『為人』は性格の意か?
- 2023/05/08 06:30
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:通常「性格・人柄」の意味とされる「為人」(ひととなり)について、別の意味があることを指摘する。)
『十八史略』を読んでいて、そこで用いられていた普通「性格」と訳される「為人」(ひととなり)の意味について疑問をもちました。
・越王為人長頸烏喙。可与共患難、不可与安楽。(十八史略・春秋戦国)
(▼越王の人と為り長頸烏喙(ちやうけいうかい)なり。与(とも)に患難を共にすべきも、与に安楽を共にすべからず。
この「為人」は、入試問題などでも読みや意味がよく問われる語句です。
すなわち「ひととなり」という読みか、あるいは語義として「性格・人柄」を答えさせることが多いと思います。
しかし、この例で用いられている「為人」は「性格」という意味でしょうか?
ここでの発言者である范蠡の意図は、「越王句践の性格は残忍である」と述べることにあります。
しかし、その越王の性格はあくまで「長頸烏喙」に喩えられたその容貌から見て取れるということであって、范蠡が口にした「為人」は、性格そのものではなく、あくまで容貌です。
気になったので、手許の漢和辞典を4つほど引いてみました。
すると、「ひとがら。人の性質」「人柄。人としてのふるまい」「人がもっている性質」「生まれつき。人柄」などとあり、辞書により記述は微妙に違いますが、だいたい同じ内容で、要するに「性質・人柄」の意としています。
ついでに、『大漢和辞典』も引いてみましたが、「人となり。うまれつき。性質。人柄。」とあるばかりです。
案外な気がしました。
中国ではどのように解されているのか興味がわき、『漢語大詞典』を引いてみました。
・指人在形貌或品性方面所表現的特徵。
(外見や性格など、その人の特徴を表すもの。)
この辞書の説明には、「品性」以外に「形貌」が含まれています。
私は、「越王為人長頸烏喙」の「為人」は、むしろ「形貌」を指しているのではないかと考えます。
ところで、同様の記述は、後漢の王充による『論衡』にも見えます。
・越王為人長頸鳥喙、可与共患難、不可与共栄楽。(論衡・骨相)
(▼越王の人と為りは、長頸鳥喙にして、与に患難を共にすべきも、与に栄楽を共にすべからず。)
(▽越王の人相は首が長く口が突き出ていて、患難を分かちあえるが、安楽を共にすることはできない。)
…読みと訳は『新釈漢文大系68・論衡』(明治書院1976)による。
『論衡』では「烏喙」ではなく「鳥喙」に作るのですが、それはさておき、大事なのは、「骨相篇」の記述であるということです。
顔貌や体貌の異が人の性質や運命に深く関わることを述べた篇で、越王の容貌が取り上げられているわけです。
つまり、「長頸烏喙」は越王の人柄や性質そのものではなく、それを知らせる人相なのです。
ということは、ここでの「為人」はやはり「性格」というよりは「容貌」「人相」という意味だというべきです。
「為人」が「性格・人柄」を指す語句であるということは、よく出題されることであるがゆえに押さえておかなければならない知識ですが、いつも必ずそういう意味になるとは限らないということも、生徒達に伝えておく必要がありそうです。
さて、この「為人」という表現は、「ひととなり」と訓読してはいますが、古典中国語としては、「人である」「人であること」という意味です。
「人」は単独で「人である」という動詞的な意味をもち、それだけで名詞謂語になることができますが、これを「為人」(人たり)といえば、その「たり」(である)の意を、「為」が確認する働きをしているのです。
したがって、「為人」は「人である」ことそのものを表し、人を人たらしめているもの、たとえば性格や人柄を表すこともあれば、それをうかがわせる外貌や人相を指すこともあるのです。
また、「ひととなり」という日本語について、白川静の『字訓』を引いてみると、『類聚名義抄』を参照して、
・〔名義抄〕に「天性 ヒトヽナリ。性 人トナリ、人トナル」、また「長 ヒトヽナル、オトナツク。毓・長成 ヒトヽナル」とあり、「ひととなり」と「ひととなる」とは、もと異なる語である。それが同じ語のように扱われるのは「為人」という語を「人となる」と訓読したことから混乱したもので、「為人」とは「人たること」「その人としてのありかた」をいう。為(い)は漢文法では同一の関係を示して、下文に補語をとる同動詞といわれるものである。
つまり、白川氏は「ひととなり」に注して、
・人の生れつきのもの。のちの「人がら」などにあたる名詞である。「ひととなる」は生長する意の動詞に用いるが、もと訓読語のようである。
として、「ひととなり」と「ひととなる」は別の語であるとしています。
ただ、「性」の説明に「人トナリ」と「人トナル」が併記されているように、『名義抄』の時代にすでに混乱が生じているようです。
成長するの意で「為人」といえば、「為」は「なる」の意で、一人前の人という状態に「なる」ということ。
一方、性格の意で「為人」といえば、「為」は「である」の意で、人である状態「である」で、「人」のもつ動詞性を取り出して確かめる表現といえるのではないかと思います。
その性質を白川氏は同動詞という言い方をされているのでしょう。
『十八史略』を読んでいて、そこで用いられていた普通「性格」と訳される「為人」(ひととなり)の意味について疑問をもちました。
・越王為人長頸烏喙。可与共患難、不可与安楽。(十八史略・春秋戦国)
(▼越王の人と為り長頸烏喙(ちやうけいうかい)なり。与(とも)に患難を共にすべきも、与に安楽を共にすべからず。
この「為人」は、入試問題などでも読みや意味がよく問われる語句です。
すなわち「ひととなり」という読みか、あるいは語義として「性格・人柄」を答えさせることが多いと思います。
しかし、この例で用いられている「為人」は「性格」という意味でしょうか?
