「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・3
- 2023/11/06 07:11
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その3)
前エントリーの最後に紹介した『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の説明を再掲します。(同様の記述は他の虚詞詞典にも見られます。)
四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)
この例として挙げられているのが次の文です。
・当遂枚木,不能尽内,既焼之。(遂:道。枚:树干。内:用同“纳”。)(墨子・号令)
――挡着道路的树木,不能全部弄到〔城里的〕,就烧掉它。
(道路を遮っている樹木は、すべて城内に入れられず、すぐそれを焼いた。)
実はこの文、学者により文字の誤りが指摘されているものです。
清の孫詒譲の『墨子間詁』では、王念孫の指摘に基づき、本文を次のように改訂しています。
・吏為之券、書其枚数。当遂材木不能尽内、即焼之、無令客得而用之。
(▼吏之に券を為り、其の枚数を書す。遂に当たる材木の尽(ことごと)く内(い)るる能はざるは、即ち之を焼き、客をして得て之を用ゐしむる無し。)
(▽役人はこれに証書を作り、その枚数を書き留めておく。道路にあたる材木の城内に入れ尽くせないものは、すぐにこれを焼き、敵に得てそれを用いさせることがない。)
「枚」を「材」、「既」を「即」の誤りとするのですが、これは清の王念孫が『読書雑志』の中に同時代の王引之の説を引用したのを、孫詒譲が引いて是と判断したものです。
・引之曰、「『枚木』文不成義。『枚』当為『材』、『既焼之』当為『即焼之』。言当道之材木、不能尽納城中者即焼之、無令寇得而用之也。雑守篇云、『材木不能尽入者燔之、無令寇得用之。』是其證。今本『材』作『枚』、渉上文『枚数』而誤、『即』字誤作『既』、則義不可通。」(読書雑志・墨子第6)
(王引之が言う、「『枚木』の文は意味をなさない。『枚』は『材』とし、『既焼之』は『即焼之』とするべきである。道に当たる材木のすべて城中に入れ尽くせないものはすぐに焼き、敵に得て用いさせることがないというのである。雑守篇にいう、『材木の入れ尽くせないものはこれを焼き、敵に得て用いさせることがない」がその証拠である。今本が『材』を『枚』とするのは、上文の『枚数』にわたって誤ったのであり、『即』の字は『既』と誤るが、それでは意味が通じない。)
これがその王引之の説ですが、「枚」についてはおそらく指摘通りでしょう。
「即」については、同じ『墨子』の雑守篇にその文字が見えないからといって、号令篇にある「既」を「即」の誤りとするのは、もう少し慎重でありたいところです。
確かに字形は似ており、「即」の誤りである可能性もなくはありませんが、もともとの本文が「既」であった可能性も皆無とは言い切れないからです。
号令篇の「既焼之」の「既」を衍字とみなすか、文意から考えて「即」の誤りとするか、どちらにせよ推測の域を越えません。
「其證」とまでは言えないのではないでしょうか。
ただここで私が言いたいことは、『墨子・号令篇』のこの例文をもって、「既」を「すぐに」という意味だと断ずるのは、どうだろうか?ということです。
本文の誤りが指摘されている箇所である上に、王念孫や王引之が「既」を「即」の誤りだとしているからといって、別に彼らは「既」が「即」の意味だと言っているわけではありません。
私見を述べるなら、雑守篇に「即」が用いられていない以上、号令篇の文もまずは原文の「既」で本当に解釈ができないか検討すべきだと思います。
もし本当はこの文が、やはり、
・当遂材木不能尽内、既焼之、無令客得而用之。
であったとします。
「道路にあたる材木ですべて(城中に)入れることができないものは、すでにこれを焼いて、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳せば、確かに少し違和感があるかもしれませんが、「道路にあたる材木で(城中に)入れ尽くせないものは、それを焼いてしまい、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳してみれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
「既」が「し終える」「十分にしてしまう」から「つきる・つくす」という引申義をもつに至るごく初期の働きで十分説明がつく文だと思います。
ただ私が解せないのは、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』をはじめとして、各種虚詞詞典がなぜこの例を、“全部”“都”(全部、みな)の意味で解釈しなかったのかということです。
それでも通るはずでしょうに。
「既焼之」を「すべてこれを焼いた」と解釈せずに「すぐにこれを焼いた」と解するその基準というか、どういう場合に「すべて」であって、どういう場合に「すぐに」なのか、意味の違いの判別はいったい何に基づくのでしょうか。
