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「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・5

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その5)

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が挙げている「既」の用法として、最後に次のものを見てみましょう。

五、表示动作行为不久就发生、出现。可译为“不久”。
(動作行為がまもなく発生、出現することを表す。「まもなく」と訳せる。)

前の「四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。」(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)とどう異なるのだろう?時間の短長だろうか?と思ったのですが。

、夫人将使公田孟諸而殺之。(春秋左氏伝・文公16年)
――不久,襄夫人准备让宋昭公去孟诸打猎而杀掉他。
(まもなく、襄夫人は宋昭公を孟諸に狩猟に行かせて彼を殺してしまおうとした。)

どうもこの例は、これまでの「既」の例とは違います。
これまでは、主語の動作行為の完了・終結を示す形で用いられていたのに対して、この例の「既」は「夫人」の動作行為「使公田孟諸而殺之」の完了・終結を表していません。
例文の前を補ってみます。

・宋公子鮑礼於国人。宋飢、竭其粟而貸之。年自七十以上、無不饋詒也、時加羞珍異。無日不数於六卿之門、国之才人無不事也、親自桓以下、無不恤也。公子鮑美而艶。襄夫人欲通之、而不可。乃夫人助之施。昭公無道、国人奉公子鮑以因夫人。於是華元為右師、公孫友為左師、華耦為司馬、鱗驩為司徒、蕩意諸為司城、公子朝為司寇。
初、司城蕩卒。公孫寿辞司城、請使意諸為之。既而告人曰、「君無道、吾官近、懼及焉。棄官則族無所庇。子身之弐也。姑紓死焉。雖亡子、猶不亡族。」
、夫人将使公田孟諸而殺之。
(▼宋の公子鮑(はう)国人に礼あり。宋飢うるに、其の粟を竭(つ)くして之に貸す。年七十より以上、饋詒せざるは無く、時に珍異を加へ羞(すす)む。日として六卿の門を数(しばしば)せざるは無く、国の才人には事(つか)へざるは無く、親は桓より以下、恤(あはれ)まざるは無きなり。公子鮑は美にして艶なり。襄夫人之に通ぜんと欲すれども、可(き)かず。乃ち夫人之に施を助く。昭公は無道にして、国人公子鮑を奉じて以て夫人に因る。是に於て華元右師たり、公孫友左師たり、華耦(くわぐう)司馬たり、鱗驩(りんくわん)司徒たり、蕩意諸(たういしよ)司城たり、公子朝司寇たり。
 初め、司城蕩卒す。公孫寿司城を辞し、意諸をして之たらしめんと請ふ。既にして人に告げて曰はく、「君は無道にして、吾が官近く、焉(これ)に及ばんことを懼(おそ)る。官を棄つれば則ち族庇(おほ)ふ所無し。子は身の弐なり。姑(しばら)く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はざらん。」と。
 既にして、夫人将に公をして孟諸に田(かり)せしめて之を殺さんとす。)
(▽宋の公子鮑は国の人々に対して礼があった。宋の国が飢饉の際には、その穀物を出し尽くしてかれらに貸し、七十歳以上の老人にはすべて食べ物を贈り、時には珍しいものを加えてすすめた。六卿の門をしばしば訪問しない日はなく、国の賢者には仕えないことはなく、親族は桓公の代以下、情けをかけぬものはなかった。公子鮑は美男子で華やかであった。襄公の夫人は彼に言い寄ろうとしたが、受け付けなかった。そこで夫人は彼に施す面で助けた。昭公は無道であったから、国の人々は公子鮑を奉じて夫人に頼った。この時、華元は右師であり、公孫友は左師であり、華耦は司馬であり、鱗驩は司徒であり、蕩意諸は司城であり、公子朝は司寇であった。
 (これより)初め、司城蕩が亡くなった。公孫寿は(その後任の)司城となることを辞退して、(子の)意諸に司城とならせることを求めた。[既而]、人に告げたことには、「わが君は無道であり、私の官位は(君に)近く(高いから)、(災いが)私に及ぶことが心配だ。(かといって)官を捨てれば一族をまもるものがない。子は親の身がわりだ。(わが子を司城にすることで)しばらく死を伸ばせるだろう。子を失っても、(私がいれば)なお一族を失いはすまい。」と。
 [既]、襄公の夫人は昭公に孟諸で狩猟させてこれを殺そうとした。)

長い引用になりましたが、例文の中に「既而」と「既」が出てきます。
私は、この2つは同じ意味、同じ用法として用いられていると思います。

まず最初の「既而」は、公孫寿が自ら司城となることを辞退し、我が子の意諸を司城に推薦したという事実が述べられ、いわば「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既而」が用いられ、裏話が述べられます。

次に2つめ、すなわちもとの例文の「既」は、前段で、公子鮑が国人に奉じられ、無道の昭公を排し、襄公の夫人に頼って次の君主にしようという動きがあること、その時点での昭公の家臣達の位置づけが述べられ、意諸が司城になったいきさつには裏話があることが述べられ、やはり「そんなことがあって後」ぐらいの意味で「既」が用いられ、襄公の夫人が昭公暗殺を企んだことが述べられます。

ここで、意諸が司城になったいきさつが挟まっているのは、実はこの後、昭公は結果的に殺されますが、意諸は父の予想通り死んでしまうことになるからです。

私は、これらの「既」は、「既有之、」(既に之有りて~、)そんな漢文があるかどうかわかりませんが、それぐらいの意味で用いられているのではないかと思うのです。
もっというなら、「既」は単独でそれだけの意味をもたされているとも。
「既而」は、「そんなことがすでにあって、して」です。
「既而」の形をとってその意味を表すのではない、「既」がすでにその働きをしているのではないでしょうか。

この場合の「既」が、前段で述べられた内容の完了・終結を表す以上、その後どれぐらいの時間で次の事件が起こるかについては、定まりません。
すぐに起こることもあるでしょうし、それよりはもう少し時間を要して「やがて」ぐらいの感じで発生することもあるでしょう。
つまり、「既」が「すぐに」「まもなく」という意味を表すのではなく、完了・終結した事件と、新たに起こる事件との間に要する時間に委ねられるのではないでしょうか。


『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』には、この用法として、もう1つ例文が挙げられています。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律。(楊万里・誠斎荊渓集自序)
――我的诗,起初学江西诗派各位名家,不久又学陈师道的五言律诗。
(私の詩は、初め江西詩派の名家たちに学び、まもなくさらに陳師道の五言律詩に学んだ。)

この例文は、続きがあります。

・予之詩、始学江西諸君子、又学後山五字律、又学半山老人七字絶句、晩乃学絶句於唐人。
(▼予の詩は、始め江西の諸君子に学び、既に又後山の五字律に学び、既に又半山老人の七字絶句に学び、晩く乃ち絶句を唐人に学ぶ。)
(▽私の詩は、最初江西の諸君子に学び、[既]さらに後山の五言律詩に学び、[既]半山老人の七言絶句に学び、最後は絶句を唐人に学んだ。)

楊万里が自らの詩作の修行を振り返って述べたものです。
確かに2つの「既」を「まもなく」とか「しばらくして」と訳せば、文意は自然に通ります。
しかし、これは楊万里の修行の段階を示していて、江西の諸君子に学ぶという段階を完了し「そのことが済んで」、次に後山の五言律詩を学んだ。
そしてそれが完了して「そのことが済んで」、さらに半山老人の七言絶句に学んだということではないでしょうか。
前の修得の後、どれぐらいの時間が経過したかまでは「既」は請け負わない、「すぐ」の場合もあるでしょうし、「しばらく経って」からの場合もあるでしょう。

