「所」について・6
- 2020/10/15 16:04
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その6。)
長く「所」の用法について考察したことを書いてきました。
途中とんでもない不見識をさらして恥もかいたわけですが、ほとんど四六時中考えていまして、定期試験の監督中にも、食事の際にも、頭の中は「所」字で埋め尽くされていて、本業のテストの採点や生徒指導が思考を中断させるので、イライラさせられたりもしました。
しかし、ようやく恐らく妥当ではないかというところまで来て、ずっと胸につかえていたものが取れた気がして、ほっとしています。
それにしても、ずっと気になっていたのが、そもそも「所」の字が、なにゆえこのような不思議な働きをするのかということでした。
かつて入試問題に次の文が出題されたことがあります。
・思慮無所不至。
これを「しりよのところとしていたらざるはなし。」という訓読にしたがって訓点をつけさせる問題でした。
私なら、「思慮に至らざる所無し」と読みます。
思慮が「所不至」をもたない、から、存在文として、「所不至」が「思慮」に存在しないことを表す形式だからです。
そして「所不至」は、「ソコに至らないソコ」ですから、「至らない場所」です。
「思慮が至らない」のではなくて、「至らない場所が思慮にない」のです。
さて、なぜこんなことを思い出したというか、書いたのかというと、「所」字の用法を調べていて、とても興味深いものを見つけたからです。
太田辰夫氏の『古典中国語文法(改訂版)』(汲古書院1964)所載「論語文法研究」に、次のように述べられています。
「所」字連語の成立について詳細は不明であるが,その発生は「有」「無」を第一動詞とする兼語文を仲介としているらしい。古く「有女懐春」「無草不死」(ともに詩経)のごとき兼語文があるが,この「懐春」「不死」は「女」「草」の修飾語であるようにも感じられる。このような第二動詞が述語と考えられず,修飾語と意識されるばあい,兼語の位置に名詞「所」が用いられることが生じた。論語の用例でも「所」のまえに「有」「無」を用いることがきわめて多く,詩経でも「靡所」(靡=無)という用法が目立っているのはこの発生の経過を示すものであろう。「所」のまえに一般の動詞を用いることは「有」「無」などを用いることの類推により生じたものらしい。また「所」は名詞として修飾語をとることができるが,このような用法が生じてのちは修飾語一般がこれにつくことは意味を不明確にする。そこで,あとの動詞の主体であるもの,すなわち「所」の修飾語として領属関係をあらわす体詞のみが「所」のまえに来ることになったものであろう。
「無A不B」(AとしてBせざるは無し)の形は、高等学校でもちょっと危ない否定の形式として注意喚起します。
・無書不読。(韓愈「登封県尉盧殷墓誌」)
(▼書として読まざるは無し。
▽書物で読まないものはない。)
・無草不死。(詩経・小雅「谷風」)
(▼草として死(か)れざるは無し。
▽草で枯れないものはない。)
これらは、古典中国語文法では、2つの文が兼語を介して1つになった兼語文とみなしています。
「無書」(書物がない)と「書不読」(書物は読まない)という2つの文が兼語「書」を介して1つになり、「書物は存在せず」、その存在しない「書物」は「読まない」となるので、「読まない書物が存在しない」、つまり「すべての書物を読んだ」という意味になる。
また、「無草」(草がない)と「草不死」(草が枯れない)という2つの文が兼語「草」を介して1つになり、「草が存在せず」、その存在しない「草」が「枯れない」となるので、「枯れない草が存在しない」、つまり「すべての草が枯れる」という意味になるわけです。
ここで確かに「不読」「不死」は、それぞれ意味的に「書」「草」を修飾して、「読まない書」「枯れない草」という意味を表すようにも思えます。
・狂者進取、狷者有所不為也。(論語・子路)
(▼狂者は進取し、狷者は為さざる所有るなり。
▽情熱のある者は進んで行動するし、へんくつ者は(自分の嫌なことは)しないことがある。)
・君子無所争。(論語・八佾)
(▼君子は争ふ所無し。
▽君子は争うことがない。)
・刑罰不中、則民無所措手足。(論語・子路)
(▼刑罰中(あ)たらざれば、則ち民手足を措く所無し。
▽刑罰が適正でなければ、民は手足を置くところがない。)
太田氏が指摘しているように、『論語』には「有所~」の例が4、「無所~」の例は11見られます。
もちろん太田氏はこれらの例を兼語文だと言っているのではありません。
「有所不為」は、「ソレをしないソレがある→しないことがある」。
「無所争」は、「ソレを争うソレがない→争うことがない」。
「無所措手足」は、「ソコに手足を置くソコがない→手足を置く場所がない」という意味です。
これらはいずれも「所」が後の「不為」「争」「措」の客体を表していますが、確かに「しないソレ」「争うソレ」「手足を置くソコ」のように、「不為」「争」「措」が「所」を意味的に修飾しているようにも思えます。
もともと兼語の位置に「所」が置かれた文は、代詞として置かれたものであったかと思いますが、それが意味的に後続する述部の修飾を受けているような印象を与えたのでしょうか。
そういう意味では、「思慮無所不至」を「思慮の所として至らざるは無し」と読んだのは、「所」が動詞の他動性の客体か、依拠性の客体を表す働きをもつ以前の、原初の形を表した読みともいえますが、まさかそういうつもりではなかったのでは?と思います。
