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『孟子』注解 を公開しました

(内容:『孟子』の語法注解を「漢文教材・注解」のページにアップしたことの告知。)

この3月、勤務校である京都教育大学附属高等学校の研究紀要97号に『孟子』注解を投稿しました。

高等学校の現場の先生方や、もっと詳しく知りたい高校生のみなさんのお役に立てればと思います。

前稿の『史記』『論語』と同様、教科書によく載せられる題材を選び、主に語法の注を試みたものです。
ご参考にしていただければ、と思います。

相変わらず思考の過程を示しつつ書いたものですので、誤りもあろうかと思います。
ご教示を賜れば幸甚です。

右サイドのページエントリー「漢文教材(作品)・注解」、またはこちらからお入り下さい。

すべての蔵書をPDF化する

  • 2024/03/16 12:39
  • カテゴリー:その他
(内容:蔵書をすべてPDF化した話。)

まったくの余談なのですが…
最近、ようやくすべての蔵書のPDF化を完了しました。

勤務先で調べ物をしていて、「ああ、あの本は家の本棚のどこかにあったなぁ…」ということがよくありました。
狭い書斎の中、本棚はほぼ三重になっていて、どこにどの本を納めていたか覚えきれないし、一番奥になっている本などは、もう事実上読まれることもない。
本当に調べたい時に、手許にその書籍がないということはかなりのストレスでした。

13年前に父が亡くなった時、その膨大な書物や雑誌の処分に我々は大変な思いをしたのでしたが、同じ思いを我が子にさせたくないという思いもありました。

そこで2021年の夏から、蔵書のPDF化を始めたわけです。

蔵書のPDF化の写真

裁断機の導入も考えたのですが、これが意外にうまく裁断できないことを知り、すべての書籍を手で解体、小分けにした上でカッターナイフで裁断、ドキュメントスキャナー(ScnaSnap ix1600)でPDF化するという大変な難事業を続けました。
こういうのを自炊生活というそうです。

同じことを試みようと思っている人に、いくつかアドバイス。

1.絶対にカラーでスキャンした方がよい。
ファイルサイズを気にして、モノクロやグレースケールにすると、必ず後悔します。
スーパーファインのカラー(300dpi)でスキャンしましょう。
ファイルサイズなんてたかが知れています。

2.品質のよいカッターガイドを用意しよう。
カッターの刃から手を守るガード付カッターガイドを買いましょう。
私はTajimaの「カッターガイドスリム300mm」を使っています。
カッターの刃から手を守るガード付のカッターガイドです。
何千冊という書物を処理して、ただの1度もケガをしたことがありません。

3.ファイル検索ソフトを使おう。
せっかくPDF化しても、読みたい書籍ファイルをすぐに見つけ出せなければ、意味がありません。
これは私流ですが、書籍のファイル名をたとえば「甲骨文字小字典〔落合淳思〕[筑摩選書0013]_筑摩書房2011.pdf」などとして、お好みでフォルダ管理します。
「EasyFNSearch」などのファイル検索ソフトで「甲骨」とか「落合」とか「筑摩選書」などの文字列で検索をかければ、瞬時に書物を探し出し、あとはクリックするだけで書物を読めます。

4.縦置きディスプレイを導入しよう。
日本の書物は縦書きが多いです。
1頁を読むのに、いちいちモニターの画像を上下させていては読むにたえません。
縦置きディスプレイを導入してデュアル化をはかれば、仕事も読書も快適になります。

5.何重にもバックアップをとること。
データは何かの拍子に吹っ飛ぶことがあります。
すべての蔵書が消える!という事態に陥らないように、何重にもバックアップをしましょう。
私は時間差を設けて、5箇所にバックアップをとっています。

というわけで、私の蔵書はすべてPDF化され(といっても、これからまだまだ購入してはPDF化…が続くのですが)、仕事の効率が格段に上昇しました。(あんなにあった書物が全部処理されて、書斎はほんとに軽くなったと思う。)

なんといっても、これまで本棚の奥に隠れていて読むこともなかった書籍をすぐに見られるようになり、読む機会に恵まれるようになったこと!
そして、最近はまったく読まなくなっていた小説(昔のも今のも)などを、ちょっとした休憩時間に読むようになって、なにか生活が変わってきました。(職場も家もデュアルデイスプレイにしたので。)

読書は紙に限るというご意見もあろうかと思いますが、縦置きモニターでの読書もなかなか快適ですよ。
それに老眼でも拡大してよめますし。
読書してるという感覚を大事にするためにも、カラーで紙の風合いを残した方がよろしいかと。

漢文のお話ではありませんでしたが、自炊生活も悪くはありません。

「為烏所盗肉」の意味は?

(内容:「為烏所盗肉」の「所」の働きを考える。)

料理の味付け、調味料の使用順として、「さしすせそ」という言葉が用いられます。
砂糖→塩→酢→醤油→味噌の順に味付けはするものだというのを語呂合わせで覚えるわけです。
「味付けの順とはそういうものなのだ」で終わってしまえば、それがなぜなのかを考えることはありません。
(とはいえ、料理の場合は、うまく味付けできたか、できなかったかを経験で学ぶことができるし、失敗を繰り返すうちに、なぜその順なのかが何となくわかってくるものではありますが…)

なぜかを考えずにそうだと思い込んだり、そう言い切ったりするということは、なにもこれに限ったことではなく、日常の色々な場面で見られることで、学校の授業でもあるだろうし、自分自身の中にもたくさんありそうな気がします。
「さしすせそ」の順が正しい、もしくは妥当な場合は、考えなくてもそれが正しい、妥当なわけですから、より考える方向に進まないかもしれません。

何が言いたいかというと、かつて自分が説明したことについて、それがたまたま妥当であったとしても、それを本当にわかって説明したのかという自分自身への問いかけが、最近多くなってきたということです。
わかっていなければ、ただの受け売りであったり、思いつきがたまたま当を得ていたということでしかありません。

かつて受身とされる「A為B所C」(A BのCする所と為る)の形について、このように説明したことがあります。

「A為B所C」の動詞「C」が、さらに目的語Dをとることがある。

A為B所CD。
 ▼ABのDをCする所と為る。
 ▽AがBにDをCされる。

・為烏所盗肉。(漢書・循吏伝)
  ▼烏の肉を盗む所と為る。
  ▽からすに肉を盗まれる。

「所盗肉」は「肉を盗む対象」の意だから、「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。主語は省略されているが、構造的には、「私は『からすが肉を盗む対象』になった」という意味だから、「私はからすに肉を盗まれた」という受身になるわけだ。

自分が書いたこの説明を見ているうちに、この説明は本当にわかってしたものだろうかという疑問がわいてきました。
もしわかっていたなら、「『所盗肉』は『肉を盗む対象』の意」で済ましてはいなかったろうという気がしました。

これはやはり「所」が何を指すかという問題でしょう。
それを考えずに、ただ「からすに肉を盗まれる」という受身だというのなら、

・肉為烏所盗。
(▼肉烏の盗む所と為る。)
(▽肉が烏に盗まれる。)

の文の方が、自然な表現のように思えてしまいます。
「肉が烏の(ソレを)盗むソレになる」の意です。

しかし例文は「為烏所盗肉」であって、「肉為烏所盗」ではありません。
しかもこの例文には「A為B所CD」の主語Aが伴っていません。
重大な説明の誤りがありそうです。
かつてこれを書いた時、私はきちんと原典にあたっていたのか?

