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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。

「不己知」と「不知己」の違いは?

(内容:古代漢文において否定文で代詞が倒置されること、すなわち「不己知」と「不知己」について考察する。)

ずっと以前のことになりますが、小学校の入学式で、教室に「こんにちわ」と板書されていて、びっくりしたことがあります。
今時の若い先生は「こんにちは」が「今日は」の意味だというのをご存じないのかもしれないと思ったものです。
「今日は」の後には省略された内容があるのですが、それを知らないのはしかたのないことかもしれません。
「さようなら」も同じですね。
中国語で「再見」と言いますが、これは「また会いましょう」ということですからわかりやすい。
でも、なぜ別れを告げる時に「さようなら」というのかは、知らなければわかるはずもないことだし、なぜだろう?と思わなければ、それまでのことになってしまいます。
「こんにちは」が昼間に人と会った時の挨拶の言葉、「さようなら」が人と別れる時の挨拶の言葉とだけ認識するようになれば、そもそもなぜそう表現するのかということは忘れ去られていきます。

何が言いたいかというと、同じようなことが高等学校の漢文の授業の中にもたくさんあるということです。
ここのところのエントリーで、拙著の改訂を進めるにつれ、あれこれと気になること、疑問に思うこと、解決不能の問題等が生まれてきているということを述べてきましたが、本当にたくさんあります。

高等学校の先生方にとって身近なところから例を挙げれば、疑問代詞が賓語になる時、謂語に倒置される(=疑問を表す「何」「誰」などが目的語になる時、述語の前に置く)というのはどうでしょうか?
これを、ただ「『何を』とか『どこに』などの疑問を表す語は、述語の前に倒置するんだ!覚えとけ!」とやっておられないでしょうか?
副読本の参考書なんかには、「必ず倒置される」と言い切っている場合もあるようですし。

でも、もし、生徒が「先生、『何を』とか『どこに』という語は、どうして倒置するんですか?」と質問したとしたら、どうお答えになるのでしょう?
「それはそう決まっているんだ」と答えたら、それこそ「こんにちわ」と同じレベルになってしまいます。
例のチコちゃんがその場にいれば、きっと「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られてしまうでしょう。
でも、その「ボーッと生きてる」ことをやってしまっているのが、実際の授業ではないでしょうか?

では、偉そうに言うわたしはわかっているのか?といえば、それは怪しいものです。
ですが、なぜだろう?とは考えます。
本来「謂語+賓語」が鉄則の古漢語において、その規則を破って賓語を前に置くというのは、それなりの理由があるはずです。
賓語である疑問代詞を先に表現するというのは、言い換えれば問いたい内容を真っ先に表現しようとしたものではないでしょうか。
つまり、賓語の「何」や「誰」は、強調のために提示される語だと思うのです。
「食桃」(桃を食べる)は、「桃」に力点が置かれた表現ですが、「食何」(何を食べる)も「何」に力点が置かれているとはいうものの、それ以上に「何」を文頭に出して提示し、さらに強調しようとした。
それがいつか標準的な語順に定着したのだろうと思います。
したがって、「何食」(何を食べるか)は、形の上では倒置文ですが、むしろこれが普通の表現で特殊ではありません。
「食何?」という表現は特殊ではありますが、文法上無理な表現ではなく、これに類する表現は探せばいくらでもあると思います。
副読本の「必ず倒置される」は、そこまで考えて書かれたものでしょうか。

ちなみに「何憂」は、「何をか憂へん」などと読んで「何を心配しようか?」という反語的な意味をも表しますが、それは「どうして心配しようか?」にも通じ、「何」が副詞に転じていった可能性については、太田辰夫氏などが指摘しているところです。

さて、これまで述べたことが本題ではなくて、私が気になるのは、別の倒置の問題です。
それは、否定文における代詞賓語の倒置です。

・子曰、「不患人之不己知、患不知人也」(論語・学而)
(▽先生がおっしゃる「人が自分を理解してくれないことを気にせず、(自分が)人を理解しないことを気にかけるのだ。」)

・子曰、「莫我知也夫」子貢曰、「何為其莫知子也」子曰、「不怨天、不尤人。下学而上達。知我者、其天乎」(論語・憲問)
(▽先生がおっしゃる、「誰も私を理解してくれないなあ」。子貢が言う、「どうして先生を理解しないのでしょうか?」先生はおっしゃる、「天を怨まず、人をとがめず、下のことに学んで、上天に達する。私を理解するのは、天であろう。」)

この「不己知」や「莫我知」などの構造は、授業などでも「否定文における代名詞の倒置」として説明されるのではないでしょうか。
実際、「不己知」については、その後に「不知人」とあり、それは正規の語順です。
また、「莫我知」についても、子貢が「莫知子」といい、また孔子も「知我者」と言っており、代詞以外は倒置されないこと、肯定文では倒置されないことがわかります。
この2例に限らず、古代の漢文においては、同様の例が多く見られます。

一方で、では「不知己」という表現がないのかといえば、決して数は多くないものの、次のような例があります。

・君子詘於不知己而信於知己者。(史記・管晏列伝)
(徳のある人は自分を理解しないものには屈するが、自分を理解するものには伸びやかになる。)

また、「莫知我」については、『史記』で、先に引用した孔子の嘆きの言葉が、次のように記載されています。

・喟然歎曰、「莫知我夫」(史記・孔氏世家)
(ため息をつき嘆いて「誰も私を理解しないなあ」とおっしゃった。)

これらを見る限り、古代においても、否定文で代詞が必ず謂語に前置されるとは限らないことがわかります。
これはいったいどういうことでしょうか。

代詞が賓語の時、もともとは謂語に前置するものであったと説く論文をどこかで読んだような気がしたので、手元の資料を探してみました。
直接的には見つからなかったのですが、非常に興味深い論文を見つけました。
鈴木直治氏の『古代漢語における強調の表現について』(1976)です。
この論文を読んだ記憶が、どこかで読んだという気にさせたのでしょう。
その中で、氏は黎錦煕が『比較文法』の中で、「漢語においては、代詞は、賓語として用いられる場合、もともとは、すべて、その動詞の前に倒置することができるものであった」として、その推論の論拠としていくつかの書経や詩経、左伝の例を挙げていることを紹介しています。

また、鈴木氏は、さらに王力が『漢語史稿』において、「原始時代の漢語においては、代詞が賓語として用いられる場合、その正常な位置は、もともと、動詞の前におかれるものであったろう」と述べていることも紹介しています。

これがどうも記憶に残っていたもののようです。
黎錦煕の「代詞が賓語である時、謂語動詞の前に置くことができる」という説は、例証がある以上、あるいはそうなのかもしれません。
しかし、王力の「代詞が賓語である時、正常な位置は動詞の前であった」というのは、それを裏付ける資料が出てこない限り、想像の域を越え得ないものかと思います。

したがって、「不己知」と「不知己」の二様の表現がある以上、王力が説くように、本来は「不己知」の語順であったものが、一般的な語順に吸収されて、「不知己」のようにも表記するようになったのかも知れず、また、まったく別の理由で二様の表現があるのかも知れません。

鈴木氏は、この問題を「漢語の表現法における強調のしかたの一種としてとらえるべきものであろう」として、次のように述べています。

古代漢語においては、その賓語に対する動作の方を強調するために、その賓語が代詞である場合、その基本構造としての語順を変えて、その強調しようとする動詞の方を後置するということも、よく行われていた。このような語順の変換も、古代語におけるきわめて特異な許容であったものということができる。しかし、このような語順の変換は、否定句においては、その例が、かなり多いのであるが、肯定句においては、その例が、きわめて少ない。これは、そのような語順の変換は、肯定句においては、主述関係の構成のものと誤解される恐れのあったことによるものと考えられる。

これによれば、たとえば、「不己知」と「不知己」の例の場合なら、前者は「知」が強調され、後者は「己」が強調されるということになります。

その動詞に重点をおいて、それを強調するために後置しているのであって、そのために、その賓語としての代詞が、前の方に押し出されているものということができる。

つまり、「不己知」は、動詞「知」に重点をおいて、それを強調するために句末に後置しているのであって、賓語「己」が、前の方に押し出されているというわけです。
「不己知」は「自分を『理解し』てくれない」で、「不知己」は「ほかならぬ『自分を』理解してくれない」になるでしょうか。

ここまで調べ考えてきて、思い出しました。
このことについても、松下大三郎氏の『標準漢文法』に触れてあったはずです。

漢文の客體關係に於ける成分の排置には何故にこんな例外が出来たのであらうか。學問上には例外といふものは絶對に有るべからざるものである。若し有りとすれば其れは例外ではなくて別の原則に支配される一現象でなければならない。

という震えるような言葉に続いて、

私の考へでは漢文でも原始的時代には客語が上に在つて成分の排置は凡べて日本語と同様順置法であつたらうと思ふ。唯主客の混同を防ぐ必要から自然に今日の逆置法が發達したものだらうと思ふ。

これは王力と同様、想像の域を越えるものではないのですが、

所が客語が代名詞形式名詞たる場合は、客語が歸著語の上に置かれても、上に「不」未」莫」等が有る以上は、主客の混亂といふことは絶對にない。何となれば主語ならば「不」未」莫」などよりも上に置かれる。例へば「人不信我」を「人不我信」としても「我不信人」とは違ふ。其處で代名詞形式名詞が客語たる場合は、その連詞が肯定ならば一般の法則に從ひ、否定ならば一般の法則に從つてもどちらでも善いといふことになつたのだらうと思う。されば否定の場合には古より兩方が行はれてゐる。

鈴木氏の指摘と相通じるものです。さらに、

然るに其用例の數の上から特殊法則に從つたものが懸離れて多いのはなぜであらうか。それは兩者の意義の工合が違ふことに基因すると思ふ。

この意義の相違が問題です。

「不害我」と「不我害」は同一意義であるとは云つてもその間に形式的の相違が有る。凡そ詞の排置が變つて意義が全然同一形式に表はされる場合はない。然らばどんな相違が有るかといふと
  イ 人不我害――――い 人不加我以害
  ロ 人不害我――――ろ 人不以害加我
(イ)は(い)の意、(ロ)は(ろ)の意であらうと思ふ。

松下氏は、この違いを「概念の新旧に関する問題」と説明するのですが、これはいわゆる未知情報と既知情報にあたり、未知情報により重きが置かれるわけですから、イは「害」に、ロは「我」に重点が置かれることになります。

説明のしかたは異なりますが、鈴木氏の見解と結論的には一致することになりました。

この「否定文における代詞賓語の倒置」は、そうと決まっているものではない。
倒置されるには倒置されるだけの理由があるのでしょう。
簡単に「不己知」と「不知己」が同じだなどと片付けてはならない問題なのだと思います。

ただ、この相違が後世もずっと意識されていたかといえば、おそらくそうではなく、たとえば「さようならばこれにて失礼つかまつりまする…」が単なる別れの挨拶になり、「今日はご機嫌如何でございまするか」が昼間に人と会った時の挨拶の言葉になってしまったように、忘れ去られてしまった経緯はあるかもしれません。
ただ、そこに思いを致さず、決まり切ったことのように述べたり、結論だけを形式的に教えたり学んだりしてしまえば、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られてしまうのではないでしょうか?

解けない問題「自非~」(~に非ざるよりは)の「自」は仮定を表すか?

(内容:古典中国語文法において仮定と説明される「自非~」の形が、本当に仮定表現であるかについて考察する。)

拙著改訂の過程で、容易には解けない問題にぶつかることが多いと前エントリーで述べましたが、仮定の章でも、なかなか難しい問題にぶつかりました。

「自非A、B」(Aに非ざるよりは、Bす)という仮定表現に用いられる「自」は、中国では「苟」(いやしクモ)に相当する仮設連詞(仮定の接続詞)と説明されています。
たとえば、次のような例があります。

自非聖人、外寧必有内憂。(春秋左氏伝・成公16年)
(▼聖人に非ざるよりは、外は寧んずとも、必ず内憂有り。)

文の趣旨は「聖人でなければ、対外的には安定しても、必ず国内に問題を抱える」という意味になります。

しかし、なぜ「自」が仮定の意味を表すのでしょうか?

