「為烏所盗肉」の意味は?
- 2024/03/16 09:26
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「為烏所盗肉」の「所」の働きを考える。)
料理の味付け、調味料の使用順として、「さしすせそ」という言葉が用いられます。
砂糖→塩→酢→醤油→味噌の順に味付けはするものだというのを語呂合わせで覚えるわけです。
「味付けの順とはそういうものなのだ」で終わってしまえば、それがなぜなのかを考えることはありません。
(とはいえ、料理の場合は、うまく味付けできたか、できなかったかを経験で学ぶことができるし、失敗を繰り返すうちに、なぜその順なのかが何となくわかってくるものではありますが…)
なぜかを考えずにそうだと思い込んだり、そう言い切ったりするということは、なにもこれに限ったことではなく、日常の色々な場面で見られることで、学校の授業でもあるだろうし、自分自身の中にもたくさんありそうな気がします。
「さしすせそ」の順が正しい、もしくは妥当な場合は、考えなくてもそれが正しい、妥当なわけですから、より考える方向に進まないかもしれません。
何が言いたいかというと、かつて自分が説明したことについて、それがたまたま妥当であったとしても、それを本当にわかって説明したのかという自分自身への問いかけが、最近多くなってきたということです。
わかっていなければ、ただの受け売りであったり、思いつきがたまたま当を得ていたということでしかありません。
かつて受身とされる「A為B所C」(A BのCする所と為る)の形について、このように説明したことがあります。
「A為B所C」の動詞「C」が、さらに目的語Dをとることがある。
A為B所CD。
▼ABのDをCする所と為る。
▽AがBにDをCされる。
・為烏所盗肉。(漢書・循吏伝)
▼烏の肉を盗む所と為る。
▽からすに肉を盗まれる。
「所盗肉」は「肉を盗む対象」の意だから、「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。主語は省略されているが、構造的には、「私は『からすが肉を盗む対象』になった」という意味だから、「私はからすに肉を盗まれた」という受身になるわけだ。
自分が書いたこの説明を見ているうちに、この説明は本当にわかってしたものだろうかという疑問がわいてきました。
もしわかっていたなら、「『所盗肉』は『肉を盗む対象』の意」で済ましてはいなかったろうという気がしました。
これはやはり「所」が何を指すかという問題でしょう。
それを考えずに、ただ「からすに肉を盗まれる」という受身だというのなら、
・肉為烏所盗。
(▼肉烏の盗む所と為る。)
(▽肉が烏に盗まれる。)
の文の方が、自然な表現のように思えてしまいます。
「肉が烏の(ソレを)盗むソレになる」の意です。
しかし例文は「為烏所盗肉」であって、「肉為烏所盗」ではありません。
しかもこの例文には「A為B所CD」の主語Aが伴っていません。
重大な説明の誤りがありそうです。
かつてこれを書いた時、私はきちんと原典にあたっていたのか?
