『十八史略』の「即仰胆嘗之」が100%「坐臥即仰胆嘗之」の意であると断定することはもちろんできませんが、『史記』の表現を写し取っている可能性はかなり高いのではないかと思います。

そのように考えると、「懸胆於坐臥、即仰胆嘗之」の「即」をすんなり理解するのは難しいけれども、元にした文章からおそらく「すぐに」の意だと判断できることになり、独立した本文としてはどうなのだろうという気もします。
『四庫全書総目提要』が、諸本から史文を抄録しながらも、簡略に過ぎると評したのはこういうところを指摘したのかもしれません。


学生さんの実習指導のために「臥薪嘗胆」を見ていて、その過程で気になったことはまだほかにもあるのですが、それは別のエントリーで書いてみようと思います。

『孟子』注解 を公開しました

(内容:『孟子』の語法注解を「漢文教材・注解」のページにアップしたことの告知。)

この3月、勤務校である京都教育大学附属高等学校の研究紀要97号に『孟子』注解を投稿しました。

高等学校の現場の先生方や、もっと詳しく知りたい高校生のみなさんのお役に立てればと思います。

前稿の『史記』『論語』と同様、教科書によく載せられる題材を選び、主に語法の注を試みたものです。
ご参考にしていただければ、と思います。

相変わらず思考の過程を示しつつ書いたものですので、誤りもあろうかと思います。
ご教示を賜れば幸甚です。

右サイドのページエントリー「漢文教材(作品)・注解」、またはこちらからお入り下さい。

すべての蔵書をPDF化する

  • 2024/03/16 12:39
  • カテゴリー:その他
(内容:蔵書をすべてPDF化した話。)

まったくの余談なのですが…
最近、ようやくすべての蔵書のPDF化を完了しました。

勤務先で調べ物をしていて、「ああ、あの本は家の本棚のどこかにあったなぁ…」ということがよくありました。
狭い書斎の中、本棚はほぼ三重になっていて、どこにどの本を納めていたか覚えきれないし、一番奥になっている本などは、もう事実上読まれることもない。
本当に調べたい時に、手許にその書籍がないということはかなりのストレスでした。

13年前に父が亡くなった時、その膨大な書物や雑誌の処分に我々は大変な思いをしたのでしたが、同じ思いを我が子にさせたくないという思いもありました。

そこで2021年の夏から、蔵書のPDF化を始めたわけです。

蔵書のPDF化の写真

裁断機の導入も考えたのですが、これが意外にうまく裁断できないことを知り、すべての書籍を手で解体、小分けにした上でカッターナイフで裁断、ドキュメントスキャナー(ScnaSnap ix1600)でPDF化するという大変な難事業を続けました。
こういうのを自炊生活というそうです。

同じことを試みようと思っている人に、いくつかアドバイス。

1.絶対にカラーでスキャンした方がよい。
ファイルサイズを気にして、モノクロやグレースケールにすると、必ず後悔します。
スーパーファインのカラー(300dpi)でスキャンしましょう。
ファイルサイズなんてたかが知れています。

2.品質のよいカッターガイドを用意しよう。
カッターの刃から手を守るガード付カッターガイドを買いましょう。
私はTajimaの「カッターガイドスリム300mm」を使っています。
カッターの刃から手を守るガード付のカッターガイドです。
何千冊という書物を処理して、ただの1度もケガをしたことがありません。

3.ファイル検索ソフトを使おう。
せっかくPDF化しても、読みたい書籍ファイルをすぐに見つけ出せなければ、意味がありません。
これは私流ですが、書籍のファイル名をたとえば「甲骨文字小字典〔落合淳思〕[筑摩選書0013]_筑摩書房2011.pdf」などとして、お好みでフォルダ管理します。
「EasyFNSearch」などのファイル検索ソフトで「甲骨」とか「落合」とか「筑摩選書」などの文字列で検索をかければ、瞬時に書物を探し出し、あとはクリックするだけで書物を読めます。

4.縦置きディスプレイを導入しよう。
日本の書物は縦書きが多いです。
1頁を読むのに、いちいちモニターの画像を上下させていては読むにたえません。
縦置きディスプレイを導入してデュアル化をはかれば、仕事も読書も快適になります。

5.何重にもバックアップをとること。
データは何かの拍子に吹っ飛ぶことがあります。
すべての蔵書が消える!という事態に陥らないように、何重にもバックアップをしましょう。
私は時間差を設けて、5箇所にバックアップをとっています。

というわけで、私の蔵書はすべてPDF化され(といっても、これからまだまだ購入してはPDF化…が続くのですが)、仕事の効率が格段に上昇しました。(あんなにあった書物が全部処理されて、書斎はほんとに軽くなったと思う。)

なんといっても、これまで本棚の奥に隠れていて読むこともなかった書籍をすぐに見られるようになり、読む機会に恵まれるようになったこと!
そして、最近はまったく読まなくなっていた小説(昔のも今のも)などを、ちょっとした休憩時間に読むようになって、なにか生活が変わってきました。(職場も家もデュアルデイスプレイにしたので。)

読書は紙に限るというご意見もあろうかと思いますが、縦置きモニターでの読書もなかなか快適ですよ。
それに老眼でも拡大してよめますし。
読書してるという感覚を大事にするためにも、カラーで紙の風合いを残した方がよろしいかと。

漢文のお話ではありませんでしたが、自炊生活も悪くはありません。

「為烏所盗肉」の意味は?