そもそも「自」という字は、「鼻」の象形文字であって、自分を示す時に鼻を指すことから、自分の意をもつようになったとも、単に音を借りたものともいわれています。
自分を起点として「みずから」、物事の始めの意味から「本来」「おのずから」という副詞の働きが生まれ、時や場所の起点を表したり、「~を基準として」というよりどころの意味を表す介詞としての用法が生まれたというのは、納得のいく解釈です。
しかし、「もし」という仮定の接続詞としての働きがどこから生まれてくるのかは、どうにも釈然としません。
しかも、「非」を伴う「自非」にほぼ限定された用法であるのも首をかしげたくなることです。

手許の漢和辞典をいくつか開いてみましたが、「自」が仮定を表すと述べてあるものはあっても、それがなぜかまで説明してあるものは見つかりませんでした。

清代の学者はどう説明しているのかと思い、劉淇の『助字弁略』を開いてみました。
「自非聖人、~」の例も引用されていますが、そうではない形も多く引かれていて、最後にひとまとめに次のように書かれています。

諸自字並是語助、不為義也。案、説文自亦作白。解云、此亦自字省。白者、詞言之気従鼻出与口相助也。然則自本是語声、故用為助句也。
(これらの「自」の字は、ともに語助で、意味をなさない。案ずるに、『説文解字』に「『自』はまた『白』(シロ「白」とは異なる、「自」の別字)に作る」という。(白の)解に、「これもまた『自』の省略である。『白』は、ことばの語気が鼻から口と出て互いに助けるのである。」とする。そうだとすれば、『自』はもともと語気であり、だから助句とするのである。)

これまた訳にやや自信がありませんが、要するに語助であって、具体的な意味はないというわけです。
これを見る限り、仮定の接続詞を匂わせるような記述はありません。

王引之の『経伝釈詞』には、先の左伝の例を引用して、次のように書かれています。

自猶苟也。成十六年左伝曰、自非聖人、外寧必有内憂。言苟非聖人也。
(「自」は「苟」と同じである。春秋左氏伝成公16年に、「自非聖人、外寧必有内憂」という。「もし聖人でなければ」というのである。)

呉昌瑩の『経詞衍釈』にも、次のように書かれています。

自猶苟也。
(「自」は「苟」と同じである。)

そしていくつか例が挙げられているわけですが。

・子曰、行束脩以上、吾未嘗無誨焉。(論語・述而)
(先生は「もし束脩を行ったからには、私は教えることがなかったことはない。」とおっしゃった。)

「束脩」には諸説あるのですが、初めて師に対面するときに持参する一束の干し肉で、礼として用いたもののようです。

・楽正子春之母死、五日而不食。曰、吾悔之、吾母而不得吾情、吾悪乎用吾情。(礼記・檀弓下)
(楽正子春の母が亡くなり、(子春は)五日間ものを食べなかった。(子春は)「私はこれを悔いている。もし私の母にして私の思いを得なければ、私はどこに私の思いを用いようか。)

・君子入官、行此六路者、則身安誉至、而政従矣。(大戴礼記・子張問入官)
(君子が役所に入って、もしこの六つの道を行えば、身は安らかに誉れは至り、政治は従われる。)

太子居城父、将兵、外交諸侯、且欲入為乱矣。(史記・伍子胥列伝)
(もし太子が城父に居城して、兵を率い、外は諸侯と交われば、(楚国に)入って乱を起こそうとするでしょう。)

・意者臣愚而不概於王心邪、亡其言臣者賤而不可用乎。自非然者、臣願得少賜游観之間、望見顔色。(史記・范雎蔡沢列伝)
(思いまするに、私が愚かで王様のお心に注ぎ込まないのでしょうか。それとも私を推薦するものが卑しくて用いることができないのでしょうか。もしそうでないのでしたら、私はどうかしばらく遊覧のお暇をいただいて、王様のご尊顔を遠目に拝見したいものです。)

引用された例に、前後を補って、文脈がわかるようにしてみました。
なるほど確かに「自」を「もし」と解することはできないことはないように思います。(4つめの例はかなり苦しいと思いますが。)

以上を見るに、すでに清代に「自」は仮設連詞「苟」の義で解する説があったことがわかります。
『助字弁略』が仮設連詞の義に言及していないのは、他書に先駆けて書かれたものだからでしょうか。

以降、「自」を仮設連詞とみなす説は受け継がれ、楊樹達も、

仮設連詞 苟也。恒以自非連用。(詞詮・巻六)
(仮設連詞 「苟」である。常に「自非」の形で連ね用いる。)

と述べ、それ以降の虚詞詞典はほとんどすべて右へならえです。

この「自」を仮設連詞と解釈することができるのは、その置かれる位置が複文の前句の先頭に置かれているためですが、しかし、気をつけなければならないのは、介詞の「自」や副詞の「自」も、文意によってはこの位置に置けるということです。

少なくとも「自非」の形をとらない例、たとえば『経詞衍釈』に引用された例の多くは、「自」を「もし」に解さなくても、意味は通ると思います。

『論語』の「自行束脩以上」は、「束脩を行うより以上は」と解せるでしょう。
『礼記』の「自吾母而不得吾情」は、「私の母からして私の思いを得なければ」と解せないでしょうか。
『大戴礼記』の「自行此六路者」は、「自らこの六つの道を実践するものは」とも解せます。
『伍子胥列伝』の「自太子居城父」は、「太子が城父に居城してから」と解せます。

問題は、『范雎列伝』の「自非然者」です。
まさに「自非~」の形をとっていますが、先の『左伝』の「自非聖人」と異なるのは、「者」の時を伴っている点です。

この「自非~」の形式については、劉瑞明の「“自”字连续误增新义的清理否定——词尾“自”的深化研究」という論文に言及されています。
それによると、中国の言語学者である兪敏は、著書『経伝釈詞札記』で、「自非聖人、~」について、「非聖人」は「聖人の立場に至らない」の意とし、「自非聖人」とは「自聖人以下」、つまり、凡人から聖人に準じる人まで含めて「聖人以下の人」と解して、王引之が『経伝釈詞』で「自」を「苟」と説明したのを軽率な解釈と批判しました。

この説に従えば、「自」は介詞で、「自非A、B」は「Aに非ざるもの自り、Bす」(Aではないそれ以下のものは、Bする)と解し、仮定文ではないことになります。
『左伝』の「自非聖人、外寧必有内憂。」は、「聖人に非ざるものより、外寧んずとも必ず内憂有り。」となるわけです。

一方、王克仲や趙京戦の説も引用されていて、「自」を「本」や「原」の意と解しています。
つまり、「本来Aでなければ」と解するわけです。
これだと「自」は副詞になります。
しかし、『左伝』の例や、先の『范雎列伝』の例を見るに、「自非聖人」を「本来聖人でないと」と解したり、「自非然者」を「本来そうではないのなら」と解釈するのは、いささか不自然な感じを否めません。
また、「自非然者」を「そうでないもの以下」と解するのは、とても無理でしょう。

これはまた臆説になりますが、
「~以下」とは解せないけれども、範囲の外にあるものを指して「~でないものより以外」と解するのはどうでしょうか。
つまり、そうでないものを起点として「そうでないものに含まれるものはすべて」すなわち「そうでない限りは」の意です。
それなら「自」を介詞とし、「者」を場合と解して、「『然るに非ざるより』『者』」、つまり「『然るに非ざるより』とある『場合』」となるわけです。

「自非~」は、「自」が仮設連詞だから仮定を表すのではなく、言語環境が仮定の意をもたせるのではないでしょうか?

いったい、文意やその語の置かれる位置が、たまたま他の語と同じである、または近ければ、そう解釈する方が自然だという立場から、その語に本来ない語義や働きを付加するところがあるのではないかと疑いの念を持ちます。
兪敏や王克仲、趙京戦の試論は、そういう傾向に斬り込んだものではなかったでしょうか。

この是非については、とても私には判断を下せませんが、語法を説くものはその大本に斬り込んでいく姿勢がなければならぬと思います。

「自」が仮設連詞である理由が合理的に説明されていないので、また1つ解けない問題として示しておきたいと思います。

解けない問題「何則・何者」

(内容:「なんとなれば」と訓読する「何則」「何者」を文法的にどのように説明するべきかについて考察する。)

拙著の改訂を進めていて、容易には解けない問題にぶつかることがたびたびです。
最初に書いた時は、自らの分析よりは中国の語法学で一般に述べられていることを、いわば引き写すように書いていましたから、これはそういうふうに考えられているとすれば済みだったのでした。
しかし、今回の改訂では、たとえ管見であれ、自分なりに納得いく説明がつかないと、それなりの自信や責任をもって書けないと思うのです。

今、容易には解けない問題にぶつかっています。
それは、「何則」「何者」です。
日本では、古来「何となれば」と読んでいます。
2文からなる前文で、疑問とすべき内容を述べ、後文の先頭に「何則」「何者」を置いて、「なぜなら~」と示して、続いて理由を説明するものとして取り扱ってきました。
しかし、中国の語法学では、前文の後に置かれて、「~。何則?」「~。何者?」と切るものとして説明されています。
つまり、「~。なぜか?」という意味だというわけです。
あたかも「~。何也?」(~。なぜか?)と同じだというように。

しかし、それは本当なのでしょうか?

「何者」「何則」が独立句で、「なぜか?」という意味を表すという説明がいつからなされるようになったのか定かではありませんが、清の劉淇の『助字弁略』に次のように述べられています。

何則、何者、並先設問、後陳其事也。(助字弁略・巻2)
(「何則」、「何者」は、ともに先に問いを設け、後でその事情を述べるのである。)

この「先に問いを設け、後でその事情を述べる」というのが、前文の末尾に、「~。何則?」のような形式をとるということを指しているのか、「なぜかというと」と先に述べた上で、続いて「~だからだ」と説明することを指しているのか、今ひとつよくわかりません。

しかし、現在の虚詞詞典では、「~。何則?」という独立句として説明されています。
この場合、「則」「者」がどういう働きをしているのかというと、たとえば解恵全は、「何則」の項で、次のように述べています。

此条“何则”单独成句,用以提出设问,下面接着作答。“何”做谓语,“则”为语气词。(古書虚詞通解)
(この条の「何則」は単独の成句で、それを用いて問いを示して、下文に続いて答えをなす。「何」は謂語で、「則」は語気詞である。)

さらに「何者」の項では次のように述べています。

此条用法同“何则”。“者”为语气词。
(この条の用法は「何則」に同じ。「者」は語気詞である。)

これが代表的な解釈で、要するに「則」「者」は、共に語気詞だとみなされているわけです。

「誰加衣者。」(誰か衣を加ふる者ぞ。)とか、「誰可伐者。」(誰か伐つべき者ぞ。)などの例があり、「者」が疑問の語気詞とされる通説からは、あるいは「何者」の「者」が疑問の語気詞だと説明されるのは、それなりにそうかもしれないという気にはなります。
(もっとも、この「誰~者」の「者」を語気詞とするのは、通説ではあっても、私自身は疑義を抱いています。この「者」は依然として「~」により実質的な意味が補われて人を指す形式的な語ではないかと思うのです。結構助詞ですが、そういう働きのある特殊な代詞だと。)

しかし、「何則」の場合は、「則」が語気詞だというのは、いかにも妙です。
これについては、尹君の『文言虚詞通釈』の「則」の項に、次のように述べられています。

“则”和“哉”,古音同属“精”母,“哉”属“之”韵,“则”属“职”韵,读音是差不多的,所以相通假。
(「則」と「哉」は、古音が同じく「精」母に属し、「哉」は「之」韻に属し、「則」は「職」韻に属して、読音があまり違いがない、だから相通じるのである。)

音韻学の知識はないので、古音が通じるからだと説明されてしまうと、黙るしかないのですが、「何則」は、しかし特別な解釈をしなくても説明がつくのではないかと思うのです。
これはあくまで臆説になりますが…

・知伯之伐仇猶、遺之広車、因随之以兵、仇猶遂亡 [何則] 無備故也。(史記・樗里子甘茂列伝)
(知伯が仇猶(=北方の異民族)を攻める際、(まず)これに幅の広い車を贈り(道を広げさせてから)、その機に兵を送り込み、仇猶はこうして滅んだ [何則] 防備がなかったからである。)

この例の場合、日本では、「何となれば(=何則)、備え無きが故なり」と読み、「なぜなら防備がなかったからである」と解釈します。
一方、中国では「…、仇猶遂に亡ぶ。何ぞや(=何則)。備え無きが故なり」と読むべき解釈になります。

そもそも「則」は、前に述べられた内容を引き受けて、「その場合は」「その時は」のような意味を表して仮定的な内容を後に取ることもあれば、複数の場合について、Aについて「それは」、Bについて「それは」と、区別して後にどうであるかという叙述を待つ働きもします。
私は、この「何則」の「則」も、後者に近い用法なのではないかと思うのです。
つまり、

…仇猶遂亡、何。則無備故也。

と切って、「仇猶遂に亡ぶは何ぞや。則ち備え無きが故なり」と解する。
「仇猶がこうして滅んだのは、なぜか。それは防備がなかったからである」という意味ではないでしょうか。

