解けない問題「自非~」(~に非ざるよりは)の「自」は仮定を表すか?
- 2020/07/21 06:16
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:古典中国語文法において仮定と説明される「自非~」の形が、本当に仮定表現であるかについて考察する。)
拙著改訂の過程で、容易には解けない問題にぶつかることが多いと前エントリーで述べましたが、仮定の章でも、なかなか難しい問題にぶつかりました。
「自非A、B」(Aに非ざるよりは、Bす)という仮定表現に用いられる「自」は、中国では「苟」(いやしクモ)に相当する仮設連詞(仮定の接続詞)と説明されています。
たとえば、次のような例があります。
・自非聖人、外寧必有内憂。(春秋左氏伝・成公16年)
(▼聖人に非ざるよりは、外は寧んずとも、必ず内憂有り。)
文の趣旨は「聖人でなければ、対外的には安定しても、必ず国内に問題を抱える」という意味になります。
しかし、なぜ「自」が仮定の意味を表すのでしょうか?
そもそも「自」という字は、「鼻」の象形文字であって、自分を示す時に鼻を指すことから、自分の意をもつようになったとも、単に音を借りたものともいわれています。
自分を起点として「みずから」、物事の始めの意味から「本来」「おのずから」という副詞の働きが生まれ、時や場所の起点を表したり、「~を基準として」というよりどころの意味を表す介詞としての用法が生まれたというのは、納得のいく解釈です。
しかし、「もし」という仮定の接続詞としての働きがどこから生まれてくるのかは、どうにも釈然としません。
しかも、「非」を伴う「自非」にほぼ限定された用法であるのも首をかしげたくなることです。
手許の漢和辞典をいくつか開いてみましたが、「自」が仮定を表すと述べてあるものはあっても、それがなぜかまで説明してあるものは見つかりませんでした。
清代の学者はどう説明しているのかと思い、劉淇の『助字弁略』を開いてみました。
「自非聖人、~」の例も引用されていますが、そうではない形も多く引かれていて、最後にひとまとめに次のように書かれています。
諸自字並是語助、不為義也。案、説文自亦作白。解云、此亦自字省。白者、詞言之気従鼻出与口相助也。然則自本是語声、故用為助句也。
(これらの「自」の字は、ともに語助で、意味をなさない。案ずるに、『説文解字』に「『自』はまた『白』(シロ「白」とは異なる、「自」の別字)に作る」という。(白の)解に、「これもまた『自』の省略である。『白』は、ことばの語気が鼻から口と出て互いに助けるのである。」とする。そうだとすれば、『自』はもともと語気であり、だから助句とするのである。)
これまた訳にやや自信がありませんが、要するに語助であって、具体的な意味はないというわけです。
これを見る限り、仮定の接続詞を匂わせるような記述はありません。
王引之の『経伝釈詞』には、先の左伝の例を引用して、次のように書かれています。
自猶苟也。成十六年左伝曰、自非聖人、外寧必有内憂。言苟非聖人也。
(「自」は「苟」と同じである。春秋左氏伝成公16年に、「自非聖人、外寧必有内憂」という。「もし聖人でなければ」というのである。)
呉昌瑩の『経詞衍釈』にも、次のように書かれています。
自猶苟也。
(「自」は「苟」と同じである。)
そしていくつか例が挙げられているわけですが。
・子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。(論語・述而)
(先生は「もし束脩を行ったからには、私は教えることがなかったことはない。」とおっしゃった。)
「束脩」には諸説あるのですが、初めて師に対面するときに持参する一束の干し肉で、礼として用いたもののようです。
・楽正子春之母死、五日而不食。曰、吾悔之、自吾母而不得吾情、吾悪乎用吾情。(礼記・檀弓下)
(楽正子春の母が亡くなり、(子春は)五日間ものを食べなかった。(子春は)「私はこれを悔いている。もし私の母にして私の思いを得なければ、私はどこに私の思いを用いようか。)
・君子入官、自行此六路者、則身安誉至、而政従矣。(大戴礼記・子張問入官)
(君子が役所に入って、もしこの六つの道を行えば、身は安らかに誉れは至り、政治は従われる。)