「既」や「既而」が、「すぐに」「まもなく」「やがて」と時間に幅をもたせた形で訳されるのは、実はそもそも「既」が完了・終結を意味して、その後の経過時間を請け負わないからなのではないでしょうか。


さて、検証にあるいは誤りがあるかもしれませんが、私は「既」は色々に訳され、あたかも多義語のように見えるけれども、実は根は1つで、完了・終結で説明ができる語だと思います。
その上で、一番最初の疑問、『史記』刺客列伝の2つの「既」の意味を考えてみましょう。

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

これが「荊軻はすぐに地図を取って(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのですが、果たして本当にそういう意味でしょうか。

暴論かもしれませんが、それなら「軻即取図奏之。」と「即」を用いて表現すればよいことです。
司馬遷はそれを「既」を用いて表現した。
この文は実は、

・軻取図、奏之。

のように見るべきではないでしょうか。

荊軻は趙人徐夫人の匕首を地図の中にしこんでいました。
今、その地図は震えて使い物にならない秦舞陽のもつ柙(箱)の中にあります。
その地図の入った箱をそのまま秦王に献上してしまうのではなく、地図を秦王の目の前で広げる、あるいは広げさせる必要があった。
そのためには、荊軻は地図そのものを手にとって、その上で秦王に献上する必要があった。
ここまでは私の想像ですが、何にせよ、荊軻は「地図を手に取ってから」すなわち、手にとるという動作行為を完了した上で、それを秦王に献上した。
私はこの「既」をそのように解釈します。


次に、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

この文も、教科書各社ともこのように句読されていますが、実は、

・於是左右既前殺軻、秦王不怡者良久。

のように、2句を続けて、前の動作の完了を受けて、秦王の状況が述べられる。
つまり、「そこで左右がすでに進み出て荊軻を殺してしまってからも、秦王の不機嫌はしばらく続いた」と見てはいかがでしょう。
側近の荊軻殺害が完了しての、秦王の状況が述べられている、私にはそう思えるのです。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・4

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その4)

引き続いて中国の虚詞理解を代表するものとして、「既」のさまざまな働きが紹介されている『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の記述について考えてみたいと思います。

「既」が“不久”(まもなく)の意味を表すとした、次の五の項目は最後に回すことにして、六として示されているのが次の内容です。

六、表示动作行为仍然保持原状,没有发生变化。可译为“依然”。
(動作行為がなおももとの状態を保持して、変化しないことを表す。「依然として」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の1例のみです。

・兵革未息、児童尽東征。(杜甫・羌村三首)
――战争依然不止,孩子们都东征去了。
(戦争は依然として終わらず,子ども達はみな東へ出征した。)

確かに「戦争はすでにまだ終わらない」と訳すと変な訳になり、「依然としてまだ終わらない」の訳の方が明らかに自然です。
ただ、漢詩の用字上の問題があるのかもしれませんが、「依然としてまだ終わらない」なら、「尚未息」あるいは「猶未息」と表現すればよいところなのに、あえて「既未息」であることが引っかかります。
たとえば、

・及上寝疾、承璀謀尚未息。太子聞而憂之、密遣人問計於司農卿郭釗。(資治通鑑・唐紀57)
(▼上(しやう)寝疾するに及び、承璀(しようさい)の謀尚ほ未だ息まず。太子聞きて之を憂ひ、密かに人を遣はして計を司農卿の郭釗(くわくせふ)に問はしむ。)
(▽主上が重病となった時も、承璀の策謀はなおもまだやまなかった。太子は聞いてこのことを心配し、ひそかに人を派遣して対策を司農卿の郭釗に問わせた。)

・蜀中群盗猶未息(資治通鑑・後唐紀3)
(▼蜀中の群盗猶ほ未だ息まず。)
(▽蜀中の盗賊達はまだおさまらなかった。)

「尚未息」「猶未息」で絞り込んで検索すると、「息」まで含まれているのでさすがに多くはヒットしないのですが、やはり例はあります。
私的には、「まだやまない」はこちらの方が自然な気がします。

例として挙げられた杜甫の五言古詩を前後も補って見てみましょう。

・群雞正乱叫、客至雞闘争。
 驅雞上樹木、始聞叩柴荊。
 父老四五人、問我久遠行。
 手中各有携、傾榼濁復清。
 莫辞酒味薄、黍地無人耕。
 兵革未息、児童尽東征。
 請為父老歌、艱難愧深情。
 歌罷仰天歎、四座涕縦横。
(▼群雞正(まさ)に乱叫す、客至るに雞闘争す。雞を駆りて樹木に上らしめ、始めて柴荊を叩くを聞く。父老四五人、我の久しく遠行するを問ふ。手中に各携ふる有り、榼を傾くれば濁復た清。辞する莫かれ酒味の薄きを、黍地人の耕す無し。兵革既に未だ息まず、児童尽(ことごと)く東征す。請ふ父老の為に歌はん、艱難深情に愧(は)づ。歌罷み天を仰ぎて歎けば、四座涕縦横たり。)
(▽群れなす鶏がちょうど乱れ叫ぶ、客人が来た時鶏は争っていたのだ。(私は)鶏を駆って木の上にのぼらせて、始めて我が家の門を叩く音を聞いた。年寄りたち四五人が、私が遠い旅から戻ってきたのを見舞ってくれたのだ。(彼らの)手の中にはそれぞれ携えてきたものがある。酒だるを傾けると濁り酒にさらに清酒が流れ出る。(年寄りたちは言う)「ご辞退めさるな酒の味が薄いと、黍畑には耕す人がいないのです。戦乱は[既に]やまず、子どもらはみな東へ出征しています。」(私は言う)「お年寄りのみなさまのために歌を歌いましょう、この難儀な世の中に深いお気持ちをかたじけなく思います。」歌い終わって天を仰いで歎くと、皆さまもはらはら涙を流すのであった。)

わかりやすくするためにかなり意訳しましたが、「兵革既未息、児童尽東征。」の一節は、作者の家に訪問した父老たちの言葉なのですね。
そして、この2句で本来似た義の「既」と「尽」が対になっているのがわかります。

さて、この「兵革既未息」は「戦乱は依然としてまだ終わらない」という意味でしょうか。
私は「兵革」が「未息」という状態を完結していると見ます。
なおも継続しているというよりも、「終わらない」ということに決まってしまっているとでも言いましょうか。
つまり「戦乱はまだ終わらないということで完結し、子ども達は東征し尽くしている」で、「既」と「尽」という似た意味の語を用いているのではないかと思うのです。
黒川洋一氏の『中国詩人選集・杜甫』(岩波書店1959)が、この箇所を「たたかいはあくまでもまだやもうとせず、こどもらはことごとく東方の征伐にでかけているのです」と「既」をあえて「あくまでも」と訳しておられるのは、あるいはこの「既」をやはり本来の義に受け取ってのことなのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが。

「依然として」の意味の「既」の例がこの1例しか示されていないので、他の虚詞詞典にはないものかと手許のいくつかを探してみましたが、見つかりませんでした。


続いて、「既」の用法としてあげられているのは次の項目です。

七、强调某种状况原先就是这样。可译为“原来”或“本来”。
(ある状況がもともとはそのようであったことを強調する。「もともと」や「本来」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の文です。