王引之がこの文の「既」を「即」の誤りとするその主張が、よもや根拠になっているはずはあるまいと思いはしますが、先ほども述べたように王引之は「既」が「即」の義であると主張しているわけではありません。
もちろん王引之の主張通り、この文が「即焼之」の誤りであったならば、「すぐにこれを焼いた」と解することに対しては何の異論もありません。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』で、「すぐに」の意味の2例目に挙げているのが次の例です。
・既当遠別、遂停三日共語。(世説新語・雅量)
――马上该远别了,于是停留三天一块说说话。
(まもなく遠く別れねばならなくなって、そこで三日とどまり共に語った。)
例文の前を補って、読んでみます。
・謝安南免吏部尚書還東、謝太傅赴桓公司馬出西、相遇破岡。既当遠別、遂停三日共語。
(▼謝安南 吏部尚書を免ぜられ東に還り、謝太傅 桓公の司馬に赴き西に出で、破岡に相遇ふ。既に当に遠別すべく、遂に停まること三日共に語る。)
(▽謝安南は吏部尚書を罷免されて東に帰り、謝太傅は桓公の司馬に赴任するため、西に
向かい、破岡で出会った。[既]遠く別れなければならず、そのまま三日間とどまって語りあった。)
「既当遠別」の「当」は古くより上記のように読まれていますが、あるいは「既に遠別するに当たり」と読むべきなのかもしれません。
例文の前の部分で明らかなように、謝安南(謝奉)と謝太傅(謝安)はそれぞれ東に、西に向かって移動していたわけです。
それが破岡で出くわした。
当然それぞれの向かう方角が逆であることを確認した上で、だからこそ「遠別」すなわち遠く別れることになるのがわかったから、三日とどまってでも語り合ったのです。
さて、この「既当遠別」を『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「马上」(すぐに・まもなく)と解しているのですが、それは文意からの判断でしょうか。
しかし、この「既」も、「当遠別」遠く別れなければならないという事実が「すでに確定した」という意味を表しているのではないでしょうか。
つまり、「遠く別れなければならないということになって→遠く別れなければならないということがわかって」です。
これを「既」の基本義から離れてあえて「まもなく・すぐに」と解釈する必要があるでしょうか。
以上、2例、いずれも「既」を「まもなく・やがて・すぐに」の意である証左とするには、根拠不足であると思います。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は、「既」にはまだいくつか異なる義があると述べているのですが、それは次のエントリーで検証してみたいと思います。
前エントリーの最後に紹介した『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の「既」の説明を再掲します。(同様の記述は他の虚詞詞典にも見られます。)
四、表示后一动作行为紧接前一动作行为发生、出现。可译为“就”“马上”等。
(後の動作行為が前の動作行為にすぐ引き続いて発生、出現することを表す。「すぐに」などと訳せる。)
この例として挙げられているのが次の文です。
・当遂枚木,不能尽内,既焼之。(遂:道。枚:树干。内:用同“纳”。)(墨子・号令)
――挡着道路的树木,不能全部弄到〔城里的〕,就烧掉它。
(道路を遮っている樹木は、すべて城内に入れられず、すぐそれを焼いた。)
実はこの文、学者により文字の誤りが指摘されているものです。
清の孫詒譲の『墨子間詁』では、王念孫の指摘に基づき、本文を次のように改訂しています。
・吏為之券、書其枚数。当遂材木不能尽内、即焼之、無令客得而用之。
(▼吏之に券を為り、其の枚数を書す。遂に当たる材木の尽(ことごと)く内(い)るる能はざるは、即ち之を焼き、客をして得て之を用ゐしむる無し。)
(▽役人はこれに証書を作り、その枚数を書き留めておく。道路にあたる材木の城内に入れ尽くせないものは、すぐにこれを焼き、敵に得てそれを用いさせることがない。)
「枚」を「材」、「既」を「即」の誤りとするのですが、これは清の王念孫が『読書雑志』の中に同時代の王引之の説を引用したのを、孫詒譲が引いて是と判断したものです。
・引之曰、「『枚木』文不成義。『枚』当為『材』、『既焼之』当為『即焼之』。言当道之材木、不能尽納城中者即焼之、無令寇得而用之也。雑守篇云、『材木不能尽入者燔之、無令寇得用之。』是其證。今本『材』作『枚』、渉上文『枚数』而誤、『即』字誤作『既』、則義不可通。」(読書雑志・墨子第6)
(王引之が言う、「『枚木』の文は意味をなさない。『枚』は『材』とし、『既焼之』は『即焼之』とするべきである。道に当たる材木のすべて城中に入れ尽くせないものはすぐに焼き、敵に得て用いさせることがないというのである。雑守篇にいう、『材木の入れ尽くせないものはこれを焼き、敵に得て用いさせることがない」がその証拠である。今本が『材』を『枚』とするのは、上文の『枚数』にわたって誤ったのであり、『即』の字は『既』と誤るが、それでは意味が通じない。)
