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湍水の説

(内容:孟子の「湍水の説」について述べるにあたり、これは詭弁ではないかという感想を序にかえて。)

孟子の性善説は教科書でも取り上げられることが多いのですが、いわゆる四端の説の初めの部分、つまり「不忍人之心」の箇所がとられているのが普通です。
これも、ページ数の都合か、「人之有是四端也、猶其有四体也。」までの収録が多いようで、これでは孟子が何のために性善説を説いているのかわからないのになと思わされます。
そのことはさておき、この四端の説、見かけ上はいかにも詭弁です。
惻隠の心をもたぬ者が人ではないというのは論証されているからよいとしても、羞悪、辞譲、是非については全く論証せずに、それがないのは人ではないと言い切るわけですから、論理的な思考の持ち主なら、待ったをかけたくなります。
孟子は論理的な言説よりは、多少飛躍があっても説得力のある弁舌を行うところがありますから、ごまかしたというよりは、惻隠と同じく説明しようとすれば十分可能であっても、くどさを嫌って、端折った言い方をしたのかもしれません。
それは理解できるにしても、この手の弁舌家は、ともすれば強弁とも言える詭弁を働いてしまうこともあるのでしょうね。

孟子の強弁の最たるものが「性猶湍水也」(人の性質は渦巻く水のようなものだ)です。
教科書の中には、四端の説だけではなくて、この湍水の説をも載せているものがあります。
それどころか中には四端の説は載せずに湍水だけというものもあって正直驚きます。
今年講義に用いたテキストがそれで、これでは孟子がとんでもない詭弁家だと思われてしまうなあと嘆かずにはいられませんでした。
これもページ数の関係なのでしょうか。
個人的には、ページ数より中身の方が大事だと思うのですが。

「女房より五円玉の方がいい」というのは詭弁の有名な例です。
「俗に、よく『女房よりいいものはない』と言うよね?でも、『ない』よりは『ある』方がいいだろう?五円玉には穴が『ある』じゃないか。だから女房より五円玉の方がいいんだよ。」
…という、三段論法仕立ての詭弁ですが、孟子の湍水の説などは、これに匹敵する詭弁です。
告子が人の性質が湍水のようなもので、東に流れるとか西に流れるとか決まっていないのと同じで、人の性質も善悪が決まっているわけではないと主張したのに対して、孟子は水は確かに東、西へ流れるものと決まっているわけではないけれども、上に流れるか下に流れるかは決まっていると主張します。水は下に流れると決まっているわけで、だから人の性質も善だと決まっているという話の流れは、孟子にそのつもりがなくても、おいおい詭弁が過ぎるだろう…と言いたくなります。

ですから、個人的には性善の説を、この湍水の話で講義するのは嫌いなのです。
しかしながら、今年のテキストにはそれしか載っていませんから、しぶしぶ湍水の説を講義したわけですが…

と、ずいぶん話の前置きが長くなってしまいましたが、久しぶりに湍水の説を読んでいて、このような感想とは別に、またぞろ色々な疑問が生じてきました。
「雑説」の次は、これらについて論じてみようと思います。

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