・吏出、不敢舎郵亭、食於道旁。烏攫其肉。民有欲詣府口言事者適見之。霸与語道此。後日吏還謁霸。霸見迎労之曰、「甚苦。食於道旁、乃為烏所盗肉。」吏大驚、以霸具知其起居、所問豪氂不敢有所隠。(漢書・循吏伝)
(▼吏出で、敢へて郵亭に舎(やど)らず、道の旁(かたは)らに食らふ。烏其の肉を攫(つか)む。民に府に詣(いた)り事を口言せんと欲する者有り適(たまたま)之を見る。霸与(とも)に語り此を道(みちび)く。後日吏還りて霸に謁す。霸見て迎へ之を労(ねぎら)ひて曰はく、「甚だ苦なり。道の旁らに食らひて、乃ち烏の肉を盗む所と為る。」と。吏大いに驚き、霸具(つぶ)さに其の起居を知ると以(おも)ひて、問ふ所は豪氂(がうり)も敢へて隠す所有らず。)
(▽役人は出発しても、郵亭に宿ろうとはせずに、道ばたで食事をした。からすがその肉をつかみさらった。役所に行って口頭でもの申そうとした民がいて、たまたまそれを見ていた。(潁川郡太守の)黄霸はこの者と語りこの事実を導き出した。後日、役人が戻り黄霸に謁見した。黄霸は引見して迎え彼をねぎらっていうことには、「たいへんご苦労であった。道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれるとは。」と。役人はおおいに驚いて、黄霸がつぶさに自分の行動を知っていると思い、(黄霸が)問うことについては、いささかも隠そうとすることがなかった。)

潁川郡太守の黄霸に派遣された役人が、自分の動静を黄霸に把握されているのを驚く場面からの引用文でした。
これで明らかなように、先の説明の「私は『からすが肉を盗む対象』になった」は誤りで、主語Aは「私」ではなく「お前」すなわち吏(役人)です。
使用する例文は、必ず原典にあたるという、基本的な姿勢を、この時どうやら私は怠ったようです。

黄霸は「肉がからすに盗まれた」ということを主に述べているのではなく、役人が落ち着いて郵亭に宿ろうともせずに「道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれる」ような目にあった苦労をねぎらっているのです。
だから「肉がからすに盗まれた」ではなく「お前はからすに肉を盗まれた」と言ったわけです。

私は、この例文が、

・若属皆且為所虜。(史記・項羽本紀)
(▼若(なんぢ)が属皆且に虜とする所と為らんとす。)

と基本的に同じ構造の文だと思います。
わかりやすくするために、

・若属為沛公所虜。
(▼若が属沛公の虜とする所と為る。)

と書き改めてみますが、これは「お前たち一族が沛公の(ソレを)生け捕るソレになる」の意です。
ソレをソノヒトと言ってもいいでしょう。
だから「(沛公に)捕虜にされる」という受身の意味になるのです。
「為烏所盗肉。」も「(お前は)烏の肉を盗むソレになる」「(お前は)烏の肉を盗むソノヒトになる」の意ではないでしょうか。

しかし、問題は「盗」という動詞の性質です。
私の仮説は「盗」が双賓結構をとる動詞ではないのか?です。
「盗AB」の形で「AよりBを盗む」、すなわち「盗+間接賓語(誰から)+直接賓語(何を)」の構造をとるのでは?と考えます。
したがって、「所盗B」(盗む所のB)なら、「盗むソレであるB」から「盗んだB」になり、「所盗B」(Bを盗む所)なら、「ソノヒトからBを盗むソノヒト」から「Bを盗まれる人」になります。
これが成り立てば、「為烏所盗肉」(烏の肉を盗む所と為る)は、「烏のソノヒトから肉を盗むソノヒト」となって、要するに「烏に肉を盗まれる人」という意味だと説明することができます。
というより、そうだと私は思うのですが、これの証明ができないでいるというのが本当のところです。

手元に用意できるだけの「盗」という字の用例を一つひとつ確認したのですが、そもそも「~を盗む」という用例は無数にあるのですが、「~から~を盗む」の意だと断定できる用例が見つかりません。
考えてみればそれもそのはずで、私が「AよりBを盗む」の構造だと仮定する「盗AB」は、「AのBを盗む」でも普通に解釈できてしまうからです。
「与若芧」(お前たちにトチの実を与える)という双賓文は、「若に芧を与ふ」としか読みようがなく、「若の芧を与ふ」と読むことはできませんが、「盗AB」は仮に双賓文だったとしても、「AのBを盗む」と読めてしまいます。

「蛇足」で有名な『戦国策・斉二』の一節、「吾能為之足」も「吾能く之に足を為る」という双賓文ですが、一般には「吾能く之が足を為る」と読まれています。
「之」は通常連体格には用いられない語で、「為」の依拠性に対する賓語として用いられているので、「之が」と読むのは少なくとも文法的にはよろしくありません。
ですがそのように読めてしまうように、「盗AB」が双賓文であると証明するのは「盗之B」という例でもない限り、無理ではないかと思います。

・丁零蘇武牛羊。(後漢書・孔融伝)
(▼丁零蘇武より牛羊を盗む。)
(▽丁零(北方民族の名)が蘇武から牛や羊を盗んだ。)

これも「蘇武の牛羊を盗む」と読めてしまいます。

・司徒期聘於越。公攻而之幣。(春秋左氏伝・哀公26年)
(▼司徒期越に聘す。公攻めて之より幣を奪ふ。)
(▽司徒期が越の国に使者として訪れた。公は攻めてこれから礼物を奪った。)

これは「盗」ではなく「奪」の例です。
文法的には「之が」とか「之の」と読むべきではないのは前述しましたが、実際手元の解説書では「之が幣を奪ふ」と読んであります。
「奪」と「盗」を同一視するわけにはいきませんが、「盗」も双賓結構をとる動詞の可能性はあると思います。

結局のところ、証拠を示すことはできませんでしたが、「為烏所盗肉」という文は、「烏の盗む所の肉と為る」と強引に読んで「烏の盗んだ肉になる」と解する以外には、「所」を「盗」の他動性に対するとは異なる不定の客体を想定するしかありません。
そう考えた時、「烏のソノヒトより肉を盗むソノヒトと為る」と解するのが一番自然ではないでしょうか。
つまり、「烏に肉を盗まれた人になる」です。

その意味で、昔私が書いた、

「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。

は、必ずしもはずれた解説にはなっていないとはいえるかもしれません。
しかし、それはここまで考えた結果として示したものではなかった。
そして、なぜそうなるのかを示さないものであった。

そう思います。
料理の「さしすせそ」が、なぜなのか?
それを考えようとしなければ、少なくとも自分自身が納得のいく美味い料理は作れないのではないでしょうか。

拙著の誤りと説明不足は、すぐにも訂正したいと思います。

「豪毛不敢有所近」の「所近」の意味は?

