「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・2
- 2023/11/01 06:31
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その2)
前エントリーに引き続き、「既」の語義や用法を多岐にわたるとする説に対して、検討を加えていきたいと思います。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)には、「既」の副詞の用法について、続いて「二、表示统括。」(統括を表す)として、次のように記されています。
1.表示主语所指的人或事物都具有或承受某一动作行为。可译为“全部”“都” 等。
(主語が指す人や事物がある動作行為をすべてそなえる、または引き受けることを表す。「全部」「すべて」などと訳せる。)
この例として示されているのは、次の文です。(これも各種の虚詞詞典に同様の記述が見られます。)
・宋人既成列,楚人未既済。(春秋左氏伝・僖公22年)…原文は簡体字
――宋军已经摆好了作战的阵势,楚军还没有全部渡过泓水。
(宋軍はすでに戦闘の陣容をなしていたが、楚軍はまだ全部泓水を渡り終えていなかった。)
2つある「既」を訳し分けているのがおもしろいところです。
「既成列」の方は「已经」として「すでに列をなしていた」、「未既済」の方は「全部」として「まだ全部渡っていない」あるいは「まだ全部渡り終えていない」と訳しています。
うまい訳だなと思う一方で、前者だって「すっかり列を整えていた」と訳せるではないかと思ったりもします。
これは、「既」という漢字の原義、「し終える・十分にし尽くす」からの引申義です。
「すでに」という日本語にこだわらずに、「既」の基本義、終了・完了に照らしてみれば、「未既済」はその基本義のままに適用できる用法ではないでしょうか。
これはやはり「済」という動作の完了を示しているのだと思います。
例文にはもう1つあります。
・専任刑法,而儒墨既喪焉。(遠鉄論・論誹)…原文は簡体字
――〔李斯、赵高〕专门使用刑罚,而儒家墨家的主张都被抛掉了。
(〔李斯や趙高は〕もっぱら刑罰を用いて、儒家や墨家の主張はすべて捨て去られた。)
前文を補って訓読してみます。
・昔、秦以武力呑天下、而斯高以妖孽累其禍。廃古術、隳旧礼、専任刑法、而儒墨既喪焉。
(▼昔、秦武力を以て天下を呑みて、斯高妖孽を以て其の禍を累(かさ)ぬ。古術を廃し、旧礼を隳(やぶ)り、専ら刑法に任じて、儒墨既に喪はる。)
(▽昔、秦の国が武力によって天下を併呑して、李斯や趙高が邪悪な行いによってその災いを重ねた。古い伝統を捨て、古いしきたりを破り、もっぱら刑法にまかせて、儒家や墨家は失われてしまった。)
「儒墨既喪焉」を「儒墨はすでに失われた」と訳すと、やや不自然な感じになりますが、「儒墨は失われてしまった」と訳せば、自然になります。
「儒墨が失われてしまった」というのは、事実としては確かに「儒墨はすべて失われた」ということですが、あえて「既」を「すべて」という意味だと考える必要はないのではないでしょうか。
「喪」という事象が完了したということでしょう。
しかし、この「既」を「すべて」「全部」と解するのは、動作行為の完了・終了を意味する「既」の延長上にあり、「し終える・十分にし尽くす」と、ほぼ同じ事象を表すとは思います。
「ことごとク」と読む「尽(盡)」が、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義であり、引申義として「すべて」という意味をもつように、食事をし終えて満腹の状態を表す「既」が「すべて」の意を引申義としてもつのはあり得ることでしょう。
続いて、「二、表示统括。」の2つめに、次のように記されています。
2.表示宾语所指的事物都是某一动作行为直接涉及的对象。可译为“全都”。
(賓語が指す事物がすべてある動作行為の直接関わる対象であることを表す。「すべて」と訳せる。)
これの例が次の文です。
・既以与人己愈多。(老子・81章)…原文は簡体字
――〔圣人〕把〔一切〕全都给了别人,自己反而更富有。
(〔聖人は〕〔すべてのものを〕全部別の人に与え、自分はかえってさらに豊かになる。)
この文も前の部分を補った上で、訓読してみます。
・聖人不積、既以為人己愈有、既以与人己愈多。
(▼聖人は積まず、既(ことごと)く以て人の為にして愈(いよいよ)有り、既く以て人に与へて己愈多し。)
(▽聖人はためこまない、ことごとく人のためにして(自分は)いよいよ有り、すべて人に与えて(自分は)いよいよ多い。)
「為人」は、古来「人の為にして」と読まれていますが、蜂屋邦夫氏訳注の『老子』(岩波文庫2008)は、「為」は「施」の意味として、「人に為(ほどこ)して」と読み、「なにもかも人々に施しつくしながら」と訳しています。
