『人面桃花』「以杯水至」の「以」の意味は?
- 2020/07/09 18:21
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「以杯水至」の句の「以」の意味について考察する。)
学校再開後、授業の遅れを取り戻すべく、本校も国語科の若い教員たちが、はりきって授業をしています。
たまたま廊下を通ると、3年生の漢文で『本事詩』のいわゆる「人面桃花」を授業している元気な声が聞こえてきました。
3年生の授業でも文の成分に言及している声に、漢文を構造的に教えたいという情熱が伝わってきて、うれしくなります。
そういえば「人面桃花」の授業はしたことがないなと思いつつ、教科書をめくりながら、そうそうこういう話だったと思っていると、ふと次の一節が目に入りました。
・女入、以杯水至、~
(女入りて、杯水を以て至り、~)
主人公の崔護の「酒渇求飲」(酒を飲み喉が渇いたので、水がほしい)という要望に対する、ある邸宅の娘の動作です。
言わんとしていることはもちろん「杯に入った水をもって来る」ということです。
ただ、それではこの「以」はどういう働きをしているのでしょうか。
私的にはおそらく「与」の意では?と思いながら、ちなみに指導書などにはどう書かれているのだろうと思って調べてみましたが、意外にも説明がありません。
該当箇所の前後にある「以」について、「以姓字対」(姓字を以て対ふ)には「姓と字を答えて」と訳して、「以」が対象を表すとし、「以言挑之」(言を以て之に挑む)については「言葉をかけてこの娘の気を引こうとする」と訳し「以」は手段を表す用法と説明してあるのですが。
いわゆる対象や手段を表すのは介詞「以」の基本的な用法です。
説明してあるのはもちろん丁寧ですが、基本的な用法とはとても思えない「以杯水至」の「以」はどう説明すればいいのでしょうか?
一般に「一杯の水を持って戻ってきて」と訳す「持って」の意味だというわけでしょうか。
それで、授業を頑張っていた若い教員に、試しに「『以杯水至』の『以』って、どういう意味?」と尋ねてみると、「対象の用法だと思っていました」との答えでした。
対象の用法なら、「杯の水を至る」もしくは「杯の水に至る」ということになってしまうわけで、もちろん妥当ではありません。
たとえば、「以杯水進」(杯水を以て進む)なら、「杯の水をすすめる」なので対象とも言えるでしょうが。
この「以」は「与」に通じる用法ではないかと思っていた時、ふと別の一節が思い浮かびました。
『後漢書』のいわゆる「梁上君子」の、次の一節です。
・習以性成、~
これはよく「習ひ性と成り、~」と読まれています。
これについてかつて自分は明確な判断ができず、あるいは「習ひて以て性成り」と解したことを思い出しました。
岩波書店の吉川忠夫氏訓注の『後漢書』でそう読まれていたのが、後押しになったのですが。
しかし、考え切れなかったことは、若い教員と変わりません。
西田太一郎氏は『漢文の語法』(角川書店1980)で、次のように述べています。
習慣が身につくと性質もそれに伴って固定してしまう。○書経太甲上「習与性成」と同じ。これを日本語で考えて「習慣が性質となる」と訳している本があるが、初歩的な大きい誤りである。「習慣が性質といっしょにできあがる→悪い(または良い)習慣が身につくと性質も悪く(または良く)なってしまう」の意。孔穎達の五経正義「習行此事、乃与性成」(此の事を習行し、乃ち性と成る)、五経大全「与性倶成」(性と倶に成る)、王夫之の尚書引義「習成而性与成也」(習ひ成りて性与に成るなり)を参考。またこれに似た表現は孔叢子の執節篇「習与体成、則自然矣」(習ひ体と成れば、則ち自然なり)、大戴礼保傅篇「習与智長、化与心成」(習ひ智と長じ、化心と成る)(漢書賈誼伝・新書保傅篇も同じ)、淮南子氾論訓「法与時変、礼与俗化」(法は時と変じ、礼は俗と化す)、韓愈の送董邵南序「風俗与化移易」(風俗は化と移易す)などがある。この「甲与乙……」の場合、甲乙同時か、甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる。
多くの用例が挙がっていますが、いずれも「与」の例で、「以」の用例ではないことが残念です。
しかし、これだけ似た表現の例があれば、「習以性成」が、「習与性成」と同義であり、「以」が「与」の義で用いられている可能性は極めて高くなります。
もっとも、西田氏の記述の最後のくだり、「甲与乙……」の「甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる」という部分は、果たしてそうだろうかと疑問には感じます。