(内容:「為烏所盗肉」の「所」の働きを考える。)

料理の味付け、調味料の使用順として、「さしすせそ」という言葉が用いられます。
砂糖→塩→酢→醤油→味噌の順に味付けはするものだというのを語呂合わせで覚えるわけです。
「味付けの順とはそういうものなのだ」で終わってしまえば、それがなぜなのかを考えることはありません。
(とはいえ、料理の場合は、うまく味付けできたか、できなかったかを経験で学ぶことができるし、失敗を繰り返すうちに、なぜその順なのかが何となくわかってくるものではありますが…)

なぜかを考えずにそうだと思い込んだり、そう言い切ったりするということは、なにもこれに限ったことではなく、日常の色々な場面で見られることで、学校の授業でもあるだろうし、自分自身の中にもたくさんありそうな気がします。
「さしすせそ」の順が正しい、もしくは妥当な場合は、考えなくてもそれが正しい、妥当なわけですから、より考える方向に進まないかもしれません。

何が言いたいかというと、かつて自分が説明したことについて、それがたまたま妥当であったとしても、それを本当にわかって説明したのかという自分自身への問いかけが、最近多くなってきたということです。
わかっていなければ、ただの受け売りであったり、思いつきがたまたま当を得ていたということでしかありません。

かつて受身とされる「A為B所C」(A BのCする所と為る)の形について、このように説明したことがあります。

「A為B所C」の動詞「C」が、さらに目的語Dをとることがある。

A為B所CD。
 ▼ABのDをCする所と為る。
 ▽AがBにDをCされる。

・為烏所盗肉。(漢書・循吏伝)
  ▼烏の肉を盗む所と為る。
  ▽からすに肉を盗まれる。

「所盗肉」は「肉を盗む対象」の意だから、「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。主語は省略されているが、構造的には、「私は『からすが肉を盗む対象』になった」という意味だから、「私はからすに肉を盗まれた」という受身になるわけだ。

自分が書いたこの説明を見ているうちに、この説明は本当にわかってしたものだろうかという疑問がわいてきました。
もしわかっていたなら、「『所盗肉』は『肉を盗む対象』の意」で済ましてはいなかったろうという気がしました。

これはやはり「所」が何を指すかという問題でしょう。
それを考えずに、ただ「からすに肉を盗まれる」という受身だというのなら、

・肉為烏所盗。
(▼肉烏の盗む所と為る。)
(▽肉が烏に盗まれる。)

の文の方が、自然な表現のように思えてしまいます。
「肉が烏の(ソレを)盗むソレになる」の意です。

しかし例文は「為烏所盗肉」であって、「肉為烏所盗」ではありません。
しかもこの例文には「A為B所CD」の主語Aが伴っていません。
重大な説明の誤りがありそうです。
かつてこれを書いた時、私はきちんと原典にあたっていたのか?

・吏出、不敢舎郵亭、食於道旁。烏攫其肉。民有欲詣府口言事者適見之。霸与語道此。後日吏還謁霸。霸見迎労之曰、「甚苦。食於道旁、乃為烏所盗肉。」吏大驚、以霸具知其起居、所問豪氂不敢有所隠。(漢書・循吏伝)
(▼吏出で、敢へて郵亭に舎(やど)らず、道の旁(かたは)らに食らふ。烏其の肉を攫(つか)む。民に府に詣(いた)り事を口言せんと欲する者有り適(たまたま)之を見る。霸与(とも)に語り此を道(みちび)く。後日吏還りて霸に謁す。霸見て迎へ之を労(ねぎら)ひて曰はく、「甚だ苦なり。道の旁らに食らひて、乃ち烏の肉を盗む所と為る。」と。吏大いに驚き、霸具(つぶ)さに其の起居を知ると以(おも)ひて、問ふ所は豪氂(がうり)も敢へて隠す所有らず。)
(▽役人は出発しても、郵亭に宿ろうとはせずに、道ばたで食事をした。からすがその肉をつかみさらった。役所に行って口頭でもの申そうとした民がいて、たまたまそれを見ていた。(潁川郡太守の)黄霸はこの者と語りこの事実を導き出した。後日、役人が戻り黄霸に謁見した。黄霸は引見して迎え彼をねぎらっていうことには、「たいへんご苦労であった。道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれるとは。」と。役人はおおいに驚いて、黄霸がつぶさに自分の行動を知っていると思い、(黄霸が)問うことについては、いささかも隠そうとすることがなかった。)