『史記』項羽列伝のいわゆる「鴻門の会」で、樊噲が項王に対して持論を展開する場面があります。
そこで樊噲は、主である沛公を弁護して、次のように言います。

・今沛公先破秦入咸陽、豪毛不敢有所近、封閉宮室、還軍覇上、以待大王来。
(▼今沛公先づ秦を破りて咸陽に入るに、豪毛も敢へて近づくる所有らず、宮室を封閉し、軍を覇上に還して、以て大王の来たるを待つ。)
(▽今沛公は真っ先に秦を破って咸陽に入りましたのに、いささかも私物化したものをもとうとせず、宮殿を閉鎖し、軍を覇上に戻して、大王のいらっしゃるのを待っていました。)

この「豪毛」は宋版や元版、明版の中には「毫毛」に作るものも見られます。
さて、通常この「豪毛不敢有所近」は上記のごとく「豪毛も敢へて近づくる所有らず」と読み、「ほんのわずかも近づけるものをもとうとしなかった」の意で解釈されています。

ところが、この読みと解釈に対して疑義を呈している主張を目にしました。
これに限らず他にも、いわゆる教科書の読みと解釈の問題点を複数にわたって指摘し、誤りを正そうという内容でした。
その姿勢自体は素晴らしいと思います。
ただ、そこに指摘されていることのいくつかが、???と首を傾げてしまうものであるというのも、正直な感想です。

このエントリーは、それらを問題とするものではありません。
これまで何度か考えてきた「所」の用法について、最近またぞろ疑問が生まれてきていて、それが私に「あれ?」と思わせたのです。

話が少し横道にそれますが、いわゆる「A為B所C。」(▼ABのCする所と為る。 ▽AがBにCされる。)の受身の形式において、Cが「CD」(DをCする)の形をとる場合があります。
すなわち「A為B所CD。」(ABのDをCする所と為る。)の形式の文において、「所」が何を指すかという問題です。
たとえば、「為烏所盗肉。」(▼烏の肉を盗む所と為る。)という文は、一体どういう意味でしょうか?
そして「所」は何を指すのでしょうか?

そのこと自体は、いずれエントリーを改めて書くつもりですが、そんなこともあって、「所」にはまたぞろ敏感になっていました。

話を元に戻し、疑義が呈されていた内容を要約すると、

「豪毛不敢有所近」の「近」は他動「近づける」の意で従来解釈されているが、「近」に他動詞としての働きはなく、自動詞「近づく」の意味でしか用いられない。
したがって、「敢へて近づく所有らず」と読んで、「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」とするのがよい。

となります。
これが私に「あれ?」と思わせたわけです。

「所」は、後の動詞の不定の客体を表す名詞句を作ります。
それを単に「後の動詞を名詞句にする働き」などと捉えて、「~するもの・~すること」と訳せばよいなどと思い込むと、誤った解釈を生み出してしまいます。

「食桃」(桃を食べる)に対して、「桃」を「所」に置き換えると「所食」となりますが、これは「(ソレを)食べるソレ」の意ですから、「食べるもの」という意味になります。
不定の客体なので、栗でも梨でも「食べるもの」なら何でもいいわけです。

「在京都」(京都にいる)に対して、「京都」を「所」に置き換えると「所在」となりますが、これは「(ソコに)在るソコ」という意味で、「在る場所」という意味になります。
これも不定ですから、「問所在」(在る所を問ふ)という問いが成立します。
不定だから問えるわけです。

「待人」(人を待つ)の場合も、「待」が誰かを待つという意味で用いられているなら「所待」は「(ソノヒトを)待つソノヒト」であって、不定の「待つ人」という意味の名詞句になります。

そう確認したところで、改めて「不敢有所近」を見てみましょう。
従来の読み通り「近づくる所」と読めば、「所近」は「(ソレを)近づけるソレ」で「近づけるもの」という意味で通ります。
しかし、「近づく所」と読んだ場合、指摘のような「近づくこと」という意味を表し得るでしょうか?
「近づく」は、「どこそこに近づく」または「何それに近づく」であって、客体は動詞の依拠性に対するものになるはずです。
つまり、もし「所近」を、「近」は自動詞だとして「近づく所」と読むなら、前者なら「(ソコに)近づくソコ」、後者なら「(ソレに)近づくソレ」とならざるを得ません。
つまり「近づく場所」または「近づくもの」です。
「不敢有所近」は、さすがに「近づく場所をもとうとしなかった」の意味ではないでしょう。
百歩譲って、それでも「近」を自動詞として「沛公はほんのわずかも近づく場所をもとうとはしなかった」と解するならまだしも、あるいは近づく対象をソレとみなして「近づくものをもとうとはしなかった」と解するならまだしも、よもや「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった」と言う意味にはならないと思います。
「所近」は「近」の不定の客体であって、行為ではないからです。

・於是遂誅高漸離、終身不復諸侯之人(史記・刺客列伝)
(▼是に於て遂に高漸離を誅し、終身復た諸侯の人を近づけず。)
(▽そこでそのまま高漸離を誅殺し、(始皇帝は)死ぬまで諸侯に仕えたものを近づけなかった。)

目をつぶされた高漸離が、鉛の塊を筑にしこみ、始皇帝に投げつけたが当たらなかった、その後の記述です。
「近諸侯之人」は「諸侯の人に近づかず」とも読めないことはありませんが、行為の主体は始皇帝であって、始皇帝が諸侯の人に消極的に「近づかない」のではなく、このような事態を二度と招かぬよう、諸侯の人をそばには置かない、すなわち積極的に「近づけない」ではありませんか?

