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解けない問題「何則・何者」

(内容:「なんとなれば」と訓読する「何則」「何者」を文法的にどのように説明するべきかについて考察する。)

拙著の改訂を進めていて、容易には解けない問題にぶつかることがたびたびです。
最初に書いた時は、自らの分析よりは中国の語法学で一般に述べられていることを、いわば引き写すように書いていましたから、これはそういうふうに考えられているとすれば済みだったのでした。
しかし、今回の改訂では、たとえ管見であれ、自分なりに納得いく説明がつかないと、それなりの自信や責任をもって書けないと思うのです。

今、容易には解けない問題にぶつかっています。
それは、「何則」「何者」です。
日本では、古来「何となれば」と読んでいます。
2文からなる前文で、疑問とすべき内容を述べ、後文の先頭に「何則」「何者」を置いて、「なぜなら~」と示して、続いて理由を説明するものとして取り扱ってきました。
しかし、中国の語法学では、前文の後に置かれて、「~。何則?」「~。何者?」と切るものとして説明されています。
つまり、「~。なぜか?」という意味だというわけです。
あたかも「~。何也?」(~。なぜか?)と同じだというように。

しかし、それは本当なのでしょうか?

「何者」「何則」が独立句で、「なぜか?」という意味を表すという説明がいつからなされるようになったのか定かではありませんが、清の劉淇の『助字弁略』に次のように述べられています。

何則、何者、並先設問、後陳其事也。(助字弁略・巻2)
(「何則」、「何者」は、ともに先に問いを設け、後でその事情を述べるのである。)

この「先に問いを設け、後でその事情を述べる」というのが、前文の末尾に、「~。何則?」のような形式をとるということを指しているのか、「なぜかというと」と先に述べた上で、続いて「~だからだ」と説明することを指しているのか、今ひとつよくわかりません。

しかし、現在の虚詞詞典では、「~。何則?」という独立句として説明されています。
この場合、「則」「者」がどういう働きをしているのかというと、たとえば解恵全は、「何則」の項で、次のように述べています。

此条“何则”单独成句,用以提出设问,下面接着作答。“何”做谓语,“则”为语气词。(古書虚詞通解)
(この条の「何則」は単独の成句で、それを用いて問いを示して、下文に続いて答えをなす。「何」は謂語で、「則」は語気詞である。)

さらに「何者」の項では次のように述べています。

此条用法同“何则”。“者”为语气词。
(この条の用法は「何則」に同じ。「者」は語気詞である。)

これが代表的な解釈で、要するに「則」「者」は、共に語気詞だとみなされているわけです。

「誰加衣者。」(誰か衣を加ふる者ぞ。)とか、「誰可伐者。」(誰か伐つべき者ぞ。)などの例があり、「者」が疑問の語気詞とされる通説からは、あるいは「何者」の「者」が疑問の語気詞だと説明されるのは、それなりにそうかもしれないという気にはなります。
(もっとも、この「誰~者」の「者」を語気詞とするのは、通説ではあっても、私自身は疑義を抱いています。この「者」は依然として「~」により実質的な意味が補われて人を指す形式的な語ではないかと思うのです。結構助詞ですが、そういう働きのある特殊な代詞だと。)

しかし、「何則」の場合は、「則」が語気詞だというのは、いかにも妙です。
これについては、尹君の『文言虚詞通釈』の「則」の項に、次のように述べられています。

“则”和“哉”,古音同属“精”母,“哉”属“之”韵,“则”属“职”韵,读音是差不多的,所以相通假。
(「則」と「哉」は、古音が同じく「精」母に属し、「哉」は「之」韻に属し、「則」は「職」韻に属して、読音があまり違いがない、だから相通じるのである。)

音韻学の知識はないので、古音が通じるからだと説明されてしまうと、黙るしかないのですが、「何則」は、しかし特別な解釈をしなくても説明がつくのではないかと思うのです。
これはあくまで臆説になりますが…

・知伯之伐仇猶、遺之広車、因随之以兵、仇猶遂亡 [何則] 無備故也。(史記・樗里子甘茂列伝)
(知伯が仇猶(=北方の異民族)を攻める際、(まず)これに幅の広い車を贈り(道を広げさせてから)、その機に兵を送り込み、仇猶はこうして滅んだ [何則] 防備がなかったからである。)