潁川郡太守の黄霸に派遣された役人が、自分の動静を黄霸に把握されているのを驚く場面からの引用文でした。
これで明らかなように、先の説明の「私は『からすが肉を盗む対象』になった」は誤りで、主語Aは「私」ではなく「お前」すなわち吏(役人)です。
使用する例文は、必ず原典にあたるという、基本的な姿勢を、この時どうやら私は怠ったようです。

黄霸は「肉がからすに盗まれた」ということを主に述べているのではなく、役人が落ち着いて郵亭に宿ろうともせずに「道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれる」ような目にあった苦労をねぎらっているのです。
だから「肉がからすに盗まれた」ではなく「お前はからすに肉を盗まれた」と言ったわけです。

私は、この例文が、

・若属皆且為所虜。(史記・項羽本紀)
(▼若(なんぢ)が属皆且に虜とする所と為らんとす。)

と基本的に同じ構造の文だと思います。
わかりやすくするために、

・若属為沛公所虜。
(▼若が属沛公の虜とする所と為る。)

と書き改めてみますが、これは「お前たち一族が沛公の(ソレを)生け捕るソレになる」の意です。
ソレをソノヒトと言ってもいいでしょう。
だから「(沛公に)捕虜にされる」という受身の意味になるのです。
「為烏所盗肉。」も「(お前は)烏の肉を盗むソレになる」「(お前は)烏の肉を盗むソノヒトになる」の意ではないでしょうか。

しかし、問題は「盗」という動詞の性質です。
私の仮説は「盗」が双賓結構をとる動詞ではないのか?です。
「盗AB」の形で「AよりBを盗む」、すなわち「盗+間接賓語(誰から)+直接賓語(何を)」の構造をとるのでは?と考えます。
したがって、「所盗B」(盗む所のB)なら、「盗むソレであるB」から「盗んだB」になり、「所盗B」(Bを盗む所)なら、「ソノヒトからBを盗むソノヒト」から「Bを盗まれる人」になります。
これが成り立てば、「為烏所盗肉」(烏の肉を盗む所と為る)は、「烏のソノヒトから肉を盗むソノヒト」となって、要するに「烏に肉を盗まれる人」という意味だと説明することができます。
というより、そうだと私は思うのですが、これの証明ができないでいるというのが本当のところです。

手元に用意できるだけの「盗」という字の用例を一つひとつ確認したのですが、そもそも「~を盗む」という用例は無数にあるのですが、「~から~を盗む」の意だと断定できる用例が見つかりません。
考えてみればそれもそのはずで、私が「AよりBを盗む」の構造だと仮定する「盗AB」は、「AのBを盗む」でも普通に解釈できてしまうからです。
「与若芧」(お前たちにトチの実を与える)という双賓文は、「若に芧を与ふ」としか読みようがなく、「若の芧を与ふ」と読むことはできませんが、「盗AB」は仮に双賓文だったとしても、「AのBを盗む」と読めてしまいます。

「蛇足」で有名な『戦国策・斉二』の一節、「吾能為之足」も「吾能く之に足を為る」という双賓文ですが、一般には「吾能く之が足を為る」と読まれています。
「之」は通常連体格には用いられない語で、「為」の依拠性に対する賓語として用いられているので、「之が」と読むのは少なくとも文法的にはよろしくありません。
ですがそのように読めてしまうように、「盗AB」が双賓文であると証明するのは「盗之B」という例でもない限り、無理ではないかと思います。

・丁零蘇武牛羊。(後漢書・孔融伝)
(▼丁零蘇武より牛羊を盗む。)
(▽丁零(北方民族の名)が蘇武から牛や羊を盗んだ。)

これも「蘇武の牛羊を盗む」と読めてしまいます。

・司徒期聘於越。公攻而之幣。(春秋左氏伝・哀公26年)
(▼司徒期越に聘す。公攻めて之より幣を奪ふ。)
(▽司徒期が越の国に使者として訪れた。公は攻めてこれから礼物を奪った。)

これは「盗」ではなく「奪」の例です。
文法的には「之が」とか「之の」と読むべきではないのは前述しましたが、実際手元の解説書では「之が幣を奪ふ」と読んであります。
「奪」と「盗」を同一視するわけにはいきませんが、「盗」も双賓結構をとる動詞の可能性はあると思います。

結局のところ、証拠を示すことはできませんでしたが、「為烏所盗肉」という文は、「烏の盗む所の肉と為る」と強引に読んで「烏の盗んだ肉になる」と解する以外には、「所」を「盗」の他動性に対するとは異なる不定の客体を想定するしかありません。
そう考えた時、「烏のソノヒトより肉を盗むソノヒトと為る」と解するのが一番自然ではないでしょうか。
つまり、「烏に肉を盗まれた人になる」です。

その意味で、昔私が書いた、

「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。

は、必ずしもはずれた解説にはなっていないとはいえるかもしれません。
しかし、それはここまで考えた結果として示したものではなかった。
そして、なぜそうなるのかを示さないものであった。

そう思います。
料理の「さしすせそ」が、なぜなのか?
それを考えようとしなければ、少なくとも自分自身が納得のいく美味い料理は作れないのではないでしょうか。

拙著の誤りと説明不足は、すぐにも訂正したいと思います。

「豪毛不敢有所近」の「所近」の意味は?