・淵既神姿峰穎、雖処鄙事、神気猶異。(世説新語・自新)
――戴渊本来神情姿态就出类拔萃,即使对待鄙贱的事情,神气也不同于常人。
(戴淵はもともと表情や姿勢が際立っており、卑しいことをしていても、態度は常人と異なっていた。)

これは戴淵がすでに「神姿峰穎」を十分に備えていたことを表していて、「十分にしつくす」という「既」の本来の義で説明できます。
「本来」「もともと」と訳すと、より自然な訳になりはしますが。


こうして多義語とされる「既」の用法を見てくると、確かに日本での読みである「すでに」と訳すと違和感のあるものが多いのですが、それは「すでに」と訳すからで、「既」の字の本来の義である「し終える」「十分にしてしまう・しつくす」から終了・完了に照らして用例を見れば、やはりその義で説明がつくものだと思います。
それを文脈に合うように適宜訳を工夫することはあっても、だから工夫された訳が「既」に本来的に備わっているものと考えるのはどうであろうかと私は思うのです。

エントリーを改め、さらに考察を進めたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・3

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その3)

前エントリーの最後に紹介した『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の説明を再掲します。(同様の記述は他の虚詞詞典にも見られます。)

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

この例として挙げられているのが次の文です。

・当遂枚木,不能尽内,焼之。(遂:道。枚:树干。内:用同“纳”。)(墨子・号令)
――挡着道路的树木,不能全部弄到〔城里的〕,就烧掉它。
(道路を遮っている樹木は、すべて城内に入れられず、すぐそれを焼いた。)

実はこの文、学者により文字の誤りが指摘されているものです。
清の孫詒譲の『墨子間詁』では、王念孫の指摘に基づき、本文を次のように改訂しています。

・吏為之券、書其枚数。当遂材木不能尽内、即焼之、無令客得而用之。
(▼吏之に券を為り、其の枚数を書す。遂に当たる材木の尽(ことごと)く内(い)るる能はざるは、即ち之を焼き、客をして得て之を用ゐしむる無し。)
(▽役人はこれに証書を作り、その枚数を書き留めておく。道路にあたる材木の城内に入れ尽くせないものは、すぐにこれを焼き、敵に得てそれを用いさせることがない。)

「枚」を「材」、「既」を「即」の誤りとするのですが、これは清の王念孫が『読書雑志』の中に同時代の王引之の説を引用したのを、孫詒譲が引いて是と判断したものです。

・引之曰、「『枚木』文不成義。『枚』当為『材』、『既焼之』当為『即焼之』。言当道之材木、不能尽納城中者即焼之、無令寇得而用之也。雑守篇云、『材木不能尽入者燔之、無令寇得用之。』是其證。今本『材』作『枚』、渉上文『枚数』而誤、『即』字誤作『既』、則義不可通。」(読書雑志・墨子第6)
(王引之が言う、「『枚木』の文は意味をなさない。『枚』は『材』とし、『既焼之』は『即焼之』とするべきである。道に当たる材木のすべて城中に入れ尽くせないものはすぐに焼き、敵に得て用いさせることがないというのである。雑守篇にいう、『材木の入れ尽くせないものはこれを焼き、敵に得て用いさせることがない」がその証拠である。今本が『材』を『枚』とするのは、上文の『枚数』にわたって誤ったのであり、『即』の字は『既』と誤るが、それでは意味が通じない。)

これがその王引之の説ですが、「枚」についてはおそらく指摘通りでしょう。
「即」については、同じ『墨子』の雑守篇にその文字が見えないからといって、号令篇にある「既」を「即」の誤りとするのは、もう少し慎重でありたいところです。
確かに字形は似ており、「即」の誤りである可能性もなくはありませんが、もともとの本文が「既」であった可能性も皆無とは言い切れないからです。
号令篇の「既焼之」の「既」を衍字とみなすか、文意から考えて「即」の誤りとするか、どちらにせよ推測の域を越えません。
「其證」とまでは言えないのではないでしょうか。

ただここで私が言いたいことは、『墨子・号令篇』のこの例文をもって、「既」を「すぐに」という意味だと断ずるのは、どうだろうか?ということです。
本文の誤りが指摘されている箇所である上に、王念孫や王引之が「既」を「即」の誤りだとしているからといって、別に彼らは「既」が「即」の意味だと言っているわけではありません。

私見を述べるなら、雑守篇に「即」が用いられていない以上、号令篇の文もまずは原文の「既」で本当に解釈ができないか検討すべきだと思います。
もし本当はこの文が、やはり、

・当遂材木不能尽内、焼之、無令客得而用之。

であったとします。
「道路にあたる材木ですべて(城中に)入れることができないものは、すでにこれを焼いて、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳せば、確かに少し違和感があるかもしれませんが、「道路にあたる材木で(城中に)入れ尽くせないものは、それを焼いてしまい、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳してみれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
「既」が「し終える」「十分にしてしまう」から「つきる・つくす」という引申義をもつに至るごく初期の働きで十分説明がつく文だと思います。

ただ私が解せないのは、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』をはじめとして、各種虚詞詞典がなぜこの例を、“全部”“都”(全部、みな)の意味で解釈しなかったのかということです。
それでも通るはずでしょうに。
「既焼之」を「すべてこれを焼いた」と解釈せずに「すぐにこれを焼いた」と解するその基準というか、どういう場合に「すべて」であって、どういう場合に「すぐに」なのか、意味の違いの判別はいったい何に基づくのでしょうか。
王引之がこの文の「既」を「即」の誤りとするその主張が、よもや根拠になっているはずはあるまいと思いはしますが、先ほども述べたように王引之は「既」が「即」の義であると主張しているわけではありません。

もちろん王引之の主張通り、この文が「即焼之」の誤りであったならば、「すぐにこれを焼いた」と解することに対しては何の異論もありません。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』で、「すぐに」の意味の2例目に挙げているのが次の例です。

当遠別、遂停三日共語。(世説新語・雅量)
――马上该远别了,于是停留三天一块说说话。
(まもなく遠く別れねばならなくなって、そこで三日とどまり共に語った。)

例文の前を補って、読んでみます。

・謝安南免吏部尚書還東、謝太傅赴桓公司馬出西、相遇破岡。当遠別、遂停三日共語。
(▼謝安南 吏部尚書を免ぜられ東に還り、謝太傅 桓公の司馬に赴き西に出で、破岡に相遇ふ。既に当に遠別すべく、遂に停まること三日共に語る。)
(▽謝安南は吏部尚書を罷免されて東に帰り、謝太傅は桓公の司馬に赴任するため、西に
向かい、破岡で出会った。[既]遠く別れなければならず、そのまま三日間とどまって語りあった。)

「既当遠別」の「当」は古くより上記のように読まれていますが、あるいは「既に遠別するに当たり」と読むべきなのかもしれません。
例文の前の部分で明らかなように、謝安南(謝奉)と謝太傅(謝安)はそれぞれ東に、西に向かって移動していたわけです。
それが破岡で出くわした。
当然それぞれの向かう方角が逆であることを確認した上で、だからこそ「遠別」すなわち遠く別れることになるのがわかったから、三日とどまってでも語り合ったのです。

さて、この「既当遠別」を『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「马上」(すぐに・まもなく)と解しているのですが、それは文意からの判断でしょうか。
しかし、この「既」も、「当遠別」遠く別れなければならないという事実が「すでに確定した」という意味を表しているのではないでしょうか。
つまり、「遠く別れなければならないということになって→遠く別れなければならないということがわかって」です。
これを「既」の基本義から離れてあえて「まもなく・すぐに」と解釈する必要があるでしょうか。