・吏出、不敢舎郵亭、食於道旁。烏攫其肉。民有欲詣府口言事者適見之。霸与語道此。後日吏還謁霸。霸見迎労之曰、「甚苦。食於道旁、乃為烏所盗肉。」吏大驚、以霸具知其起居、所問豪氂不敢有所隠。(漢書・循吏伝)
(▼吏出で、敢へて郵亭に舎(やど)らず、道の旁(かたは)らに食らふ。烏其の肉を攫(つか)む。民に府に詣(いた)り事を口言せんと欲する者有り適(たまたま)之を見る。霸与(とも)に語り此を道(みちび)く。後日吏還りて霸に謁す。霸見て迎へ之を労(ねぎら)ひて曰はく、「甚だ苦なり。道の旁らに食らひて、乃ち烏の肉を盗む所と為る。」と。吏大いに驚き、霸具(つぶ)さに其の起居を知ると以(おも)ひて、問ふ所は豪氂(がうり)も敢へて隠す所有らず。)
(▽役人は出発しても、郵亭に宿ろうとはせずに、道ばたで食事をした。からすがその肉をつかみさらった。役所に行って口頭でもの申そうとした民がいて、たまたまそれを見ていた。(潁川郡太守の)黄霸はこの者と語りこの事実を導き出した。後日、役人が戻り黄霸に謁見した。黄霸は引見して迎え彼をねぎらっていうことには、「たいへんご苦労であった。道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれるとは。」と。役人はおおいに驚いて、黄霸がつぶさに自分の行動を知っていると思い、(黄霸が)問うことについては、いささかも隠そうとすることがなかった。)
潁川郡太守の黄霸に派遣された役人が、自分の動静を黄霸に把握されているのを驚く場面からの引用文でした。
これで明らかなように、先の説明の「私は『からすが肉を盗む対象』になった」は誤りで、主語Aは「私」ではなく「お前」すなわち吏(役人)です。
使用する例文は、必ず原典にあたるという、基本的な姿勢を、この時どうやら私は怠ったようです。
黄霸は「肉がからすに盗まれた」ということを主に述べているのではなく、役人が落ち着いて郵亭に宿ろうともせずに「道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれる」ような目にあった苦労をねぎらっているのです。
だから「肉がからすに盗まれた」ではなく「お前はからすに肉を盗まれた」と言ったわけです。
私は、この例文が、
・若属皆且為所虜。(史記・項羽本紀)
(▼若(なんぢ)が属皆且に虜とする所と為らんとす。)
と基本的に同じ構造の文だと思います。
わかりやすくするために、
・若属為沛公所虜。
(▼若が属沛公の虜とする所と為る。)
と書き改めてみますが、これは「お前たち一族が沛公の(ソレを)生け捕るソレになる」の意です。
ソレをソノヒトと言ってもいいでしょう。
だから「(沛公に)捕虜にされる」という受身の意味になるのです。
「為烏所盗肉。」も「(お前は)烏の肉を盗むソレになる」「(お前は)烏の肉を盗むソノヒトになる」の意ではないでしょうか。
しかし、問題は「盗」という動詞の性質です。
私の仮説は「盗」が双賓結構をとる動詞ではないのか?です。
「盗AB」の形で「AよりBを盗む」、すなわち「盗+間接賓語(誰から)+直接賓語(何を)」の構造をとるのでは?と考えます。
したがって、「所盗B」(盗む所のB)なら、「盗むソレであるB」から「盗んだB」になり、「所盗B」(Bを盗む所)なら、「ソノヒトからBを盗むソノヒト」から「Bを盗まれる人」になります。
これが成り立てば、「為烏所盗肉」(烏の肉を盗む所と為る)は、「烏のソノヒトから肉を盗むソノヒト」となって、要するに「烏に肉を盗まれる人」という意味だと説明することができます。
というより、そうだと私は思うのですが、これの証明ができないでいるというのが本当のところです。
手元に用意できるだけの「盗」という字の用例を一つひとつ確認したのですが、そもそも「~を盗む」という用例は無数にあるのですが、「~から~を盗む」の意だと断定できる用例が見つかりません。
考えてみればそれもそのはずで、私が「AよりBを盗む」の構造だと仮定する「盗AB」は、「AのBを盗む」でも普通に解釈できてしまうからです。
「与若芧」(お前たちにトチの実を与える)という双賓文は、「若に芧を与ふ」としか読みようがなく、「若の芧を与ふ」と読むことはできませんが、「盗AB」は仮に双賓文だったとしても、「AのBを盗む」と読めてしまいます。
「蛇足」で有名な『戦国策・斉二』の一節、「吾能為之足」も「吾能く之に足を為る」という双賓文ですが、一般には「吾能く之が足を為る」と読まれています。
「之」は通常連体格には用いられない語で、「為」の依拠性に対する賓語として用いられているので、「之が」と読むのは少なくとも文法的にはよろしくありません。