『史記』項羽列伝のいわゆる「鴻門の会」で、樊噲が項王に対して持論を展開する場面があります。
そこで樊噲は、主である沛公を弁護して、次のように言います。

・今沛公先破秦入咸陽、豪毛不敢有所近、封閉宮室、還軍覇上、以待大王来。
(▼今沛公先づ秦を破りて咸陽に入るに、豪毛も敢へて近づくる所有らず、宮室を封閉し、軍を覇上に還して、以て大王の来たるを待つ。)
(▽今沛公は真っ先に秦を破って咸陽に入りましたのに、いささかも私物化したものをもとうとせず、宮殿を閉鎖し、軍を覇上に戻して、大王のいらっしゃるのを待っていました。)

この「豪毛」は宋版や元版、明版の中には「毫毛」に作るものも見られます。
さて、通常この「豪毛不敢有所近」は上記のごとく「豪毛も敢へて近づくる所有らず」と読み、「ほんのわずかも近づけるものをもとうとしなかった」の意で解釈されています。

ところが、この読みと解釈に対して疑義を呈している主張を目にしました。
これに限らず他にも、いわゆる教科書の読みと解釈の問題点を複数にわたって指摘し、誤りを正そうという内容でした。
その姿勢自体は素晴らしいと思います。
ただ、そこに指摘されていることのいくつかが、???と首を傾げてしまうものであるというのも、正直な感想です。

このエントリーは、それらを問題とするものではありません。
これまで何度か考えてきた「所」の用法について、最近またぞろ疑問が生まれてきていて、それが私に「あれ?」と思わせたのです。

話が少し横道にそれますが、いわゆる「A為B所C。」(▼ABのCする所と為る。 ▽AがBにCされる。)の受身の形式において、Cが「CD」(DをCする)の形をとる場合があります。
すなわち「A為B所CD。」(ABのDをCする所と為る。)の形式の文において、「所」が何を指すかという問題です。
たとえば、「為烏所盗肉。」(▼烏の肉を盗む所と為る。)という文は、一体どういう意味でしょうか?
そして「所」は何を指すのでしょうか?

そのこと自体は、いずれエントリーを改めて書くつもりですが、そんなこともあって、「所」にはまたぞろ敏感になっていました。

話を元に戻し、疑義が呈されていた内容を要約すると、

「豪毛不敢有所近」の「近」は他動「近づける」の意で従来解釈されているが、「近」に他動詞としての働きはなく、自動詞「近づく」の意味でしか用いられない。
したがって、「敢へて近づく所有らず」と読んで、「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」とするのがよい。

となります。
これが私に「あれ?」と思わせたわけです。

「所」は、後の動詞の不定の客体を表す名詞句を作ります。
それを単に「後の動詞を名詞句にする働き」などと捉えて、「~するもの・~すること」と訳せばよいなどと思い込むと、誤った解釈を生み出してしまいます。

「食桃」(桃を食べる)に対して、「桃」を「所」に置き換えると「所食」となりますが、これは「(ソレを)食べるソレ」の意ですから、「食べるもの」という意味になります。
不定の客体なので、栗でも梨でも「食べるもの」なら何でもいいわけです。

「在京都」(京都にいる)に対して、「京都」を「所」に置き換えると「所在」となりますが、これは「(ソコに)在るソコ」という意味で、「在る場所」という意味になります。
これも不定ですから、「問所在」(在る所を問ふ)という問いが成立します。
不定だから問えるわけです。

「待人」(人を待つ)の場合も、「待」が誰かを待つという意味で用いられているなら「所待」は「(ソノヒトを)待つソノヒト」であって、不定の「待つ人」という意味の名詞句になります。

そう確認したところで、改めて「不敢有所近」を見てみましょう。
従来の読み通り「近づくる所」と読めば、「所近」は「(ソレを)近づけるソレ」で「近づけるもの」という意味で通ります。
しかし、「近づく所」と読んだ場合、指摘のような「近づくこと」という意味を表し得るでしょうか?
「近づく」は、「どこそこに近づく」または「何それに近づく」であって、客体は動詞の依拠性に対するものになるはずです。
つまり、もし「所近」を、「近」は自動詞だとして「近づく所」と読むなら、前者なら「(ソコに)近づくソコ」、後者なら「(ソレに)近づくソレ」とならざるを得ません。
つまり「近づく場所」または「近づくもの」です。
「不敢有所近」は、さすがに「近づく場所をもとうとしなかった」の意味ではないでしょう。
百歩譲って、それでも「近」を自動詞として「沛公はほんのわずかも近づく場所をもとうとはしなかった」と解するならまだしも、あるいは近づく対象をソレとみなして「近づくものをもとうとはしなかった」と解するならまだしも、よもや「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」と言う意味にはならないと思います。
「所近」は「近」の不定の客体であって、行為ではないからです。