ちなみに、古い話になりますが、『馬氏文通』の代字の項「何」で、馬建忠は次のように述べています。

此〈何〉字亦表詞也。猶云「上言如是是何也」,〈則〉字以下,申言其故。経生家皆以〈何則〉二字連続,愚謂〈何則〉二字,亦猶〈然而〉両字,当析読,則〈則〉字方有著落。且〈則〉字所以直接上文,必置句読之首,何独於此而変其例哉。(馬氏文通・実字巻2)
(この「何」の字も表詞(=謂語)である。「上にこのようにいうのはなぜか」と言うのと同じで、「則」の字以下は、重ねてその理由を述べる。経生家(経書研究の清代の学者のことか)はみな「何則」を二字連続とするが、私が思うに「何則」の二字も、「然而」二字と同じで、分けて読むべきであって、そうすれば「則」の字は、きちんと配置する。さらに「則」の字は上文を受けるので、必ず句読(ことばの休止する箇所)の最初におく。どうしてここでだけその規則を変えたりしようか。)

訳にやや自信がないのですが、ここでいう「経生家」とは、先に紹介した劉淇のことを指しているものと思われます。
馬建忠の解釈は、私の解釈と同じですね。
ただ、この説は、現在のところ支持されていないようです。


次に、「何者」ですが、これは「者」が疑問の語気詞だとすれば、それで通ってしまいます。
手許の虚詞詞典を見る限り、ことごとく「何也」や「何哉」と同じ扱いになっています。
尹君『文言虚詞通釈』に、近指代詞として、「这」と同じで「这样」と訳すとあるばかりです。
つまり、「何者?」は、「どうしてこのようなのだ?」と解するわけですが、これはさすがにどうでしょうか。

「者」の字は、語気詞とも結構助詞とも説明され、さまざまな用法が論じられます。
しかし基本的には、先行する叙述部を受けて、自身に意味を補い名詞句を作る特殊な代詞であろうと思います。
補った結果、動作行為の主体を表したり、原因理由を表したり、色々と働きがあるわけです。
以前、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んだ時、「者」の働きについての記述に、とても興味をひかれました。
上の語をうけて、「者」が「時」「場合」を指すことがあるとして、「何者」についても触れてありました。

又「何者」は「何となれば」と讀む習慣である。(用例略)
この「何者」は「何ぞやとある場合」の意である。「何」が模型動詞なのである。「何となれば」と讀むものには「何則」が有る。「何」だけでもそう讀む場合がある。皆模型動詞である。

模型動詞というのもおもしろいのですが、これは詳しくは『標準漢文法』を読んでいただくとして、「何」(なぜか?)という、実際に人が発音する「ことばの模型」を作って作用を表す動詞だということです。
だから、「何ぞやとある場合」というは、「『何ぞや?』とある場合」の意で、「何ぞや」の部分が模型動詞にあたるわけです。
そして、「者」は、「何ぞやとある『場合』」で、「何ぞやとある」によって「者」に意味が補われ、「何者」が「何ぞやとある場合」という意味になる。
間違っているかもしれませんが。

少なくとも私は、「何者」は、「~。何者?」あるいは「~、何者?」ではなく、「何者、~」であろうという気がしてなりません。
その意味で、「何となれば」という日本の読みのほうが妥当なのではないかと思うのですが、これについては、もっともっと語例にあたり、検証が必要なことです。

今のところ、まだ「解けない問題」として位置づけておくべきかと、思っています。

『人面桃花』「以杯水至」の「以」の意味は?

(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「以杯水至」の句の「以」の意味について考察する。)

学校再開後、授業の遅れを取り戻すべく、本校も国語科の若い教員たちが、はりきって授業をしています。
たまたま廊下を通ると、3年生の漢文で『本事詩』のいわゆる「人面桃花」を授業している元気な声が聞こえてきました。
3年生の授業でも文の成分に言及している声に、漢文を構造的に教えたいという情熱が伝わってきて、うれしくなります。

そういえば「人面桃花」の授業はしたことがないなと思いつつ、教科書をめくりながら、そうそうこういう話だったと思っていると、ふと次の一節が目に入りました。

・女入、以杯水至、~
(女入りて、杯水を以て至り、~)

主人公の崔護の「酒渇求飲」(酒を飲み喉が渇いたので、水がほしい)という要望に対する、ある邸宅の娘の動作です。

言わんとしていることはもちろん「杯に入った水をもって来る」ということです。
ただ、それではこの「以」はどういう働きをしているのでしょうか。

私的にはおそらく「与」の意では?と思いながら、ちなみに指導書などにはどう書かれているのだろうと思って調べてみましたが、意外にも説明がありません。
該当箇所の前後にある「以」について、「以姓字対」(姓字を以て対ふ)には「姓と字を答えて」と訳して、「以」が対象を表すとし、「以言挑之」(言を以て之に挑む)については「言葉をかけてこの娘の気を引こうとする」と訳し「以」は手段を表す用法と説明してあるのですが。
いわゆる対象や手段を表すのは介詞「以」の基本的な用法です。
説明してあるのはもちろん丁寧ですが、基本的な用法とはとても思えない「以杯水至」の「以」はどう説明すればいいのでしょうか?
一般に「一杯の水を持って戻ってきて」と訳す「持って」の意味だというわけでしょうか。

それで、授業を頑張っていた若い教員に、試しに「『以杯水至』の『以』って、どういう意味?」と尋ねてみると、「対象の用法だと思っていました」との答えでした。
対象の用法なら、「杯の水を至る」もしくは「杯の水に至る」ということになってしまうわけで、もちろん妥当ではありません。
たとえば、「以杯水進」(杯水を以て進む)なら、「杯の水をすすめる」なので対象とも言えるでしょうが。

この「以」は「与」に通じる用法ではないかと思っていた時、ふと別の一節が思い浮かびました。
『後漢書』のいわゆる「梁上君子」の、次の一節です。

・習以性成、~

これはよく「習ひ性と成り、~」と読まれています。
これについてかつて自分は明確な判断ができず、あるいは「習ひて以て性成り」と解したことを思い出しました。
岩波書店の吉川忠夫氏訓注の『後漢書』でそう読まれていたのが、後押しになったのですが。
しかし、考え切れなかったことは、若い教員と変わりません。

西田太一郎氏は『漢文の語法』(角川書店1980)で、次のように述べています。

習慣が身につくと性質もそれに伴って固定してしまう。○書経太甲上「習与性成」と同じ。これを日本語で考えて「習慣が性質となる」と訳している本があるが、初歩的な大きい誤りである。「習慣が性質といっしょにできあがる→悪い(または良い)習慣が身につくと性質も悪く(または良く)なってしまう」の意。孔穎達の五経正義「習行此事、乃与性成」(此の事を習行し、乃ち性と成る)、五経大全「与性倶成」(性と倶に成る)、王夫之の尚書引義「習成而性与成也」(習ひ成りて性与に成るなり)を参考。またこれに似た表現は孔叢子の執節篇「習与体成、則自然矣」(習ひ体と成れば、則ち自然なり)、大戴礼保傅篇「習与智長、化与心成」(習ひ智と長じ、化心と成る)(漢書賈誼伝・新書保傅篇も同じ)、淮南子氾論訓「法与時変、礼与俗化」(法は時と変じ、礼は俗と化す)、韓愈の送董邵南序「風俗与化移易」(風俗は化と移易す)などがある。この「甲与乙……」の場合、甲乙同時か、甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる。

多くの用例が挙がっていますが、いずれも「与」の例で、「以」の用例ではないことが残念です。
しかし、これだけ似た表現の例があれば、「習以性成」が、「習与性成」と同義であり、「以」が「与」の義で用いられている可能性は極めて高くなります。
もっとも、西田氏の記述の最後のくだり、「甲与乙……」の「甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる」という部分は、果たしてそうだろうかと疑問には感じます。

介詞「以」が「与」の義で用いられることについては、各種虚詞詞典にも触れられています。
たとえば、解恵全 等による『古書虚詞通解』(中華書局2008)には、楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』等の説を引用紹介した上で、次のように私見を述べています。

此项用法由动词带领义或连及义虚化而来。
(この項の用法は、動詞の率いるの義、または関連するの義が虚化したもの。)

「以」の字の原義については諸説ありますが、古代の曲がった農具で土を掘る「すき」をかたどった「㠯(ム)」と「人」からなり、人がすきを持つ姿だといいます。
すきを用いて耕作することから「用いる」が本来的な意味で、「連れる・率いる」の意味はその引申義でしょう。
動詞「用いる」の働きが虚化して引申義として「~を用いて・~で」という介詞の働きが生じ、さらに「~を用い根拠として」から「~を理由に」という意味、「~を用いて~する」から「~に~する」、「~を~する」という動作の及ぶ対象を表すなどの意味を派生しました。

したがって、動詞「以」の「率いる」の義は、比較的原義に近いものになります。

・宮之奇以其族去虞。(史記・晋世家)
(▽宮之奇はその一族を引き連れて虞の国を去った。)

などは、「以」が動詞「率いる」の意味で用いられた例になります。

これが介詞「与」と同義、もしくは近い義の介詞としての用法になったわけです。
したがって、「習以性成」を「習与性成」と同じ、または近い表現だと考えるのは、あながち無理とはいえません。
ただし、西田氏も指摘しているように、「習慣が性質となる」という、「習慣が変化して性質となる」という意味でないことは言うまでもありません。

私は、「習以性成」は、「習慣が、性質を率いて、できあがる」、つまり、「習慣が、性質とともにできあがる」の意であろうと思います。
その意味で、西田氏の見解と同じなのですが、しかし、かりにこれが「習与性成」であったとしても、あくまで「習」が主であって、「以性」や「与性」は「以」(与)が目的語の名詞「性」を伴って実質的な意味が補われ、「与性」が副詞的に「成」を修飾しているのであって、あくまで主は「習」にあり、「性」にはないのではないかと思います。

さて、話を最初に戻して、「以杯水至」は、果たして「与杯水至」と書き換えられるかどうかはわかりませんが、「杯水を引き連れて至る」、あるいは、「杯水とともに至る」の意であろうと考えます。
もちろん意訳であって、「以」は介詞であり、動詞だというのではありません。
ですが、かなり原義に近い動詞的な用法ではないかとも思います。

その意味で、「一杯の水を持って戻ってきて」という一般的な訳は間違ってはいませんが、なんだか怪しい、「杯水を引き連れて至る」「杯水とともに至る」となんだか違うような気がするのです。

「孰若」「孰与」はなぜ選択を表すのか?

(内容:「孰若」「孰与」がなぜ選択を表すのか、また、2つの用法の違いについて考察する。)

拙著の第3部「句式編」の改訂を進めています。
遅々たる歩みなのですが、ようやく「選択」の章に到達しました。
改訂を進めながら、前著でどれほどいい加減なことを書いていたのだろうと思い知ると共に、次々と新たな疑問が生まれ、そのたびごとに調べ考察を加えてきました。
ついには、すでに公開した第2部「構造理解編」にも、まだ色々と問題があるなあと思う始末。
いずれ、さらなる手直しはしたいと思うのですが。

このブログでは改訂を通して問題にしたことについて、少しずつ取り上げていきたいところです。
とりあえず、最近、疑問を感じたのは選択を問うという「孰若」「孰与」です。

どちらも「いづれぞ」と熟して読まれます。

・与其有楽於身、孰若無憂於其心。(韓愈「送李愿帰盤古序」)
(▼其の身に楽しみ有らんよりは、其の心に憂へ無きに孰若(いづ)れぞ。 ▽身に楽しみがあるのと比べて、その心に憂いがないのはどうか。)

・公之視廉将軍、孰与秦王。(史記・廉頗藺相如列伝)
(▼公の廉将軍を視ること、秦王に孰与(いづ)れぞ。 ▽あなた方が廉頗将軍を見ることは(→廉頗将軍に対する見方は)、秦王と比べてどうか。)

いずれも有名な例です。
特に後者は教科書にもよく載っていますから、学校現場でも生徒に向かって、「与其A、孰若B」(其のAせんよりは、Bするに孰若れぞ」とか、「A孰与B」(AはBに孰与れぞ)は選択を表す重要句形だから覚えなさい!とやっておられることと思います。

しかし、なぜ「孰若」「孰与」が、そのような意味を表すのでしょうか?