以上、2例、いずれも「既」を「まもなく・やがて・すぐに」の意である証左とするには、根拠不足であると思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は、「既」にはまだいくつか異なる義があると述べているのですが、それは次のエントリーで検証してみたいと思います。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・2

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その2)

前エントリーに引き続き、「既」の語義や用法を多岐にわたるとする説に対して、検討を加えていきたいと思います。

『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)には、「既」の副詞の用法について、続いて「二、表示统括。」(統括を表す)として、次のように記されています。

1.表示主语所指的人或事物都具有或承受某一动作行为。可译为“全部”“都” 等。
(主語が指す人や事物がある動作行為をすべてそなえる、または引き受けることを表す。「全部」「すべて」などと訳せる。)

この例として示されているのは、次の文です。(これも各種の虚詞詞典に同様の記述が見られます。)

・宋人成列,楚人未済。(春秋左氏伝・僖公22年)…原文は簡体字
――宋军已经摆好了作战的阵势,楚军还没有全部渡过泓水。
(宋軍はすでに戦闘の陣容をなしていたが、楚軍はまだ全部泓水を渡り終えていなかった。)

2つある「既」を訳し分けているのがおもしろいところです。
「既成列」の方は「已经」として「すでに列をなしていた」、「未既済」の方は「全部」として「まだ全部渡っていない」あるいは「まだ全部渡り終えていない」と訳しています。
うまい訳だなと思う一方で、前者だって「すっかり列を整えていた」と訳せるではないかと思ったりもします。
これは、「既」という漢字の原義、「し終える・十分にし尽くす」からの引申義です。
「すでに」という日本語にこだわらずに、「既」の基本義、終了・完了に照らしてみれば、「未既済」はその基本義のままに適用できる用法ではないでしょうか。
これはやはり「済」という動作の完了を示しているのだと思います。

例文にはもう1つあります。

・専任刑法,而儒墨喪焉。(遠鉄論・論誹)…原文は簡体字
――〔李斯、赵高〕专门使用刑罚,而儒家墨家的主张都被抛掉了。
(〔李斯や趙高は〕もっぱら刑罰を用いて、儒家や墨家の主張はすべて捨て去られた。)

前文を補って訓読してみます。

・昔、秦以武力呑天下、而斯高以妖孽累其禍。廃古術、隳旧礼、専任刑法、而儒墨喪焉。
(▼昔、秦武力を以て天下を呑みて、斯高妖孽を以て其の禍を累(かさ)ぬ。古術を廃し、旧礼を隳(やぶ)り、専ら刑法に任じて、儒墨既に喪はる。)
(▽昔、秦の国が武力によって天下を併呑して、李斯や趙高が邪悪な行いによってその災いを重ねた。古い伝統を捨て、古いしきたりを破り、もっぱら刑法にまかせて、儒家や墨家は失われてしまった。)

「儒墨既喪焉」を「儒墨はすでに失われた」と訳すと、やや不自然な感じになりますが、「儒墨は失われてしまった」と訳せば、自然になります。
「儒墨が失われてしまった」というのは、事実としては確かに「儒墨はすべて失われた」ということですが、あえて「既」を「すべて」という意味だと考える必要はないのではないでしょうか。
「喪」という事象が完了したということでしょう。

しかし、この「既」を「すべて」「全部」と解するのは、動作行為の完了・終了を意味する「既」の延長上にあり、「し終える・十分にし尽くす」と、ほぼ同じ事象を表すとは思います。
「ことごとク」と読む「尽(盡)」が、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義であり、引申義として「すべて」という意味をもつように、食事をし終えて満腹の状態を表す「既」が「すべて」の意を引申義としてもつのはあり得ることでしょう。


続いて、「二、表示统括。」の2つめに、次のように記されています。

2.表示宾语所指的事物都是某一动作行为直接涉及的对象。可译为“全都”。
(賓語が指す事物がすべてある動作行為の直接関わる対象であることを表す。「すべて」と訳せる。)

これの例が次の文です。

以与人己愈多。(老子・81章)…原文は簡体字
――〔圣人〕把〔一切〕全都给了别人,自己反而更富有。
(〔聖人は〕〔すべてのものを〕全部別の人に与え、自分はかえってさらに豊かになる。)

この文も前の部分を補った上で、訓読してみます。

・聖人不積、以為人己愈有、以与人己愈多。
(▼聖人は積まず、既(ことごと)く以て人の為にして愈(いよいよ)有り、既く以て人に与へて己愈多し。)
(▽聖人はためこまない、ことごとく人のためにして(自分は)いよいよ有り、すべて人に与えて(自分は)いよいよ多い。)

「為人」は、古来「人の為にして」と読まれていますが、蜂屋邦夫氏訳注の『老子』(岩波文庫2008)は、「為」は「施」の意味として、「人に為(ほどこ)して」と読み、「なにもかも人々に施しつくしながら」と訳しています。
「既以与人」との対になるので、「為」を動詞とするべきだという判断かもしれません。
さて、「既以為人」や「既以与人」の「既」を「すでに」と読むと、確かに違和感があり、「ことごとく」と読む方が自然です。
しかしこれとて「人のためにし切る」「人に与え切る」のであって、終了・完了の基本義から解釈できそうです。
その結果が「すべて人のためにし」「すべて人に与える」と同現象になるのでしょう。


『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が「既」の副詞としての用法の3つめに挙げているのが次です。

三、表示动作行为或状况已经发生、出现或存在。可译为“已经”。
(動作行為や状況がすでに発生、出現または存在することを表す。「すでに」と訳せる。)

その例文は次の通り。

克,公問其故。(春秋左氏伝・荘公10年)
――已经得胜,鲁庄公问曹刿得胜的原因。
(すでに勝利を得て、魯の荘公は曹劌(さうけい)に勝利を得た原因を問うた。)

これに先立つ内容は長くなるので引用しませんが、斉の軍が魯を攻めてきた時、曹劌という男が魯の荘公に目通りして、荘公を戦いに勝つ見込みがある人物と見て、共を願い出ます。
荘公が攻め太鼓を打とうとすると、曹劌は「まだだめです」と制し、斉軍が三度目の太鼓を打ち終えると、今ならよいと荘公に太鼓を打たせます。
さらに、斉軍が逃げ出し、荘公が追撃しようとすると、また「まだだめです」と制し、敵の戦車の轍を確認し、敵の逃げていく様子を確認してから、今ならよいと追撃させました。
その後に先の例文が来ます。
荘公は曹劌の指示と行動に疑問をもっていたわけです。

「既克」は「既に克(か)ちて」とよみます。
この例文が先のいくつかの例文と決定的に異なるのは、時間的な前後に従った2句からなる文の前句で「既」が用いられている点です。
つまり、前句に述べられる事象がすでに完結した後で、後句の事象が発生します。
「すでに(戦いに)勝つ」→「荘公がその理由を問う」
この関係になっています。
私的には、「既」があたかも連詞のように2句の前句で用いられる時、基本的には「~してから、~する」という関係でほとんど説明ができるように思います。
この例の場合は、「(戦いに)勝ってから、荘公はその理由を問うた」です。
実は、一番最初の疑問となった『史記・刺客列伝』の2例もその例外ではないと思っているのですが、それは『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の挙げる例文を検証してから述べたいと思います。

・余幼好此奇服兮,年老而不衰。(楚辞・九章・渉江)
――我年幼时就爱好这奇特的服饰啊,〔现在〕年纪已经老了仍没有衰退。
(私は幼い時この珍しい服装を好み、〔現在〕年齢はすでに老いたが衰えない。)