・自太子居城父、将兵、外交諸侯、且欲入為乱矣。(史記・伍子胥列伝)
(もし太子が城父に居城して、兵を率い、外は諸侯と交われば、(楚国に)入って乱を起こそうとするでしょう。)
・意者臣愚而不概於王心邪、亡其言臣者賤而不可用乎。自非然者、臣願得少賜游観之間、望見顔色。(史記・范雎蔡沢列伝)
(思いまするに、私が愚かで王様のお心に注ぎ込まないのでしょうか。それとも私を推薦するものが卑しくて用いることができないのでしょうか。もしそうでないのでしたら、私はどうかしばらく遊覧のお暇をいただいて、王様のご尊顔を遠目に拝見したいものです。)
引用された例に、前後を補って、文脈がわかるようにしてみました。
なるほど確かに「自」を「もし」と解することはできないことはないように思います。(4つめの例はかなり苦しいと思いますが。)
以上を見るに、すでに清代に「自」は仮設連詞「苟」の義で解する説があったことがわかります。
『助字弁略』が仮設連詞の義に言及していないのは、他書に先駆けて書かれたものだからでしょうか。
以降、「自」を仮設連詞とみなす説は受け継がれ、楊樹達も、
仮設連詞 苟也。恒以自非連用。(詞詮・巻六)
(仮設連詞 「苟」である。常に「自非」の形で連ね用いる。)
と述べ、それ以降の虚詞詞典はほとんどすべて右へならえです。
この「自」を仮設連詞と解釈することができるのは、その置かれる位置が複文の前句の先頭に置かれているためですが、しかし、気をつけなければならないのは、介詞の「自」や副詞の「自」も、文意によってはこの位置に置けるということです。
少なくとも「自非」の形をとらない例、たとえば『経詞衍釈』に引用された例の多くは、「自」を「もし」に解さなくても、意味は通ると思います。
『論語』の「自行束脩以上」は、「束脩を行うより以上は」と解せるでしょう。
『礼記』の「自吾母而不得吾情」は、「私の母からして私の思いを得なければ」と解せないでしょうか。
『大戴礼記』の「自行此六路者」は、「自らこの六つの道を実践するものは」とも解せます。
『伍子胥列伝』の「自太子居城父」は、「太子が城父に居城してから」と解せます。
問題は、『范雎列伝』の「自非然者」です。
まさに「自非~」の形をとっていますが、先の『左伝』の「自非聖人」と異なるのは、「者」の時を伴っている点です。
この「自非~」の形式については、劉瑞明の「“自”字连续误增新义的清理否定——词尾“自”的深化研究」という論文に言及されています。
それによると、中国の言語学者である兪敏は、著書『経伝釈詞札記』で、「自非聖人、~」について、「非聖人」は「聖人の立場に至らない」の意とし、「自非聖人」とは「自聖人以下」、つまり、凡人から聖人に準じる人まで含めて「聖人以下の人」と解して、王引之が『経伝釈詞』で「自」を「苟」と説明したのを軽率な解釈と批判しました。
この説に従えば、「自」は介詞で、「自非A、B」は「Aに非ざるもの自り、Bす」(Aではないそれ以下のものは、Bする)と解し、仮定文ではないことになります。
『左伝』の「自非聖人、外寧必有内憂。」は、「聖人に非ざるものより、外寧んずとも必ず内憂有り。」となるわけです。
一方、王克仲や趙京戦の説も引用されていて、「自」を「本」や「原」の意と解しています。
つまり、「本来Aでなければ」と解するわけです。
これだと「自」は副詞になります。
しかし、『左伝』の例や、先の『范雎列伝』の例を見るに、「自非聖人」を「本来聖人でないと」と解したり、「自非然者」を「本来そうではないのなら」と解釈するのは、いささか不自然な感じを否めません。
また、「自非然者」を「そうでないもの以下」と解するのは、とても無理でしょう。
これはまた臆説になりますが、
「~以下」とは解せないけれども、範囲の外にあるものを指して「~でないものより以外」と解するのはどうでしょうか。
つまり、そうでないものを起点として「そうでないものに含まれるものはすべて」すなわち「そうでない限りは」の意です。
それなら「自」を介詞とし、「者」を場合と解して、「『然るに非ざるより』『者』」、つまり「『然るに非ざるより』とある『場合』」となるわけです。
「自非~」は、「自」が仮設連詞だから仮定を表すのではなく、言語環境が仮定の意をもたせるのではないでしょうか?
