馬之千里者
- 2018/02/16 20:07
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:韓愈の『雑説』に見られる「馬之千里者」という句の構造について考察。)
韓愈『雑説』の「馬説」について、同僚から質問を受けました。
この方は漢文の専門ではありませんが、素朴な質問が多く、かえって私がふだん気にもとめていなかったことに気づかせてくれることが多いのです。
「馬之千里者、一食或尽粟一石。」の「馬之千里者」は、どういう構造になっているのですか?
馬の千里走るもの、つまり千里走る馬と、特に深くも考えなかった部分でしたが、言われてみると、「之」の働きが気になります。
真っ先に思い浮かべたのが、主謂間に置かれる「之」の働き、つまり文の独立性を取り消し名詞句を作る働きでしたが、じゃあ元の主謂構造「馬千里」というのが、どうもしっくりきません。
では、「馬」が「千里」を連体修飾する定語となっているのか?とも思いましたが、これもどうもストンと落ちません。
そこで、きちんと調べてみることにしました。
ある書物に、助字として「同格。…で。同格関係の語の間に置かれる。」とあり、この馬説の例が引用されていました。
確かに、意味としては「馬」と「千里」の関係は同格関係にあることは明らかなので、事実としては『新漢語林』の記述が誤っているわけではありませんが、そのことと「之」が語法的に同格を表すとすることとは別問題です。
いかにも怪しいと思いました。
「之」を「の」と訓読するがゆえに、格助詞「の」の同格の用法から、「之」にも同格の働きがあるとしている逆方向の矢印を感じたからです。
私が虚詞の働きを調べる上で、真っ先に見るのは、『古代汉语虚词词典』(商务印书馆)と、何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社)です。
しかし、それらしい用法については見つかりませんでした。
となると、さまざまな虚詞詞典をあたっていくことになりますが…
王政白『古汉语虚词词典・增订本』(黄山书社)、韩峥嵘『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社)、陈霞村『古代汉语虚词类解』(山西古籍出版社)などの虚詞詞典や、日中の各種語法書を手当たりしだいにあたっていったのですが、どうも釈然としません。
「馬之千里者」のような表現は、考えてみればよく見るように思います。周敦頤の『愛蓮説』の中にも、「菊、華之隠逸者也。牡丹、華之富貴者也。蓮、華之君子者也。」というのがありますね。
さらに考えてみれば「者」を伴わない形もよくあります。『詩経・周南・桃夭』の「桃之夭夭、灼灼其華」などがそれです。
いずれも本来連体修飾語であるべき語が「之」を介して被修飾語の後に置かれています。
ここではっと気づきました、これは何かで読んだことがある。
「之」に倒置を示す標識としての働きがあるのは周知のことなのですが、定語(連体修飾語)の倒置について書かれたものが確かあった。
そこで、刘永康の『文言特殊句式归类汇析』(四川人民出版社)を開いてみると、ありましたね。
この書は学生向きに書かれた、いわば学習参考書なのですが、その「定語后置句」の項に、「中心词+之+定语」の形式の説明として、
在后置的定语和它的中心词之间加“之”,构成“中心词+之+定语”的格式。
(後置された連体修飾語とその被修飾語の間に“之”を置き、“被修飾語+之+連体修飾語”の形式を構成する。)
さらに、「中心词+之+定语+者」の形式として、
用“者”字煞尾,并且在后置定语和它的中心词之间加“之”,构成“中心词+之+定语+者”的格式。这种格式的后置定语和中心词之间,好像是部分和整体,分子和分母的关係。这种用法的“之”字可译为“里头的”或“当中的”。
(“者”の字を句末に用い、さらに後置された連体修飾語とその被修飾語の間に“之”を置き、“被修飾語+之+連体修飾語+者”の形式を構成する。この形式の後置連体修飾語と被修飾語の関係は、部分と全体の関係、分子と分母の関係に似る。この用法の“之”の字は、“里头的”や“当中的”(~の中の)と訳すことができる。)
として、『愛蓮説』や、そもそもの問題であった『雑説』の「馬之千里者」が例として引用されていました。
ちなみにその訳は「能日行千里的馬」です。
定語の後置と考え直して調べてみれば、他にも張文國・張能甫『古漢語語法學』(巴蜀書社)にも同様のことが書かれています。
しかし一方で杨剑桥『古汉语语法讲义』(復旦大學出版社)は、この形式があくまで定語と中心語の関係であるとして、定語の後置とみなすことに反対な学者の説を挙げて慎重な姿勢をとっていますので、即断するわけにはいかないのですが、この形式が古漢語の語法において議論の必要な特殊形式に分類されるものであることは間違いありません。
「之」を定語の後置を示す標識とみなしてよいかどうかは、もう少し調べてみたいと思いますが、高等学校の教壇で誰もが簡単に読み飛ばす「馬之千里者」という表現が、実はそう簡単なものではないということに気づかせてくれる同僚の問いかけでした。
感謝です。