「近」は本来「近い」の意の形容詞だと思いますが、後に客体をとることによって、動詞のように働くことがあります。
その場合、「近づく」と「近づける」の2義が生じます。
確かに「近づく」という自動としての働きで多く用いられるとは思いますが、「近くに置いて親しむ」の意、すなわち「近づける」の意味でも用いられると思います。
探せば刺客列伝以外にも例は見つかるでしょう。


「所」に敏感になっているせいで、余計なことを書いたかもしれません。
「為烏所盗肉。」も見えてきた気がしますが、いずれまた項を改めて書いてみようかと思います。

今年もよろしくお願い致します

  • 2024/01/02 13:56
  • カテゴリー:その他
2024年新春を迎えました。
昨日ご挨拶を申し上げようと自宅PCに向かった瞬間、ゆら~りゆら~りと目眩のようなものを感じ、いや、これは目眩ではない、覚えがある!と思った瞬間、長い横揺れが始まりました。
東北での震災の時と、同じ感じだったのですね。

そういうわけで、新年早々の天災に、お祝いの言葉を申し上げるわけにもいきませんが、皆様、本年もよろしくお願い致します。
また、ご無沙汰しております独学のNさんを初めとして、誠実にご教示を賜る諸氏にも、この場をお借りしてご挨拶を申し上げます。

旧年は公務が異常な事態で疲労困憊、加えて私事としては2000人規模の自治会の役員、例年の5、6倍は忙しく、学問がおろそかになってしまいました。
今年それが解消する目処もあるのかないのかわからぬ状況ですが、怠惰にはならぬよう励むつもりです。

よろしくお願い致します。

ブログ名を「漢文学びのとびら」に戻します

  • 2023/12/22 15:16
  • カテゴリー:その他
(内容:ブログ名を「漢文学びのとびら」に変更することの連絡。)

当ブログは、最初「漢文 学びの小窓」から「漢文 学びのとびら」、そして「漢文 学びの窓」へと、何度か名称を変更してきたのですが、どうも「学びの窓」というのは、どこぞの教育系の出版社で使われている名称らしく(まあ、ありがちな名ですから…)、具合がよろしくありません。

そこで、やっぱり「学びのとびら」の方がいいかな…と思うに至りました。
またまた検索サイトで混乱しそうですが…
今後ともよろしくお願いしいます。

併せて、かつてはエントリーの最古に近い記事で「お勧めの辞書や参考書」を紹介していたのですが、それを削除し、ページエントリーで紹介することにしました。
まだ執筆中ではありますが、高校生のみなさんや、漢文を学びたい方は、ページよりご参照ください。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・5

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その5)

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が挙げている「既」の用法として、最後に次のものを見てみましょう。

五、表示动作行为不久就发生、出现。可译为“不久”。
(動作行為がまもなく発生、出現することを表す。「まもなく」と訳せる。)

前の「四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。」(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)とどう異なるのだろう?時間の短長だろうか?と思ったのですが。

、夫人将使公田孟諸而殺之。(春秋左氏伝・文公16年)
――不久,襄夫人准备让宋昭公去孟诸打猎而杀掉他。
(まもなく、襄夫人は宋昭公を孟諸に狩猟に行かせて彼を殺してしまおうとした。)

どうもこの例は、これまでの「既」の例とは違います。
これまでは、主語の動作行為の完了・終結を示す形で用いられていたのに対して、この例の「既」は「夫人」の動作行為「使公田孟諸而殺之」の完了・終結を表していません。
例文の前を補ってみます。

・宋公子鮑礼於国人。宋飢、竭其粟而貸之。年自七十以上、無不饋詒也、時加羞珍異。無日不数於六卿之門、国之才人無不事也、親自桓以下、無不恤也。公子鮑美而艶。襄夫人欲通之、而不可。乃夫人助之施。昭公無道、国人奉公子鮑以因夫人。於是華元為右師、公孫友為左師、華耦為司馬、鱗驩為司徒、蕩意諸為司城、公子朝為司寇。
初、司城蕩卒。公孫寿辞司城、請使意諸為之。既而告人曰、「君無道、吾官近、懼及焉。棄官則族無所庇。子身之弐也。姑紓死焉。雖亡子、猶不亡族。」
、夫人将使公田孟諸而殺之。
(▼宋の公子鮑(はう)国人に礼あり。宋飢うるに、其の粟を竭(つ)くして之に貸す。年七十より以上、饋詒せざるは無く、時に珍異を加へ羞(すす)む。日として六卿の門を数(しばしば)せざるは無く、国の才人には事(つか)へざるは無く、親は桓より以下、恤(あはれ)まざるは無きなり。公子鮑は美にして艶なり。襄夫人之に通ぜんと欲すれども、可(き)かず。乃ち夫人之に施を助く。昭公は無道にして、国人公子鮑を奉じて以て夫人に因る。是に於て華元右師たり、公孫友左師たり、華耦(くわぐう)司馬たり、鱗驩(りんくわん)司徒たり、蕩意諸(たういしよ)司城たり、公子朝司寇たり。
 初め、司城蕩卒す。公孫寿司城を辞し、意諸をして之たらしめんと請ふ。既にして人に告げて曰はく、「君は無道にして、吾が官近く、焉(これ)に及ばんことを懼(おそ)る。官を棄つれば則ち族庇(おほ)ふ所無し。子は身の弐なり。姑(しばら)く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はざらん。」と。
 既にして、夫人将に公をして孟諸に田(かり)せしめて之を殺さんとす。)
(▽宋の公子鮑は国の人々に対して礼があった。宋の国が飢饉の際には、その穀物を出し尽くしてかれらに貸し、七十歳以上の老人にはすべて食べ物を贈り、時には珍しいものを加えてすすめた。六卿の門をしばしば訪問しない日はなく、国の賢者には仕えないことはなく、親族は桓公の代以下、情けをかけぬものはなかった。公子鮑は美男子で華やかであった。襄公の夫人は彼に言い寄ろうとしたが、受け付けなかった。そこで夫人は彼に施す面で助けた。昭公は無道であったから、国の人々は公子鮑を奉じて夫人に頼った。この時、華元は右師であり、公孫友は左師であり、華耦は司馬であり、鱗驩は司徒であり、蕩意諸は司城であり、公子朝は司寇であった。
 (これより)初め、司城蕩が亡くなった。公孫寿は(その後任の)司城となることを辞退して、(子の)意諸に司城とならせることを求めた。[既而]、人に告げたことには、「わが君は無道であり、私の官位は(君に)近く(高いから)、(災いが)私に及ぶことが心配だ。(かといって)官を捨てれば一族をまもるものがない。子は親の身がわりだ。(わが子を司城にすることで)しばらく死を伸ばせるだろう。子を失っても、(私がいれば)なお一族を失いはすまい。」と。
 [既]、襄公の夫人は昭公に孟諸で狩猟させてこれを殺そうとした。)

長い引用になりましたが、例文の中に「既而」と「既」が出てきます。
私は、この2つは同じ意味、同じ用法として用いられていると思います。

まず最初の「既而」は、公孫寿が自ら司城となることを辞退し、我が子の意諸を司城に推薦したという事実が述べられ、いわば「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既而」が用いられ、裏話が述べられます。

