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使役文は兼語文か?・2

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その2。)

兼語文という文の構造を最初に指摘したのは王力だといいます。
鳥井克之氏の『中国語教学(教育・学習)文法辞典』によれば、

 1940年代初めに王力(1943)は

およそ文中に(一部が重なりあった)二つの〈連繋(主述句など)〉を含み、その最初の主述句の一部分あるいは全部が次の主述句の主語となりたるものは〈逓繋式〉という。

と説明して「兼語句」の原型を初めて提起した。

とあります。
続いて、

 1950年直前に高名凱(1949)は

若干の動詞文において、最初の動詞的機能を具えた単語の後の名詞的機能を具えた単語が、動詞的機能を具えた単語の目的語であり、また次の動詞的機能を具えた単語の主語である。このような動詞文は〈兼語式動句〉という。

と王力の説を支持した説明を行った。

と記されています。
「兼語」ということばを最初につかったのは、高名凱だということですね。

さらに、張志公等の説を紹介した上で、

 その後に丁声樹等(1960)は

〈兼語式〉の特徴は二つの主述句が相互に一部が重なって一体化していることである。…… このように目的語と主語を兼ねたものを〈兼語〉という。〈兼語〉を含んだ〈句法( 構文・シンタックス・統語法)〉を〈兼語式〉という。

と現在の定義の枠組みを築いた。

とあります。

これ以降、今に至るまで、使役文に見られるような形式を兼語文として取り扱うのが普通になっているわけです。

これに対して、異論がないわけではなく、たとえば史存直は、このような兼語文という考え方を科学的ではないとして、主語+謂語+賓語+補語の構造であるとし、また、呂冀平は、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
他にもいくつか異論があるようです。

なるほど、次のような例の場合、いろいろな見方ができるわけです。

・王使人学之。(韓非子・外儲説左上)
(▼王人をして之を学ばしむ。
 ▽王が人にこれを学ばせる。)

これを兼語文と説明するしくみについては、前エントリーで述べました。
しかし、「王が人を使役し、使役される人がこれを学ぶ」のように、「王」が主語である一文の中で、突然主語が「人」に変わるというのは、私が当初感じていたように違和感のある説明になります。

史存直は「学之」を動賓構造「使人」に対して補語として位置づけ、人をどのようにさせるのかという内容を補う語句として説明したわけです。

また、呂冀平は「王使」が主語+謂語で、「人学之」をその賓語とみなしたことになります。
しかし、主謂賓語なら、その賓語をより名詞句として明示するために「人之学之」の形をとれるはずですが、普通はそういう形をとりません。
これは、主謂間に「之」が置かれることで、文の独立性が取り消され、名詞句という強い結びつきを作ってしまうからです。
つまり、「人之学之」は「人がこれを学ぶこと」という意味になってしまうわけです。
一方、「使」は直後の名詞と強く結びついているために、「A使BC」は、「使B+C」であって、「使+BC」ではありません。
先に引用した『中国語教学(教育・学習)文法辞典』には、「発音上の停頓は兼語文では最初の述語動詞の直後、すなわち述目句の中間に置くことができ」ないと述べられています。
したがって、もし「王が人にこれを学ばせる」という意味の文なら、「王使人之学之」という構造はとれないことになります、理屈の上では。

ところが、実際の用例を見てみると、次のようなものが見つかります。

・不能使人不加諸我、此古人所難。(晋書・裴秀列伝)
(▽人にそれを自分に加えないようにさせられないのは、これは古人の難しいとしたことである。)

・蓋尊其君父、亦将使人尊己也。(明史・薛蕙列伝)
(▽およそ自分の主君や父を尊ぶものは、また人に自分を尊ばせるだろう。)

おそらく( )内のような意味だと思いますが、これらの文の構造をどのように考えればいいのかは、まだ先の検討課題です。
現時点では、「之」を特殊な用法とみなすべきではなく、また兼語文で説明できる構造でもないと思っていますし、「使」自体がその語以上に意味を含んでいるのではないかと考えていますが。
ただ、こういう例があるというのは、一般に兼語文とされる使役構文を、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造だと説明するには一つの論拠になるのかもしれません。
しかし例はあるものの、やはり「使」は直後の名詞と強く結びつくのが普通だと思います。
ですから、この使役文をいわゆる主謂賓語の構文とする考え方には抵抗を感じてしまいます。