この例の場合、日本では、「何となれば(=何則)、備え無きが故なり」と読み、「なぜなら防備がなかったからである」と解釈します。
一方、中国では「…、仇猶遂に亡ぶ。何ぞや(=何則)。備え無きが故なり」と読むべき解釈になります。

そもそも「則」は、前に述べられた内容を引き受けて、「その場合は」「その時は」のような意味を表して仮定的な内容を後に取ることもあれば、複数の場合について、Aについて「それは」、Bについて「それは」と、区別して後にどうであるかという叙述を待つ働きもします。
私は、この「何則」の「則」も、後者に近い用法なのではないかと思うのです。
つまり、

…仇猶遂亡、何。則無備故也。

と切って、「仇猶遂に亡ぶは何ぞや。則ち備え無きが故なり」と解する。
「仇猶がこうして滅んだのは、なぜか。それは防備がなかったからである」という意味ではないでしょうか。

ちなみに、古い話になりますが、『馬氏文通』の代字の項「何」で、馬建忠は次のように述べています。

此〈何〉字亦表詞也。猶云「上言如是是何也」,〈則〉字以下,申言其故。経生家皆以〈何則〉二字連続,愚謂〈何則〉二字,亦猶〈然而〉両字,当析読,則〈則〉字方有著落。且〈則〉字所以直接上文,必置句読之首,何独於此而変其例哉。(馬氏文通・実字巻2)
(この「何」の字も表詞(=謂語)である。「上にこのようにいうのはなぜか」と言うのと同じで、「則」の字以下は、重ねてその理由を述べる。経生家(経書研究の清代の学者のことか)はみな「何則」を二字連続とするが、私が思うに「何則」の二字も、「然而」二字と同じで、分けて読むべきであって、そうすれば「則」の字は、きちんと配置する。さらに「則」の字は上文を受けるので、必ず句読(ことばの休止する箇所)の最初におく。どうしてここでだけその規則を変えたりしようか。)

訳にやや自信がないのですが、ここでいう「経生家」とは、先に紹介した劉淇のことを指しているものと思われます。
馬建忠の解釈は、私の解釈と同じですね。
ただ、この説は、現在のところ支持されていないようです。


次に、「何者」ですが、これは「者」が疑問の語気詞だとすれば、それで通ってしまいます。
手許の虚詞詞典を見る限り、ことごとく「何也」や「何哉」と同じ扱いになっています。
尹君『文言虚詞通釈』に、近指代詞として、「这」と同じで「这样」と訳すとあるばかりです。
つまり、「何者?」は、「どうしてこのようなのだ?」と解するわけですが、これはさすがにどうでしょうか。

「者」の字は、語気詞とも結構助詞とも説明され、さまざまな用法が論じられます。
しかし基本的には、先行する叙述部を受けて、自身に意味を補い名詞句を作る特殊な代詞であろうと思います。
補った結果、動作行為の主体を表したり、原因理由を表したり、色々と働きがあるわけです。
以前、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んだ時、「者」の働きについての記述に、とても興味をひかれました。
上の語をうけて、「者」が「時」「場合」を指すことがあるとして、「何者」についても触れてありました。

又「何者」は「何となれば」と讀む習慣である。(用例略)
この「何者」は「何ぞやとある場合」の意である。「何」が模型動詞なのである。「何となれば」と讀むものには「何則」が有る。「何」だけでもそう讀む場合がある。皆模型動詞である。

模型動詞というのもおもしろいのですが、これは詳しくは『標準漢文法』を読んでいただくとして、「何」(なぜか?)という、実際に人が発音する「ことばの模型」を作って作用を表す動詞だということです。
だから、「何ぞやとある場合」というは、「『何ぞや?』とある場合」の意で、「何ぞや」の部分が模型動詞にあたるわけです。
そして、「者」は、「何ぞやとある『場合』」で、「何ぞやとある」によって「者」に意味が補われ、「何者」が「何ぞやとある場合」という意味になる。
間違っているかもしれませんが。

少なくとも私は、「何者」は、「~。何者?」あるいは「~、何者?」ではなく、「何者、~」であろうという気がしてなりません。
その意味で、「何となれば」という日本の読みのほうが妥当なのではないかと思うのですが、これについては、もっともっと語例にあたり、検証が必要なことです。

今のところ、まだ「解けない問題」として位置づけておくべきかと、思っています。

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