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「既」は「とても」や「すべて」「すぐに」という意味を表すか?・4

(内容:「既」が多義語として、「とても」「すべて」「まもなく・やがて・すぐに」などの意味を表すとする説を考察する。その4)

引き続いて中国の虚詞理解を代表するものとして、「既」のさまざまな働きが紹介されている『古代汉语虚词词典(最新修订版)』の記述について考えてみたいと思います。

「既」が“不久”(まもなく)の意味を表すとした、次の五の項目は最後に回すことにして、六として示されているのが次の内容です。

六、表示动作行为仍然保持原状,没有发生变化。可译为“依然”。
(動作行為がなおももとの状態を保持して、変化しないことを表す。「依然として」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の1例のみです。

・兵革未息、児童尽東征。(杜甫・羌村三首)
――战争依然不止,孩子们都东征去了。
(戦争は依然として終わらず,子ども達はみな東へ出征した。)

確かに「戦争はすでにまだ終わらない」と訳すと変な訳になり、「依然としてまだ終わらない」の訳の方が明らかに自然です。
ただ、漢詩の用字上の問題があるのかもしれませんが、「依然としてまだ終わらない」なら、「尚未息」あるいは「猶未息」と表現すればよいところなのに、あえて「既未息」であることが引っかかります。
たとえば、

・及上寝疾、承璀謀尚未息。太子聞而憂之、密遣人問計於司農卿郭釗。(資治通鑑・唐紀57)
(▼上(しやう)寝疾するに及び、承璀(しようさい)の謀尚ほ未だ息まず。太子聞きて之を憂ひ、密かに人を遣はして計を司農卿の郭釗(くわくせふ)に問はしむ。)
(▽主上が重病となった時も、承璀の策謀はなおもまだやまなかった。太子は聞いてこのことを心配し、ひそかに人を派遣して対策を司農卿の郭釗に問わせた。)

・蜀中群盗猶未息(資治通鑑・後唐紀3)
(▼蜀中の群盗猶ほ未だ息まず。)
(▽蜀中の盗賊達はまだおさまらなかった。)

「尚未息」「猶未息」で絞り込んで検索すると、「息」まで含まれているのでさすがに多くはヒットしないのですが、やはり例はあります。
私的には、「まだやまない」はこちらの方が自然な気がします。

例として挙げられた杜甫の五言古詩を前後も補って見てみましょう。

・群雞正乱叫、客至雞闘争。
 驅雞上樹木、始聞叩柴荊。
 父老四五人、問我久遠行。
 手中各有携、傾榼濁復清。
 莫辞酒味薄、黍地無人耕。
 兵革未息、児童尽東征。
 請為父老歌、艱難愧深情。
 歌罷仰天歎、四座涕縦横。
(▼群雞正(まさ)に乱叫す、客至るに雞闘争す。雞を駆りて樹木に上らしめ、始めて柴荊を叩くを聞く。父老四五人、我の久しく遠行するを問ふ。手中に各携ふる有り、榼を傾くれば濁復た清。辞する莫かれ酒味の薄きを、黍地人の耕す無し。兵革既に未だ息まず、児童尽(ことごと)く東征す。請ふ父老の為に歌はん、艱難深情に愧(は)づ。歌罷み天を仰ぎて歎けば、四座涕縦横たり。)
(▽群れなす鶏がちょうど乱れ叫ぶ、客人が来た時鶏は争っていたのだ。(私は)鶏を駆って木の上にのぼらせて、始めて我が家の門を叩く音を聞いた。年寄りたち四五人が、私が遠い旅から戻ってきたのを見舞ってくれたのだ。(彼らの)手の中にはそれぞれ携えてきたものがある。酒だるを傾けると濁り酒にさらに清酒が流れ出る。(年寄りたちは言う)「ご辞退めさるな酒の味が薄いと、黍畑には耕す人がいないのです。戦乱は[既に]やまず、子どもらはみな東へ出征しています。」(私は言う)「お年寄りのみなさまのために歌を歌いましょう、この難儀な世の中に深いお気持ちをかたじけなく思います。」歌い終わって天を仰いで歎くと、皆さまもはらはら涙を流すのであった。)

わかりやすくするためにかなり意訳しましたが、「兵革既未息、児童尽東征。」の一節は、作者の家に訪問した父老たちの言葉なのですね。
そして、この2句で本来似た義の「既」と「尽」が対になっているのがわかります。

さて、この「兵革既未息」は「戦乱は依然としてまだ終わらない」という意味でしょうか。
私は「兵革」が「未息」という状態を完結していると見ます。
なおも継続しているというよりも、「終わらない」ということに決まってしまっているとでも言いましょうか。
つまり「戦乱はまだ終わらないということで完結し、子ども達は東征し尽くしている」で、「既」と「尽」という似た意味の語を用いているのではないかと思うのです。
黒川洋一氏の『中国詩人選集・杜甫』(岩波書店1959)が、この箇所を「たたかいはあくまでもまだやもうとせず、こどもらはことごとく東方の征伐にでかけているのです」と「既」をあえて「あくまでも」と訳しておられるのは、あるいはこの「既」をやはり本来の義に受け取ってのことなのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが。

「依然として」の意味の「既」の例がこの1例しか示されていないので、他の虚詞詞典にはないものかと手許のいくつかを探してみましたが、見つかりませんでした。


続いて、「既」の用法としてあげられているのは次の項目です。

七、强调某种状况原先就是这样。可译为“原来”或“本来”。
(ある状況がもともとはそのようであったことを強調する。「もともと」や「本来」と訳せる。)

この例として挙げられているのは次の文です。

・淵既神姿峰穎、雖処鄙事、神気猶異。(世説新語・自新)
――戴渊本来神情姿态就出类拔萃,即使对待鄙贱的事情,神气也不同于常人。
(戴淵はもともと表情や姿勢が際立っており、卑しいことをしていても、態度は常人と異なっていた。)

これは戴淵がすでに「神姿峰穎」を十分に備えていたことを表していて、「十分にしつくす」という「既」の本来の義で説明できます。
「本来」「もともと」と訳すと、より自然な訳になりはしますが。


こうして多義語とされる「既」の用法を見てくると、確かに日本での読みである「すでに」と訳すと違和感のあるものが多いのですが、それは「すでに」と訳すからで、「既」の字の本来の義である「し終える」「十分にしてしまう・しつくす」から終了・完了に照らして用例を見れば、やはりその義で説明がつくものだと思います。
それを文脈に合うように適宜訳を工夫することはあっても、だから工夫された訳が「既」に本来的に備わっているものと考えるのはどうであろうかと私は思うのです。

エントリーを改め、さらに考察を進めたいと思います。

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