次に2つめ、すなわちもとの例文の「既」は、前段で、公子鮑が国人に奉じられ、無道の昭公を排し、襄公の夫人に頼って次の君主にしようという動きがあること、その時点での昭公の家臣達の位置づけが述べられ、意諸が司城になったいきさつには裏話があることが述べられ、やはり「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既」が用いられ、襄公の夫人が昭公暗殺を企んだことが述べられます。

ここで、意諸が司城になったいきさつが挟まっているのは、実はこの後、昭公は結果的に殺されますが、意諸は父の予想通り死んでしまうことになるからです。

私は、これらの「既」は、「既有之、」(既に之有りて~、)そんな漢文があるかどうかわかりませんが、それぐらいの意味で用いられているのではないかと思うのです。
もっというなら、「既」は単独でそれだけの意味をもたされているとも。
「既而」は、「そんなことがすでにあって、して」です。
「既而」の形をとってその意味を表すのではない、「既」がすでにその働きをしているのではないでしょうか。

この場合の「既」が、前段で述べられた内容の完了・終結を表す以上、その後どれぐらいの時間で次の事件が起こるかについては、定まりません。
すぐに起こることもあるでしょうし、それよりはもう少し時間を要して「やがて」ぐらいの感じで発生することもあるでしょう。
つまり、「既」が「すぐに」「まもなく」という意味を表すのではなく、完了・終結した事件と、新たに起こる事件との間に要する時間に委ねられるのではないでしょうか。


『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』には、この用法として、もう1つ例文が挙げられています。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律。(楊万里・誠斎荊渓集自序)
――我的诗,起初学江西诗派各位名家,不久又学陈师道的五言律诗。
(私の詩は、初め江西詩派の名家たちに学び、まもなくさらに陳師道の五言律詩に学んだ。)

この例文は、続きがあります。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律、又学半山老人七字絶句、晩乃学絶句於唐人。
(▼予の詩は、始め江西の諸君子に学び、既に又後山の五字律に学び、既に又半山老人の七字絶句に学び、晩く乃ち絶句を唐人に学ぶ。)
(▽私の詩は、最初江西の諸君子に学び、[既]さらに後山の五言律詩に学び、[既]半山老人の七言絶句に学び、最後は絶句を唐人に学んだ。)

楊万里が自らの詩作の修行を振り返って述べたものです。
確かに2つの「既」を「まもなく」とか「しばらくして」と訳せば、文意は自然に通ります。
しかし、これは楊万里の修行の段階を示していて、江西の諸君子に学ぶという段階を完了し「そのことが済んで」、次に後山の五言律詩を学んだ。
そしてそれが完了して「そのことが済んで」、さらに半山老人の七言絶句に学んだということではないでしょうか。
前の修得の後、どれぐらいの時間が経過したかまでは「既」は請け負わない、「すぐ」の場合もあるでしょうし、「しばらく経って」からの場合もあるでしょう。

「既」や「既而」が、「すぐに」「まもなく」「やがて」と時間に幅をもたせた形で訳されるのは、実はそもそも「既」が完了・終結を意味して、その後の経過時間を請け負わないからなのではないでしょうか。


さて、検証にあるいは誤りがあるかもしれませんが、私は「既」は色々に訳され、あたかも多義語のように見えるけれども、実は根は1つで、完了・終結で説明ができる語だと思います。
その上で、一番最初の疑問、『史記』刺客列伝の2つの「既」の意味を考えてみましょう。

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

これが「荊軻はすぐに地図を取って(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのですが、果たして本当にそういう意味でしょうか。

暴論かもしれませんが、それなら「軻即取図奏之。」と「即」を用いて表現すればよいことです。
司馬遷はそれを「既」を用いて表現した。
この文は実は、

・軻取図、奏之。

のように見るべきではないでしょうか。

荊軻は趙人徐夫人の匕首を地図の中にしこんでいました。
今、その地図は震えて使い物にならない秦舞陽のもつ柙(箱)の中にあります。
その地図の入った箱をそのまま秦王に献上してしまうのではなく、地図を秦王の目の前で広げる、あるいは広げさせる必要があった。
そのためには、荊軻は地図そのものを手にとって、その上で秦王に献上する必要があった。
ここまでは私の想像ですが、何にせよ、荊軻は「地図を手に取ってから」すなわち、手にとるという動作行為を完了した上で、それを秦王に献上した。
私はこの「既」をそのように解釈します。


次に、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

この文も、教科書各社ともこのように句読されていますが、実は、

・於是左右既前殺軻、秦王不怡者良久。

のように、2句を続けて、前の動作の完了を受けて、秦王の状況が述べられる。
つまり、「そこで左右がすでに進み出て荊軻を殺してしまってからも、秦王の不機嫌はしばらく続いた」と見てはいかがでしょう。
側近の荊軻殺害が完了しての、秦王の状況が述べられている、私にはそう思えるのです。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・4

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その4)

引き続いて中国の虚詞理解を代表するものとして、「既」のさまざまな働きが紹介されている『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の記述について考えてみたいと思います。

「既」が“不久”(まもなく)の意味を表すとした、次の五の項目は最後に回すことにして、六として示されているのが次の内容です。

六、表示动作行为仍然保持原状,没有发生变化。可译为“依然”。
(動作行為がなおももとの状態を保持して、変化しないことを表す。「依然として」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の1例のみです。

・兵革未息、児童尽東征。(杜甫・羌村三首)
――战争依然不止,孩子们都东征去了。
(戦争は以前として終わらず,子ども達はみな東へ出征した。)

確かに「戦争はすでにまだ終わらない」と訳すと変な訳になり、「依然としてまだ終わらない」の訳の方が明らかに自然です。
ただ、漢詩の用字上の問題があるのかもしれませんが、「依然としてまだ終わらない」なら、「尚未息」あるいは「猶未息」と表現すればよいところなのに、あえて「既未息」であることが引っかかります。
たとえば、

・及上寝疾、承璀謀尚未息。太子聞而憂之、密遣人問計於司農卿郭釗。(資治通鑑・唐紀57)
(▼上(しやう)寝疾するに及び、承璀(しようさい)の謀尚ほ未だ息まず。太子聞きて之を憂ひ、密かに人を遣はして計を司農卿の郭釗(くわくせふ)に問はしむ。)
(▽主上が重病となった時も、承璀の策謀はなおもまだやまなかった。太子は聞いてこのことを心配し、ひそかに人を派遣して対策を司農卿の郭釗に問わせた。)

・蜀中群盗猶未息(資治通鑑・後唐紀3)
(▼蜀中の群盗猶ほ未だ息まず。)
(▽蜀中の盗賊達はまだおさまらなかった。)

「尚未息」「猶未息」で絞り込んで検索すると、「息」まで含まれているのでさすがに多くはヒットしないのですが、やはり例はあります。
私的には、「まだやまない」はこちらの方が自然な気がします。