・於是遂誅高漸離、終身不復諸侯之人(史記・刺客列伝)
(▼是に於て遂に高漸離を誅し、終身復た諸侯の人を近づけず。)
(▽そこでそのまま高漸離を誅殺し、(始皇帝は)死ぬまで諸侯に仕えたものを近づけなかった。)

目をつぶされた高漸離が、鉛の塊を筑にしこみ、始皇帝に投げつけたが当たらなかった、その後の記述です。
「近諸侯之人」は「諸侯の人に近づかず」とも読めないことはありませんが、行為の主体は始皇帝であって、始皇帝が諸侯の人に消極的に「近づかない」のではなく、このような事態を二度と招かぬよう、諸侯の人をそばには置かない、すなわち積極的に「近づけない」ではありませんか?

「近」は本来「近い」の意の形容詞だと思いますが、後に客体をとることによって、動詞のように働くことがあります。
その場合、「近づく」と「近づける」の2義が生じます。
確かに「近づく」という自動としての働きで多く用いられるとは思いますが、「近くに置いて親しむ」の意、すなわち「近づける」の意味でも用いられると思います。
探せば刺客列伝以外にも例は見つかるでしょう。


「所」に敏感になっているせいで、余計なことを書いたかもしれません。
「為烏所盗肉。」も見えてきた気がしますが、いずれまた項を改めて書いてみようかと思います。

今年もよろしくお願い致します

  • 2024/01/02 13:56
  • カテゴリー:その他
2024年新春を迎えました。
昨日ご挨拶を申し上げようと自宅PCに向かった瞬間、ゆら~りゆら~りと目眩のようなものを感じ、いや、これは目眩ではない、覚えがある!と思った瞬間、長い横揺れが始まりました。
東北での震災の時と、同じ感じだったのですね。

そういうわけで、新年早々の天災に、お祝いの言葉を申し上げるわけにもいきませんが、皆様、本年もよろしくお願い致します。
また、ご無沙汰しております独学のNさんを初めとして、誠実にご教示を賜る諸氏にも、この場をお借りしてご挨拶を申し上げます。

旧年は公務が異常な事態で疲労困憊、加えて私事としては2000人規模の自治会の役員、例年の5、6倍は忙しく、学問がおろそかになってしまいました。
今年それが解消する目処もあるのかないのかわからぬ状況ですが、怠惰にはならぬよう励むつもりです。

よろしくお願い致します。

ブログ名を「漢文学びのとびら」に戻します

  • 2023/12/22 15:16
  • カテゴリー:その他
(内容:ブログ名を「漢文学びのとびら」に変更することの連絡。)

当ブログは、最初「漢文 学びの小窓」から「漢文 学びのとびら」、そして「漢文 学びの窓」へと、何度か名称を変更してきたのですが、どうも「学びの窓」というのは、どこぞの教育系の出版社で使われている名称らしく(まあ、ありがちな名ですから…)、具合がよろしくありません。

そこで、やっぱり「学びのとびら」の方がいいかな…と思うに至りました。
またまた検索サイトで混乱しそうですが…
今後ともよろしくお願いしいます。

併せて、かつてはエントリーの最古に近い記事で「お勧めの辞書や参考書」を紹介していたのですが、それを削除し、ページエントリーで紹介することにしました。
まだ執筆中ではありますが、高校生のみなさんや、漢文を学びたい方は、ページよりご参照ください。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・5

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その5)

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が挙げている「既」の用法として、最後に次のものを見てみましょう。

五、表示动作行为不久就发生、出现。可译为“不久”。
(動作行為がまもなく発生、出現することを表す。「まもなく」と訳せる。)

前の「四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。」(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)とどう異なるのだろう?時間の短長だろうか?と思ったのですが。

、夫人将使公田孟諸而殺之。(春秋左氏伝・文公16年)
――不久,襄夫人准备让宋昭公去孟诸打猎而杀掉他。
(まもなく、襄夫人は宋昭公を孟諸に狩猟に行かせて彼を殺してしまおうとした。)

どうもこの例は、これまでの「既」の例とは違います。
これまでは、主語の動作行為の完了・終結を示す形で用いられていたのに対して、この例の「既」は「夫人」の動作行為「使公田孟諸而殺之」の完了・終結を表していません。
例文の前を補ってみます。

