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使役文は兼語文か?・4

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その4。)

松下大三郎氏が、「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠に挙げられた2件の事情を借りて、前エントリーまでに、いわゆる使役文を兼語文とする定説に疑問を呈してみました。
「使」は直後の名詞と強く結びつくが、その名詞が後の動詞の主語として機能しているという考え方への不審です。
主語であればその直後に「而」が置かれるのはなんだか不自然だし、「之」を主語と認めることも「之」本来の働きからすれば例外的な取り扱いになるからです。
使役文を兼語文として説明することは通説だし、確かにわかりやすいのですが、そういう問題をもっていることを示してみたのです。

ところで、松下氏は、さらに3つめの問題を提示しています。
断っておきますが、兼語文に対してではなく、あくまで「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠です。

3 漢王使酈食其已説下斉。(史記・淮陰侯列伝)

明治書院の『新釈漢文大系 史記』では、「漢王、酈食其をして已に説きて斉を下らしむ」と読み、「漢王が酈食其に交渉させて斉を降伏させた」と訳してあります。
この例文について、松下氏は次のように述べています。

又右の例の(3)は「已」を「使」の上に置かずに「説」の上に置いてある。「使」を「しむ」と解すれば「已に説いて斉を下さしめたり」といふことを酈食其にさせる意となる。「已」といふ字の性質上そんなことは言へない。「使」を「被」に換へて「人被盜賊已偸物」などと云ひ得るものではない。

もし「使」が「~させる」という意味であれば、「すでに完了したこと」をさせるというのは確かにおかしいわけです。

他にも似たような例があります、たとえば、

・遼使劉六符謂賈昌朝曰、~。(宋史・河渠志五)
(▼遼 劉六符をして嘗て賈昌朝に謂はしめて曰はく、~。
 ▽遼は劉六符にかつて賈昌朝に~と言わせたことがある。)

便宜的に上のように読んでみましたが、「賈昌朝に謂ひて曰はしめ、」と読むべきかもしれません。
この例も、「かつて賈昌朝に言ったことがある」ということを「させる」と解してはおかしくなってしまいます。

そもそも次の2文はどちらも成立します。

a.漢王使酈食其説下斉。

b.漢王使酈食其説下斉。

bは、漢王の酈食其への使役行為がすでに完了したことを表しますが、aは酈食其の交渉による斉の降伏が完了したことを表すことになります。

これは、この使役文を兼語文として説明する上では、もしかしたら問題ないのかもしれません。
つまり、「漢王が酈食其を使役し、使役される酈食其がすでに交渉して斉を降伏させた」という説明になるわけですね。
じゃっかん違和感を感じますが、そういう表現もありなのだということなら。

ところが、兼語文に反対の立場への検討には意味がありそうです。
呂冀平は、使役文を、「主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造」であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
しかし、これはもう松下氏が指摘している通りで、「使」の賓語が「酈食其已説下斉」になってしまい、すでに完了している行為を「させる」ことになってしまいます。
明らかにおかしいと言えるでしょう。

また、「主語+謂語+賓語+補語」の構造であるとする説の場合、「酈食其已説下斉」は補語とみなされ、謂語「使」を後置修飾することになるわけですが、さてどうでしょうか。
松下氏が言う修飾形式動詞は、「下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する」ものですから、「意義が実質化する」という表現を「補語」の働きと考えれば、一見似た説明のようにも見えます。
しかし、この補語とする考え方は、「使」を「使役する」と捉え、その具体的な行為内容を補うということですから、「酈食其 使(し)て」が方法を示し「説下斉」を修飾して使動態ならしめるという考え方とは大きく異なるものだと思います。
この「主語+謂語+賓語+補語」の構造とする説も、結局のところは完了した行為をもって謂語「使」を修飾するものと見るわけですから、やはりどこか不自然に感じます。

私的には、「A使BC」は、AがBシテ、その結果Cが使動態になるという考え方が一番しっくり来るような気がします。
「A使B而C」の構造は、「使B」が使役という方法を表して「而」と共にCを修飾して使動態たらしめるわけですから、「而」に不自然さはありません。
また、「A使B已C」も、Aにさせられて、BがすでにCさせたと動作を完了するわけですから、問題はありません。
そして、この考え方に従えば、「Cさせる」という動作も、実際行動CをするのはBであっても、本来の主語はAだと考えればよいのだろうと思います。
途中で主語が入れ替わると考える必要があるのでしょうか。

「A命BC」は、「ABに命じてCせしむ」と読み、よく「行為の結果使役に読む形」と説明されますが、AがBに命じるという方法の結果、Cが使動態になるという意味では、実はこちらの読み方の方がいいのかもしれません。
また、「命」が本動詞で形式的な意味のみを表す「使」と異なるだけですから、「A使BC」も「A Bし(使)てCせしむ」と読む方が実は妥当なのかもしれません。

使役文は兼語文という通説を、頭から否定するわけではありませんが、それを是として教えもし書きもしている立場にあるなら、通説が本当に正しいのだろうか?と疑ってみる視点はあってよいのだと思い、書いてみました。

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