これがその王引之の説ですが、「枚」についてはおそらく指摘通りでしょう。
「即」については、同じ『墨子』の雑守篇にその文字が見えないからといって、号令篇にある「既」を「即」の誤りとするのは、もう少し慎重でありたいところです。
確かに字形は似ており、「即」の誤りである可能性もなくはありませんが、もともとの本文が「既」であった可能性も皆無とは言い切れないからです。
号令篇の「既焼之」の「既」を衍字とみなすか、文意から考えて「即」の誤りとするか、どちらにせよ推測の域を越えません。
「其證」とまでは言えないのではないでしょうか。
ただここで私が言いたいことは、『墨子・号令篇』のこの例文をもって、「既」を「すぐに」という意味だと断ずるのは、どうだろうか?ということです。
本文の誤りが指摘されている箇所である上に、王念孫や王引之が「既」を「即」の誤りだとしているからといって、別に彼らは「既」が「即」の意味だと言っているわけではありません。
私見を述べるなら、雑守篇に「即」が用いられていない以上、号令篇の文もまずは原文の「既」で本当に解釈ができないか検討すべきだと思います。
もし本当はこの文が、やはり、
・当遂材木不能尽内、既焼之、無令客得而用之。
であったとします。
「道路にあたる材木ですべて(城中に)入れることができないものは、すでにこれを焼いて、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳せば、確かに少し違和感があるかもしれませんが、「道路にあたる材木で(城中に)入れ尽くせないものは、それを焼いてしまい、敵に得てそれを用いさせることがない」と訳してみれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
「既」が「し終える」「十分にしてしまう」から「つきる・つくす」という引申義をもつに至るごく初期の働きで十分説明がつく文だと思います。
ただ私が解せないのは、『古代汉语虚词词典(最新修订版)』をはじめとして、各種虚詞詞典がなぜこの例を、“全部”“都”(全部、みな)の意味で解釈しなかったのかということです。
それでも通るはずでしょうに。
「既焼之」を「すべてこれを焼いた」と解釈せずに「すぐにこれを焼いた」と解するその基準というか、どういう場合に「すべて」であって、どういう場合に「すぐに」なのか、意味の違いの判別はいったい何に基づくのでしょうか。
王引之がこの文の「既」を「即」の誤りとするその主張が、よもや根拠になっているはずはあるまいと思いはしますが、先ほども述べたように王引之は「既」が「即」の義であると主張しているわけではありません。
もちろん王引之の主張通り、この文が「即焼之」の誤りであったならば、「すぐにこれを焼いた」と解することに対しては何の異論もありません。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』で、「すぐに」の意味の2例目に挙げているのが次の例です。
・既当遠別、遂停三日共語。(世説新語・雅量)
――马上该远别了,于是停留三天一块说说话。
(まもなく遠く別れねばならなくなって、そこで三日とどまり共に語った。)
例文の前を補って、読んでみます。
・謝安南免吏部尚書還東、謝太傅赴桓公司馬出西、相遇破岡。既当遠別、遂停三日共語。
(▼謝安南 吏部尚書を免ぜられ東に還り、謝太傅 桓公の司馬に赴き西に出で、破岡に相遇ふ。既に当に遠別すべく、遂に停まること三日共に語る。)
(▽謝安南は吏部尚書を罷免されて東に帰り、謝太傅は桓公の司馬に赴任するため、西に
向かい、破岡で出会った。[既]遠く別れなければならず、そのまま三日間とどまって語りあった。)
「既当遠別」の「当」は古くより上記のように読まれていますが、あるいは「既に遠別するに当たり」と読むべきなのかもしれません。
例文の前の部分で明らかなように、謝安南(謝奉)と謝太傅(謝安)はそれぞれ東に、西に向かって移動していたわけです。
それが破岡で出くわした。
当然それぞれの向かう方角が逆であることを確認した上で、だからこそ「遠別」すなわち遠く別れることになるのがわかったから、三日とどまってでも語り合ったのです。
さて、この「既当遠別」を『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は「马上」(すぐに・まもなく)と解しているのですが、それは文意からの判断でしょうか。
しかし、この「既」も、「当遠別」遠く別れなければならないという事実が「すでに確定した」という意味を表しているのではないでしょうか。
つまり、「遠く別れなければならないということになって→遠く別れなければならないということがわかって」です。
これを「既」の基本義から離れてあえて「まもなく・すぐに」と解釈する必要があるでしょうか。
以上、2例、いずれも「既」を「まもなく・やがて・すぐに」の意である証左とするには、根拠不足であると思います。
『古代汉语虚词词典(最新修订版)』は、「既」にはまだいくつか異なる義があると述べているのですが、それは次のエントリーで検証してみたいと思います。