介詞「以」が「与」の義で用いられることについては、各種虚詞詞典にも触れられています。
たとえば、解恵全 等による『古書虚詞通解』(中華書局2008)には、楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』等の説を引用紹介した上で、次のように私見を述べています。
此项用法由动词带领义或连及义虚化而来。
(この項の用法は、動詞の率いるの義、または関連するの義が虚化したもの。)
「以」の字の原義については諸説ありますが、古代の曲がった農具で土を掘る「すき」をかたどった「㠯(ム)」と「人」からなり、人がすきを持つ姿だといいます。
すきを用いて耕作することから「用いる」が本来的な意味で、「連れる・率いる」の意味はその引申義でしょう。
動詞「用いる」の働きが虚化して引申義として「~を用いて・~で」という介詞の働きが生じ、さらに「~を用い根拠として」から「~を理由に」という意味、「~を用いて~する」から「~に~する」、「~を~する」という動作の及ぶ対象を表すなどの意味を派生しました。
したがって、動詞「以」の「率いる」の義は、比較的原義に近いものになります。
・宮之奇以其族去虞。(史記・晋世家)
(▽宮之奇はその一族を引き連れて虞の国を去った。)
などは、「以」が動詞「率いる」の意味で用いられた例になります。
これが介詞「与」と同義、もしくは近い義の介詞としての用法になったわけです。
したがって、「習以性成」を「習与性成」と同じ、または近い表現だと考えるのは、あながち無理とはいえません。
ただし、西田氏も指摘しているように、「習慣が性質となる」という、「習慣が変化して性質となる」という意味でないことは言うまでもありません。
私は、「習以性成」は、「習慣が、性質を率いて、できあがる」、つまり、「習慣が、性質とともにできあがる」の意であろうと思います。
その意味で、西田氏の見解と同じなのですが、しかし、かりにこれが「習与性成」であったとしても、あくまで「習」が主であって、「以性」や「与性」は「以」(与)が目的語の名詞「性」を伴って実質的な意味が補われ、「与性」が副詞的に「成」を修飾しているのであって、あくまで主は「習」にあり、「性」にはないのではないかと思います。
さて、話を最初に戻して、「以杯水至」は、果たして「与杯水至」と書き換えられるかどうかはわかりませんが、「杯水を引き連れて至る」、あるいは、「杯水とともに至る」の意であろうと考えます。
もちろん意訳であって、「以」は介詞であり、動詞だというのではありません。
ですが、かなり原義に近い動詞的な用法ではないかとも思います。
その意味で、「一杯の水を持って戻ってきて」という一般的な訳は間違ってはいませんが、なんだか怪しい、「杯水を引き連れて至る」「杯水とともに至る」となんだか違うような気がするのです。
学校再開後、授業の遅れを取り戻すべく、本校も国語科の若い教員たちが、はりきって授業をしています。
たまたま廊下を通ると、3年生の漢文で『本事詩』のいわゆる「人面桃花」を授業している元気な声が聞こえてきました。
3年生の授業でも文の成分に言及している声に、漢文を構造的に教えたいという情熱が伝わってきて、うれしくなります。
そういえば「人面桃花」の授業はしたことがないなと思いつつ、教科書をめくりながら、そうそうこういう話だったと思っていると、ふと次の一節が目に入りました。
・女入、以杯水至、~
(女入りて、杯水を以て至り、~)
主人公の崔護の「酒渇求飲」(酒を飲み喉が渇いたので、水がほしい)という要望に対する、ある邸宅の娘の動作です。
言わんとしていることはもちろん「杯に入った水をもって来る」ということです。
ただ、それではこの「以」はどういう働きをしているのでしょうか。
私的にはおそらく「与」の意では?と思いながら、ちなみに指導書などにはどう書かれているのだろうと思って調べてみましたが、意外にも説明がありません。
該当箇所の前後にある「以」について、「以姓字対」(姓字を以て対ふ)には「姓と字を答えて」と訳して、「以」が対象を表すとし、「以言挑之」(言を以て之に挑む)については「言葉をかけてこの娘の気を引こうとする」と訳し「以」は手段を表す用法と説明してあるのですが。
いわゆる対象や手段を表すのは介詞「以」の基本的な用法です。
説明してあるのはもちろん丁寧ですが、基本的な用法とはとても思えない「以杯水至」の「以」はどう説明すればいいのでしょうか?