長く「所」の用法について考察したことを書いてきました。
途中とんでもない不見識をさらして恥もかいたわけですが、ほとんど四六時中考えていまして、定期試験の監督中にも、食事の際にも、頭の中は「所」字で埋め尽くされていて、本業のテストの採点や生徒指導が思考を中断させるので、イライラさせられたりもしました。
しかし、ようやく恐らく妥当ではないかというところまで来て、ずっと胸につかえていたものが取れた気がして、ほっとしています。
それにしても、ずっと気になっていたのが、そもそも「所」の字が、なにゆえこのような不思議な働きをするのかということでした。
かつて入試問題に次の文が出題されたことがあります。
・思慮無所不至。
これを「しりよのところとしていたらざるはなし。」という訓読にしたがって訓点をつけさせる問題でした。
私なら、「思慮に至らざる所無し」と読みます。
思慮が「所不至」をもたない、から、存在文として、「所不至」が「思慮」に存在しないことを表す形式だからです。
そして「所不至」は、「ソコに至らないソコ」ですから、「至らない場所」です。
「思慮が至らない」のではなくて、「至らない場所が思慮にない」のです。
さて、なぜこんなことを思い出したというか、書いたのかというと、「所」字の用法を調べていて、とても興味深いものを見つけたからです。
太田辰夫氏の『古典中国語文法(改訂版)』(汲古書院1964)所載「論語文法研究」に、次のように述べられています。
「所」字連語の成立について詳細は不明であるが,その発生は「有」「無」を第一動詞とする兼語文を仲介としているらしい。古く「有女懐春」「無草不死」(ともに詩経)のごとき兼語文があるが,この「懐春」「不死」は「女」「草」の修飾語であるようにも感じられる。このような第二動詞が述語と考えられず,修飾語と意識されるばあい,兼語の位置に名詞「所」が用いられることが生じた。論語の用例でも「所」のまえに「有」「無」を用いることがきわめて多く,詩経でも「靡所」(靡=無)という用法が目立っているのはこの発生の経過を示すものであろう。「所」のまえに一般の動詞を用いることは「有」「無」などを用いることの類推により生じたものらしい。また「所」は名詞として修飾語をとることができるが,このような用法が生じてのちは修飾語一般がこれにつくことは意味を不明確にする。そこで,あとの動詞の主体であるもの,すなわち「所」の修飾語として領属関係をあらわす体詞のみが「所」のまえに来ることになったものであろう。
「無A不B」(AとしてBせざるは無し)の形は、高等学校でもちょっと危ない否定の形式として注意喚起します。
・無書不読。(韓愈「登封県尉盧殷墓誌」)
(▼書として読まざるは無し。
▽書物で読まないものはない。)
・無草不死。(詩経・小雅「谷風」)
(▼草として死(か)れざるは無し。
▽草で枯れないものはない。)
これらは、古典中国語文法では、2つの文が兼語を介して1つになった兼語文とみなしています。
「無書」(書物がない)と「書不読」(書物は読まない)という2つの文が兼語「書」を介して1つになり、「書物は存在せず」、その存在しない「書物」は「読まない」となるので、「読まない書物が存在しない」、つまり「すべての書物を読んだ」という意味になる。
また、「無草」(草がない)と「草不死」(草が枯れない)という2つの文が兼語「草」を介して1つになり、「草が存在せず」、その存在しない「草」が「枯れない」となるので、「枯れない草が存在しない」、つまり「すべての草が枯れる」という意味になるわけです。
ここで確かに「不読」「不死」は、それぞれ意味的に「書」「草」を修飾して、「読まない書」「枯れない草」という意味を表すようにも思えます。
・狂者進取、狷者有所不為也。(論語・子路)
(▼狂者は進取し、狷者は為さざる所有るなり。
▽情熱のある者は進んで行動するし、へんくつ者は(自分の嫌なことは)しないことがある。)
・君子無所争。(論語・八佾)
(▼君子は争ふ所無し。
▽君子は争うことがない。)
・刑罰不中、則民無所措手足。(論語・子路)
(▼刑罰中(あ)たらざれば、則ち民手足を措く所無し。
▽刑罰が適正でなければ、民は手足を置くところがない。)
太田氏が指摘しているように、『論語』には「有所~」の例が4、「無所~」の例は11見られます。
もちろん太田氏はこれらの例を兼語文だと言っているのではありません。
「有所不為」は、「ソレをしないソレがある→しないことがある」。
「無所争」は、「ソレを争うソレがない→争うことがない」。
「無所措手足」は、「ソコに手足を置くソコがない→手足を置く場所がない」という意味です。
これらはいずれも「所」が後の「不為」「争」「措」の客体を表していますが、確かに「しないソレ」「争うソレ」「手足を置くソコ」のように、「不為」「争」「措」が「所」を意味的に修飾しているようにも思えます。
もともと兼語の位置に「所」が置かれた文は、代詞として置かれたものであったかと思いますが、それが意味的に後続する述部の修飾を受けているような印象を与えたのでしょうか。
そういう意味では、「思慮無所不至」を「思慮の所として至らざるは無し」と読んだのは、「所」が動詞の他動性の客体か、依拠性の客体を表す働きをもつ以前の、原初の形を表した読みともいえますが、まさかそういうつもりではなかったのでは?と思います。