例によって、まず手近なところで『漢詩・漢文解釈講座』別巻「訓読百科」(昌平社 1995)を開いてみました。
しかし、「二つのものを比較して、どちらかを選択する形。」とあるだけで、他には特に説明がありません。

次に『研究資料漢文学10』「語法・句法・漢字・漢語」(明治書院 1994)を見てみました。
すると、次のように書かれています。

「孰与」「孰若」は、どちらも二語熟して「いづれぞ」と読み、二つのものを比較・選択する語法である。「孰若」は、上に「与其(その……よりは)」を伴うことが多い。疑問詞「孰」を用いての反語の形が本来の読み方である。その下のものが選択されるのが原則である。

そして、「『孰』を用いての反語の形が本来の読み方である」について、注として『訓訳示蒙』が引用されています。

「孰与」ト「孰若」ハ共ニ、下カラ反リテ、「イヅレ」トヨム、畢竟シテ「マシヂヤ」ト云フ意ナリ。下ニアルコトガ、マシニナルナリ。字義ハ「孰与 タレカトモニセン・アヒテニナラフ」「孰若 タレカシカン・マサラフ」ト云フ義ナリ。

さすが荻生徂徠だと唸らされます。
徂徠の説明が妥当であるかどうかはともかくとして、このような字義に遡っての理解や説明が全くなされず、句形の丸暗記が現在の漢文教育で、いつかそんな風潮に風穴をあけたいものだとつくづく思います。

他に字義について触れられたものがないか、手許の書籍をいくつか手に取ってみました。

西田太一郎氏『漢文の語法』(角川書店 1980)は、用例は豊富に挙げ、用法についても述べられていますが、「孰与」「孰若」自体の字義については触れられていません。

名高いかつての受験参考書『漢文法基礎』(増進会出版社 1977)には、次のように述べられていました。

「孰与」は、もともと「――、孰与……」(――は、たれか……とともにせん)という意味なのである。「――は、……と同じであるとだれが考えようか」という感じなのである。
同じく「孰若」は、「――孰若……」(――は、たれか……にしかん)すなわち「――が、……に及ぶとだれが考えようか」ということだ。
その意味をつづめて「――は……にいづれぞ」という訓読が定まったというわけである。

これに従えば、先に挙げた「公之視廉将軍、孰与秦王」は、「あなた方が廉将軍を見て、(廉将軍は)秦王と同じであるとだれが考えようか」となります。
一方、このように言われた藺相如の舎人たちは「不若也」と答えています。
「廉将軍は秦王に及ばない」の意です、誰も考えとは答えていません。

鄒忌という美男子が、同じく美男子の徐公の美しさに勝る自信がなく、妻や側妻に問いかけた言葉に、次のようなものがあります。

・吾孰与徐公美。(戦国策・斉策一)
(▼吾は徐公の美に孰与れぞ。 ▽私は徐公の美しさに比べてどうか。)

これは「私は、徐公の美しさと同じであるとだれが考えようか」となるわけですが、鄒忌の妻は「君美甚、徐公何能及公也」(あなたはとても美しい、徐公がどうしてあなたに及べるでしょう!」と答えています。
側妻もほぼ同様に答えています。
しかも、側妻に対しては「復問其妾曰」(さらにその側妻に質問した)とありますから、おそらく妻の場合も同様で、これは反語ではなく鄒忌の質問です。
反語を疑問に改めて「私は、徐公の美しさと同じであるとだれが考えるのだろうか」としたとして、答えは普通は「誰々です」か「誰も考えません」となるはずです。
さて、どうでしょうか。

荻生徂徠は「孰与」を「タレカトモニセン・アヒテニナラフ」と説明していました。
それなら、「廉将軍、たれか秦王とともにせん→秦王の相手になろう」「吾、たれか徐公の美とともにせん→徐公の美しさの相手になろう」から、まだわからないことはありません。
それにしても「タレカ」が気になります。

「孰若」についても同じ違和感があります。
先の韓愈の「与其有楽於身、孰若無憂於其心」も、「その心に憂いがないことに及ぶとだれが考えようか」と解して、理解できないことはないのですが、「孰与」の「だれが」がどうも違和感がある以上、本当にそんな意味だろうかと不審に思います。

そして、私的には「孰若」と「孰与」は同じ読み方はするけれども、字義としてはやはり違うように思うのです。
なぜなら、『研究資料漢文学』にも指摘してあったように、「孰若」は上に「与其」を伴うことが多いのですが、私が用例を調べる限り、「孰与」が「与其」を伴う例は一切見当たらないからです。
それは「孰若」と「孰与」が構造的に異なるからではないでしょうか。

「与其」は、選択の形でよく用いられますが、この「其」の扱いに現場の先生方は困っておられることと思います?
よく簡単に、この「其」は指示する内容がないから訳さなくてもよいとか、もう少し踏み込んで「与其」で1つの接続詞とみなせばよいと片付けておられるのではないでしょうか?

・礼、与其奢也、寧倹。(論語・八佾)
(▼礼は、其の奢らんよりは、寧ろ倹なれ。)

有名なこの孔子の言葉は、普通「礼は、豪華であるより、いっそ質素であれ」と訳されていますが、私的には「礼は、それが豪華であるのと比較して、質素である方がよい」の意であろうと考えています。

確かに現在の語法学では「与其」を複合の接続詞で、「其」の代詞としての働きはもはや虚化していると説明されることが多いと思いますが、「与其A、~」の「其A」は、もともとは「それがAである」という主述関係にあったのではないかと思います。
つまりこの「其」は、先行する「礼」を復指したものではないかということです。

そして、「与」は「複数の人が仲間になる」を原義として、共にするの意を派生したと考えられますが、この用法の「与」は、「よりは」と読んではいますが、共にする対象から転じて比較の対象を示すもので、本来は前置詞の「与」の働きをするものではないでしょうか。

ですから、論語の例文は、礼について、それが「奢」(豪華)であることを仲間(比較対象)として、「倹」(質素)である方がよいということを主として示した表現だと思います。

話を「与其有楽於身、孰若無憂於其心」に戻すと、この文は、後句の「孰若無憂於其心」を主として、その比較する対象として「身に楽しみがあること」を示したものでしょう。
つまり、「身に楽しみがあることとは」と比較の仲間を提示したのだと。
その上で、「『孰』が『その心に憂いがないこと』にまさるだろうか」を主として述べた、そういう構造ではないでしょうか。
もしそうだとすると、「孰」の意味が問題になります。
荻生徂徠も加地氏も「タレカ」としているのですが、私は先行して示された前句の「何が」あるいは、「どんな点が」という意味ではないかと思います。
つまり、「与其有楽於身、孰若無憂於其心」は、「身に楽しみがあることと比較して、どんな点がその心に憂いがないことにまさるだろうか」という意味になるわけです。
「孰若無憂於其心」は、本来は「孰(いづ)れか其の心に憂ひ無きに若かん」と読むべき形ではなかったでしょうか。

すなわち、「与其A、孰若B」(A、孰若B)は、「Aと比較して[=与其A]、何が〔どんな点が〕[=孰]Bに及ぶ[=若]だろうか」という意味だと考えます。
「孰如」「何如」が選択を表すこともありますが、同じ構造だと思います。

間違っているかもしれませんが、「与其A、孰若B」の形については、なんとか説明がつきました。
問題は「A孰与B」です。

考え方の手がかりは「与其A、孰与B」の形をとらないことで、その意味で「与」が前後に2つで重複することが気になります。

考えあぐねていると、ふと春先に読み、「其れ龍のごときか」と嘆じた松下大三郎氏の『標準漢文法』に、確か「孰与」について書かれていて、あれ?と思ったことが思い出されました。
急ぎ、調べてみると、「与」の用法として、次のように書かれています。

「與」は前置詞では「與に」の意であるが、前置詞性動詞となつた場合には「與にす」の意だ。前置詞「與に」が形式動詞的意義(爲)を帶びたものである。その用法は二つある。
一、寄生形式動詞としての用法 「與にす」と讀む。
(用例略)

二、單純形式動詞としての用法 この用法は主として「孰」「何」の下に用ゐる。
(用例略)
この場合の「孰」「何」は「いづれぞ」と讀む。「何れがまさる」といふ意の動詞である。そうしてその比較の對手は「與」の下の名詞が表はすが「孰」「何」の依據性を明にするために「與」を附けるのである。

「与其A、孰与B」の形をとらない理由が解けた気がしました。
「与其A」を前句に示せば、「孰」の後に「与」をつける意味がなくなります。
というよりも、「孰与B」ですでに比較の対象、つまり仲間が示されているわけですから、「与其A」を前句に置けるはずがないのです。

「孰若B」を「孰れかBに若かん」が本来だと結論づけたために、「孰与」の「孰」を動詞になっているとは考えもしませんでした。
そして、ふと次の用例が思い浮かびました。

・孰与君少長。(史記・項羽本紀)

鴻門の会の前夜、項羽が翌朝漢軍を殲滅しようとしていることを、かつて沛公方の参謀張良に命を助けられたことのある項伯が、自身覇上に赴き告げに来た機会に、沛公が張良にした質問です。
「君と項伯はどちらが年上か」という趣旨の問いです。
普通、この文は「君と少長孰(いづ)れぞ」と読まれています。
「君の少長に孰れぞ」とも読めるかも知れません。
しかし、この例は、いわゆる「孰」の依拠性をよく示しています。
「与君少長」は、どちらがまさるかということの比較の対象を明瞭に示して「孰」に意味を補充しています。
つまり、主は省略された「項伯」にあって、「君少長」は、「どちらがまさるか」の比較の対象、仲間すなわち従にあたります。

結論として、「A、孰与B」は、「Aは、Bと比較して[=与B]どちらがまさるか[=孰]」の意になるわけです。

「与其A、孰若B」(A、孰若B)と「A孰与B」の選択疑問が、Bを選択する前提で述べられるということについて。
「与其A、孰若B」(A、孰若B)は、「Aと比較して、何が〔どんな点が〕Bに及ぶだろうか」という意味なのですから、通常の感覚をもってすれば、反語ならBに及ぶはずもないのであって、Bを選ぶことになるし、かりに疑問であったとしても、おそらくBに及ぶものはないであろうという前提で問いかけることになります。

一方、「A孰与B」は、Aが主語として示されていて、Bとの比較において「どちらがまさる?」と問いかけるわけですから、純粋に「どちらがまさるだろう?」という思いを持っている可能性があります。
先の沛公の問いも、話題としている項伯について、話している張良と、どちらが年上かわからないから問うたのであって、張良が年上と判断していたわけではもちろんありません。

鄒忌の妻妾への問いも、自分の容姿の美醜を気にかけているわけで、「吾」を主語とするのは当然です。
徐公の方が美しいと思う前提で、「孰与徐公」としたのではないでしょう。
「自分は徐公の美しさと比較してどちらがまさるか」なのであって、「徐公は自分の美しさと比較してどちらがまさるか」では主従が入れ替わってしまい、自分のことを問いたい鄒忌の意図とは異なってしまいます。

そして、藺相如の「公之視廉将軍、孰与秦王」という問いも、話題となっているのが廉頗将軍だから主となっているのであって、もちろん腹の中で「秦王の方がまさる」という思いはあったにせよ、主を廉頗とし、比較の対象を秦王にするのは、Bを選ぶ前提だからではなく、話の重点が廉頗に置かれているからではないでしょうか。
舎人は「不若也」と答えていますが、話題の主体となっているのが廉頗で、その比較対象が秦王だとわかりきっているから、省略した表現で済むのであって、Bを選ぶ前提の反語表現なら、そもそも答える必要などありません。

「句式編」選択の章を改定しながら、こんなことを考えました。

「耳」は推量の語気を表すか?