ですがそのように読めてしまうように、「盗AB」が双賓文であると証明するのは「盗之B」という例でもない限り、無理ではないかと思います。
・丁零盗蘇武牛羊。(後漢書・孔融伝)
(▼丁零蘇武より牛羊を盗む。)
(▽丁零(北方民族の名)が蘇武から牛や羊を盗んだ。)
これも「蘇武の牛羊を盗む」と読めてしまいます。
・司徒期聘於越。公攻而奪之幣。(春秋左氏伝・哀公26年)
(▼司徒期越に聘す。公攻めて之より幣を奪ふ。)
(▽司徒期が越の国に使者として訪れた。公は攻めてこれから礼物を奪った。)
これは「盗」ではなく「奪」の例です。
文法的には「之が」とか「之の」と読むべきではないのは前述しましたが、実際手元の解説書では「之が幣を奪ふ」と読んであります。
「奪」と「盗」を同一視するわけにはいきませんが、「盗」も双賓結構をとる動詞の可能性はあると思います。
結局のところ、証拠を示すことはできませんでしたが、「為烏所盗肉」という文は、「烏の盗む所の肉と為る」と強引に読んで「烏の盗んだ肉になる」と解する以外には、「所」を「盗」の他動性に対するとは異なる不定の客体を想定するしかありません。
そう考えた時、「烏のソノヒトより肉を盗むソノヒトと為る」と解するのが一番自然ではないでしょうか。
つまり、「烏に肉を盗まれた人になる」です。
その意味で、昔私が書いた、
「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。
は、必ずしもはずれた解説にはなっていないとはいえるかもしれません。
しかし、それはここまで考えた結果として示したものではなかった。
そして、なぜそうなるのかを示さないものであった。
そう思います。
料理の「さしすせそ」が、なぜなのか?
それを考えようとしなければ、少なくとも自分自身が納得のいく美味い料理は作れないのではないでしょうか。
拙著の誤りと説明不足は、すぐにも訂正したいと思います。
料理の味付け、調味料の使用順として、「さしすせそ」という言葉が用いられます。
砂糖→塩→酢→醤油→味噌の順に味付けはするものだというのを語呂合わせで覚えるわけです。
「味付けの順とはそういうものなのだ」で終わってしまえば、それがなぜなのかを考えることはありません。
(とはいえ、料理の場合は、うまく味付けできたか、できなかったかを経験で学ぶことができるし、失敗を繰り返すうちに、なぜその順なのかが何となくわかってくるものではありますが…)
なぜかを考えずにそうだと思い込んだり、そう言い切ったりするということは、なにもこれに限ったことではなく、日常の色々な場面で見られることで、学校の授業でもあるだろうし、自分自身の中にもたくさんありそうな気がします。
「さしすせそ」の順が正しい、もしくは妥当な場合は、考えなくてもそれが正しい、妥当なわけですから、より考える方向に進まないかもしれません。
何が言いたいかというと、かつて自分が説明したことについて、それがたまたま妥当であったとしても、それを本当にわかって説明したのかという自分自身への問いかけが、最近多くなってきたということです。
わかっていなければ、ただの受け売りであったり、思いつきがたまたま当を得ていたということでしかありません。
かつて受身とされる「A為B所C」(A BのCする所と為る)の形について、このように説明したことがあります。
「A為B所C」の動詞「C」が、さらに目的語Dをとることがある。
A為B所CD。
▼ABのDをCする所と為る。
▽AがBにDをCされる。
・為烏所盗肉。(漢書・循吏伝)
▼烏の肉を盗む所と為る。
▽からすに肉を盗まれる。
「所盗肉」は「肉を盗む対象」の意だから、「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。主語は省略されているが、構造的には、「私は『からすが肉を盗む対象』になった」という意味だから、「私はからすに肉を盗まれた」という受身になるわけだ。
自分が書いたこの説明を見ているうちに、この説明は本当にわかってしたものだろうかという疑問がわいてきました。
もしわかっていたなら、「『所盗肉』は『肉を盗む対象』の意」で済ましてはいなかったろうという気がしました。
これはやはり「所」が何を指すかという問題でしょう。
それを考えずに、ただ「からすに肉を盗まれる」という受身だというのなら、
・肉為烏所盗。
(▼肉烏の盗む所と為る。)
(▽肉が烏に盗まれる。)
の文の方が、自然な表現のように思えてしまいます。
「肉が烏の(ソレを)盗むソレになる」の意です。
しかし例文は「為烏所盗肉」であって、「肉為烏所盗」ではありません。
しかもこの例文には「A為B所CD」の主語Aが伴っていません。
重大な説明の誤りがありそうです。
かつてこれを書いた時、私はきちんと原典にあたっていたのか?