例として挙げられた杜甫の五言古詩を前後も補って見てみましょう。

・群雞正乱叫、客至雞闘争。
 驅雞上樹木、始聞叩柴荊。
 父老四五人、問我久遠行。
 手中各有携、傾榼濁復清。
 莫辞酒味薄、黍地無人耕。
 兵革未息、児童尽東征。
 請為父老歌、艱難愧深情。
 歌罷仰天歎、四座涕縦横。
(▼群雞正(まさ)に乱叫す、客至るに雞闘争す。雞を駆りて樹木に上らしめ、始めて柴荊を叩くを聞く。父老四五人、我の久しく遠行するを問ふ。手中に各携ふる有り、榼を傾くれば濁復た清。辞する莫かれ酒味の薄きを、黍地人の耕す無し。兵革既に未だ息まず、児童尽(ことごと)く東征す。請ふ父老の為に歌はん、艱難深情に愧(は)づ。歌罷み天を仰ぎて歎けば、四座涕縦横たり。)
(▽群れなす鶏がちょうど乱れ叫ぶ、客人が来た時鶏は争っていたのだ。(私は)鶏を駆って木の上にのぼらせて、始めて我が家の門を叩く音を聞いた。年寄りたち四五人が、私が遠い旅から戻ってきたのを見舞ってくれたのだ。(彼らの)手の中にはそれぞれ携えてきたものがある。酒だるを傾けると濁り酒にさらに清酒が流れ出る。(年寄りたちは言う)「ご辞退めさるな酒の味が薄いと、黍畑には耕す人がいないのです。戦乱は[既に]やまず、子どもらはみな東へ出征しています。」(私は言う)「お年寄りのみなさまのために歌を歌いましょう、この難儀な世の中に深いお気持ちをかたじけなく思います。」歌い終わって天を仰いで歎くと、皆さまもはらはら涙を流すのであった。)

わかりやすくするためにかなり意訳しましたが、「兵革既未息、児童尽東征。」の一節は、作者の家に訪問した父老たちの言葉なのですね。
そして、この2句で本来似た義の「既」と「尽」が対になっているのがわかります。

さて、この「兵革既未息」は「戦乱は依然としてまだ終わらない」という意味でしょうか。
私は「兵革」が「未息」という状態を完結していると見ます。
なおも継続しているというよりも、「終わらない」ということに決まってしまっているとでも言いましょうか。
つまり「戦乱はまだ終わらないということで完結し、子ども達は東征し尽くしている」で、「既」と「尽」という似た意味の語を用いているのではないかと思うのです。
黒川洋一氏の『中国詩人選集・杜甫』(岩波書店1959)が、この箇所を「たたかいはあくまでもまだやもうとせず、こどもらはことごとく東方の征伐にでかけているのです」と「既」をあえて「あくまでも」と訳しておられるのは、あるいはこの「既」をやはり本来の義に受け取ってのことなのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが。

「依然として」の意味の「既」の例がこの1例しか示されていないので、他の虚詞詞典にはないものかと手許のいくつかを探してみましたが、見つかりませんでした。


続いて、「既」の用法としてあげられているのは次の項目です。

七、强调某种状况原先就是这样。可译为“原来”或“本来”。
(ある状況がもともとはそのようであったことを強調する。「もともと」や「本来」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の文です。

・淵既神姿峰穎、雖処鄙事、神気猶異。(世説新語・自新)
――戴渊本来神情姿态就出类拔萃,即使对待鄙贱的事情,神气也不同于常人。
(戴淵はもともと表情や姿勢が際立っており、卑しいことをしていても、態度は常人と異なっていた。)

これは戴淵がすでに「神姿峰穎」を十分に備えていたことを表していて、「十分にしつくす」という「既」の本来の義で説明できます。
「本来」「もともと」と訳すと、より自然な訳になりはしますが。


こうして多義語とされる「既」の用法を見てくると、確かに日本での読みである「すでに」と訳すと違和感のあるものが多いのですが、それは「すでに」と訳すからで、「既」の字の本来の義である「し終える」「十分にしてしまう・しつくす」から終了・完了に照らして用例を見れば、やはりその義で説明がつくものだと思います。
それを文脈に合うように適宜訳を工夫することはあっても、だから工夫された訳が「既」に本来的に備わっているものと考えるのはどうであろうかと私は思うのです。

エントリーを改め、さらに考察を進めたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・3

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その3)

前エントリーの最後に紹介した『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の説明を再掲します。(同様の記述は他の虚詞詞典にも見られます。)

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

この例として挙げられているのが次の文です。

・当遂枚木,不能尽内,焼之。(遂:道。枚:树干。内:用同“纳”。)(墨子・号令)
――挡着道路的树木,不能全部弄到〔城里的〕,就烧掉它。
(道路を遮っている樹木は、すべて城内に入れられず、すぐそれを焼いた。)

実はこの文、学者により文字の誤りが指摘されているものです。
清の孫詒譲の『墨子間詁』では、王念孫の指摘に基づき、本文を次のように改訂しています。

・吏為之券、書其枚数。当遂材木不能尽内、即焼之、無令客得而用之。
(▼吏之に券を為り、其の枚数を書す。遂に当たる材木の尽(ことごと)く内(い)るる能はざるは、即ち之を焼き、客をして得て之を用ゐしむる無し。)
(▽役人はこれに証書を作り、その枚数を書き留めておく。道路にあたる材木の城内に入れ尽くせないものは、すぐにこれを焼き、敵に得てそれを用いさせることがない。)

「枚」を「材」、「既」を「即」の誤りとするのですが、これは清の王念孫が『読書雑志』の中に同時代の王引之の説を引用したのを、孫詒譲が引いて是と判断したものです。

・引之曰、「『枚木』文不成義。『枚』当為『材』、『既焼之』当為『即焼之』。言当道之材木、不能尽納城中者即焼之、無令寇得而用之也。雑守篇云、『材木不能尽入者燔之、無令寇得用之。』是其證。今本『材』作『枚』、渉上文『枚数』而誤、『即』字誤作『既』、則義不可通。」(読書雑志・墨子第6)
(王引之が言う、「『枚木』の文は意味をなさない。『枚』は『材』とし、『既焼之』は『即焼之』とするべきである。道に当たる材木のすべて城中に入れ尽くせないものはすぐに焼き、敵に得て用いさせることがないというのである。雑守篇にいう、『材木の入れ尽くせないものはこれを焼き、敵に得て用いさせることがない」がその証拠である。今本が『材』を『枚』とするのは、上文の『枚数』にわたって誤ったのであり、『即』の字は『既』と誤るが、それでは意味が通じない。)