「既以与人」との対になるので、「為」を動詞とするべきだという判断かもしれません。
さて、「既以為人」や「既以与人」の「既」を「すでに」と読むと、確かに違和感があり、「ことごとく」と読む方が自然です。
しかしこれとて「人のためにし切る」「人に与え切る」のであって、終了・完了の基本義から解釈できそうです。
その結果が「すべて人のためにし」「すべて人に与える」と同現象になるのでしょう。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が「既」の副詞としての用法の3つめに挙げているのが次です。
三、表示动作行为或状况已经发生、出现或存在。可译为“已经”。
(動作行為や状況がすでに発生、出現または存在することを表す。「すでに」と訳せる。)
その例文は次の通り。
・既克,公問其故。(春秋左氏伝・荘公10年)
――已经得胜,鲁庄公问曹刿得胜的原因。
(すでに勝利を得て、魯の荘公は曹劌(さうけい)に勝利を得た原因を問うた。)
これに先立つ内容は長くなるので引用しませんが、斉の軍が魯を攻めてきた時、曹劌という男が魯の荘公に目通りして、荘公を戦いに勝つ見込みがある人物と見て、共を願い出ます。
荘公が攻め太鼓を打とうとすると、曹劌は「まだだめです」と制し、斉軍が三度目の太鼓を打ち終えると、今ならよいと荘公に太鼓を打たせます。
さらに、斉軍が逃げ出し、荘公が追撃しようとすると、また「まだだめです」と制し、敵の戦車の轍を確認し、敵の逃げていく様子を確認してから、今ならよいと追撃させました。
その後に先の例文が来ます。
荘公は曹劌の指示と行動に疑問をもっていたわけです。
「既克」は「既に克(か)ちて」とよみます。
この例文が先のいくつかの例文と決定的に異なるのは、時間的な前後に従った2句からなる文の前句で「既」が用いられている点です。
つまり、前句に述べられる事象がすでに完結した後で、後句の事象が発生します。
「すでに(戦いに)勝つ」→「荘公がその理由を問う」
この関係になっています。
私的には、「既」があたかも連詞のように2句の前句で用いられる時、基本的には「~してから、~する」という関係でほとんど説明ができるように思います。
この例の場合は、「(戦いに)勝ってから、荘公はその理由を問うた」です。
実は、一番最初の疑問となった『史記・刺客列伝』の2例もその例外ではないと思っているのですが、それは『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の挙げる例文を検証してから述べたいと思います。
・余幼好此奇服兮,年既老而不衰。(楚辞・九章・渉江)
――我年幼时就爱好这奇特的服饰啊,〔现在〕年纪已经老了仍没有衰退。
(私は幼い時この珍しい服装を好み、〔現在〕年齢はすでに老いたが衰えない。)
これは先のいくつかの例と同様、「老」という現象の「十分にし尽くす」に該当して、「老いてしまったが」という完了を「既」が表しています。
・既平天下,不懈于治。(史記・秦始皇本紀)…「于」は『史記』原典では「於」に作る
――已经平定了天下,〔始皇帝〕对治理国家仍不懈怠。
(すでに天下を平定しても、〔始皇帝は〕国家を治めることに対して依然として怠らなかった。)
これは「既克,公問其故。」の例と同じく、2句の前句で「既」が用いられています。
「すでに天下を平定してしまってからも」の意でしょう。
・噲既飲酒,抜剣切肉食,尽之。(史記・樊酈滕灌列伝)
――樊哙已经喝干了酒,又抽出剑切肉吃,全都吃完了。
(樊噲は酒を飲みほすと、さらに剣を抜き、肉を切って食べ尽くした。)
これは「飲酒」という動作を「し終える」に該当して、やはり完了を表しています。
・相持既久、日晷漸移。(晷:日影。)(馬中錫「中山狼」)
――〔双方〕相持已经很久了,太阳的影子渐渐移动。
(〔双方は〕すでに長い間互いに譲らず、太陽による影は次第に移動した。)
これは「久」という時間の経過が「十分にし尽くす」という状態になったことを示しています。
ここまでの『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の解釈は、すべて「既」の基本的な字義に基づいて説明することができますが、それぞれの文脈の中で、適切な説明と訳を選んでいるという印象があります。
その意味で、遅鐸氏の解釈が特に不適切だとは思いません。
次に『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が示しているのが、本エントリーの問題とする解釈です。
四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)