これは先のいくつかの例と同様、「老」という現象の「十分にし尽くす」に該当して、「老いてしまったが」という完了を「既」が表しています。

平天下,不懈于治。(史記・秦始皇本紀)…「于」は『史記』原典では「於」に作る
――已经平定了天下,〔始皇帝〕对治理国家仍不懈怠。
(すでに天下を平定しても、〔始皇帝は〕国家を治めることに対して依然として怠らなかった。)

これは「既克,公問其故。」の例と同じく、2句の前句で「既」が用いられています。
「すでに天下を平定してしまってからも」の意でしょう。

・噲飲酒,抜剣切肉食,尽之。(史記・樊酈滕灌列伝)
――樊哙已经喝干了酒,又抽出剑切肉吃,全都吃完了。
(樊噲は酒を飲みほすと、さらに剣を抜き、肉を切って食べ尽くした。)

これは「飲酒」という動作を「し終える」に該当して、やはり完了を表しています。

・相持久、日晷漸移。(晷:日影。)(馬中錫「中山狼」)
――〔双方〕相持已经很久了,太阳的影子渐渐移动。
(〔双方は〕すでに長い間互いに譲らず、太陽による影は次第に移動した。)

これは「久」という時間の経過が「十分にし尽くす」という状態になったことを示しています。

ここまでの『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の解釈は、すべて「既」の基本的な字義に基づいて説明することができますが、それぞれの文脈の中で、適切な説明と訳を選んでいるという印象があります。
その意味で、遅鐸氏の解釈が特に不適切だとは思いません。


次に『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が示しているのが、本エントリーの問題とする解釈です。

四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)

これが日本でも「既」を「すぐに・まもなく」などと訳すと説明される、中国の虚詞研究による説明なのですが、さて、次のエントリーではその例文を見てみることにしましょう。

「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・1

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その1)

高校3年生の古典の授業で『史記・刺客列伝』荊軻を扱っていた時のことです。
始皇帝暗殺をはかった荊軻も万策尽き果てて死を迎える場面、

・於是左右前殺軻。秦王不怡者良久。(史記・刺客列伝)
(▼是に於いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざる者(こと)(やや)久し。)
(▽そこで秦王の側近の者たちが[既]進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。)

こういう箇所を生徒に日本語訳させると必ずつまります。
それは「既」が訳しにくいからです。
「既」が単独で用いられる場合、通常は「すでに」と訓読しますが、そのまま「すでに」をあてはめて訳すと、おかしな感じがするからでしょうか。
私はそうでもないのですが、生徒が必ずつまるのはそういった事情があるからでしょう。

ところで、このような「既」を、いわゆる「すでに」という意味ではなく、「まもなく・やがて・すぐに」の意味であると説かれることがあります。
たとえば、本文に先行する次の箇所、

・軻取図奏之。(史記・刺客列伝)
(▼軻既にして図を取りて之を奏す。)
(▽荊軻は[既]地図を受け取り(秦王に)差し上げた。)

この「既」を「すぐに」と解して、「荊軻はすぐに地図を受け取り(秦王に)差し上げた」と解されることがあるのです。

「既而」を「既」とは区別して「すぐに・まもなく・そのまま」などと訳すというのは書籍にも書かれているものがありますが、それが妥当であるかどうかについてもまた別の検討が必要として、そもそも刺客列伝のこの2例は「すぐに」または「まもなく」、あるいは「やがて」などという意味を表しているのでしょうか。

参考書ではどうなっているのだろうと思い、『新釈漢文大系・史記9(列伝2)』水沢利忠、明治書院1993)を確認してみると、

ここにおいて廷臣たちはむらがって荊軻を斬り殺した。秦王はその後しばらくの間不機嫌であった。

とあり、「既」の訳はありませんが、語釈に、

既 「既は猶ほ即ちのごときなり」(『斠証』)。

とあります。
この「斠証」とは、王叔岷の『史記斠証』のことですから、さっそく原典にあたってみました。

案既猶即也。(『史記斠証・列伝2』王叔岷、中央研究院歴史語言研究所1983)
(▼案ずるに既は猶ほ即のごときなり。)
(▽考えるに、「既」は「即」と同じである。)

つまり、王叔岷は「すぐに進み出て荊軻を殺した」と解していることになりますが、水沢利忠氏が訳に用いていないのは、参考までに紹介したということでしょうか。

次に、中国ではどのように訳されているかを見てみました。

於是左右便上前殺死荊軻,秦王不高興了很久。(『二十四史全訳 史記2』許嘉璐/安平秋、漢語大詞典出版社2004)
(そこで側近たちは[便]前へ出て荊軻を殺し、秦王はしばらく不機嫌であった。)

この「便」は「就」と同じと考え、「すぐに」と解しているようにも思えるし、「そこで」と解しているようにも思えます。

这时秦王左右的人上前杀死了荆轲。秦王很久里都不高兴。(『史記選訳』李国祥/李長弓/張三夕 訳注、巴蜀書社1990)
(この時秦王の左右の人は前へ出て荊軻を殺してしまった。秦王は長い間不機嫌であった。)

この訳では「既」は「了」で訳されているようですね。

这时侍卫们已经上前杀死了荆轲,秦王有好长时间心里不畅快。(『中国歴代名著全訳叢書・史記全訳』楊燕起 訳注、貴州人民出版社2001)
(この時衛兵達はすでに荊軻を殺してしまった,秦王は長い間心の中で不機嫌であった。)

この訳では「既」は「已经…了」と訳されています。

こうして諸本の訳を見てくると、必ずしもこの箇所の「既」の訳は1つに定まっていないことがわかります。


さて、虚詞詞典にはどう書かれているのか見てみると、どれもだいたい同じようなことが書かれていますが、中には程度が甚だしいことを表すとか、多くの意味があるように説明されているものもあります。

そもそも1つの語が、あまりに多きにわたる意味を表すなら、文意を限定する上で不便きわまりないわけで、下手をするとたくさんあるその語の意味を文脈から選ぶことになりかねません。
もちろん、ある程度はそういうこともあるとは思いますが…
しかし、本当は字本来の意味なのに、文脈からこう訳すと自然なので、別の訳をして、それがあたかも多義語というものを作り出しているのではないでしょうか。
それが個人的な感想ですが、中国の語法学における虚詞の解釈によく見られる傾向だというのは、これまでのエントリーでも述べてきたことです。

少し考えてみたいと思うようになりました。

そもそも「既」の字のもともとの意味を調べてみると、「⺛」をさらに丁寧にした形で、

食し終えて満腹の意である。(『漢字の起源』加藤常賢、角川書店1970)

字形D既は, さらに具体的であって,左側は容器にうず高くごちそうを盛った形, そのそばには人間がたらふく食べて,のけぞった姿を加えている。(中略)既が「スデニ……」という意味の副詞に転じるのは,「充分にしてしまい, これ以上はやれない」状態を表わすことからの,派生的な用法である。漢語の副詞は,ほとんどすべて,こうした具体的な実義をもつコトバから転じてきたものである。(『漢字語源辞典』藤堂明保、学燈社1965)

像人虽坐于盛满食物的簋旁,但已转头向后,以表现用食完毕之意。(『字源』李学勤、天津古籍出版社2012)
(人が食べ物で一杯の食器の横にいるのに、後ろを向いて食べ終わったことを示している。)

