「不」はどこまでかかるか?
- 2018/02/14 15:03
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:韓愈の『雑説』に見られる「食馬者不知其能千里而食也」という文について、「不」がどこまで修飾するかについて考察。)
韓愈の雑説四、いわゆる「馬説」を講義するにあたって、実は以前から気になっていながら忘れていた問題に突き当たりました。
次の一節です。
・食馬者不知其能千里而食也。
どの教科書でも「馬を食(やしな)ふ者は其の能の千里なるを知りて食はざるなり。」と読んでいます。
あるいは「能」を「よク」と読んでいる例もあります。
この「能」を能力の意の名詞ととるか可能の助動詞と解するかという問題もあるにはあるのですが、私が気になっていたことというのはそれではありません。
端的にいえば、「其の能の千里なるを知らずして食ふなり。」と読んではいけないのか?という疑問です。
「其の能の千里なるを知りて食はざるなり」と読もうが、「其の能の千里なるを知らずして食ふなり」と読もうが、要するに名馬にふさわしい養い方をしていないことを言う点においては変わらないので、訓読の上ではどちらも成立します。
しかし、語法的にはどうなのでしょうか。
「馬説」のこの部分についての語法的な解説は、残念ながら今のところ見つけられませんが、黄永年『韓愈詩文選訳』(巴蜀書社1990)には、
饲养马的不知道它能日行千里而把它喂够。
と訳してあります。
「喂够」が十分に食べさせるという意味なので、一見して「其の能の千里なるを知りて食はざるなり」の方向の解釈なのかな?と思いましたが、しかし、それにしては訳文をそう理解するのは若干不自然な気がしました。
その馬に食わせないというのであれば、改めて「不」で否定するような気がしたのですが、さてそれはどうなのでしょうか。
他にWeb上ではどのような解釈がなされているかも見てみました。
・養馬的人不知道它能日行千里,用餵一般馬的方法餵養它。
・喂馬的人不知道它能夠日行千里,而沒有餵養。
などの訳文が見られましたが、訳文はあくまで訳文で、必ずしも語法に忠実、いわゆる逐語訳とは限りませんから、決め手にはなりません。
この問題は否定副詞「不」は、以下のどこまでを修飾するかという問題です。
裏付けのない形の、あくまで個人的な感想を示すことをお許しいただけるなら、漢文は上から下(横書きならこのブログのように左から右)へ読んでいくものなので、「不」の後に「知其能千里」と続けば、「その能力が千里であることを知らない」と理解してしまいます。
さらにその後に連詞「而」があれば、「不知其能千里而」が「その能力が千里であることを知らずに」と連用修飾句として後の謂語「食」を修飾しているように見えてしまいます。
これは語法的に誤った解釈なのでしょうか。
ふと思い出したのが、『孟子・尽心上』の「四体不言而喩。」という一節です。
仁義礼智の四徳が外に表出すれば、何も言わなくても誰にでもそれがわかるという意味ですが、これはいくらなんでも「言ってわかるものではない」という意味ではないでしょう。
この形は、「不」が「言」を修飾し、さらに連詞「而」と共に「不言而」の形で謂語「喩」を連用修飾している形です。(なお、この例については、何楽士『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)が「不」の「表示“不用”(用不着)」の説明の用例として引用しています。)
しかし、たとえば「馬説」に見られる次の一例、
・故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手、騈死於槽櫪之間、不以千里称也。
(だから、名馬がいても、ただ使用人の手にはずかしめられ、馬小屋の中で首を並べて死ぬばかりで、千里走るということで称えられないのである。)
の最後の一節「不以千里称也」は、「千里を以てせずして称せらるるなり」とは解せないでしょう。これは「伯楽不常有」と構造的には同じで、「不」はやはり「以千里称」「常有」を修飾していると考えるべきだからです。
そうなると、「不知其能千里而食也」同じ構造だといえば同じ構造ですから、「不」が修飾しているのは「知其能千里而食」なのかなと思われてくるのですが、気になるのは連詞「而」なのです。
結局のところ、やっぱりわからないというのが現在の正直な気持ちです。
ただ、私が言いたかったのは、句頭に否定副詞「不」が置かれた場合、常に後に続く内容のすべてが否定されると決まっているわけではないということ。
ましてその句が連詞によって接続した形の場合、連詞までの部分で「不」の修飾内容が途切れると思うのは、誤った判断なのだろうかということです。
どなたかご教示いただけると幸甚です。