・吏出、不敢舎郵亭、食於道旁。烏攫其肉。民有欲詣府口言事者適見之。霸与語道此。後日吏還謁霸。霸見迎労之曰、「甚苦。食於道旁、乃為烏所盗肉。」吏大驚、以霸具知其起居、所問豪氂不敢有所隠。(漢書・循吏伝)
(▼吏出で、敢へて郵亭に舎(やど)らず、道の旁(かたは)らに食らふ。烏其の肉を攫(つか)む。民に府に詣(いた)り事を口言せんと欲する者有り適(たまたま)之を見る。霸与(とも)に語り此を道(みちび)く。後日吏還りて霸に謁す。霸見て迎へ之を労(ねぎら)ひて曰はく、「甚だ苦なり。道の旁らに食らひて、乃ち烏の肉を盗む所と為る。」と。吏大いに驚き、霸具(つぶ)さに其の起居を知ると以(おも)ひて、問ふ所は豪氂(がうり)も敢へて隠す所有らず。)
(▽役人は出発しても、郵亭に宿ろうとはせずに、道ばたで食事をした。からすがその肉をつかみさらった。役所に行って口頭でもの申そうとした民がいて、たまたまそれを見ていた。(潁川郡太守の)黄霸はこの者と語りこの事実を導き出した。後日、役人が戻り黄霸に謁見した。黄霸は引見して迎え彼をねぎらっていうことには、「たいへんご苦労であった。道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれるとは。」と。役人はおおいに驚いて、黄霸がつぶさに自分の行動を知っていると思い、(黄霸が)問うことについては、いささかも隠そうとすることがなかった。)
潁川郡太守の黄霸に派遣された役人が、自分の動静を黄霸に把握されているのを驚く場面からの引用文でした。
これで明らかなように、先の説明の「私は『からすが肉を盗む対象』になった」は誤りで、主語Aは「私」ではなく「お前」すなわち吏(役人)です。
使用する例文は、必ず原典にあたるという、基本的な姿勢を、この時どうやら私は怠ったようです。
黄霸は「肉がからすに盗まれた」ということを主に述べているのではなく、役人が落ち着いて郵亭に宿ろうともせずに「道ばたで食事をして、からすに肉を盗まれる」ような目にあった苦労をねぎらっているのです。
だから「肉がからすに盗まれた」ではなく「お前はからすに肉を盗まれた」と言ったわけです。
私は、この例文が、
・若属皆且為所虜。(史記・項羽本紀)
(▼若(なんぢ)が属皆且に虜とする所と為らんとす。)
と基本的に同じ構造の文だと思います。
わかりやすくするために、
・若属為沛公所虜。
(▼若が属沛公の虜とする所と為る。)
と書き改めてみますが、これは「お前たち一族が沛公の(ソレを)生け捕るソレになる」の意です。
ソレをソノヒトと言ってもいいでしょう。
だから「(沛公に)捕虜にされる」という受身の意味になるのです。
「為烏所盗肉。」も「(お前は)烏の肉を盗むソレになる」「(お前は)烏の肉を盗むソノヒトになる」の意ではないでしょうか。
しかし、問題は「盗」という動詞の性質です。
私の仮説は「盗」が双賓結構をとる動詞ではないのか?です。
「盗AB」の形で「AよりBを盗む」、すなわち「盗+間接賓語(誰から)+直接賓語(何を)」の構造をとるのでは?と考えます。
したがって、「所盗B」(盗む所のB)なら、「盗むソレであるB」から「盗んだB」になり、「所盗B」(Bを盗む所)なら、「ソノヒトからBを盗むソノヒト」から「Bを盗まれる人」になります。