諸本だいたい一致していて、食事をし終えて満腹の状態を表しています。
つまり、「既」は、「し終える」「十分にしてしまう」という意味だということになります。
そうだとすれば、「つきる・つくす」という意味の動詞として用いられるのが最初かもしれません。
日食、月食の「皆既」などがそれでしょうか。
それが、副詞に転じたのでしょう。

したがって、「既」を考える場合、終了・完了を基本におかなければなりません。
それで説明ができるものを、あえて文脈から違う意味をあてはめてその方が自然だと、あたかもその意味があるように考えることには慎重であるべきです。


さて、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)という虚詞詞典があります。
陝西師範大学文学院教授で、遅鐸(迟铎)という辞書の編纂や研究に大きな功績のある学者による書籍です。
同じ大学の白玉林との共著『古汉语虚词词典』(中華書局2004)もあり、著者が共通することから、同内容の記述や典拠がよく見られます。
この2書に共通するのは、他の虚詞詞典にはあまり見られない虚詞の用法や語義について触れてあることです。
いえ、各種の虚詞詞典ごとに他書には触れられていない用法や語義はあるものですが、この2書は、ある意味それらを網羅的に載せて紹介してくれているという感もあり、中国のさまざまな虚詞理解を知る上で親切な書ということもできます。

中国の古典中国語文法で漢文を理解していこうと志した当時、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』や、中国社会科学院語言研究所古代漢語研究室編の『古代汉语虚词词典』(商務印書館2012)に書かれていることには驚きの連続で、いわばそれを鵜呑みにしていたのですが、今はそういう立ち位置とは違います。
特に他の書には書かれていない内容に対しては、本当にそうだろうか?と疑い、それを自分で検証してみる姿勢を大事にしています。

決して『古代汉语虚词词典(最新修订版)』を槍玉にあげるというのでなく、現在の中国の虚詞理解を代表して紹介してくれているものと捉えた上で、多く挙げられている「既」の意味について、考えてみたい。
学ぶ者として、それが本当に妥当であるかどうか、検討して確かめずにはいられません。

同書には、「既」の副詞の用法の一番目として、次のように書かれています。

一、表示事物性状的程度很高。可译为“非常”“很”等。
(事物の性状の程度がとても高いことを表す。「非常に」「とても」などと訳せる。)

その例文として引かれているのが次の文です。

・天立厥配、受命固。(命: 指帝位。)(詩経・大雅・皇矣)
――上天安排了他的配偶,〔因此〕他承受的帝位就非常巩固了。
(天帝がその配偶を手配し、(これにより)彼が受けた帝位はとても強固になった。)

文王が天により帝位に選ばれたことを述べたものです。
「既固」を「とても堅固である」と解するわけですが、これは「すでに十分に堅固である」という意味でしょう。

次に、

・今女衣服盛,顔色充盈。天下且孰肯諫女矣! (充盈:骄傲自满的样子。)(荀子・子道)…原文は簡体字
――今天你的衣着很整齐,满面骄气。天下人谁还愿意给你进忠言呢!
(今日あなたの衣服はとても整っていて、満面におごった気持ちがあらわれている。天下の人々は誰が忠言をしようとしてくれるだろうか。)

「衣服がとても整っている」と解するのですが、この例文の前の部分も含めて見てみましょう。

・子路盛服見孔子。孔子曰、「由、是裾裾何也。昔者江出於㟭山、其始出也、其源可以濫觴。及其至江之津也、不放舟不避風、則不可渉也。非唯下流水多邪。今汝衣服盛、顔色充盈、天下且孰肯諫汝矣、由。」
(▼子路盛服して孔子に見(まみ)ゆ。孔子曰はく、「由、是の裾裾たるは何ぞや。昔者江は㟭山より出で、其の始めて出づるや、其の源以て觴(さかづき)を濫(うか)ぶべし。其の江の津に至るに及べば、舟を放(なら)べず風を避けざれば、則ち渉(わた)るべからず。唯だ下流の水多きに非ずや。今汝衣服既に盛んにして、顔色充盈すれば、天下且(は)た孰(たれ)か肯(あ)へて汝を諫めん、由や。」と。)
(▽子路が着飾った服装で孔子にお目にかかった。孔子がいうことには、「由よ、そのきらびやかなさまは何だ。昔長江は㟭山から流れ出すが、その最初流れ出した時は、その源は杯を浮かべることができる(程度の水量であった)。(しかし)それが長江の渡し場に至る頃になると、舟を並べ風を避けなければ、渡ることはできない。(それは)ただ下流の水が多いからだけではないか。今お前は衣服がすでに立派であり、顔色も得意げである、(そんなことで)世の中にいったい誰がお前を諫めようとするであろうか、由よ。)

この章、諸本によって文字の異同が多い上に、「不放舟」「非唯下流水多邪」「天下且孰肯諫汝矣」の読みが揺れています。
今、古くからの読みに従って読んでおきましたが、『新釈漢文大系・荀子』(明治書院1969)では「舟に放(よ)らず」「下流水多きを唯(もつ)てに非ずや」「天下且(まさ)に孰か肯て汝を諫めん」と読まれていることを記しておきます。

そして「非唯下流水多邪」を中心にこの章をどう解釈するかが、少々解釈が分かれています。

『漢籍国字解全書・荀子』(早稲田大学出版部1927)は、

此れはたゞ下流になると水が聚まりて多くなりし故に、人をして此の如く畏れ憚らしむるに至りしに非ずや、今汝の服は既に立派に、汝の顔色は得意に充ち、猛厲の氣溢れたり、猶江の下流に水の横溢するが如し、此の如くんば、天下の人、皆汝を憚りて、孰れか肯て汝の過を諫むるものあらんや、由よ少しく悟る所あれと、

と解しています。

岩波文庫『荀子』(金谷治 訳注、岩波書店1962)も、

これは下流の水が多いために〔人々が恐怖するから〕ではないか。いまお前にしても、そのように衣服が立派で容貌も満足げにしておれば、もはや世界中だれがお前にすすんで諫めてくれようか。

と解しています。
つまり、これも衣服が立派で容貌も満足げな子路を人々は恐怖し憚るから、だれも諫めてくれないとなるわけです。
長江の水自体はその水源近くではわずかであるのに、それが下流になると人を畏怖させるのは、「非唯下流水多邪」(ただ下流の水が多いだけではないのか)。
水の実態としては杯を浮かべる程度のものでしかないのに、量が多くなると人を畏怖させるほどになる。
要するに、子路はまだ「濫觴」、すなわち杯を浮かべる程度の実態でしかないということだと思います。

また、長江が支流の水を受け入れて下流では大河になると解する説もあります。(確認していませんが、円満字二郎『故事成語を知る辞典』に記載があるそうです。)
わずかの水が周囲の川の水を受け入れて大河となっていくように、人々の忠告を受け入れて大人物となっていくという解釈ですね。
その場合でも、人々の忠告を受け入れる以前、すなわち今の子路はやはり杯を浮かべる程度の器量ということになります。

さて、その上で、「今汝衣服既盛、顔色充盈」の「既」の働きを見てみましょう。
これを『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「非常」「很」と解しています。(他のいくつかの虚詞詞典にも同様の記述が見られます。)
しかし子路の状況としては「とても立派」であっても、「既」の字自体は本当に「とても」という意味でしょうか?
本来「濫觴」の段階であるはずの子路が、「すでに」衣服は立派、顔色は得意げ、すなわち大河のごとく振る舞っている。
そういうことではありませんか。
実態としては「とても」立派で「とても」得意げであったかもしれませんが、そのことが「既」を「很」と解釈する根拠にはなり得ないと思います。

「すでに十分」ということが、動作でなく状態や形容を表す場合、結果的に程度が甚だしい状況と一致することはあるかもしれませんが、そのことと「既」の字義が程度の甚だしいことを表して「とても・非常に」と直接的に訳すべきとすることとは別のような気がします。


中国の虚詞詞典の記述に対して、またぞろ検討を加えているのですが、もう少し自分なりに考えた上で、最初の疑問「既」が「まもなく・やがて・すぐに」という意味を表すのかについて考えてみたいと思います。

「何所補」の意味は?