(内容:文末に用いられる語気詞「耳」について、一部の漢和辞典が中国の虚詞詞典に基づき、推量の語気を表すと述べていることに対して、疑問を呈する。)

古典中国語文法に基づいて語法を解説した拙著の改訂作業に入っていることは、以前のエントリーで書きましたが、現在第2部で、語気詞の用法について見直しを行っています。
疑問や反語、詠嘆、あるいは限定ぐらいが取りあげられて、学校漢文ではあまり語気詞の学習に重きが置かれていないのですが、実は奥が深いのです。
一つの語気詞が、言語環境によってさまざまな意味を表すことがあり、それを一つひとつ吟味していくのは楽しい作業でもあります。

まさにそんな作業をしていた折に、また若い同僚が質問をして来られました。
見せてくれた漢文は次の通りです。

・漢武帝乳母嘗於外犯事。帝欲申憲。乳母求救東方朔。朔曰、「此非唇舌所争。爾必望済者、将去時、但当屢顧帝。慎勿言。此或可万一冀耳。」(以下略)

私が訳してみると、次のようになります。
(漢の武帝の乳母が(宮廷の)外で罪を犯したことがあり、帝は法によって処罰しようとした。乳母が救いを東方朔に求めた。朔は、「これは言葉がどうこうできることではない。あなたがどうあっても救いを望むなら、去ろうとする時、ただ何度も帝を振り返りなさい。くれぐれも言葉を発してはならぬ。これがことによるとほんのわずかにも望めることだ。)

さて、この「此或可万一冀耳。」の箇所の現代語訳についての質問でした。
彼が言うには、よる所の書には「もしかすると万に一つの希望をもつことができるかもしれません。」と訳されているとのこと。
同僚の疑問は、その訳に「耳」の意味が反映されていないことを背景とするものでした。
なるほど、確かに「耳」のニュアンスが伝わってこない。

同僚は書籍にも「耳」が限定や肯定の他に、疑問や推量の語気も表すと書かれたものがあると言いました。
私的には「耳」は、限止(限定)・決定(断定)・停頓(ポーズ)の3つの語気を表すと思っていたので、驚いてしまいました。
なによりびっくりしたのは、その疑問や推量の語気を表すとしたものです。

「此或可万一冀耳。」の「耳」の語気は、当然「限定」か「断定」であろうと思っていたわけですが、それだと推量でも説明できてしまうことになります。
これはおそらく中国の虚詞詞典にそう書かれているものがあるに違いないと、同僚の前で、虚詞を調べる時一番最初に手に取る『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると、

四、用于测度问句的句末,助测度语气。可译为”吧”。
(推量文の文末で用い、推量の語気を助ける。”吧”と訳すことができる。)

として、次の例が挙げられています。

 (1)安掩鼻曰:”恐不免。”(《晋书・谢安传》)
 (2)舟人皆侧立,曰:”此本无山,恐水怪。”(《唐人小说・李朝威:柳毅传》)

中国の代表的な虚詞詞典にもこう書いてあるからには、それを信じれば、「此或可万一冀耳。」は「或」に呼応する形で、「耳」が推量の語気を表すことになるのかもしれないと、その場はお茶を濁しておいたのですが。

しかし、本当に「耳」が推量の語気など表すのだろうか?という疑問は拭えませんでした。
そこでまず、『漢語大詞典』を引いてみました。

(9) 語氣詞。表示限止語氣,與“而已”、“罷了”同義。
(語気詞。限止(限定)の語気を表し,「而已」「罷了」と同義。)

(10) 語氣詞。表示肯定語氣或語句的停頓與結束。
(語気詞。肯定の語気や語句の停頓(ポーズ)と結束(終結)を表す。)

とあり、これは私が了解していた意味に触れているのみで、推量だの疑問だのの語気については述べられていません。

次に手元の虚詞詞典を片っ端から調べてみました。
すると意外にも推量、疑問の語気について述べてあるものが見つかりません。
韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』(吉林人民出版社1984)や尹君の『文言虚詞通釈』(広西人民出版社1984)は、古いものの他の書にはない記述が多く見られ、よく参考にしています。
まず、『古漢語虚詞手冊』には次のように書かれています。

一、语气词,系“而已”的合音(与“而”同纽,与“已”同部),表示限止,常与“特”、“独”、“止”、“直”等范围副词相应,可译为“而已”、“罢了”。
(語気詞、「而已」の合音(「而」と同声母、「已」と同韻)に関わり、限止(限定)を表す、「特」「独」「止」「直」などの範囲副詞と呼応することが多く、「而已」「罷了」と訳せる。)

二、语气词,表示断定,用在句末,有时近似“矣”,有时近似“也”,可译为“了”、“的”、“啊”、“呢”,或不必翻译。
(語気詞、断定を表し、文末で用いられ、「矣」に近い時もあれば、「也」に近いこともある、「了」「的」「啊」「呢」と訳せるほか、訳す必要がないこともある。)

次に、『文言虚詞通釈』は次の通り。

①助词 语气助词。用在陈述句末,表限止语气,有“不过如此”的意味;或说是“而已”两字的合音,可译为“罢了”。
(助詞 語気助詞。陳述文の文末で用いられ、限止(限定)の語気を表し、「不過如此」(こんなものだ)という意味がある。「而已」二字の合音だと説明されることがあり、「罷了」と訳せる。)

②助词 语气助词。和“也”条④项相同,用在陈述句末,表论断、决断或终结语气。可译为“的”、“呢”,也可去掉不译。
(助詞 語気助詞。「也」の条④項と同じで、陳述文の文末で用いられ、論断、決断や終結の語気を表す。「的」「呢」と訳せるほか、訳さなくてもよいこともある。)

③助词 语气助词。和“也”条③项相同,用在复句的前一分句句末,表提顿、停顿语气。现代汉语中没有相应的词,一般去掉不译。有的地方,也可译为“啊”。
(助詞 語気助詞。「也」の条③項と同じで、複文の前句末で用いられ、提頓、停頓の語気を表す。現代漢語の中に相当する字がないので、一般的には訳す必要はない。ある場合は、「啊」と訳せることもある。)

④助词 语气助词。和“矣”条①项相同,表行为的已然、将然或必然。可译为“了”、“啦”。
(助詞 語気助詞。「矣」の条①項と同じで、行為の已然(完了過去)、将然(将来)や必然を表す。「了」「啦」と訳せる。)

⑤助词 语气助词。表慨叹、赞叹语气,可译为“啊”、“呀”。
(助詞 語気助詞。慨嘆、賛嘆の語気を表し、「啊」「呀」と訳せる。)

たくさん書いてあります。
もちろん鵜呑みにするわけにはいきませんが、考えのヒントになるので、参考にする価値があります。
慨嘆、賛嘆の語気というのが目を引き、これは別途考えてみる必要はありそうです。
ですが、ここにも推量の語気については一切書かれていません。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』も参照しましたが、『文言虚詞通釈』の①~③とほぼ同内容のことが書かれていたものの、推量の語気については述べていません。
何楽士は商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』の編纂にも関わっていたはずですが、どういうことでしょうか。

他に楊伯峻『古漢語虚詞』(中華書局1981)、于長虹等『常用文言虚詞手冊』(河北人民出版社1983)、王政白『古漢語虚詞詞典(増訂本)』(黄山書社1986)、王海棻等『古漢語虚詞詞典』(北京大学出版社1996)、陳霞村『古代漢語虚詞類解』(山西古籍出版社2007)、鐘兆華『近代漢語虚詞詞典』(商務印書館2015)などを見てみましたが、推量の語気については触れられていませんでした。

ところが、白玉林・遅鐸『古漢語虚詞詞典』(中華書局2004)に次のように述べられていました。

①用在分句末,表示停顿。可不译出。
(複文の文末で用いられ、停頓(ポーズ)を表す。訳出しなくてよい。)

②用在陈述句末。
(陳述文の文末で用いられて)
 1.助判断语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出。
(判断の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよい。)

 2.助肯定语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出,有的也可译为“啊”、“的”等。
(肯定の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよいが、ある場合は「啊」「的」などと訳せることもある。)

 3.助限止语气。常同表示范围的副词“唯(惟)”、“止”等呼应。可译为“罢了”。
(限止(限定)の語気を助ける。範囲を表す副詞「唯(惟)」や「止」などと呼応して用いられることが多い。「罷了」と訳せる。)

③用在祈使句末,助祈请语气。可译为“吧”。
(命令・請願文の文末で用いられ、命令・請願の語気を助ける。「吧」と訳せる。)

④用在疑问句末。
(疑問文の文末で用いられて)
 1.助反诘、特指问语气。可译为“吗”、“呢”。
(反語や疑問の語気を助ける。「吗」「呢」と訳せる。)

 2.助测度语气。常同表示语气的副词“恐”等呼应。可译“吧”。
(推量の語気を助ける。語気を表す副詞「恐」などと呼応して用いられることが多い。「吧」と訳せる。)

同じ遅鐸主編の『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』(商務印書館国際有限公司2011)にも同内容のことが述べられていました。
編者が同じなので当然というところでしょうか。
遅鐸が『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)の編纂に関わっているかどうかはわかりません。

他にも探せばあるのかもしれませんが、「耳」に推量の語気を認める記述は、一部の虚詞詞典に限られているようです。
あるいは最新の語法研究の成果なのかもしれません。

虚詞詞典に述べられているかいないかを確認していっても拉致があかないので、「耳」の字がどのように解釈され、それに対してどのような分析がなされているかを調べてみることにしました。

こういう時には解恵全等『古書虚詞通解』(中華書局2008)の出番です。
清人の袁仁林『虚字説』、劉淇『助字弁略』、王引之『経伝釈詞』、呉昌瑩『経詞衍釈』の4著、近くは楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』、孫経世『経伝釈詞補・再補』の3著、あわせて7著の説を引用し、検討を加えたものです。
「耳」の字が、用例をもとにどのように説明されてきたのか、それにどのような検討が加えられているかを順に見ていくと、色々と説はあるものの、結論的に語気詞としての働きは、「限止語気」「決定語気」「停頓」の3つに尽きるもののようです。
そして、『詞詮』や『古書虚字集釈』、『経伝釈詞補』、『助字弁略』が、「耳」を「邪」または「乎」と同じ用法だと説いたものさえも、上記3つの語気として説明できるとしています。
しかし、「耳」を推量の語気とする説はどうも見当たりません。

『古代漢語虚詞詞典』が「耳」を推量の語気を表すとした根拠になっている例を見てみましょう。

・安掩鼻曰:”恐不免。”(晋書・謝安伝)

晋書の前後の部分を補ってみると、

・安妻、劉惔妹也。既見家門富貴、而安独静退、乃謂曰、「丈夫不如此也。」安掩鼻曰、「不免。」及万黜廃、安始有仕進志、時年已四十餘矣。
(謝安の妻は、劉惔の妹である。すでに家門が富貴であるのに、謝安ひとりが静かに引退しているのを見て、彼に「男子たるものこのようではないですか。」と言うと、謝安は鼻を覆って、「恐不免耳。」と言った。弟の謝万が退けられると、謝安は初めて出仕する気になったが、時にすでに四十数歳であった。)

この話は『世説新語』の排調篇にも採られていて、

・初、謝安在東山居、布衣時、兄弟已有富貴者、翕集家門、傾動人物。劉夫人戯謂安曰、「大丈夫不当如此乎。」謝乃捉鼻曰、「但恐不免。」(世説新語・排調)
(はじめ謝安が東山の住まいにいて官についていなかった時、兄弟にすでに富貴であった者があり、一族を集めて、人々の耳目を驚かせていた。(謝安の妻の)劉夫人が戯れて謝安に「男子たるものはこのようではあるべきではないですか。」と言うと、謝安は鼻をつまんで、「但恐不免耳。」と言った。)

「排調」と言うのは「相手をやりこめる」という意味ですから、「但恐不免耳」は、妻の嫌みに対して切り返した言葉であるはずで、富貴にして今をときめく兄弟を念頭に、そんな生活を是としない謝安としては、「いずれ自分もそうなってしまうのを避けようもないわい」という意味であるはずです。

重要なのは、『世説新語』が『晋書』に先行する書だということです。
『晋書』は『世説新語』に取材しているはずで、その表記が「但恐不免耳」となっている。
これはもうどう見ても「耳」は範囲副詞「但」に呼応して用いられていることが明らかです。
つまり、「但だ免れざるを恐るるのみ」(ただ逃れられないのを心配するばかりだよ)の意になります。
『世説新語』の記述をもとにする『晋書』の表記が「但」を欠いて「恐不免耳」になっているからといって、これが「おそらく災いをまぬかれないであろう」という意味になるでしょうか。
よしや『晋書』の「恐不免耳」単体が「恐…耳」の形に見えたとしても、『世説新語』の記述から、例としての妥当性を欠く可能性があります。

この「範囲副詞+恐~耳。」の形式は、非常に多くの用例が見られます。

・太子曰、「僕甚願従、直恐為諸大夫累。」(枚乗「七発」)
(太子は、「私は(あなたの言うことに)従いたいと思うが、ただ大夫たちの心配の種となることが心配なのだ。」と言った。)

・此方之民、思為臣妾、延頸挙踵、惟恐兵来之遅(三国志・呉志・胡綜伝)
(こちらの民は、陛下の臣僕になりたいと思い、首を伸ばし踵を上げております、ただ貴国の軍の到着が遅いことを心配するばかりなのです。)

・王文達万人敵也、但恐勇決太過(北史・王傑列伝)
(王文達は万人に敵するほどの人物だ、ただ勇敢で果断でありすぎることを心配するばかりだ。)

3例ほど挙げてみましたが、このような「恐」は文脈から明らかに動詞「心配する」の意で、範囲副詞がこの動詞を修飾する形で用いられています。

一方で、範囲副詞を伴わない形式、つまり「恐~耳」の形式の例も見られます。

①我乃信汝、為人所誑(宋書・蕭恵開列伝)
(私はむしろあなたを信じる、たぶん人に欺かれただけだ。)

②婦曰、「此是妖魅憑依。」文曰、「我亦疑之。」(捜神記・巻4)
(妻が、「これはたぶん妖怪が憑依したんですよ。」と言うと、戴文謀は、「私もそれを疑ってる。」と言った。)