いったい、文意やその語の置かれる位置が、たまたま他の語と同じである、または近ければ、そう解釈する方が自然だという立場から、その語に本来ない語義や働きを付加するところがあるのではないかと疑いの念を持ちます。
兪敏や王克仲、趙京戦の試論は、そういう傾向に斬り込んだものではなかったでしょうか。
この是非については、とても私には判断を下せませんが、語法を説くものはその大本に斬り込んでいく姿勢がなければならぬと思います。
「自」が仮設連詞である理由が合理的に説明されていないので、また1つ解けない問題として示しておきたいと思います。
拙著改訂の過程で、容易には解けない問題にぶつかることが多いと前エントリーで述べましたが、仮定の章でも、なかなか難しい問題にぶつかりました。
「自非A、B」(Aに非ざるよりは、Bす)という仮定表現に用いられる「自」は、中国では「苟」(いやしクモ)に相当する仮設連詞(仮定の接続詞)と説明されています。
たとえば、次のような例があります。
・自非聖人、外寧必有内憂。(春秋左氏伝・成公16年)
(▼聖人に非ざるよりは、外は寧んずとも、必ず内憂有り。)
文の趣旨は「聖人でなければ、対外的には安定しても、必ず国内に問題を抱える」という意味になります。
しかし、なぜ「自」が仮定の意味を表すのでしょうか?
そもそも「自」という字は、「鼻」の象形文字であって、自分を示す時に鼻を指すことから、自分の意をもつようになったとも、単に音を借りたものともいわれています。
自分を起点として「みずから」、物事の始めの意味から「本来」「おのずから」という副詞の働きが生まれ、時や場所の起点を表したり、「~を基準として」というよりどころの意味を表す介詞としての用法が生まれたというのは、納得のいく解釈です。
しかし、「もし」という仮定の接続詞としての働きがどこから生まれてくるのかは、どうにも釈然としません。
しかも、「非」を伴う「自非」にほぼ限定された用法であるのも首をかしげたくなることです。
手許の漢和辞典をいくつか開いてみましたが、「自」が仮定を表すと述べてあるものはあっても、それがなぜかまで説明してあるものは見つかりませんでした。
清代の学者はどう説明しているのかと思い、劉淇の『助字弁略』を開いてみました。
「自非聖人、~」の例も引用されていますが、そうではない形も多く引かれていて、最後にひとまとめに次のように書かれています。
諸自字並是語助、不為義也。案、説文自亦作白。解云、此亦自字省。白者、詞言之気従鼻出与口相助也。然則自本是語声、故用為助句也。
(これらの「自」の字は、ともに語助で、意味をなさない。案ずるに、『説文解字』に「『自』はまた『白』(シロ「白」とは異なる、「自」の別字)に作る」という。(白の)解に、「これもまた『自』の省略である。『白』は、ことばの語気が鼻から口と出て互いに助けるのである。」とする。そうだとすれば、『自』はもともと語気であり、だから助句とするのである。)
これまた訳にやや自信がありませんが、要するに語助であって、具体的な意味はないというわけです。
これを見る限り、仮定の接続詞を匂わせるような記述はありません。
王引之の『経伝釈詞』には、先の左伝の例を引用して、次のように書かれています。
自猶苟也。成十六年左伝曰、自非聖人、外寧必有内憂。言苟非聖人也。
(「自」は「苟」と同じである。春秋左氏伝成公16年に、「自非聖人、外寧必有内憂」という。「もし聖人でなければ」というのである。)
呉昌瑩の『経詞衍釈』にも、次のように書かれています。
自猶苟也。
(「自」は「苟」と同じである。)
そしていくつか例が挙げられているわけですが。
・子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。(論語・述而)
(先生は「もし束脩を行ったからには、私は教えることがなかったことはない。」とおっしゃった。)
「束脩」には諸説あるのですが、初めて師に対面するときに持参する一束の干し肉で、礼として用いたもののようです。
・楽正子春之母死、五日而不食。曰、吾悔之、自吾母而不得吾情、吾悪乎用吾情。(礼記・檀弓下)
(楽正子春の母が亡くなり、(子春は)五日間ものを食べなかった。(子春は)「私はこれを悔いている。もし私の母にして私の思いを得なければ、私はどこに私の思いを用いようか。)
・君子入官、自行此六路者、則身安誉至、而政従矣。(大戴礼記・子張問入官)
(君子が役所に入って、もしこの六つの道を行えば、身は安らかに誉れは至り、政治は従われる。)
・自太子居城父、将兵、外交諸侯、且欲入為乱矣。(史記・伍子胥列伝)
(もし太子が城父に居城して、兵を率い、外は諸侯と交われば、(楚国に)入って乱を起こそうとするでしょう。)