ここでの発言者である范蠡の意図は、「越王句践の性格は残忍である」と述べることにあります。
しかし、その越王の性格はあくまで「長頸烏喙」に喩えられたその容貌から見て取れるということであって、范蠡が口にした「為人」は、性格そのものではなく、あくまで容貌です。
気になったので、手許の漢和辞典を4つほど引いてみました。
すると、「ひとがら。人の性質」「人柄。人としてのふるまい」「人がもっている性質」「生まれつき。人柄」などとあり、辞書により記述は微妙に違いますが、だいたい同じ内容で、要するに「性質・人柄」の意としています。
ついでに、『大漢和辞典』も引いてみましたが、「人となり。うまれつき。性質。人柄。」とあるばかりです。
案外な気がしました。
中国ではどのように解されているのか興味がわき、『漢語大詞典』を引いてみました。
・指人在形貌或品性方面所表現的特徵。
(外見や性格など、その人の特徴を表すもの。)
この辞書の説明には、「品性」以外に「形貌」が含まれています。
私は、「越王為人長頸烏喙」の「為人」は、むしろ「形貌」を指しているのではないかと考えます。
ところで、同様の記述は、後漢の王充による『論衡』にも見えます。
・越王為人長頸鳥喙、可与共患難、不可与共栄楽。(論衡・骨相)
(▼越王の人と為りは、長頸鳥喙にして、与に患難を共にすべきも、与に栄楽を共にすべからず。)
(▽越王の人相は首が長く口が突き出ていて、患難を分かちあえるが、安楽を共にすることはできない。)
…読みと訳は『新釈漢文大系68・論衡』(明治書院1976)による。
『論衡』では「烏喙」ではなく「鳥喙」に作るのですが、それはさておき、大事なのは、「骨相篇」の記述であるということです。
顔貌や体貌の異が人の性質や運命に深く関わることを述べた篇で、越王の容貌が取り上げられているわけです。
つまり、「長頸烏喙」は越王の人柄や性質そのものではなく、それを知らせる人相なのです。
ということは、ここでの「為人」はやはり「性格」というよりは「容貌」「人相」という意味だというべきです。
「為人」が「性格・人柄」を指す語句であるということは、よく出題されることであるがゆえに押さえておかなければならない知識ですが、いつも必ずそういう意味になるとは限らないということも、生徒達に伝えておく必要がありそうです。
さて、この「為人」という表現は、「ひととなり」と訓読してはいますが、古典中国語としては、「人である」「人であること」という意味です。
「人」は単独で「人である」という動詞的な意味をもち、それだけで名詞謂語になることができますが、これを「為人」(人たり)といえば、その「たり」(である)の意を、「為」が確認する働きをしているのです。
したがって、「為人」は「人である」ことそのものを表し、人を人たらしめているもの、たとえば性格や人柄を表すこともあれば、それをうかがわせる外貌や人相を指すこともあるのです。
また、「ひととなり」という日本語について、白川静の『字訓』を引いてみると、『類聚名義抄』を参照して、
・〔名義抄〕に「天性 ヒトヽナリ。性 人トナリ、人トナル」、また「長 ヒトヽナル、オトナツク。毓・長成 ヒトヽナル」とあり、「ひととなり」と「ひととなる」とは、もと異なる語である。それが同じ語のように扱われるのは「為人」という語を「人となる」と訓読したことから混乱したもので、「為人」とは「人たること」「その人としてのありかた」をいう。為(い)は漢文法では同一の関係を示して、下文に補語をとる同動詞といわれるものである。
つまり、白川氏は「ひととなり」に注して、
・人の生れつきのもの。のちの「人がら」などにあたる名詞である。「ひととなる」は生長する意の動詞に用いるが、もと訓読語のようである。
として、「ひととなり」と「ひととなる」は別の語であるとしています。
ただ、「性」の説明に「人トナリ」と「人トナル」が併記されているように、『名義抄』の時代にすでに混乱が生じているようです。
成長するの意で「為人」といえば、「為」は「なる」の意で、一人前の人という状態に「なる」ということ。
一方、性格の意で「為人」といえば、「為」は「である」の意で、人である状態「である」で、「人」のもつ動詞性を取り出して確かめる表現といえるのではないかと思います。
その性質を白川氏は同動詞という言い方をされているのでしょう。