これがその王引之の説ですが、「枚」についてはおそらく指摘通りでしょう。
「即」については、同じ『墨子』の雑守篇にその文字が見えないからといって、号令篇にある「既」を「即」の誤りとするのは、もう少し慎重でありたいところです。
確かに字形は似ており、「即」の誤りである可能性もなくはありませんが、もともとの本文が「既」であった可能性も皆無とは言い切れないからです。
号令篇の「既焼之」の「既」を衍字とみなすか、文意から考えて「即」の誤りとするか、どちらにせよ推測の域を越えません。
「其證」とまでは言えないのではないでしょうか。

ただここで私が言いたいことは、『墨子・号令篇』のこの例文をもって、「既」を「すぐに」という意味だと断ずるのは、どうだろうか?ということです。
本文の誤りが指摘されている箇所である上に、王念孫や王引之が「既」を「即」の誤りだとしているからといって、別に彼らは「既」が「即」の意味だと言っているわけではありません。

私見を述べるなら、雑守篇に「即」が用いられていない以上、号令篇の文もまずは原文の「既」で本当に解釈ができないか検討すべきだと思います。
もし本当はこの文が、やはり、

・当遂材木不能尽内、焼之、無令客得而用之。

であったとします。
「道路にあたる材木ですべて(城中に)入れることができないものは、すでにこれを焼いて、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳せば、確かに少し違和感があるかもしれませんが、「道路にあたる材木で(城中に)入れ尽くせないものは、それを焼いてしまい、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳してみれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
「既」が「し終える」「十分にしてしまう」から「つきる・つくす」という引申義をもつに至るごく初期の働きで十分説明がつく文だと思います。

ただ私が解せないのは、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』をはじめとして、各種虚詞詞典がなぜこの例を、“全部”“都”(全部、みな)の意味で解釈しなかったのかということです。
それでも通るはずでしょうに。
「既焼之」を「すべてこれを焼いた」と解釈せずに「すぐにこれを焼いた」と解するその基準というか、どういう場合に「すべて」であって、どういう場合に「すぐに」なのか、意味の違いの判別はいったい何に基づくのでしょうか。
王引之がこの文の「既」を「即」の誤りとするその主張が、よもや根拠になっているはずはあるまいと思いはしますが、先ほども述べたように王引之は「既」が「即」の義であると主張しているわけではありません。

もちろん王引之の主張通り、この文が「即焼之」の誤りであったならば、「すぐにこれを焼いた」と解することに対しては何の異論もありません。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』で、「すぐに」の意味の2例目に挙げているのが次の例です。

当遠別、遂停三日共語。(世説新語・雅量)
――马上该远别了,于是停留三天一块说说话。
(まもなく遠く別れねばならなくなって、そこで三日とどまり共に語った。)

例文の前を補って、読んでみます。

・謝安南免吏部尚書還東、謝太傅赴桓公司馬出西、相遇破岡。当遠別、遂停三日共語。
(▼謝安南 吏部尚書を免ぜられ東に還り、謝太傅 桓公の司馬に赴き西に出で、破岡に相遇ふ。既に当に遠別すべく、遂に停まること三日共に語る。)
(▽謝安南は吏部尚書を罷免されて東に帰り、謝太傅は桓公の司馬に赴任するため、西に
向かい、破岡で出会った。[既]遠く別れなければならず、そのまま三日間とどまって語りあった。)

「既当遠別」の「当」は古くより上記のように読まれていますが、あるいは「既に遠別するに当たり」と読むべきなのかもしれません。
例文の前の部分で明らかなように、謝安南(謝奉)と謝太傅(謝安)はそれぞれ東に、西に向かって移動していたわけです。
それが破岡で出くわした。
当然それぞれの向かう方角が逆であることを確認した上で、だからこそ「遠別」すなわち遠く別れることになるのがわかったから、三日とどまってでも語り合ったのです。

さて、この「既当遠別」を『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「马上」(すぐに・まもなく)と解しているのですが、それは文意からの判断でしょうか。
しかし、この「既」も、「当遠別」遠く別れなければならないという事実が「すでに確定した」という意味を表しているのではないでしょうか。
つまり、「遠く別れなければならないということになって→遠く別れなければならないということがわかって」です。
これを「既」の基本義から離れてあえて「まもなく・すぐに」と解釈する必要があるでしょうか。

以上、2例、いずれも「既」を「まもなく・やがて・すぐに」の意である証左とするには、根拠不足であると思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は、「既」にはまだいくつか異なる義があると述べているのですが、それは次のエントリーで検証してみたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・2

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その2)

前エントリーに引き続き、「既」の語義や用法を多岐にわたるとする説に対して、検討を加えていきたいと思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)には、「既」の副詞の用法について、続いて「二、表示统括。」(統括を表す)として、次のように記されています。

1.表示主语所指的人或事物都具有或承受某一动作行为。可译为“全部”“都” 等。
(主語が指す人や事物がある動作行為をすべてそなえる、または引き受けることを表す。「全部」「すべて」などと訳せる。)

この例として示されているのは、次の文です。(これも各種の虚詞詞典に同様の記述が見られます。)

・宋人成列,楚人未済。(春秋左氏伝・僖公22年)…原文は簡体字
――宋军已经摆好了作战的阵势,楚军还没有全部渡过泓水。
(宋軍はすでに戦闘の陣容をなしていたが、楚軍はまだ全部泓水を渡り終えていなかった。)

2つある「既」を訳し分けているのがおもしろいところです。
「既成列」の方は「已经」として「すでに列をなしていた」、「未既済」の方は「全部」として「まだ全部渡っていない」あるいは「まだ全部渡り終えていない」と訳しています。
うまい訳だなと思う一方で、前者だって「すっかり列を整えていた」と訳せるではないかと思ったりもします。
これは、「既」という漢字の原義、「し終える・十分にし尽くす」からの引申義です。
「すでに」という日本語にこだわらずに、「既」の基本義、終了・完了に照らしてみれば、「未既済」はその基本義のままに適用できる用法ではないでしょうか。
これはやはり「済」という動作の完了を示しているのだと思います。

例文にはもう1つあります。

・専任刑法,而儒墨喪焉。(遠鉄論・論誹)…原文は簡体字
――〔李斯、赵高〕专门使用刑罚,而儒家墨家的主张都被抛掉了。
(〔李斯や趙高は〕もっぱら刑罰を用いて、儒家や墨家の主張はすべて捨て去られた。)

前文を補って訓読してみます。

・昔、秦以武力呑天下、而斯高以妖孽累其禍。廃古術、隳旧礼、専任刑法、而儒墨喪焉。
(▼昔、秦武力を以て天下を呑みて、斯高妖孽を以て其の禍を累(かさ)ぬ。古術を廃し、旧礼を隳(やぶ)り、専ら刑法に任じて、儒墨既に喪はる。)
(▽昔、秦の国が武力によって天下を併呑して、李斯や趙高が邪悪な行いによってその災いを重ねた。古い伝統を捨て、古いしきたりを破り、もっぱら刑法にまかせて、儒家や墨家は失われてしまった。)