さて、話を最初に戻して、使役文を一般に兼語文とする考え方は、異論はあるものの、ほぼ定説と考えてよいと思います。
ですから違和感を感じながらも、私もそのように教え、そのように説明してきたわけです。
ところが、この春、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んでいた時、「使」の働きについて述べてある項にさしかかり、冷や汗が出る思いをしたのです。
氏は、「使」を修飾形式動詞として説明しています。

修飾形式動詞は終止独立して斷句の代表部となることが無く、必ず他語に對して修飾語となり、修飾される詞に由つて實質的意義を得る形式動詞である。

と定義した上で、「使」については次のように述べられています。

使は矢張修飾形式動詞で下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する。

楚數使奇兵渡河撃趙
  ●○○   史記淮陰侯列傳
漢王使酈食其已説下齊
  ●○○○  同
楚亦使龍且、號稱二十萬救齊。
  ●○○    同

の「使」の類だ。下の――を修飾して之にそうさせる意味を帶びしめる。「使」は實質動詞では人を使(つか)ふ意味だが形式動詞では使(つか)ふといふ樣な実質的意味はないから日本讀では之を「して」と讀む。その實質的意義は下の動詞に由つて補はれる。下の動詞はそうさせる意味を帶びるから日本讀では之へ「しむ」を附けて「何々せしむ」と讀む。
「使」には他動性がある。他動性に對する客語は名詞を用ゐる。右の例の○○がそれだ。「使」はその客語と共に連詞的形式動詞となるのである。

つまり、氏によれば、「使奇兵」は「奇兵を使う」あるいは「奇兵に~させる」ではなくて、「奇兵して」になります。
この「使奇兵」が後の「渡河撃趙」を修飾して実質的な意味が補われ、下の動詞「渡」「撃」は使役の意味を帯びることになるわけです。
ですから、この「渡河撃趙」の「渡」「撃」が使動態になっているわけで、これが「渡らせる」「攻撃させる」という意味をもっていることになります。

読みながら、なるほどと思うと同時に、しかしそれは兼語文の説明とそれほど大きく異なるだろうかと思っていたのです。
「奇兵を使役し、その使役される奇兵が河を渡り趙を攻撃する」わけだから、文意としては「奇兵に河を渡り趙を攻撃させる」になる、そのように。
ですが、文意から「渡」「撃」を使役の意に解するのと、「渡」「撃」そのものが使動態になることとは大きな違いがあります。

そこまでは思いを致さずに読み進めていて、次のくだりに出あいました。

「使」を「して」の意とすれば修飾形式動詞だといふことになり、「しむ」の意だとすれば歸著形式動詞だといふことになる。併しそれが前者であることは次の樣な例に由つて證明される。

これは「A使BC」の形をとる使役文を兼語文とはみなせないと言い切ったと同じことになります。
『標準漢文法』が著されたのは昭和2年(1927)で、王力が兼語文の原型を提起する16年前になります。
兼語文という考え方の定着からさかのぼれば50年も前になるわけです。
そんなにも前に、すでに兼語文たり得ない反例を用意していたことになります。

松下氏が挙げた根拠は3つあります。
今回はその1つめを取り上げてみましょう。

1 使天雨珠、寒者不得以為襦。使天而雨玉、饑者不得以為粟。(蘇東坡「喜雨亭記」原文は旧字体、便宜上新字体に改める)

これは「天に珠を降らせても、凍えるものはそれを肌着にすることはできない。天に玉を降らせても、飢えるものはそれを食糧にすることはできない。」という意味です。
これについて、松下氏は、

右の例の(1)は「使」の客語の下に「而」が有る。「使」が「しむ」であつて意味が終止するならば「而」は有り得ない。「而」が有るのは「使」が「して」である證據である。「使天而雨珠」は「天を使而(シテ)珠を雨せしむ」である。