③象知之欲去曰、「官事拘束我。」(神仙伝・巻9)
(介象はこれ(=介象が非凡であることをお上に報告されたこと)を知って、立ち去ろうとして、「公事が私を拘束するのが心配だ。」と言った。)

④鬼云、「人鬼異路、無宜相逼、不免。」(広異記・巻2)
(鬼は、「人と鬼は道を異にしています、無理を言ってはいけません、(延命を望んでも)たぶん免れないですよ。」と言った。)

③の例はおそらく「恐」は心配するの意の動詞だと思いますが、①②④は、その動詞の意から派生した推量の副詞です。
もともとが動詞なので、主によくない状況があること、起こることを予想して推量するわけです。

①の例は、あなたが人に欺かれたことを推量しているのですが、その推量は「恐」が表しているわけで、語気詞「耳」は、ただそれだけのことだという語気で、推量を表していると考える必要はないでしょう。

②の例も「恐」は、悪くするとそうではないかという推量を表していますが、これが妖怪が憑依したことに尽きるというのが想像内容であって、「耳」は推量の語気を表しているわけではないでしょう。

④の例は、先の『世説新語』と同じ表現ですが、この「恐」は動詞としては解せません。
今日を限りの命をなんとか救ってほしいという張御史の要望に、鬼の世界の小役人は、それは無理な話と断る文脈での言葉です。
「恐」は推量の副詞ですが、推量しつつも、「延命は無理ですよ」と言い切っているのであって、「耳」が推量の語気を表しているとは言い切れないでしょう。

中国語のことを日本語の文法で語ってはいけないのは百も承知の上で、たとえば「これは太郎が犯人だ」といえば「だ」は断定を表すが、「おそらく太郎が犯人だ」といえば「だ」は推量を表すと言えるでしょうか?
あるいは、「茶柱が立つと縁起がいいというのは迷信に過ぎない」を、「茶柱が立つと縁起がいいというのは、恐らく迷信に過ぎない」と言い換えれば、「~に過ぎない」は推量を表すことになるのでしょうか。
私にはこの問題がそれと似ているような気がします。

『古代漢語虚詞詞典』が引用する2つめの例を見てみましょう。

・舟人皆側立,曰:”此本無山,恐水怪耳。”(《唐人小説・李朝威:柳毅伝》)

前の部分を補います。

・至開元末、毅之表弟薛嘏為京畿令、謫官東南、経洞庭、晴昼長望、俄見碧山出於遠波。舟人皆側立曰、「此本無山、恐水怪耳。」
(開元年間の末に、柳毅の従兄弟の薛嘏が京畿令となり、(さらに)東南に左遷され、洞庭湖を経たが、晴れた昼に遠く眺めると、急に青い山が波の彼方から現れるのを見た。舟人たちはみな舷に立ち、「ここにはもともと山はない、たぶん湖の化け物だ。」と言った。)

これも「恐」があるから、必然的に「~だろう」と解したくなるのですが、「耳」は本来、「水怪に他ならない」という意味でしょう。
なぜなら、その根拠となることが、その前の「此本無山」に示されているからです。
舟人は洞庭湖にこんな青い山はないことを知っていたからこそ、「水怪耳」と断じることができるのです。
それに推量の副詞「恐」を用いただけではないでしょうか。
「此水怪耳」と表現すれば、「これは水怪だ」と決定の語気を表すのですが、「恐」ひとつで「耳」が推量の語気に変化する、「耳」は元々そういう性質の語気詞でしょうか。

さて、話を最初に戻しましょう。
同僚が質問してこられた「此或可万一冀耳。」という一文、「或」という副詞があるために、「耳」は推量の語気を表すのか?と、あの時は迷いました。
しかし、「万一」とは万分の一、ほんのわずかであることを表します。
「耳」は、「或」に呼応するのではなく、この副詞的に用いられた「万一」に呼応しているのでしょう。
つまり、「これがことによるとほんのわずかに期待できるばかりのことだよ。」というのがこの文の意味、そして「耳」の語気ではないでしょうか。

「無論魏晋」の「無論」は慣用表現か?

(内容:陶淵明『桃花源記』に見られる「無論魏晋」という句の「無論」は当時の慣用表現であると述べられることに対して、疑問を呈する。)

「有」が2つの賓語を取る時の構造について検証していく過程で、さらに気になることに行き当たりました。
別に、陶淵明の『桃花源記』の次の一文について、疑問を抱いた方があったという話を耳にしたからです。

乃不知有漢、無論魏晋(陶淵明集・巻6・「桃花源記」)
(乃ち漢有るを知らず、魏・晋に論無し。)
(なんと漢があったことを知らず、(ましてや)魏・晋(を知らないの)は言うまでもない。 …読みと訳はS社指導書による)

その方はこの「魏晋に論無し」という読みに疑問を抱かれたとのことらしいのですが、確かに気になる表現です。
これはおそらく構造的には「魏晋を論ずる無し」と読むべきかと思いますが、手許の参考書や教科書はいずれも「魏晋に論無し」と読まれています。
語法的な説明があるかと、いくつか探してみましたが、参考書、教科書指導書の類はことごとくスルーです。
書いてあっても、「~はいうまでもないの意」とか「~はいうまでもないの意の慣用表現」で済まされています。
これでは疑問を抱く方が出てきても不思議はありません。

切り分けをしたいと思いますが、かりに構造的に「魏晋を論ずる無し」と読むべき形でも、古来「魏晋に論無し」と読まれてきたものを否定するつもりはありません。
そう読んだには読んだだけの理由があったはずだと思いますし、訓読が常に語法に忠実でなければならないものでもないからです。
なぜ「魏晋に論無し」と読んだのかは、とうてい知りようもありません。
ですが、語法的に「無論魏晋」がどのように説明されるかは考えてみる価値があると思いました。

「無論」は、どの参考書や教師用指導書も「言うまでもない」と訳されていて、いわば慣用的な表現のように扱われています。
まず、この「論」が名詞か、動詞か。
「有AB」の場合と同じで、解釈のしようによってはどちらとでもとれそうなのですが、「無論於B」または「無論于B」の形をとる例が見当たらないところを見ると、動詞の可能性が高そうです。
つまり、「無論魏晋」は次の構造で説明されます。

謂語「無」+賓語「論魏晋」

そして、賓語はまた、

謂語「論」+賓語「魏晋」

の構造になる、「『魏晋を論ずること』が無い」という、いわば二重構造になるわけです。

これだけのことなら、それほど気にもかからなかったのですが、前述したように「無論~」は慣用表現のように扱われていて、ほぼ説明なく「~はいうまでもない」で訳して済まされています。
でも、本当に慣用表現でしょうか?

確かに『桃花源記』のように、前文に「乃不知有漢」のような内容をとれば、いわゆる抑揚の表現に似た形で「無論~」は「~はいうまでもない」と述べる進層表現になります。
「当然~(だ)」というわけです。

「無論」の用例について調べてみると、意外にも古い時代の用例が少なく、明らかに『桃花源記』以前のものは、次の2例しか見つけられませんでした。

・嬰之家俗、…通国事無論、驕士慢知者、則不朝也。(晏子春秋・内篇雑上)
(我が家(=晏嬰の家)の家法では、…国家のことに通じていながら議論することなく、賢者智者に驕り侮るものは、交わらない。)

・仁義之処、可無論乎。夫目不視弗見、心弗論不得。雖有天下之至味、弗嚼、弗知其旨也。雖有聖人之至道、弗論、不知其義也。(春秋繁露・仁義法)
(仁と義のありどころについては、論ずることがなくてよかろうか。そもそも目は見なければ見えず、心は論じなければ得られない。天下の美味があっても、食べなければその旨さはわからないのである。聖人のすばらしい道があっても、論じなければ、その意義はわからないのである。)

『春秋繁露』の例は、先に「可無論乎」と述べながら、すぐ後で「弗論、不知其義也」と述べています。
「弗」によって否定された「論」はもちろん動詞ですが、それゆえに先行する「可無論乎」の「論」も同じ可能性があります。

この2例は、いずれも「いうまでもない」という慣用的な意味では用いられていません。
「議論することがない」という一般的な意味です。
先行する文献に「いうまでもない」の意の「無論」が見当たらないのに、「無論魏晋」の「無論」がその意味の慣用表現だとするのは、なんだか怪しくなってきます。

「無論」の例に該当するかどうかは微妙ですが、『桃花源記』に先行する例には、別に次のものもあります。

・上曰、「游撃将軍死事、無論坐者。」(漢書・韓王信列伝)
(主上はおっしゃった、「游撃将軍は国事に死したのであり、(家族の)連座するものを論じることはないようにせよ。)

あえて「ないようにせよ」とは訳しましたが、これは「無」が否定副詞として禁止の働きをするものです。

そもそも、「無」という漢字は「見えない・見えなくなる」という意味の音を「舞」を借りて表記したものだといい、「日が草に隠れて見えなくなる」意の「莫」、「人が物に隠れて見えなくなる」意の「亡」と同系の語です。
反対の意思表示、拒む意を表す「不・否」と、成り立ちが決定的に異なるのです。
「不」が否定的な意志を表すことがあるのに対して、「無」は客観的に存在しないことを表すのは、そもそもの成り立ちに起因するのでしょう。

先の『晏子春秋』の例「通国事無論」は、「無」が「不」と同じだとしてしまえば、「国家のことに通じていながら議論しない」となりますが、あくまで客観的に「議論することがない」と描写しているのであって、そのような者とは「不朝」(交わらない)と、「不」で表現者の否定的意志を示している。
また、『春秋繁露』の例「仁義之処、可無論乎」も、「論じなくてよかろうか」ではなくて、あくまで客観的に人として「論じることがない」ということが許されようかと述べているのだと思います。

『漢書』の「無論坐者」も、「連座するものを論じること」の存在を客観的に否定し、それを禁止に用いたもので、副詞的用法とはいえ、もともとの動詞「無」とまったく別のものではありません。

そのように考えてくると、「乃不知有漢、無論魏晋」は、「なんと漢があったことを知らず、魏・晋を論じることはない」を出発点としてみなければなりません。

そもそも漢の存在自体を知らないのですから、「不論魏晋」と表現することはできません。
なぜなら、「不論」は「論じない」という否定的意志を表しますが、意志も何も魏晋そのものを知らないのに論じようとすることなどあり得ないからです。
つまり、客観的に「魏晋を論じることがない」と表現されたものでしょう。

『桃花源記』に近い時代の例を見てみましょう。

無論潤色未易、但得我語亦難矣。(南斉書・劉絵列伝)
(表現の手直しが易しくないのは言うまでもなく、自分が納得いくことばを見つけるのもまた難しいのだ。)

この「無論」は、「言うまでもなく」と解することができます。

・謝方明可謂名家駒。直置便自是台鼎人、無論復有才用。(宋書・謝方明列伝)
(謝方明は最上の名馬といえる。ただこのままで高官で、さらに才能があることを論ずる必要はない。)

この例は複文の後句で用いられていますが、「さらに才能があるのはいうまでもない」とは解せず、「論じる必要はない」の意でしょう。

無論君不帰、君帰芳已歇。(謝朓「王孫游」)
(あなたが帰って来ないことを論じることなく(=あなたが帰って来られなくても)、あなたが帰ってくれば芳しい香りはすでにやんでいるでしょう(=私の容貌は衰えているでしょう。))

この例も「あなたが帰ってこないことは言うまでもなく」の意では解せません。
この2つの例は、「無論」以下の内容をあれこれ議論することの不必要を表現したものと考えられます。

・逝者長辞、無論栄価、文明叙物、敦厲斯在。(魏書・儒林列伝)
(死者は長く辞して帰らず、栄誉を論じることなく、良いことを明らかにし、提示し勉励するがこのようにあるばかりだ。)

この例は、「論じることがない」そのままの意味で、死んだ人はもはや栄誉を論じることがないのです。

・則物見昭蘇、人知休泰、徐奏薫風之曲、無論鴻雁之歌、豈不天人幸甚、鬼神咸抃。(魏書・恩倖列伝)
(このようにして物は蘇りを示し、人は安寧を知り、やがて「薫風の曲」(舜が作ったといわれ、南風が民の怒りを解き、民の財を豊かにすると歌う)を奏でるようになり、「鴻雁の歌」(詩経・小雅にある、住まいを失って離散する民を周の宣王がいたわることを歌う、転じて災いにより流浪する民)を論じることもなくなったのは、天と人の無上の幸せであり、鬼神もみな手をうって喜ぶことではないか。)

この例も、「鴻雁の歌」すなわち離散の苦しみをあれこれいうことはないの意で、やはり「論じることがない」そのままの意味だと思います。

・察今之挙人、良異于此。無論諂直、莫択賢愚。(北史・儒林列伝下)
(現在の人材登用を見ると、実にこれとは異なっている。媚びへつらう者か正直者かは言うまでもなく、賢者か愚者かを選ぶこともない。)