「儒墨既喪焉」を「儒墨はすでに失われた」と訳すと、やや不自然な感じになりますが、「儒墨は失われてしまった」と訳せば、自然になります。
「儒墨が失われてしまった」というのは、事実としては確かに「儒墨はすべて失われた」ということですが、あえて「既」を「すべて」という意味だと考える必要はないのではないでしょうか。
「喪」という事象が完了したということでしょう。

しかし、この「既」を「すべて」「全部」と解するのは、動作行為の完了・終了を意味する「既」の延長上にあり、「し終える・十分にし尽くす」と、ほぼ同じ事象を表すとは思います。
「ことごとク」と読む「尽(盡)」が、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義であり、引申義として「すべて」という意味をもつように、食事をし終えて満腹の状態を表す「既」が「すべて」の意を引申義としてもつのはあり得ることでしょう。


続いて、「二、表示统括。」の2つめに、次のように記されています。

2.表示宾语所指的事物都是某一动作行为直接涉及的对象。可译为“全都”。
(賓語が指す事物がすべてある動作行為の直接関わる対象であることを表す。「すべて」と訳せる。)

これの例が次の文です。

以与人己愈多。(老子・81章)…原文は簡体字
――〔圣人〕把〔一切〕全都给了别人,自己反而更富有。
(〔聖人は〕〔すべてのものを〕全部別の人に与え、自分はかえってさらに豊かになる。)

この文も前の部分を補った上で、訓読してみます。

・聖人不積、以為人己愈有、以与人己愈多。
(▼聖人は積まず、既(ことごと)く以て人の為にして愈(いよいよ)有り、既く以て人に与へて己愈多し。)
(▽聖人はためこまない、ことごとく人のためにして(自分は)いよいよ有り、すべて人に与えて(自分は)いよいよ多い。)

「為人」は、古来「人の為にして」と読まれていますが、蜂屋邦夫氏訳注の『老子』(岩波文庫2008)は、「為」は「施」の意味として、「人に為(ほどこ)して」と読み、「なにもかも人々に施しつくしながら」と訳しています。
「既以与人」との対になるので、「為」を動詞とするべきだという判断かもしれません。
さて、「既以為人」や「既以与人」の「既」を「すでに」と読むと、確かに違和感があり、「ことごとく」と読む方が自然です。
しかしこれとて「人のためにし切る」「人に与え切る」のであって、終了・完了の基本義から解釈できそうです。
その結果が「すべて人のためにし」「すべて人に与える」と同現象になるのでしょう。


『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が「既」の副詞としての用法の3つめに挙げているのが次です。

三、表示动作行为或状况已经发生、出现或存在。可译为“已经”。
(動作行為や状況がすでに発生、出現または存在することを表す。「すでに」と訳せる。)

その例文は次の通り。

克,公問其故。(春秋左氏伝・荘公10年)
――已经得胜,鲁庄公问曹刿得胜的原因。
(すでに勝利を得て、魯の荘公は曹劌(さうけい)に勝利を得た原因を問うた。)

これに先立つ内容は長くなるので引用しませんが、斉の軍が魯を攻めてきた時、曹劌という男が魯の荘公に目通りして、荘公を戦いに勝つ見込みがある人物と見て、共を願い出ます。
荘公が攻め太鼓を打とうとすると、曹劌は「まだだめです」と制し、斉軍が三度目の太鼓を打ち終えると、今ならよいと荘公に太鼓を打たせます。
さらに、斉軍が逃げ出し、荘公が追撃しようとすると、また「まだだめです」と制し、敵の戦車の轍を確認し、敵の逃げていく様子を確認してから、今ならよいと追撃させました。
その後に先の例文が来ます。
荘公は曹劌の指示と行動に疑問をもっていたわけです。

「既克」は「既に克(か)ちて」とよみます。
この例文が先のいくつかの例文と決定的に異なるのは、時間的な前後に従った2句からなる文の前句で「既」が用いられている点です。
つまり、前句に述べられる事象がすでに完結した後で、後句の事象が発生します。
「すでに(戦いに)勝つ」→「荘公がその理由を問う」
この関係になっています。
私的には、「既」があたかも連詞のように2句の前句で用いられる時、基本的には「~してから、~する」という関係でほとんど説明ができるように思います。
この例の場合は、「(戦いに)勝ってから、荘公はその理由を問うた」です。
実は、一番最初の疑問となった『史記・刺客列伝』の2例もその例外ではないと思っているのですが、それは『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の挙げる例文を検証してから述べたいと思います。

・余幼好此奇服兮,年老而不衰。(楚辞・九章・渉江)
――我年幼时就爱好这奇特的服饰啊,〔现在〕年纪已经老了仍没有衰退。
(私は幼い時この珍しい服装を好み、〔現在〕年齢はすでに老いたが衰えない。)

これは先のいくつかの例と同様、「老」という現象の「十分にし尽くす」に該当して、「老いてしまったが」という完了を「既」が表しています。

平天下,不懈于治。(史記・秦始皇本紀)…「于」は『史記』原典では「於」に作る
――已经平定了天下,〔始皇帝〕对治理国家仍不懈怠。
(すでに天下を平定しても、〔始皇帝は〕国家を治めることに対して依然として怠らなかった。)

これは「既克,公問其故。」の例と同じく、2句の前句で「既」が用いられています。
「すでに天下を平定してしまってからも」の意でしょう。

・噲飲酒,抜剣切肉食,尽之。(史記・樊酈滕灌列伝)
――樊哙已经喝干了酒,又抽出剑切肉吃,全都吃完了。
(樊噲は酒を飲みほすと、さらに剣を抜き、肉を切って食べ尽くした。)

これは「飲酒」という動作を「し終える」に該当して、やはり完了を表しています。

・相持久、日晷漸移。(晷:日影。)(馬中錫「中山狼」)
――〔双方〕相持已经很久了,太阳的影子渐渐移动。
(〔双方は〕すでに長い間互いに譲らず、太陽による影は次第に移動した。)

これは「久」という時間の経過が「十分にし尽くす」という状態になったことを示しています。

ここまでの『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の解釈は、すべて「既」の基本的な字義に基づいて説明することができますが、それぞれの文脈の中で、適切な説明と訳を選んでいるという印象があります。
その意味で、遅鐸氏の解釈が特に不適切だとは思いません。


次に『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が示しているのが、本エントリーの問題とする解釈です。

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

これが日本でも「既」を「すぐに・まもなく」などと訳すと説明される、中国の虚詞研究による説明なのですが、さて、次のエントリーではその例文を見てみることにしましょう。

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