と述べています。
同様の例として、

・秦人不暇自哀而後人哀之。後人哀而不鑑之、亦使後人復哀後人也。(杜牧「阿房宮賦」)

これは「秦の人は自分で哀れむ余裕がなく、後の人がこれを哀れんだ。後の人が哀れんでも、これを手本として反省しなければ、また(さらに)後の人に(この)後の人をまた哀れませることになるのだ」という意味です。

この例も同様に「使」の客語「後人」の後に「而」を伴っています。
他にも例がないかどうか、私もちょっと調べてみました。

・且欲使人避鬼、是即道路不可行、而室廬不復居也。(潜夫論・卜列)
(▼且つ人をして鬼を避けしめば、是れ即ち道路は行くべからずして、室廬は居るべからざるなり。
 ▽その上、人に鬼を避けさせようとすれば、(鬼はどこにでもいるから)道路は歩けないし、部屋はもういることはできない。)

・使宋王寤、子為齏粉夫。(荘子・列禦寇)
(▼宋王をして寤めしめば、子齏粉と為らんかな。
 ▽宋王に目覚めさせたら、あなたは粉々になっていたであろうなあ。)

・不知事者、時未至而逆之、時既往而慕之、当時而薄之、使其民郄之。(呂氏春秋・士容論)
(▼事を知らざる者は、時未だ至らずして之に逆らひ、時既に往きて之を慕ひ、時に当たりて之を薄(かろ)んじ、其の民をして之に郄(おく)らしむ。
 ▽農事を知らないもの(=君主)は、時節がまだ来ないのにこれに逆らい(耕作させ)、時節がすでに過ぎてからこれを後悔し、ちょうどよい時期にこれを軽視し(労役させ)、その民にこれ(=時節)に遅らせる。)

これらの例は、すべて「使」の客語の後に「而」が置かれたもの。
兼語文という考え方自体がまだ存在しなかった時代の話ですから、もちろん松下氏は兼語文を否定したわけではありません。
ですが、「使」が「シテ」であって「シム」ではないという見解は、そのまま「前文の賓語が後文の主語になる」という兼語のしくみを否定することになります。

もし「使天雨珠」であれば、「天を使役し、その使役される天が珠を降らす」と説明することができます。
ですが、「使天而雨珠」は、兼語文の理屈では「使天」と「天而雨珠」の2文を認めることになります。
しかし、「天而雨珠」を「天が珠を降らす」という主語+謂語+賓語の構造とするのは、大変苦しい説明になってしまいます。
同様に、「後人而復哀後人」も、「宋王而寤」も、そのまま「後の人がまた後の人を哀れむ」、「荘王が目覚める」と解するのは、「而」の働きからして苦しいでしょう。

「而」は連詞とされ、通常は句と句、文と文をつなぐ働きをします。
前の内容を受けて、「で」どうであるかを示すのが一般的です。
確かに「而」が、意味上の主語と謂語の間に置かれることもあります。

・管氏知礼、孰不知礼。(論語・八佾)
(▼管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。
 ▽管氏で礼を理解しているなら、誰が礼を理解していないだろう。)

これは一般に「管氏が礼を知るなら」と普通に主述文として訳されたり、「而」に仮定の働きがあるとして「管氏がもし礼を知るなら」と訳されたりもするわけですが、本来は、「管氏」自体に「管氏である」という叙述的な意味が含まれていて、それを「而」が「で」と受けている文だと思います。
つまり、「管氏であって、で、礼を知るなら」という感じでしょうか。

なんにせよ、このような「而」が兼語文の後の主述文に入り得るでしょうか。
「天であって、で、珠をふらす」「荘王であって、で、目覚める」、まあ訳が妙だからわかりにくいのですが、「而」の必要性はないのではありませんか。

その意味で、「天を使而(して)珠を雨せしむ」という考え方は、とても筋が通っている気がするのです。
「使宋王而寤」も「宋王を使而(して)寤めしむ」と考えれば、自然に解することができるように思います。

使役文を兼語文ではないかもしれないという論拠を、松下氏の「使」は「シテ」であり「シム」ではないに求めると、他にも説明すべきことがあるのですが、それは次回に譲りたいと思います。

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