一般に「一杯の水を持って戻ってきて」と訳す「持って」の意味だというわけでしょうか。
それで、授業を頑張っていた若い教員に、試しに「『以杯水至』の『以』って、どういう意味?」と尋ねてみると、「対象の用法だと思っていました」との答えでした。
対象の用法なら、「杯の水を至る」もしくは「杯の水に至る」ということになってしまうわけで、もちろん妥当ではありません。
たとえば、「以杯水進」(杯水を以て進む)なら、「杯の水をすすめる」なので対象とも言えるでしょうが。
この「以」は「与」に通じる用法ではないかと思っていた時、ふと別の一節が思い浮かびました。
『後漢書』のいわゆる「梁上君子」の、次の一節です。
・習以性成、~
これはよく「習ひ性と成り、~」と読まれています。
これについてかつて自分は明確な判断ができず、あるいは「習ひて以て性成り」と解したことを思い出しました。
岩波書店の吉川忠夫氏訓注の『後漢書』でそう読まれていたのが、後押しになったのですが。
しかし、考え切れなかったことは、若い教員と変わりません。
西田太一郎氏は『漢文の語法』(角川書店1980)で、次のように述べています。
習慣が身につくと性質もそれに伴って固定してしまう。○書経太甲上「習与性成」と同じ。これを日本語で考えて「習慣が性質となる」と訳している本があるが、初歩的な大きい誤りである。「習慣が性質といっしょにできあがる→悪い(または良い)習慣が身につくと性質も悪く(または良く)なってしまう」の意。孔穎達の五経正義「習行此事、乃与性成」(此の事を習行し、乃ち性と成る)、五経大全「与性倶成」(性と倶に成る)、王夫之の尚書引義「習成而性与成也」(習ひ成りて性与に成るなり)を参考。またこれに似た表現は孔叢子の執節篇「習与体成、則自然矣」(習ひ体と成れば、則ち自然なり)、大戴礼保傅篇「習与智長、化与心成」(習ひ智と長じ、化心と成る)(漢書賈誼伝・新書保傅篇も同じ)、淮南子氾論訓「法与時変、礼与俗化」(法は時と変じ、礼は俗と化す)、韓愈の送董邵南序「風俗与化移易」(風俗は化と移易す)などがある。この「甲与乙……」の場合、甲乙同時か、甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる。
多くの用例が挙がっていますが、いずれも「与」の例で、「以」の用例ではないことが残念です。
しかし、これだけ似た表現の例があれば、「習以性成」が、「習与性成」と同義であり、「以」が「与」の義で用いられている可能性は極めて高くなります。
もっとも、西田氏の記述の最後のくだり、「甲与乙……」の「甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる」という部分は、果たしてそうだろうかと疑問には感じます。
介詞「以」が「与」の義で用いられることについては、各種虚詞詞典にも触れられています。
たとえば、解恵全 等による『古書虚詞通解』(中華書局2008)には、楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』等の説を引用紹介した上で、次のように私見を述べています。
此项用法由动词带领义或连及义虚化而来。
(この項の用法は、動詞の率いるの義、または関連するの義が虚化したもの。)
「以」の字の原義については諸説ありますが、古代の曲がった農具で土を掘る「すき」をかたどった「㠯(ム)」と「人」からなり、人がすきを持つ姿だといいます。
すきを用いて耕作することから「用いる」が本来的な意味で、「連れる・率いる」の意味はその引申義でしょう。
動詞「用いる」の働きが虚化して引申義として「~を用いて・~で」という介詞の働きが生じ、さらに「~を用い根拠として」から「~を理由に」という意味、「~を用いて~する」から「~に~する」、「~を~する」という動作の及ぶ対象を表すなどの意味を派生しました。
したがって、動詞「以」の「率いる」の義は、比較的原義に近いものになります。
・宮之奇以其族去虞。(史記・晋世家)
(▽宮之奇はその一族を引き連れて虞の国を去った。)
などは、「以」が動詞「率いる」の意味で用いられた例になります。
これが介詞「与」と同義、もしくは近い義の介詞としての用法になったわけです。
したがって、「習以性成」を「習与性成」と同じ、または近い表現だと考えるのは、あながち無理とはいえません。
ただし、西田氏も指摘しているように、「習慣が性質となる」という、「習慣が変化して性質となる」という意味でないことは言うまでもありません。
私は、「習以性成」は、「習慣が、性質を率いて、できあがる」、つまり、「習慣が、性質とともにできあがる」の意であろうと思います。
その意味で、西田氏の見解と同じなのですが、しかし、かりにこれが「習与性成」であったとしても、あくまで「習」が主であって、「以性」や「与性」は「以」(与)が目的語の名詞「性」を伴って実質的な意味が補われ、「与性」が副詞的に「成」を修飾しているのであって、あくまで主は「習」にあり、「性」にはないのではないかと思います。
さて、話を最初に戻して、「以杯水至」は、果たして「与杯水至」と書き換えられるかどうかはわかりませんが、「杯水を引き連れて至る」、あるいは、「杯水とともに至る」の意であろうと考えます。
もちろん意訳であって、「以」は介詞であり、動詞だというのではありません。
ですが、かなり原義に近い動詞的な用法ではないかとも思います。
その意味で、「一杯の水を持って戻ってきて」という一般的な訳は間違ってはいませんが、なんだか怪しい、「杯水を引き連れて至る」「杯水とともに至る」となんだか違うような気がするのです。