其道
- 2018/02/21 22:45
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:韓愈の『雑説』に見られる「其道」の「其」の用法について考察する。)
韓愈の「馬説」について、さらにもう一つ気になるのは、「其道」です。
・策之不以其道、食之不能尽其材、鳴之而不能通其意、執策而臨之曰、天下無馬。
「其道」「其材」「其意」と三つ連続する「其~」の中で、「其道」だけが「ふさわしい方法」とか「その馬にふさわしい扱い方」などと説明されています。
確かに文意としてはそうであり、この例に限らず「其」が適切や正当を表すことがあると説明されているのは、何度か日本の書物で目にした記憶があります。
これが気になりました。
そこでまた虚詞詞典を調べてみると、意外にもそれらしい記述が見当たりません。
中国の字典類にも見当たりません。
それならばと、漢和辞典ものぞいてみましたが、ありません。
どういうことでしょうか。
片っ端から手元の文献をあたっていくと、太田辰夫『改訂 古典中国語文法』(汲古書院1983,53頁)に次のような一節がありました。
「其」が「適切な」という意味をあらわすことがある。これは自称に用いられたものからさらに転じたものかとおもわれる。
雅頌各得其所 …a
不得其醤不食 …b (…a、…b は筆者付加)
この一節は、「人称代名詞自称の『其』が形修(形容詞的修飾語の略)として用いられた例」、さらに、「自称の『其』が名詞性連語に用いられた例」の説明に続く部分になります。
引用aは、『論語・子罕』の「子曰、『吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所。』」です。
『全釈漢文大系1・論語』(集英社)には、「孔子の言葉。わたくしが衛の国から魯に帰ってきて、はじめて音楽は正しくなり、雅も頌もそれぞれの場所におちついた。」と訳してあります。
雅とは、「周王朝において饗宴の際に奏される楽曲」、頌とは「宗廟で祖先神を祭る時に奏する舞楽」(同書)です。
「それぞれの場所」とは、「適切な場所」ということでしょうから、説明に合致します。
bは、『論語・郷党』からの引用です。
『全釈』では「つけ汁が合わなければ食べない。」と訳されています。
その注には、「『醤』はひしお、つけつゆの類。調味料。料理はそれぞれに合うた調味料がある。『不得其醤』は、調味料の取り合わせをまちがえたもの。」とあります。
すなわち、「其醤」とは「適切な調味料」ということになります。
『古典中国語文法 改訂版』は、「論語文法研究」「孟子文法研究」「檀弓文法略説」の合書ですから、『孟子』の用例も引用されています。(同書129頁)
「自称の『其』を名詞性連語の主語に用いたものはよい例がない。」というくだりの後で、
「其」が「適当な」という意味をあらわすもの。
雞豚狗彘之畜,無失其時 …c
非其君不事,非其民不使 …d (…c、…d は筆者付加)
とあります。
引用cは、『孟子・梁恵王上』の「雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。」です。
『全釈漢文大系2・孟子』(集英社)では、「鶏・豚・犬などの飼育に心を用いて、その繁殖生育の時期に殺さないようにすれば、七十歳以上の者は栄養のよい肉を十分に食べられましょう。」と訳してあります。
これも「適切なタイミング」ということですね。
dは『孟子・公孫丑上』と『同・万章下』に見える用例です。
『全釈』は「自分の仕えるべき君と思わねば使えず、自分の使役するに足る民でなければ使わず」と訳しています。
「仕えるにふさわしい」「使役するにふさわしい」という意味で適切にあたります。
代詞「其」は、人や事物を含んで第三人称代詞として用いられることが多いのですが、第一・第二人称代詞として用いられることもあります。
・臣竭其股肱之力、加之以忠貞。(春秋左氏伝・僖公九年)
(私は私の全力を尽くし、さらに忠貞の心を加えます。)
この例は代詞「其」が第一人称として用いられている例です。
太田氏の「自称に用いられたものからさらに転じたもの」というのは、この第一人称での用法を指しているのでしょう。
たとえば、例dの「其君」は、「自分の主君」から転じて「自分の仕えるべき主君」、例bの「其醤」は、「そのもののつけ汁」から転じて「そのもの本来であるべきつけ汁」の意に転じたということでしょうか。
王力の『漢語史稿』(中華書局1980,280頁)には、
“其”字用於指示的時候,也是用作定語的,它是特指(非近指,亦非遠指)的指示代詞,略等於現代漢語的“那種”、“那個”。它具有特定的意義,古人用它來表示它後面的名詞所代表的人物是“適當”的。
(“其”が指示で用いられる時、連体修飾語として用いられることもあれば、特指(近指でも遠指でもない)の指示代詞でもあり、現代漢語の“那種”、“那個”(その)にほぼ等しい。それは特定の意味を備え、古人はそれを用いてその後の名詞が代表する人や物が“適当”であることを表してきた。)
と述べられています。
この「特指」というのは、馬建忠『馬氏文通』が用いている「特指代字」のことで、同書には「特指代字前置於名,所以明注意之事物也」(特指代字は名詞の前に置かれ、意を注いでいる事物を明らかにするためのものである)と説明されています。
また、李佐豊『古代漢語語法学』(商務印書館2004,173頁)にも、
“其”还常表示特指,说明“其”所指示的对象是适当的、正当的、符号要求的。
(“其”はさらによく特指を表し、“其”が指示する対象が適当であり、正当であり、要求に合っていることを説明する。)
とあります。
「其」が「適切」等の意味を表すとするのは妥当であるようですが、それが太田氏のいうように第一人称からの転なのかどうか、興味のもたれるところです。
さて、あらためて「策之不以其道、食之不能尽其材、鳴之而不能通其意」という「馬説」の表現を見ると、「其道」「其材」「其意」と、「其~」が連続的に配置されており、教科書には「其道」だけが「ふさわしい方法」などと注されているのが気になりました。
「其道」とは、「策之」(彼を鞭うつ、転じて彼を使役する)にふさわしい方法、それはもともとは「鞭うつ方法」であり、それが特指代詞として「鞭うつふさわしい方法」という意味を表すわけです。
同時に、「其材」も「彼の才能」という意味ですが、「彼の本来の才能」の意であり、また、「其意」も「彼の気持ち」すなわち「彼の本当の気持ち」という意味を表しているように思います。
李佐豊が述べた「适当的、正当的、符号要求的」にまさに合致します。
「其道」だけが特殊なのではない、「其」の働きについて調べた結果、私はそんなふうに感じました。