(内容:「何所~」(何の~する所ぞ)の意味について考察する。)

『貞観政要』に見える「何所補」という一節をどう読み、どう訳すかについて、疑問をもちました。

名君の誉れ高い唐の太宗が、役人から「林邑は蛮国で、外交文書も従順ではありません。派兵して討伐してほしい」という上奏文を受けて、「兵は凶器である」と述べながら否定的な見解を示す部分です。

但経歴山険、土多瘴癘。若我兵士疾疫、雖尅翦此蛮、亦何所補。(貞観政要・征伐)
(▼但だ山険を経歴し、土に瘴癘多し。若(も)し我が兵士疾疫せば、此の蛮に尅翦すと雖も、[何所補]。)
(▽(しかも林邑を征伐するためには)ひたすら険しい山を経なければならず、土地には病気も多い。もし我が兵士たちが病気なれば、この蛮国を攻め滅ぼしたとしても、[亦何所補]。)

この「亦何所補」は、「亦(また)何の補ふ所ぞ」とか「亦何の補ふ所あらん」などと読まれますが、「亦何(いづ)れの所にか補はん」と読まれることもありそうです。
また、どういう意味でしょうか?

文脈からは、たとえば「いったいどのような利益があろうか」という意味があてはまりそうです。
しかし、それが妥当かどうかは文法的に検証しなければなりません。

しかし、「亦」は「やはり」でしょう。
「我が兵士たちが病気になったら、やはり」です。
やはりこうであると、いくつか考えられる自分の見解の中から一つ取りだして述べるものだと思います。

私は「何所補」は「何か補うソレか」という意味ではないかと考えます。
つまり、兵士に甚大な被害を与えて、それを補いようがない事態になると、太宗は述べているのではないでしょうか。
林邑を攻めることによる利益を述べるのではなく、「兵士に甚大な被害を与えて、どう補いようがあろうか」と、損失を述べているのだと思うのです。

この箇所に先立ち、太宗は兵力を極めて他国を侵略しようとして滅んだいくつもの国主の例を挙げています。
前秦の符堅しかり、隋の煬帝しかり、突厥の頡利しかりです。
だから、後漢の光武帝の「ひとたび兵を発するごとに覚えず頭髪白と為る」という言葉を引き、兵力の行使が一歩間違えば国の滅亡につながることを説くのです。
この箇所の「何所補」の意味は、やはりこの文脈から考えなければなりません。

「何所補」という表現は他にもありそうなので、検索をかけてみました。
いくつか例を挙げてみましょう。

・蕞爾之体、自貽茲患、天地神明、曷能済焉。其烹牲罄群、何所補焉。(抱朴子内篇・道意)
(▼蕞爾(さいじ)の体、自ら茲(こ)の患ひを貽(のこ)す、天地神明も、曷(なん)ぞ能く済はん。其の烹牲群を罄(つ)くすも、[何所補焉]。)
(▽(自分の不摂生ゆえに病気になって、)小さな体が、自分でこの災いをのこす、天地の神々もどうして救うことができようか。その煮たいけにえを供え尽くしても、[何所補焉]。

この「何所補焉」は、岩波文庫「抱朴子」(1942)では、「何ぞ補ふ所あらん」と読まれています。
読み方にも色々あるようですね。
しかし読み方はともかくとして、文法的には「何かこれに補うソレか」だと思います。
つまり、どれだけいけにえの数を尽くしても、何の足しにもならないということでしょう。

・京城之外非復朝廷之有、纂今還都、復何所補。(晋書・載記・呂光呂纂呂隆)
(▼京城の外は復た朝廷の有に非ず、簒今都に還るとも、復た[何所補]。)
(▽都の外はもはや朝廷の所有ではない、呂纂が今都に帰ってきても、さらに[何所補]。)

これも「何の補ふ所あらん」、あるいは「何の補ふ所ぞ」でしょうか。
都の外が朝廷の所有でない状況、呂纂が帰ってきても、「何か補うソレか」、つまり何の助力にもならないということでしょう。

・毒流赤県、絶吭仰薬、何所補焉。(旧唐書・盧携伝)
(▼毒赤県に流れ、吭(のど)を絶ち薬を仰ぐも、[何所補焉]。)
(▽(黄巣の乱により)毒が中国全土に流れてから、(盧携が)喉を断ち毒薬を仰いでも、[何所補焉]。)

これも、事態がのっぴきならない状態になってから、盧携がひとり自殺したところで、「何かこれに補うソレか」です。
つまり、何の足しにもならないです。


総じて「何所補」は、悪い状況を放置したり、よくないことを断行して、どうにもならなく行き詰まってから、何かをしようとしても、もう事態を打開したり好転させることはできない時に用いられています。
要するに、「何か補うソレか」であって、「補うソレ」は何もないのです。

したがって、『貞観政要』の「亦何所補」も、「やはり何か補うソレか」すなわち「やはり損失を補いようがない」と解釈するのが適切だと思います。
「何の救いにもならない」「何の足しにもならない」「もはや間に合わない」といってもいいでしょうか。

ところで、「何所―」の形式は「何の―する所ぞ」「何の―する所あらん」と読まれるのが一般的だと思いますが、「何(いづ)れの所にか―せん」と読まれることもあるようです。
私自身、「所」の用法について熟考する以前は、「何所」が「何処」と同じ意味で用いられることがあるなどと論じ、そのように書きもしたのですが、最近は本当だろうか?と疑うようになりました。
この「所」は「処」ではなく、「所」の用法そのままに用いられているのでは?と思うわけですが、いずれそのことについても考えてみたいと思います。

『為人』は性格の意か?

(内容:通常「性格・人柄」の意味とされる「為人」(ひととなり)について、別の意味があることを指摘する。)

『十八史略』を読んでいて、そこで用いられていた普通「性格」と訳される「為人」(ひととなり)の意味について疑問をもちました。

・越王為人長頸烏喙。可与共患難、不可与安楽。(十八史略・春秋戦国)
(▼越王の人と為り長頸烏喙(ちやうけいうかい)なり。与(とも)に患難を共にすべきも、与に安楽を共にすべからず。

この「為人」は、入試問題などでも読みや意味がよく問われる語句です。
すなわち「ひととなり」という読みか、あるいは語義として「性格・人柄」を答えさせることが多いと思います。
しかし、この例で用いられている「為人」は「性格」という意味でしょうか?