これが日本でも「既」を「すぐに・まもなく」などと訳すと説明される、中国の虚詞研究による説明なのですが、さて、次のエントリーではその例文を見てみることにしましょう。
前エントリーに引き続き、「既」の語義や用法を多岐にわたるとする説に対して、検討を加えていきたいと思います。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』(商務印書館国際有限公司2011)には、「既」の副詞の用法について、続いて「二、表示统括。」(統括を表す)として、次のように記されています。
1.表示主语所指的人或事物都具有或承受某一动作行为。可译为“全部”“都” 等。
(主語が指す人や事物がある動作行為をすべてそなえる、または引き受けることを表す。「全部」「すべて」などと訳せる。)
この例として示されているのは、次の文です。(これも各種の虚詞詞典に同様の記述が見られます。)
・宋人既成列,楚人未既済。(春秋左氏伝・僖公22年)…原文は簡体字
――宋军已经摆好了作战的阵势,楚军还没有全部渡过泓水。
(宋軍はすでに戦闘の陣容をなしていたが、楚軍はまだ全部泓水を渡り終えていなかった。)
2つある「既」を訳し分けているのがおもしろいところです。
「既成列」の方は「已经」として「すでに列をなしていた」、「未既済」の方は「全部」として「まだ全部渡っていない」あるいは「まだ全部渡り終えていない」と訳しています。
うまい訳だなと思う一方で、前者だって「すっかり列を整えていた」と訳せるではないかと思ったりもします。
これは、「既」という漢字の原義、「し終える・十分にし尽くす」からの引申義です。
「すでに」という日本語にこだわらずに、「既」の基本義、終了・完了に照らしてみれば、「未既済」はその基本義のままに適用できる用法ではないでしょうか。
これはやはり「済」という動作の完了を示しているのだと思います。
例文にはもう1つあります。
・専任刑法,而儒墨既喪焉。(遠鉄論・論誹)…原文は簡体字
――〔李斯、赵高〕专门使用刑罚,而儒家墨家的主张都被抛掉了。
(〔李斯や趙高は〕もっぱら刑罰を用いて、儒家や墨家の主張はすべて捨て去られた。)
前文を補って訓読してみます。
・昔、秦以武力呑天下、而斯高以妖孽累其禍。廃古術、隳旧礼、専任刑法、而儒墨既喪焉。
(▼昔、秦武力を以て天下を呑みて、斯高妖孽を以て其の禍を累(かさ)ぬ。古術を廃し、旧礼を隳(やぶ)り、専ら刑法に任じて、儒墨既に喪はる。)
(▽昔、秦の国が武力によって天下を併呑して、李斯や趙高が邪悪な行いによってその災いを重ねた。古い伝統を捨て、古いしきたりを破り、もっぱら刑法にまかせて、儒家や墨家は失われてしまった。)
「儒墨既喪焉」を「儒墨はすでに失われた」と訳すと、やや不自然な感じになりますが、「儒墨は失われてしまった」と訳せば、自然になります。
「儒墨が失われてしまった」というのは、事実としては確かに「儒墨はすべて失われた」ということですが、あえて「既」を「すべて」という意味だと考える必要はないのではないでしょうか。
「喪」という事象が完了したということでしょう。
しかし、この「既」を「すべて」「全部」と解するのは、動作行為の完了・終了を意味する「既」の延長上にあり、「し終える・十分にし尽くす」と、ほぼ同じ事象を表すとは思います。
「ことごとク」と読む「尽(盡)」が、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義であり、引申義として「すべて」という意味をもつように、食事をし終えて満腹の状態を表す「既」が「すべて」の意を引申義としてもつのはあり得ることでしょう。
続いて、「二、表示统括。」の2つめに、次のように記されています。
2.表示宾语所指的事物都是某一动作行为直接涉及的对象。可译为“全都”。
(賓語が指す事物がすべてある動作行為の直接関わる対象であることを表す。「すべて」と訳せる。)
これの例が次の文です。
・既以与人己愈多。(老子・81章)…原文は簡体字
――〔圣人〕把〔一切〕全都给了别人,自己反而更富有。
(〔聖人は〕〔すべてのものを〕全部別の人に与え、自分はかえってさらに豊かになる。)
この文も前の部分を補った上で、訓読してみます。
・聖人不積、既以為人己愈有、既以与人己愈多。
(▼聖人は積まず、既(ことごと)く以て人の為にして愈(いよいよ)有り、既く以て人に与へて己愈多し。)
(▽聖人はためこまない、ことごとく人のためにして(自分は)いよいよ有り、すべて人に与えて(自分は)いよいよ多い。)
「為人」は、古来「人の為にして」と読まれていますが、蜂屋邦夫氏訳注の『老子』(岩波文庫2008)は、「為」は「施」の意味として、「人に為(ほどこ)して」と読み、「なにもかも人々に施しつくしながら」と訳しています。