これが成り立てば、「為烏所盗肉」(烏の肉を盗む所と為る)は、「烏のソノヒトから肉を盗むソノヒト」となって、要するに「烏に肉を盗まれる人」という意味だと説明することができます。
というより、そうだと私は思うのですが、これの証明ができないでいるというのが本当のところです。
手元に用意できるだけの「盗」という字の用例を一つひとつ確認したのですが、そもそも「~を盗む」という用例は無数にあるのですが、「~から~を盗む」の意だと断定できる用例が見つかりません。
考えてみればそれもそのはずで、私が「AよりBを盗む」の構造だと仮定する「盗AB」は、「AのBを盗む」でも普通に解釈できてしまうからです。
「与若芧」(お前たちにトチの実を与える)という双賓文は、「若に芧を与ふ」としか読みようがなく、「若の芧を与ふ」と読むことはできませんが、「盗AB」は仮に双賓文だったとしても、「AのBを盗む」と読めてしまいます。
「蛇足」で有名な『戦国策・斉二』の一節、「吾能為之足」も「吾能く之に足を為る」という双賓文ですが、一般には「吾能く之が足を為る」と読まれています。
「之」は通常連体格には用いられない語で、「為」の依拠性に対する賓語として用いられているので、「之が」と読むのは少なくとも文法的にはよろしくありません。
ですがそのように読めてしまうように、「盗AB」が双賓文であると証明するのは「盗之B」という例でもない限り、無理ではないかと思います。
・丁零盗蘇武牛羊。(後漢書・孔融伝)
(▼丁零蘇武より牛羊を盗む。)
(▽丁零(北方民族の名)が蘇武から牛や羊を盗んだ。)
これも「蘇武の牛羊を盗む」と読めてしまいます。
・司徒期聘於越。公攻而奪之幣。(春秋左氏伝・哀公26年)
(▼司徒期越に聘す。公攻めて之より幣を奪ふ。)
(▽司徒期が越の国に使者として訪れた。公は攻めてこれから礼物を奪った。)
これは「盗」ではなく「奪」の例です。
文法的には「之が」とか「之の」と読むべきではないのは前述しましたが、実際手元の解説書では「之が幣を奪ふ」と読んであります。
「奪」と「盗」を同一視するわけにはいきませんが、「盗」も双賓結構をとる動詞の可能性はあると思います。
結局のところ、証拠を示すことはできませんでしたが、「為烏所盗肉」という文は、「烏の盗む所の肉と為る」と強引に読んで「烏の盗んだ肉になる」と解する以外には、「所」を「盗」の他動性に対するとは異なる不定の客体を想定するしかありません。
そう考えた時、「烏のソノヒトより肉を盗むソノヒトと為る」と解するのが一番自然ではないでしょうか。
つまり、「烏に肉を盗まれた人になる」です。
その意味で、昔私が書いた、
「烏所盗肉」は、「からすが肉を盗む対象」という名詞句になる。
は、必ずしもはずれた解説にはなっていないとはいえるかもしれません。
しかし、それはここまで考えた結果として示したものではなかった。
そして、なぜそうなるのかを示さないものであった。
そう思います。
料理の「さしすせそ」が、なぜなのか?
それを考えようとしなければ、少なくとも自分自身が納得のいく美味い料理は作れないのではないでしょうか。
拙著の誤りと説明不足は、すぐにも訂正したいと思います。