ここでの発言者である范蠡の意図は、「越王句践の性格は残忍である」と述べることにあります。
しかし、その越王の性格はあくまで「長頸烏喙」に喩えられたその容貌から見て取れるということであって、范蠡が口にした「為人」は、性格そのものではなく、あくまで容貌です。

気になったので、手許の漢和辞典を4つほど引いてみました。
すると、「ひとがら。人の性質」「人柄。人としてのふるまい」「人がもっている性質」「生まれつき。人柄」などとあり、辞書により記述は微妙に違いますが、だいたい同じ内容で、要するに「性質・人柄」の意としています。
ついでに、『大漢和辞典』も引いてみましたが、「人となり。うまれつき。性質。人柄。」とあるばかりです。
案外な気がしました。

中国ではどのように解されているのか興味がわき、『漢語大詞典』を引いてみました。

・指人在形貌或品性方面所表現的特徵。
(外見や性格など、その人の特徴を表すもの。)

この辞書の説明には、「品性」以外に「形貌」が含まれています。
私は、「越王為人長頸烏喙」の「為人」は、むしろ「形貌」を指しているのではないかと考えます。

ところで、同様の記述は、後漢の王充による『論衡』にも見えます。

・越王為人長頸鳥喙、可与共患難、不可与共栄楽。(論衡・骨相)
(▼越王の人と為りは、長頸鳥喙にして、与に患難を共にすべきも、与に栄楽を共にすべからず。)
(▽越王の人相は首が長く口が突き出ていて、患難を分かちあえるが、安楽を共にすることはできない。)
 …読みと訳は『新釈漢文大系68・論衡』(明治書院1976)による。

『論衡』では「烏喙」ではなく「鳥喙」に作るのですが、それはさておき、大事なのは、「骨相篇」の記述であるということです。
顔貌や体貌の異が人の性質や運命に深く関わることを述べた篇で、越王の容貌が取り上げられているわけです。
つまり、「長頸烏喙」は越王の人柄や性質そのものではなく、それを知らせる人相なのです。

ということは、ここでの「為人」はやはり「性格」というよりは「容貌」「人相」という意味だというべきです。
「為人」が「性格・人柄」を指す語句であるということは、よく出題されることであるがゆえに押さえておかなければならない知識ですが、いつも必ずそういう意味になるとは限らないということも、生徒達に伝えておく必要がありそうです。

さて、この「為人」という表現は、「ひととなり」と訓読してはいますが、古典中国語としては、「人である」「人であること」という意味です。
「人」は単独で「人である」という動詞的な意味をもち、それだけで名詞謂語になることができますが、これを「為人」(人たり)といえば、その「たり」(である)の意を、「為」が確認する働きをしているのです。
したがって、「為人」は「人である」ことそのものを表し、人を人たらしめているもの、たとえば性格や人柄を表すこともあれば、それをうかがわせる外貌や人相を指すこともあるのです。

また、「ひととなり」という日本語について、白川静の『字訓』を引いてみると、『類聚名義抄』を参照して、

・〔名義抄〕に「天性 ヒトヽナリ。性 人トナリ、人トナル」、また「長 ヒトヽナル、オトナツク。毓・長成 ヒトヽナル」とあり、「ひととなり」と「ひととなる」とは、もと異なる語である。それが同じ語のように扱われるのは「為人」という語を「人となる」と訓読したことから混乱したもので、「為人」とは「人たること」「その人としてのありかた」をいう。為(い)は漢文法では同一の関係を示して、下文に補語をとる同動詞といわれるものである。

つまり、白川氏は「ひととなり」に注して、

・人の生れつきのもの。のちの「人がら」などにあたる名詞である。「ひととなる」は生長する意の動詞に用いるが、もと訓読語のようである。

として、「ひととなり」と「ひととなる」は別の語であるとしています。
ただ、「性」の説明に「人トナリ」と「人トナル」が併記されているように、『名義抄』の時代にすでに混乱が生じているようです。

成長するの意で「為人」といえば、「為」は「なる」の意で、一人前の人という状態に「なる」ということ。
一方、性格の意で「為人」といえば、「為」は「である」の意で、人である状態「である」で、「人」のもつ動詞性を取り出して確かめる表現といえるのではないかと思います。
その性質を白川氏は同動詞という言い方をされているのでしょう。

『論語』・語法注解の続篇アップを開始します

  • 2023/03/24 07:58
  • カテゴリー:その他
(内容:『論語』の語法注解の続篇をページにアップしたことの告知。)

昨年度に引き続き、勤務校である京都教育大学附属高等学校の研究紀要に『論語』・語法注解の続篇を投稿しました。
少しずつ同内容のアップを開始します。

「語法注解6」からが、新規になります。

高等学校の現場の先生方や、もっと詳しく知りたい高校生のみなさんのお役に立てればと思います。

前稿同様、教科書によく載せられる題材を選び、主に語法の注を試みたものです。
中には、前稿で述べたことを白紙撤回して述べなおしている箇所もあり、いささか恥ずかしいのですが、ご容赦ください。
また、一般に説かれていることや、句読についても、異なる意見を述べている箇所があります。
ご参考にしていただければ、と思います。

相変わらず思考の過程を示しつつ書いたもので、時として愚にもつかないことを述べているかもしれません。
ご教示を賜れば幸甚です。

右サイドのページエントリー「漢文教材(作品)・注解」、またはこちらからお入り下さい。

研修会を開きました

  • 2023/02/19 17:58
  • カテゴリー:その他
(内容:2023年2月に京都教育大学附属高等学校で開催した研修会についての報告。)

2月18日(土)に、勤務校の京都教育大学附属高等学校で、教員対象の研修会を開きました。
遠方から駆けつけてくださった方もあり、30名ほどの高等学校の先生方にご参加いただき、『論語』の定番教材を使いながら、漢文の文法について、50分×2コマの講義です。

研修会講義風景の写真

2020年に『史記』を題材に開いた研修会とは、およそ内容ががらっと変わって、もちろん中国の古典文法で説明はするのですが、むしろこの2年間、松下大三郎の『標準漢文法』に学んだことが中心となる研修会で、おそらく令和の漢文研修会では初めての松下文法の紹介だったのではないでしょうか。
「所」や「可」「可以」、「亦」と「則」「即」「乃」、「不亦~乎」など、悩みながら学んだことを現場の先生方にお伝えするような形で、充実した100分になりました。
わかったつもりで実はわかっておられなかったであろう、これらの文法について、いかに鮮やかに松下文法が解き明かしているのか、うまく伝わっていたらいいのですが。

とはいえ、理解が足りず、ところどころ怪しげなことを語ったような気もされて、まだまだだなぁ…と反省しきりです。
それでも評判は上々のようで、まあほっとしています。

もっと現場の先生方に『標準漢文法』を読んでもらいたい思いから、しおり付きPDFもお配りして、宝物にしている初版本の同書を見せびらかしたり。

開催した時期が入試の季節で、行きたいが公務でどうしても行けないと連絡してくださった方も多数、お会いできなかったのがとても残念です。
おそらくこれが私の最後の研修会になっただろうと思うと、もう少しなんとか開催時期を工夫できなかったものだろうか…と、無念の思いもあります。

全力投球でしたので、くたくたに疲れましたが、いい研修会になりました。

恭賀新春

  • 2023/01/02 11:35
  • カテゴリー:その他
(内容:新年のご挨拶。)

正月の雑煮の画像

みなさま、明けましておめでとうございます。
拙いブログですが、よろしくおねがいいたします。

公務の繁忙さからあまり更新できておりませんが、ちょっとした疑問にも、なおざりにせずきちんと考えるという基本姿勢で、今年もありたいと思っております。
放置ブログなのか?と思われた頃に、こそっと書いたりいたしますので、気長にお待ちください。

N様、この場をお借りして、新年のご挨拶をいたします。
明けましておめでとうございます。
いつも考えさせてくださるメッセージをいただき、心から感謝しております。
本年もよろしくお願いいたします。