・宋公子鮑礼於国人。宋飢、竭其粟而貸之。年自七十以上、無不饋詒也、時加羞珍異。無日不数於六卿之門、国之才人無不事也、親自桓以下、無不恤也。公子鮑美而艶。襄夫人欲通之、而不可。乃夫人助之施。昭公無道、国人奉公子鮑以因夫人。於是華元為右師、公孫友為左師、華耦為司馬、鱗驩為司徒、蕩意諸為司城、公子朝為司寇。
初、司城蕩卒。公孫寿辞司城、請使意諸為之。既而告人曰、「君無道、吾官近、懼及焉。棄官則族無所庇。子身之弐也。姑紓死焉。雖亡子、猶不亡族。」
、夫人将使公田孟諸而殺之。
(▼宋の公子鮑(はう)国人に礼あり。宋飢うるに、其の粟を竭(つ)くして之に貸す。年七十より以上、饋詒せざるは無く、時に珍異を加へ羞(すす)む。日として六卿の門を数(しばしば)せざるは無く、国の才人には事(つか)へざるは無く、親は桓より以下、恤(あはれ)まざるは無きなり。公子鮑は美にして艶なり。襄夫人之に通ぜんと欲すれども、可(き)かず。乃ち夫人之に施を助く。昭公は無道にして、国人公子鮑を奉じて以て夫人に因る。是に於て華元右師たり、公孫友左師たり、華耦(くわぐう)司馬たり、鱗驩(りんくわん)司徒たり、蕩意諸(たういしよ)司城たり、公子朝司寇たり。
 初め、司城蕩卒す。公孫寿司城を辞し、意諸をして之たらしめんと請ふ。既にして人に告げて曰はく、「君は無道にして、吾が官近く、焉(これ)に及ばんことを懼(おそ)る。官を棄つれば則ち族庇(おほ)ふ所無し。子は身の弐なり。姑(しばら)く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はざらん。」と。
 既にして、夫人将に公をして孟諸に田(かり)せしめて之を殺さんとす。)
(▽宋の公子鮑は国の人々に対して礼があった。宋の国が飢饉の際には、その穀物を出し尽くしてかれらに貸し、七十歳以上の老人にはすべて食べ物を贈り、時には珍しいものを加えてすすめた。六卿の門をしばしば訪問しない日はなく、国の賢者には仕えないことはなく、親族は桓公の代以下、情けをかけぬものはなかった。公子鮑は美男子で華やかであった。襄公の夫人は彼に言い寄ろうとしたが、受け付けなかった。そこで夫人は彼に施す面で助けた。昭公は無道であったから、国の人々は公子鮑を奉じて夫人に頼った。この時、華元は右師であり、公孫友は左師であり、華耦は司馬であり、鱗驩は司徒であり、蕩意諸は司城であり、公子朝は司寇であった。
 (これより)初め、司城蕩が亡くなった。公孫寿は(その後任の)司城となることを辞退して、(子の)意諸に司城とならせることを求めた。[既而]、人に告げたことには、「わが君は無道であり、私の官位は(君に)近く(高いから)、(災いが)私に及ぶことが心配だ。(かといって)官を捨てれば一族をまもるものがない。子は親の身がわりだ。(わが子を司城にすることで)しばらく死を伸ばせるだろう。子を失っても、(私がいれば)なお一族を失いはすまい。」と。
 [既]、襄公の夫人は昭公に孟諸で狩猟させてこれを殺そうとした。)

長い引用になりましたが、例文の中に「既而」と「既」が出てきます。
私は、この2つは同じ意味、同じ用法として用いられていると思います。

まず最初の「既而」は、公孫寿が自ら司城となることを辞退し、我が子の意諸を司城に推薦したという事実が述べられ、いわば「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既而」が用いられ、裏話が述べられます。

次に2つめ、すなわちもとの例文の「既」は、前段で、公子鮑が国人に奉じられ、無道の昭公を排し、襄公の夫人に頼って次の君主にしようという動きがあること、その時点での昭公の家臣達の位置づけが述べられ、意諸が司城になったいきさつには裏話があることが述べられ、やはり「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既」が用いられ、襄公の夫人が昭公暗殺を企んだことが述べられます。

ここで、意諸が司城になったいきさつが挟まっているのは、実はこの後、昭公は結果的に殺されますが、意諸は父の予想通り死んでしまうことになるからです。

私は、これらの「既」は、「既有之、」(既に之有りて~、)そんな漢文があるかどうかわかりませんが、それぐらいの意味で用いられているのではないかと思うのです。
もっというなら、「既」は単独でそれだけの意味をもたされているとも。
「既而」は、「そんなことがすでにあって、して」です。
「既而」の形をとってその意味を表すのではない、「既」がすでにその働きをしているのではないでしょうか。

この場合の「既」が、前段で述べられた内容の完了・終結を表す以上、その後どれぐらいの時間で次の事件が起こるかについては、定まりません。
すぐに起こることもあるでしょうし、それよりはもう少し時間を要して「やがて」ぐらいの感じで発生することもあるでしょう。
つまり、「既」が「すぐに」「まもなく」という意味を表すのではなく、完了・終結した事件と、新たに起こる事件との間に要する時間に委ねられるのではないでしょうか。


