水は「東西に分かれることがない」のか、「分かれない」のか
- 2018/02/23 21:41
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:孟子の湍水の説「人無有不善、水無有不下」という句について、「無」を「不」と同義とする最近の説に疑問を呈する。)
孟子が告子と論争したいわゆる湍水の説で、気になる表現は次の一句です。
人無有不善、水無有不下。
この「有」がとても気になります。
「人無不善、水無不下。」ではだめなのか、そもそも「有」がどんな意味を表しているのかという疑問です。
しかし、そのことを考えながら本文をよく見ていると、それ以前の問題として、その前の部分で「無」が多用されているのが気になりました。
・人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。
(人の性質が善不善に分かれることがないのは、水が東西に分かれることがないのと同じだ。)
・水信無分於東西、無分於上下乎。
(水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることがないだろうか。)
「ことがない」と訳しましたが、最近の虚詞詞典や漢和辞典では、「無」が存在文や所有文の謂語動詞ではない時、副詞として謂語を連用修飾して「~しない」という意味を表すと説明されることがあります。
そして、近年、私自身も講義の場で「無」が副詞「不」と同等の働きをすると述べたり、語法の解説に書き記したりしたこともあるのですが、最近、本当に簡単にそう結論づけてよいものだろうかと思うようになりました。
「無」が「不」と同じだということになれば、「人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。」という本文は「人性之不分於善不善也、猶水之不分於東西也。」と同じ、「水信無分於東西、無分於上下乎。」は「水信不分於東西、不分於上下乎。」と同じだということになります。
そして、それぞれ次のように訳すことになります。
・人の性質が善不善に分かれないのは、水が東西に分かれないのと同じだ。
・水は確かに東西に分かれないが、上下に分かれないだろうか。
意味は通ってしまいます。
しかし、本当に同じ意味でしょうか。
「無」は字としては「有」の対であり、等しく動詞です。
この動詞「有」が動詞句を賓語をとるように、「無」も動詞句を賓語にとります。
馬建忠『馬氏文通・同動助動四之四』に、次のように述べられています。
〔論衛霊〕志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁。――<殺>動字也,緊接<有>字,並未間以介字,則作<惟有>之解。猶云「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。」<無>字作<不>字解者常也。
(「殺」は動詞であり、すぐ後に「有」字をとり、間に介詞「以」を置かない時には、「惟有」の意味である。「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。」に同じ。「無」字は「不」字と解するのが常である。)
動詞を直後にとる「有」が「惟有」の意味だとする馬建忠のこの説を太田辰夫は『改訂古典中国語文法』で否定していますが、それはさておき、問題は「<無>字作<不>字解者常也。」の部分です。
このことについては、張文国/張文強の「论先秦汉语的“有(无)+VP”结构」(先秦漢語の「有(無)+VP」構造)という論文に、おもしろいことが述べられています。
有无句“在形式上虽是叙述句,在意义上却有些是带有描写性的”。这句话就是从正反两个角度描写“志士仁人”所具有的品质的,意思是说在“志士仁人”那里,没有“杀生以害仁”这样的事儿,有“杀身以成仁”的事儿,至于《马氏文通》的解释,“志士仁人决不求生以害仁,惟有杀身以成仁而已”,则不是描述称颂“志士仁人”,而是叙述“志士仁人”的决心,显然与该句本来的意思大相径庭。
(有無句は、「形式上は叙述句であるが、意味上は描写的な性質を帯びている」。この文は正反対の二つの角度から「志士仁人」がもつ品性を描写しているが、意図は「志士仁人」の句において、「求生以害仁」のようなことはなく、「殺身以成仁」ということがあることを述べることにあり、『馬氏文通』の「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。(志士仁人は決して生を求めて仁を害せず、ただ身を殺して仁をなすことがあるばかりだ。)」という解釈に至っては、「志士仁人」を称賛することを述べたのではなく、「志士仁人」の決意を述べたことになり、明確にこの句の本来の意味と大きな隔たりがある。)
簡単に「無」を「不」に置き換えて解するわけにはいかないという思いを強くします。
「無」は語義的に「有」の対ではありますが、「有」の否定、すなわち「不有」と考えるより、「有」が存在することを述べるのに対して、「存在しない」ことを肯定的(といえば変ですが)に述べる字ではないかと思います。
ともに賓語をとり、その賓語の存在・非存在を客観的に述べるものではないでしょうか。
したがって、「有」「無」が動詞句を賓語にとる時、賓語自体はかりに意志的な動作行為を表しても、賓語になることによって、そのような動作行為が存在する・しないを、客観的に述べることになります。
「水が東西に分かれない」といえば、水は生物ではありませんからわかりにくいのですが、これが「人が東西に分かれない」と表現すれば、その人の意志が関わってきます。
しかし、「分かれることがない」といえば、そのような事実の存在を客観的に述べたことになります。
「水信無分於東西」と「水信不分於東西」の違いは、そのようなものではないでしょうか。
したがって、日本語として「水は確かに東西に分かれることはない」と訳すことが、それほど不自然でない限り、「水は確かに東西に分かれない」とするよりも、「無」の本来の語義に近い訳し方になっているのではないかと思います。