・意者臣愚而不概於王心邪、亡其言臣者賤而不可用乎。自非然者、臣願得少賜游観之間、望見顔色。(史記・范雎蔡沢列伝)
(思いまするに、私が愚かで王様のお心に注ぎ込まないのでしょうか。それとも私を推薦するものが卑しくて用いることができないのでしょうか。もしそうでないのでしたら、私はどうかしばらく遊覧のお暇をいただいて、王様のご尊顔を遠目に拝見したいものです。)
引用された例に、前後を補って、文脈がわかるようにしてみました。
なるほど確かに「自」を「もし」と解することはできないことはないように思います。(4つめの例はかなり苦しいと思いますが。)
以上を見るに、すでに清代に「自」は仮設連詞「苟」の義で解する説があったことがわかります。
『助字弁略』が仮設連詞の義に言及していないのは、他書に先駆けて書かれたものだからでしょうか。
以降、「自」を仮設連詞とみなす説は受け継がれ、楊樹達も、
仮設連詞 苟也。恒以自非連用。(詞詮・巻六)
(仮設連詞 「苟」である。常に「自非」の形で連ね用いる。)
と述べ、それ以降の虚詞詞典はほとんどすべて右へならえです。
この「自」を仮設連詞と解釈することができるのは、その置かれる位置が複文の前句の先頭に置かれているためですが、しかし、気をつけなければならないのは、介詞の「自」や副詞の「自」も、文意によってはこの位置に置けるということです。
少なくとも「自非」の形をとらない例、たとえば『経詞衍釈』に引用された例の多くは、「自」を「もし」に解さなくても、意味は通ると思います。
『論語』の「自行束脩以上」は、「束脩を行うより以上は」と解せるでしょう。
『礼記』の「自吾母而不得吾情」は、「私の母からして私の思いを得なければ」と解せないでしょうか。
『大戴礼記』の「自行此六路者」は、「自らこの六つの道を実践するものは」とも解せます。
『伍子胥列伝』の「自太子居城父」は、「太子が城父に居城してから」と解せます。
問題は、『范雎列伝』の「自非然者」です。
まさに「自非~」の形をとっていますが、先の『左伝』の「自非聖人」と異なるのは、「者」の時を伴っている点です。
この「自非~」の形式については、劉瑞明の「“自”字连续误增新义的清理否定——词尾“自”的深化研究」という論文に言及されています。
それによると、中国の言語学者である兪敏は、著書『経伝釈詞札記』で、「自非聖人、~」について、「非聖人」は「聖人の立場に至らない」の意とし、「自非聖人」とは「自聖人以下」、つまり、凡人から聖人に準じる人まで含めて「聖人以下の人」と解して、王引之が『経伝釈詞』で「自」を「苟」と説明したのを軽率な解釈と批判しました。
この説に従えば、「自」は介詞で、「自非A、B」は「Aに非ざるもの自り、Bす」(Aではないそれ以下のものは、Bする)と解し、仮定文ではないことになります。
『左伝』の「自非聖人、外寧必有内憂。」は、「聖人に非ざるものより、外寧んずとも必ず内憂有り。」となるわけです。
一方、王克仲や趙京戦の説も引用されていて、「自」を「本」や「原」の意と解しています。
つまり、「本来Aでなければ」と解するわけです。
これだと「自」は副詞になります。
しかし、『左伝』の例や、先の『范雎列伝』の例を見るに、「自非聖人」を「本来聖人でないと」と解したり、「自非然者」を「本来そうではないのなら」と解釈するのは、いささか不自然な感じを否めません。
また、「自非然者」を「そうでないもの以下」と解するのは、とても無理でしょう。
これはまた臆説になりますが、
「~以下」とは解せないけれども、範囲の外にあるものを指して「~でないものより以外」と解するのはどうでしょうか。
つまり、そうでないものを起点として「そうでないものに含まれるものはすべて」すなわち「そうでない限りは」の意です。
それなら「自」を介詞とし、「者」を場合と解して、「『然るに非ざるより』『者』」、つまり「『然るに非ざるより』とある『場合』」となるわけです。
「自非~」は、「自」が仮設連詞だから仮定を表すのではなく、言語環境が仮定の意をもたせるのではないでしょうか?
いったい、文意やその語の置かれる位置が、たまたま他の語と同じである、または近ければ、そう解釈する方が自然だという立場から、その語に本来ない語義や働きを付加するところがあるのではないかと疑いの念を持ちます。
兪敏や王克仲、趙京戦の試論は、そういう傾向に斬り込んだものではなかったでしょうか。
この是非については、とても私には判断を下せませんが、語法を説くものはその大本に斬り込んでいく姿勢がなければならぬと思います。
「自」が仮設連詞である理由が合理的に説明されていないので、また1つ解けない問題として示しておきたいと思います。