『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』には、この用法として、もう1つ例文が挙げられています。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律。(楊万里・誠斎荊渓集自序)
――我的诗,起初学江西诗派各位名家,不久又学陈师道的五言律诗。
(私の詩は、初め江西詩派の名家たちに学び、まもなくさらに陳師道の五言律詩に学んだ。)

この例文は、続きがあります。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律、又学半山老人七字絶句、晩乃学絶句於唐人。
(▼予の詩は、始め江西の諸君子に学び、既に又後山の五字律に学び、既に又半山老人の七字絶句に学び、晩く乃ち絶句を唐人に学ぶ。)
(▽私の詩は、最初江西の諸君子に学び、[既]さらに後山の五言律詩に学び、[既]半山老人の七言絶句に学び、最後は絶句を唐人に学んだ。)

楊万里が自らの詩作の修行を振り返って述べたものです。
確かに2つの「既」を「まもなく」とか「しばらくして」と訳せば、文意は自然に通ります。
しかし、これは楊万里の修行の段階を示していて、江西の諸君子に学ぶという段階を完了し「そのことが済んで」、次に後山の五言律詩を学んだ。
そしてそれが完了して「そのことが済んで」、さらに半山老人の七言絶句に学んだということではないでしょうか。
前の修得の後、どれぐらいの時間が経過したかまでは「既」は請け負わない、「すぐ」の場合もあるでしょうし、「しばらく経って」からの場合もあるでしょう。

「既」や「既而」が、「すぐに」「まもなく」「やがて」と時間に幅をもたせた形で訳されるのは、実はそもそも「既」が完了・終結を意味して、その後の経過時間を請け負わないからなのではないでしょうか。


さて、検証にあるいは誤りがあるかもしれませんが、私は「既」は色々に訳され、あたかも多義語のように見えるけれども、実は根は1つで、完了・終結で説明ができる語だと思います。
その上で、一番最初の疑問、『史記』刺客列伝の2つの「既」の意味を考えてみましょう。

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

これが「荊軻はすぐに地図を取って(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのですが、果たして本当にそういう意味でしょうか。

暴論かもしれませんが、それなら「軻即取図奏之。」と「即」を用いて表現すればよいことです。
司馬遷はそれを「既」を用いて表現した。
この文は実は、

・軻取図、奏之。

のように見るべきではないでしょうか。

荊軻は趙人徐夫人の匕首を地図の中にしこんでいました。
今、その地図は震えて使い物にならない秦舞陽のもつ柙(箱)の中にあります。
その地図の入った箱をそのまま秦王に献上してしまうのではなく、地図を秦王の目の前で広げる、あるいは広げさせる必要があった。
そのためには、荊軻は地図そのものを手にとって、その上で秦王に献上する必要があった。
ここまでは私の想像ですが、何にせよ、荊軻は「地図を手に取ってから」すなわち、手にとるという動作行為を完了した上で、それを秦王に献上した。
私はこの「既」をそのように解釈します。


次に、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

この文も、教科書各社ともこのように句読されていますが、実は、

・於是左右既前殺軻、秦王不怡者良久。

のように、2句を続けて、前の動作の完了を受けて、秦王の状況が述べられる。
つまり、「そこで左右がすでに進み出て荊軻を殺してしまってからも、秦王の不機嫌はしばらく続いた」と見てはいかがでしょう。
側近の荊軻殺害が完了しての、秦王の状況が述べられている、私にはそう思えるのです。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・4

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その4)

引き続いて中国の虚詞理解を代表するものとして、「既」のさまざまな働きが紹介されている『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の記述について考えてみたいと思います。

「既」が“不久”(まもなく)の意味を表すとした、次の五の項目は最後に回すことにして、六として示されているのが次の内容です。

六、表示动作行为仍然保持原状,没有发生变化。可译为“依然”。
(動作行為がなおももとの状態を保持して、変化しないことを表す。「依然として」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の1例のみです。

・兵革未息、児童尽東征。(杜甫・羌村三首)
――战争依然不止,孩子们都东征去了。
(戦争は依然として終わらず,子ども達はみな東へ出征した。)

確かに「戦争はすでにまだ終わらない」と訳すと変な訳になり、「依然としてまだ終わらない」の訳の方が明らかに自然です。
ただ、漢詩の用字上の問題があるのかもしれませんが、「依然としてまだ終わらない」なら、「尚未息」あるいは「猶未息」と表現すればよいところなのに、あえて「既未息」であることが引っかかります。
たとえば、

・及上寝疾、承璀謀尚未息。太子聞而憂之、密遣人問計於司農卿郭釗。(資治通鑑・唐紀57)
(▼上(しやう)寝疾するに及び、承璀(しようさい)の謀尚ほ未だ息まず。太子聞きて之を憂ひ、密かに人を遣はして計を司農卿の郭釗(くわくせふ)に問はしむ。)
(▽主上が重病となった時も、承璀の策謀はなおもまだやまなかった。太子は聞いてこのことを心配し、ひそかに人を派遣して対策を司農卿の郭釗に問わせた。)