この例は、本来人材登用の要注意項目となる「媚びへつらう者か正直者か」を見極めることが抜け落ちていることは言うまでもなくという意味でしょうから、「言うまでもなく」の意に解してよいでしょう。

・林子兄弟挺身直入、斬預首、男女無論長幼悉屠之、以預首祭父祖墓。(南史・沈約列伝)
(林子の兄弟は身を投げ出してただちに入り、沈預の首を斬り、男女は年長幼少を論ずることなくことごとくこれを殺し、沈預の首を父祖の墓に祭った。)

この例の場合は、もちろん「長幼はいうまでもなく」の意ではなく、「長幼の区別なく」ということでしょう。

このように用例を見てくると、次のことがわかります。

①「いうまでもない」の意味で用いられる「無論」の用例は、手元の資料からは『桃花源記』以前には見当たらない。

②『桃花源記』に近い時代の用例では、「無論」には次のように複数の意味が見られ、「言うまでもない」と解せるものが突出して多いとはいえない。
  ・~はいうまでもない。
  ・論じる必要はない。
  ・論じることはない。
  ・区別することがない。

これにより、「無論」が「言うまでもない」という意味を表す慣用表現だとするのは、少なくとも『桃花源記』の時代にあっては、当を得ないものだということがわかります。

「無論」がどのような意味を表すのかは、やはり言語環境に左右されるものであって、「無論魏晋」が「魏晋(を知らないこと)はいうまでもない」と解されるのは、「乃不知有漢」(なんと漢があったことを知らない)を受ける文脈だからだというべきでしょう。
そして、これらの多くの用法は、「不」ではなく「無」がもつ「客観的にない」という描写の性質によるものだとも思います。

「有AB」の構造について

(内容:2つの賓語をとる「有AB」「無AB」の形式について考察する。)

前エントリーに続いて、今度は「有AB」の構造について考えたいと思います。
このように記号を用いて「有AB」と表記してみると、異なるいくつかの構造があり得ます。

たとえば、次の有名な文。

有朋自遠方来。(論語・学而)
(友がいて遠方から来る。/遠方から来る友達がいる。)

これは存在の兼語文で、

謂語「有」+賓語「朋」
      主語「朋」+介詞句「自遠方」+謂語「来」

兼語「朋」を介して2文が1文になったものです。
つまり存在の兼語文は、「有」によって存在が示された賓語が後の謂語の主語となる場合に限定されます。
ちなみに、この例文は『論語』では「朋」が単独では用いられず、「朋友」とするため、疑義が呈されています。
また、この例文のように「有」が無主語文の形をとり、存在する範囲を示す存在主語を「有」の前に取らない時は「ある友」ぐらいの意味を表すと説明されることもありますが、漢文に多く見られるこの形式が、まず「朋」の存在を示した上で、その「朋」がどうしたのかを説明する兼語文であることには変わりがありません。

次に、この例文。

有亡国、有殺君。(隋書・天文志下)
(国を滅ぼすことがある、君主を殺すことがある。)

これは厳密には「有AB」の構造とは言えず、「亡国」「殺君」が一つの名詞句であって、「有A」の形というべきです。
すなわち、それぞれ、謂語「亡」+賓語「国」、謂語「殺」+賓語「君」の構造が、「有」の賓語として名詞句になっているということです。
「有殺人者」という形式、つまり「有AB者」(BをAする者有り)の形をとることが多いのがその証拠です。

問題になるのは、A、Bの2つの語が、主謂構造または、謂賓構造をとらず、それぞれ単独に名詞または名詞句である場合です。

・在職多所献替、有益政道。(晋書・范甯列伝)
(在職期間中、行うべきものは勧め、行うべきではないことは改め、政務に益があった。)

この例では、謂語「有」に対し、「益」と「政道」の2つの賓語が置かれています。
「益」を「益する」という動詞として用いられることもありますが、名詞と判断する理由は、「有益」「無益」とされること、また、次のような例が見られることからも妥当だと思います。

・必有益於政。(晋書・隠逸列伝)
(必ず政治に益がある。)

この例でも明らかなように、介詞句「於政」は補語として謂語「有」を修飾しており、介詞「於」を省略すれば、「必有益政」となるわけです。

さて、前項で質問された次の例を見てみましょう。

・足下有意為臣伯楽乎。(戦国策・燕策二)

「足下臣の伯楽と為るに意有りや。」と読んで、「あなたは私の伯楽となることにお考えがありますか。」という意味でしょう。
あるいは、「足下臣の伯楽たるに意有りや。」と読み、「あなたは私の伯楽であることにお考えがありますか。」と解することもできるでしょう。

質問された文の「為臣伯楽」の部分が、謂語「為」+賓語「臣伯楽」の構造をとるために、若干わかりにくいのですが、これは名詞句に転じています。

問題になるのは、「意」が名詞か動詞かという点です。

・豈意此軍乃陥不義乎。(新唐書・李景略列伝)
(どうしてこの軍がよもや不義に陥るなどと予想したであろうか。)

この例の場合は、明らかに「意」は動詞で、「思う・考える・心にかける・予想する・はかる」などの意味を表します。
しかし、「意」は普通に「心・思い・思惑・狙い」の意の名詞としても用いられ、

・書不尽言、言不尽意。(易経・繋辞上)
(文字は言いたいことを表現し尽くせず、ことばは思いを表現しつくせない。)

・今者項荘抜剣舞、其意常在沛公也。(史記・項羽本紀)
(今項荘が剣を抜いて舞っているが、その狙いは常に沛公(を撃つこと)にあるのだ。)

などがその例です。

「有意」が単独で用いられる例としては、

・荊卿豈有意哉。(史記・刺客列伝)
(荊軻殿はなにか考えがおありか。)

などが見られ、また、その真逆の「無意」についても次のような例が見られます。

・相如視秦王無意償趙城、…(史記・廉頗藺相如列伝)
(藺相如は秦王が趙に都市を代償として渡すことに対してその気がないことを見て取り…)

特にこの「無」によって否定された例は、「意」が動詞ではなく、まぎれもない名詞であることを示すものだと思います。

そのように考えると、「足下有意為臣伯楽乎。」の「意為臣伯楽」が、「私の伯楽になることを思う」とか「私の伯楽になりたいと考える」と解するのは、依頼する側としてあまりに不自然で、やはり「考え」が「私の伯楽になること」に対してあるかないかという確認を求めたと解するべきでしょう。

この2つの賓語をとる「有AB」「無AB」の形式については、まだ解明できていない例があるのですが、ひとまず、同僚への説明は妥当であったと考えます。

動詞や形容詞の前の「無」「非」は「不」と同じか?

(内容:現在主流の古典中国語文法では、動詞や形容詞の前の「無」や「非」が「不」と同じ働きとされ、日本の漢和辞典にも同様の記載があるが、その妥当性について考察する。)

漢文を中国の古典文法に基づいて理解しようと思い始めたのは、そう昔のことでもないのですが、ひとたびその明快さに触れると楽しくてなりません。
必然的に中国の専門書を読みあさり、いわゆる工具書の類を買い揃え手元に置いて、何か疑問に感じるたびに調べるようになりました。
その初めの頃というのは、専門の語法書や虚詞詞典等に書いてあることが目に新しく、今思えば極めて危険なことですが、いわば鵜呑みにしてしまうということもありました。
考えてみれば、いくら漢文が本来中国のものであっても、だから中国の書物に書かれていることが必ず正しいとは言えないことぐらい理の当然です。
それにもかかわらず一心に信じてしまうほど、漢文を古典中国語文法で理解しようとすることは新鮮だったのです。

拙著『概説 漢文の語法』は、そんな時期の新鮮な驚きに突き動かされるようにして書いたものですから、今改めて読み直すと、気になる部分がないわけではありません。
本当は一から見直して書き直したいのですが、多忙につき時間が捻出できないので、気づき次第訂正していくしかない状態です。

気になることの一つが、「『無』が動詞述語を修飾する時は『不』と同じ働きをする」です。

最近の日本の書籍にも、中国の語法研究を踏まえて、「無」が否定副詞として、動詞述語の前に置かれて行為や状態を否定し、「~しない」という意味を表すと述べているものがあるようです。

『漢語大詞典』にも次のように書かれています。

(8)副詞。表示否定,相當於“不”。
(副詞。否定を表し、“不”に相当する。)

また、『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)にも、

三、用在动词、形容词谓语前,表示对所述事实的否定。义通“不”。可译为“不”、“没有”等。
(動詞、形容詞述語の前で用いて,述べた事実の否定を表す。意味は“不”に通じる。“不”、“没有”などと訳すことができる。)

と書かれています。

「無」は「なし」だと思い込んでいた身としては、その新鮮さに目を奪われ、「無」が動詞述語の前に置かれた時は、副詞であって「不」と同じく述語を修飾して「~しない」と訳すのだと、授業でも言い、また書きもしました。
実際、拙著『概説 漢文の語法』にも「無」を否定副詞として取りあげ、同様の説明をしました。

しかし、熱病のように信じる一方で、どこか釈然としないものも感じていました。
「無A」(Aは動詞)が「Aしない」という意味なら、「不A」と表現すればよいものを、なぜあえて「無A」と表現するのだろうか。
そういう素朴な疑問です。
表現が異なれば、もつ意味も変わるのが自然です。
それなのに、「無」は否定副詞で「不」と同じだと断じてしまうことは、大体の意味において同じことを表していたとしても、細かい差異を無視することになりはしないか。

そんなふうに内心疑問を感じていた時に読んだのが、張文国/張文強の「论先秦汉语的“有(无)+VP”结构」(先秦漢語の「有(無)+VP」構造)という論文でした。
この論文については、「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」のエントリーでも引用紹介したことがありますが、その中で、論語の「志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁。」について、馬建忠が『馬氏文通』で「『無』字は『不』字と解するのが常である。」と述べたことに対する反論が見られます。
再引用します。

有无句“在形式上虽是叙述句,在意义上却有些是带有描写性的”。这句话就是从正反两个角度描写“志士仁人”所具有的品质的,意思是说在“志士仁人”那里,没有“杀生以害仁”这样的事儿,有“杀身以成仁”的事儿,至于《马氏文通》的解释,“志士仁人决不求生以害仁,惟有杀身以成仁而已”,则不是描述称颂“志士仁人”,而是叙述“志士仁人”的决心,显然与该句本来的意思大相径庭。
(有無句は、「形式上は叙述句であるが、意味上は描写的な性質を帯びている」。この文は正反対の二つの角度から「志士仁人」がもつ品性を描写しているが、意図は「志士仁人」の句において、「求生以害仁」のようなことはなく、「殺身以成仁」ということがあることを述べることにあり、『馬氏文通』の「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。(志士仁人は決して生を求めて仁を害せず、ただ身を殺して仁をなすことがあるばかりだ。)」という解釈に至っては、「志士仁人」を称賛することを述べたのではなく、「志士仁人」の決意を述べたことになり、明確にこの句の本来の意味と大きな隔たりがある。)

この論文にそう書かれているからそうだと、またしても鵜呑みにするのではありません。
得心もせずに中国の語法書や辞書の記述を信じ込むことの危険性に気づかされたのです。

その後、多くの用例に接し、さまざまな論文に触れていくうちに、動詞や形容詞の前に置かれる「無」は「不」とはみなさず、存在しないことを客観的に描写する働きと切り分ける方が適切だと思うに至りました。
その意味では、「無A」を「Aする(こと)無し」と訓読して、「Aすることはない」と訳す従来の方式の方がむしろ適切です。
この「無」を否定副詞と取り扱うか、「有」の対義である動詞とみなすか。
中国の語法書が副詞とするのは、動詞や形容詞述語を前置修飾すると考えているからですが、それは「無」を「不」と同じ働きの語とする結果でしょう。
「Aしない」も「Aすることがない」も現象的には同じことを指しますから、それはそれでよいのかもしれませんし、実際中国では副詞とみなされています。
ですが、私的には「不」と同じとする否定副詞「無」の用例の多くが、実は依然として存在しないことを客観的に描写する動詞であって、Aはその賓語であるように思えます。

「無」を「不」と同義とする考え方に危険性を感じ始めると、似たようなことは他にもあります。

否定副詞「非」についても、動詞や形容詞の前に置かれた時には「不」と同義だと説かれることがあるようです。
しかし、果たして本当にそうでしょうか?