「既以与人」との対になるので、「為」を動詞とするべきだという判断かもしれません。
さて、「既以為人」や「既以与人」の「既」を「すでに」と読むと、確かに違和感があり、「ことごとく」と読む方が自然です。
しかしこれとて「人のためにし切る」「人に与え切る」のであって、終了・完了の基本義から解釈できそうです。
その結果が「すべて人のためにし」「すべて人に与える」と同現象になるのでしょう。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が「既」の副詞としての用法の3つめに挙げているのが次です。
三、表示动作行为或状况已经发生、出现或存在。可译为“已经”。
(動作行為や状況がすでに発生、出現または存在することを表す。「すでに」と訳せる。)
その例文は次の通り。
・既克,公問其故。(春秋左氏伝・荘公10年)
――已经得胜,鲁庄公问曹刿得胜的原因。
(すでに勝利を得て、魯の荘公は曹劌(さうけい)に勝利を得た原因を問うた。)
これに先立つ内容は長くなるので引用しませんが、斉の軍が魯を攻めてきた時、曹劌という男が魯の荘公に目通りして、荘公を戦いに勝つ見込みがある人物と見て、共を願い出ます。
荘公が攻め太鼓を打とうとすると、曹劌は「まだだめです」と制し、斉軍が三度目の太鼓を打ち終えると、今ならよいと荘公に太鼓を打たせます。
さらに、斉軍が逃げ出し、荘公が追撃しようとすると、また「まだだめです」と制し、敵の戦車の轍を確認し、敵の逃げていく様子を確認してから、今ならよいと追撃させました。
その後に先の例文が来ます。
荘公は曹劌の指示と行動に疑問をもっていたわけです。
「既克」は「既に克(か)ちて」とよみます。
この例文が先のいくつかの例文と決定的に異なるのは、時間的な前後に従った2句からなる文の前句で「既」が用いられている点です。
つまり、前句に述べられる事象がすでに完結した後で、後句の事象が発生します。
「すでに(戦いに)勝つ」→「荘公がその理由を問う」
この関係になっています。
私的には、「既」があたかも連詞のように2句の前句で用いられる時、基本的には「~してから、~する」という関係でほとんど説明ができるように思います。
この例の場合は、「(戦いに)勝ってから、荘公はその理由を問うた」です。
実は、一番最初の疑問となった『史記・刺客列伝』の2例もその例外ではないと思っているのですが、それは『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の挙げる例文を検証してから述べたいと思います。
・余幼好此奇服兮,年既老而不衰。(楚辞・九章・渉江)
――我年幼时就爱好这奇特的服饰啊,〔现在〕年纪已经老了仍没有衰退。
(私は幼い時この珍しい服装を好み、〔現在〕年齢はすでに老いたが衰えない。)
これは先のいくつかの例と同様、「老」という現象の「十分にし尽くす」に該当して、「老いてしまったが」という完了を「既」が表しています。
・既平天下,不懈于治。(史記・秦始皇本紀)…「于」は『史記』原典では「於」に作る
――已经平定了天下,〔始皇帝〕对治理国家仍不懈怠。
(すでに天下を平定しても、〔始皇帝は〕国家を治めることに対して依然として怠らなかった。)
これは「既克,公問其故。」の例と同じく、2句の前句で「既」が用いられています。
「すでに天下を平定してしまってからも」の意でしょう。
・噲既飲酒,抜剣切肉食,尽之。(史記・樊酈滕灌列伝)
――樊哙已经喝干了酒,又抽出剑切肉吃,全都吃完了。
(樊噲は酒を飲みほすと、さらに剣を抜き、肉を切って食べ尽くした。)
これは「飲酒」という動作を「し終える」に該当して、やはり完了を表しています。
・相持既久、日晷漸移。(晷:日影。)(馬中錫「中山狼」)
――〔双方〕相持已经很久了,太阳的影子渐渐移动。
(〔双方は〕すでに長い間互いに譲らず、太陽による影は次第に移動した。)
これは「久」という時間の経過が「十分にし尽くす」という状態になったことを示しています。
ここまでの『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の解釈は、すべて「既」の基本的な字義に基づいて説明することができますが、それぞれの文脈の中で、適切な説明と訳を選んでいるという印象があります。
その意味で、遅鐸氏の解釈が特に不適切だとは思いません。
次に『古代汉语虚词词典(最新修订版)』が示しているのが、本エントリーの問題とする解釈です。
四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)
これが日本でも「既」を「すぐに・まもなく」などと訳すと説明される、中国の虚詞研究による説明なのですが、さて、次のエントリーではその例文を見てみることにしましょう。