・蜀中群盗猶未息(資治通鑑・後唐紀3)
(▼蜀中の群盗猶ほ未だ息まず。)
(▽蜀中の盗賊達はまだおさまらなかった。)

「尚未息」「猶未息」で絞り込んで検索すると、「息」まで含まれているのでさすがに多くはヒットしないのですが、やはり例はあります。
私的には、「まだやまない」はこちらの方が自然な気がします。

例として挙げられた杜甫の五言古詩を前後も補って見てみましょう。

・群雞正乱叫、客至雞闘争。
 驅雞上樹木、始聞叩柴荊。
 父老四五人、問我久遠行。
 手中各有携、傾榼濁復清。
 莫辞酒味薄、黍地無人耕。
 兵革未息、児童尽東征。
 請為父老歌、艱難愧深情。
 歌罷仰天歎、四座涕縦横。
(▼群雞正(まさ)に乱叫す、客至るに雞闘争す。雞を駆りて樹木に上らしめ、始めて柴荊を叩くを聞く。父老四五人、我の久しく遠行するを問ふ。手中に各携ふる有り、榼を傾くれば濁復た清。辞する莫かれ酒味の薄きを、黍地人の耕す無し。兵革既に未だ息まず、児童尽(ことごと)く東征す。請ふ父老の為に歌はん、艱難深情に愧(は)づ。歌罷み天を仰ぎて歎けば、四座涕縦横たり。)
(▽群れなす鶏がちょうど乱れ叫ぶ、客人が来た時鶏は争っていたのだ。(私は)鶏を駆って木の上にのぼらせて、始めて我が家の門を叩く音を聞いた。年寄りたち四五人が、私が遠い旅から戻ってきたのを見舞ってくれたのだ。(彼らの)手の中にはそれぞれ携えてきたものがある。酒だるを傾けると濁り酒にさらに清酒が流れ出る。(年寄りたちは言う)「ご辞退めさるな酒の味が薄いと、黍畑には耕す人がいないのです。戦乱は[既に]やまず、子どもらはみな東へ出征しています。」(私は言う)「お年寄りのみなさまのために歌を歌いましょう、この難儀な世の中に深いお気持ちをかたじけなく思います。」歌い終わって天を仰いで歎くと、皆さまもはらはら涙を流すのであった。)

わかりやすくするためにかなり意訳しましたが、「兵革既未息、児童尽東征。」の一節は、作者の家に訪問した父老たちの言葉なのですね。
そして、この2句で本来似た義の「既」と「尽」が対になっているのがわかります。

さて、この「兵革既未息」は「戦乱は依然としてまだ終わらない」という意味でしょうか。
私は「兵革」が「未息」という状態を完結していると見ます。
なおも継続しているというよりも、「終わらない」ということに決まってしまっているとでも言いましょうか。
つまり「戦乱はまだ終わらないということで完結し、子ども達は東征し尽くしている」で、「既」と「尽」という似た意味の語を用いているのではないかと思うのです。
黒川洋一氏の『中国詩人選集・杜甫』(岩波書店1959)が、この箇所を「たたかいはあくまでもまだやもうとせず、こどもらはことごとく東方の征伐にでかけているのです」と「既」をあえて「あくまでも」と訳しておられるのは、あるいはこの「既」をやはり本来の義に受け取ってのことなのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが。

「依然として」の意味の「既」の例がこの1例しか示されていないので、他の虚詞詞典にはないものかと手許のいくつかを探してみましたが、見つかりませんでした。


続いて、「既」の用法としてあげられているのは次の項目です。

七、强调某种状况原先就是这样。可译为“原来”或“本来”。
(ある状況がもともとはそのようであったことを強調する。「もともと」や「本来」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の文です。

・淵既神姿峰穎、雖処鄙事、神気猶異。(世説新語・自新)
――戴渊本来神情姿态就出类拔萃,即使对待鄙贱的事情,神气也不同于常人。
(戴淵はもともと表情や姿勢が際立っており、卑しいことをしていても、態度は常人と異なっていた。)

これは戴淵がすでに「神姿峰穎」を十分に備えていたことを表していて、「十分にしつくす」という「既」の本来の義で説明できます。
「本来」「もともと」と訳すと、より自然な訳になりはしますが。


こうして多義語とされる「既」の用法を見てくると、確かに日本での読みである「すでに」と訳すと違和感のあるものが多いのですが、それは「すでに」と訳すからで、「既」の字の本来の義である「し終える」「十分にしてしまう・しつくす」から終了・完了に照らして用例を見れば、やはりその義で説明がつくものだと思います。
それを文脈に合うように適宜訳を工夫することはあっても、だから工夫された訳が「既」に本来的に備わっているものと考えるのはどうであろうかと私は思うのです。

エントリーを改め、さらに考察を進めたいと思います。

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