「非」は打消の副詞、すなわち否定副詞とされます。
しかし、一方で判断を打ち消す動詞とする説もあります。
「A為B」(AハBたリ)は、「AはBである」という意味の判断文ですが、「為」はいわばbe動詞、判断を表す動詞です。
その対にあたるのが「非」と考えれば、否定的判断を表す動詞とみなすことになります。
否定副詞とみなすか、否定的判断を表す動詞とみなすかは、品詞に対する解釈の違いになりますが、働き自体は変わりません。

本来、「非」は「~ではない」という否定的判断を表す語、それを用いて「非A」(Aスルニあらズ)という形で動詞Aを否定する働きが、本当に「不」と同じなのでしょうか。

臣非知君、知君乃蘇君。(史記・張儀列伝)

たとえばこの例は「臣不知君」に同じで「私は君を理解しない、君を理解するのは蘇秦殿である。」という意味でしょうか?
「臣不知君」であれば、「知らない」という話者の主観的な思いを述べたものですが、「臣非知君」は、自分が「君を知る」ということについての否定的判断を示したものです、そういう存在ではないと。
だから、その後に「君を知るのはまさに蘇秦殿である」という表現が成立するのだと思います。

すべての例がそのように説明がつくとはもちろん思いませんが、私の言いたいことは、「無」や「非」が簡単に「不」と同じ働きと断じてしまうことは、とても危険な考え方だということです。

その意味で、『概説 漢文の語法』は、まだまだ見直しを図らなければなりません。
あちこちにまだまだ怪しいところがある、道は遠いと思わずにはいられません。

『捕蛇者説』「募有能捕之者」の「有」の意味は?

(内容:柳宗元「捕蛇者説」に見られる「募有能捕之者、当其租入」の句の「有」の意味について考察する。)

先日、勉強熱心な若い同僚が教科書を持って質問に来られました。
この表現がよくわからないので教えてほしいと示された箇所を見て、「あ、しまった…」と慌ててしまいました。

其始太医以王命聚之、歳賦其二。募有能捕之者、当其租入。

いうまでもなく柳宗元の『捕蛇者説』の一節で、問題は後半の「募有能捕之者」の部分です。
教科書では「能く之を捕ふること有る者を募りて、其の租入に当つ。」と読まれています。
同僚の疑問は、本文が「募能捕之者」ではなく「募有能捕之者」となっている「有」の意味でした。

私がこの質問に慌てたのは、ずっと以前にある教科書会社の教師用指導書に説明をつけていて同じ疑問を抱いたのに、その時解決できずに先送りをしてしまった苦い思い出があったからです。
その時はどう調べてもわからなかったのですが、さらに調べ続けようという努力をしなかった、それが今になって若い人に質問されて答えられないという失態を招いてしまったわけです。
明確に答えようがなくとも、せめて私見だけでも述べられるようにもっと調べるべきだったと恥ずかしく思いました。
正直に「わからない」と答えはしたものの、もちろんそのままにしておくわけにはいきません。

まず教師用指導書を見てみました。
すると、次のように訳してあります。

(それで州では)その蛇を捕まえることができた者を見つけ出し、(その蛇を納めることで)その者の(本来納めるべき)租税の代わりとした。

しかし、「募有能捕之者」の箇所だけ、語注がありません。
「募」を「見つけ出し」と意訳したところがいかにも怪しげですが、「捕まえることができる者」ではなく、「できた者」と訳してあるところに、おそらく教科書を執筆した高等学校の先生の「有」への疑問が透けて見えるような気がしました。

そこで今度は別の指導書を見ると、次のように訳してあります。

(そこで永州では)この蛇を捕まえることのできる者を募集して、その者の税の代わりとした。

これだと「募有能捕之者」ではなく「募能捕之者」の訳になるわけですが、この指導書にもこの箇所だけ語注がありません。
「有」に対する疑問を感じなかったか、あるいは私と同様、解決がつかないのであえて触れられていないのでしょうか。

そこで、この手の指導書が参照した可能性の高い参考書をあたってみることにしました。
まずは『新釈漢文大系71・唐宋八大家読本 二』(明治書院1976)です。

募りて能く之を捕らふる者有れば、其の租入に當つ。
(州では人を募って、この蛇を捕らえることができた者があれば、その租税のかわりとしたので、)

語注はありませんが、訓読が異なります。
なるほどこのように読めば、「有」の説明はつくわけですね。
先の指導書にあった「できた」はこのあたりが元かもしれません。

次に『研究資料漢文学6・文』(明治書院1993)です。

能く之を捕らふる有る者を募りて、其の租入に当つ。
((永州では、)この蛇を捕らえることができる人を募集して、(蛇を)その人の租税の代わりにする(ことができる)ようにした。)

「募有能捕之者」ではなく「募能捕之者」の訳ですね。
この書にも語注や解説はありません。

続いて『漢詩・漢文解釈講座・第14巻・文章Ⅱ』(昌平社1995)。

能く之を捕らふる有る者を募りて、其の租入に当つ。
((そこでこの州では)蛇を上手につかまえる者を募り、その者の税の代わりとした。)

「募能捕之者」の訳になりますが、「能」を「上手に~する」と訳しています。
この書も語注や解説はありません。

困ったことに、手元にある有名どころの解説書がみな説明なしにスルーです。
いったいどういうことでしょうか。

そこで手元に唯一あった中国の訳本を見てみることにしました。

招募能够捕蛇的人,用捕来的蛇抵偿他们应交纳的租税,…(『柳宗元哲学著作注译』范阳主编 广西人民出版社1985)
(蛇を捕まえることができる人を募って,捕まえてきた蛇で納めなければならない租税の代償とした,…)

この1冊だけではなんとも言えませんが、日本の解釈と変わりません。

前回行き詰まったのも、同じ過程を踏んだ結果です。
さて、どうしたものでしょうか。

ここで問題を整理してみたいと思います。

本文がもし「募能捕之者」であれば、施事主語「永州」、謂語「募」(募集する)で、その賓語が「能捕之者」(これを捕まえることができるもの)で、語法的には何ら問題はありません。
ところが、「募有能捕之者」となっているために、「有」の処理に困ってしまうわけです。
通常、動詞「有」が「者」字結構を伴って、「~するもの(こと・ひと…)がある(いる)」という存在文を構成することが多いのは周知のことです。
だからどうしても「有能捕之者」は、「これを捕まえることができる人がいる」という意味になってしまう。
ところが、「募」が全体の謂語となっているために、構造的には「有能捕之者」がその賓語になり、名詞句として「これを捕まえることができる人がいること」と解せざるを得ない。
つまり「これを捕まえることができる人がいることを募る」という極めて違和感のある解釈になってしまうのです。
これなら「有」がない方が明らかに自然な表現になります。
『新釈漢文大系』が先に「募りて」と読んでいるのは、「有能捕之者」を「募」の直接の賓語とするのを避けて違和感を解消するためなのでしょう。

結局恥ずかしながら私的には前回「能く之を捕らふること有る者を募りて」と訓読しました。
やはりこれは「有~者」の構造ではなく、「者」字結構全体が「募」の賓語とみなす方がよいのではと思い試みた訓読でした。
あるいは「能有りて之を捕らふる者を募りて」と読んだ方がいいかとも考えたのですが、確証が得られませんでした。

「有」という動詞は、客観的な存在を表す動詞ですが、なぜ、わざわざここに「有」を用いる必要があったのか。

あるいは衍字か?とも考えました。
しかし、そのような指摘は見られません。

そこで、「募有」の例を検索にかけてみることにしました。
ここでは便宜的に「有」の意味についてはぼかした形で試しに訳をつけてみます。

・募有能入城為諜者、騎士馬景請行。(資治通鑑・唐紀七十九)
(敵城に入って間諜の仕事ができるものを募ると、騎士の馬景が行くことを求めた。)

・福王与芮素恨似道、募有能殺似道者使送之貶所、有県尉鄭虎臣欣然請行。(宋史・姦臣列伝四)
(福王、与芮はもともと似道を怨んでいて、似道を殺すことができるもので彼を貶所に送らせる者を募ると、ある鄭虎臣という県尉が喜んで行くことを求めた。)

以上の例の場合、「有」を存在の意でとるとどうしても不自然な解釈になり、「有」のもう一つの義である「具有」の意で解釈して「能力があって~する人」ととれば、意味は一応通ります。

・請召募有罪亡命之人充軍。(元史・兵志一)
(罪があって亡命している人を募って軍の兵にあてることを求めた。)

たとえばこの例の場合、「有罪」はやはり二字で意味をなしていると考えるべきでしょう。
問題は「有能」をこれと同じだと解釈できるか、つまり「能」が「能力」という名詞であって可能の助動詞ではないと考えてよいかです。
この説が成立すれば、「能有り之を捕ふる者を募りて」と読んで、「能力があり蛇を捕まえるものを募り」と解釈することができますが、さてどうでしょうか。

『史記・商君列伝』に次のような例があります。

・恐民之不信、已乃立三丈之木於国都市南門、募民有能徙置北門者予十金。
(人民が信じないことを心配して、やがて三丈の木を国都の市の南門に立て、人民に北門に移し置くことができるものがあれば十金を与えると募った。)

「募」以下の部分の成分をどう考えるかという問題はあるのですが、仮に「募民有能徙置北門者」でも文は成立します。
この「民有能徙置北門者」を存在文ではないと考えることは相当無理があります。
やはり存在主語「民」+謂語「有」+賓語「能徙置北門者」とみなすべきでしょう。
そうだとすれば、やはり「人民に北門に移し置くことができるものがいる」という意味にならざるを得ません。
少なくとも「民の能有り北門に徙し置く者」という意味ではないでしょう。
それなら、連詞「而」を加えるとか、何らかの処理が必要になるような気がします。

そう考えていくと、先の「募有能入城為諜者」にしても、「募兵有能入城為諜者」と表現できるはずです。
確かに違和感はあるのですが、「兵の中に敵城に入って間諜の仕事ができるものがいるのを募る」という、適任の客観的な存在を募るという解釈も、あながち無理ではないようにも思えてきます。
そうだとすれば、「募有能捕之者」は、「能く之を捕らふる者有るを募りて」と読み、「(人民に)これを捕まえることができるものがいるのを募集して」と解釈することになり、「能く之を捕らふること有る者を募りて」という訓は妥当ではないことになります。
しかし、まだどうにも納得がいきません、違和感が払拭できないからです。

「募有」の例を、さらにもう少し見てみましょう。

・募有得之者当授相位。(太平広記・宝三)
(これを見つけだすものがいれば宰相の位を授けるだろうと募った。)

・募有降者厚賞之。(資治通鑑・唐紀六)
(降すものがいればこれに厚く賞を与えると募った。)

・募有能出戦者賞之。(宋史450・忠義列伝五)
(出て戦うことができるものがいいればこれに賞を与えると募った。)

おもしろいことに気づきます。
「有~者」がいずれも条件節になっていて、前句で述べる~の存在を条件に、どうするかという結果を後文で示す、いわゆる複文の構造になっています。
どうやら見えてきました。
つまり、「募」の賓語は前句「有~者」だけではなく、後句も含めた内容と考えられるわけです。
たとえば後者の例の場合、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能出戦者→(複文後句結果)賞之」
(謂語「募る」+賓語「出て戦うことができる人がいれば→これに賞を与える」と)

の構造だというわけです。

このような見方で、前の違和感のあった例文を見直してみましょう。

・募有能入城為諜者、騎士馬景請行。

この文も実は複文の後句が示されていないだけではないでしょうか。
つまり、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能入城為諜者→(複文後句結果)…」
(謂語「募る」+賓語「敵城に入って間諜の仕事ができる人がいれば→(どうする)」と)

「敵城に入って間諜の仕事ができる人がいれば」と募集した結果、騎士の馬景が行くことを求めた。

・福王与芮素恨似道、募有能殺似道者使送之貶所、有県尉鄭虎臣欣然請行。

この例も先の解釈は誤っていて、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能殺似道者→(複文後句結果)使送之貶所」
(謂語「募る」+賓語「似道を殺すことができるものがいれば→彼(=似道)を貶所に送らせる」と)

その募集の結果、ある鄭虎臣という県尉が喜んで行くことを求めた。

要するに「募有」の文の構造は、

賓語「募」+賓語「(複文前句条件)有~者→(複文後句結果)…」
(謂語「募る」+賓語「~するものがいれば→どうする」と)

の形で説明できるというわけです。

さて、それでは柳宗元の『捕蛇者説』の場合はどうでしょうか。

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能捕蛇者→(複文後句結果)当其租入」
(謂語「募る」+賓語「蛇を捕まえることができるものがいれば→その人の租税の納入にあてる」と)

きちんと説明ができました。
つまり、「募有能捕之者、当其租入。」は「『蛇を捕まえることができるものがいればその人の租税の納入にあてる』と募った」という意味、したがって本文は「能く之を捕らふる者有れば其の租入に当つと募る。」と読むのがよいのではないでしょうか。
だからこそ、永州の人は毒蛇を探しに奔走することになるのです。

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