「不」はどこまでかかるか?・再び
- 2018/02/20 21:54
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:韓愈『雑説』の「不知其能千里而食也」という句について、中国の方の教示に基づき再考察。)
「食馬者、不知其能千里而食也。」の「不」がどこまでを修飾しているかという問題につき、中国の方から大変参考になるご教示をいただきました。
管理人だけが閲覧できるコメントでしたので、そのまま引用できませんが、「馬を養うものは、その馬が千里走れるのを知らずに養うのである」と訳す方が普通であるとのことでした。
興味深かったのは、「不」の後に「息を入れる」のは稀であって、「食」まで修飾するために「不」の後に息を入れると、意味が変わってしまうというくだりでした。
いただいたメッセージを繰り返し読みながら、ふと感じたことがありました。
日本で一般に訓読されている「馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり」の現代語訳は、手元にあった教師用の指導書では次の通りに訳されています。
・馬を飼う者は、その馬の能力が一日に千里走るほどであると知っていて飼うのではないのである。(A社)
・馬を飼う者は、馬が千里を走ることができるのを知って飼っているわけではない。(B社)
・馬を飼っている人は、その馬の能力が千里も走れることを承知していて、それで養っているのではない。(C社)
・馬の飼い主は、その馬が千里を駆ける能力のある馬だとは知らずに飼っている。(D社)
ちなみに、最後のD社は訓読では「馬を食ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり」と読んでいます。
さらに手元の参考書を見てみると、
・馬の飼い主は、その(馬の)能力が(一日に)千里を走りぬくほど(の名馬)であることを知っていて、(それに応じた)飼い方をするということをしない。(明治書院「研究資料漢文学6・文)
・馬の飼い主は、その馬が千里を駆ける能力のある名馬だと知って、それにふさわしい飼い方をするということをしない。(昌平社「漢詩・漢文解釈講座14 文章Ⅱ)
となっています。
そのいずれもが、読み方には複数があるが、意味にたいして変わりはないという立場をとっていて、語法自体に踏み込んだ説明は皆無のありさまです。
日本語に訳した意味に変わりはないとしても、古漢語の語法としては異なるのでは?という思いが強くなります。
私が気になったのは、訳の最後の部分です。
・飼うのではないのである。
・飼っているわけではない。
・養っているのではない。
・飼い方をするということをしない。
「其の能の千里なるを知りて食はざるなり」を現代語訳すれば、どうしてもこのようになってしまうのでしょうが、本来「不食」は「養わない」です。
つまり、多少日本語としてグラグラすることを気にせず訳せば、「馬を養うものは、その馬が千里走れることを知って養わない。」あるいは、「知った上で養わない」です。
「~ということをしない」はまだしもですが、「ではないのである」「わけではない」「のではない」というのは、なんだかニュアンスが違うというか、客観的な表現に寄ってしまっているような気がしたのです。
まるで、「有不食也」の訳のような…
ご教示の中にもあったのですが、馬が千里走れるということの認識を否定するのは、いわば状態の否定です。
しかし、「食」=養うことの否定は、動作の否定になります。
このあたりは異論のありそうなところになりますが、「養わない」という動作の否定は「養おうとはしない」という動作意志の否定にもつながりそうです。
この飼い主はもともと馬の能力を知らないのであり、「千里走れる馬だとの認識の上で養う」ことの拒否ではありません。
まだまだよくわからず、奥が深そうですが、どうも語法的には「馬を食ふ者は、其の能の千里なるを知らずして食ふなり。」の方向で解釈するのがいいような気がしています。
なお、私はこの訳に挙げたような、「能」が能力の意味の名詞だとは実は思っていません。
その部分だけ取り上げると、主語「其」+謂語「能」+賓語「千里」の構造かなと思っています。
あるいは、千里を「千里走る」という意味の動詞に活用しているとみれば、「能」は助動詞(能願動詞)ということになります。
さらにご教示を賜りたく存じます。